「反戦」という恥ずかしい言論
10月7日にアメリカ軍の爆撃が始まってから、一週間になります。ここは那覇なので、中部に集中している米軍基地の様子は分かりませんが、那覇空港に隣接する那覇市小禄(おろく)と知念村百名(ひゃくな)の自衛隊基地からのものでしょう、ヘリコプターや戦闘機、輸送機などがめまぐるしく飛び交っています。那覇に住みはじめてから一年になりますが、こんな爆音は初めてです。
何か、とり返しのつかない一歩が、踏み出されてしまったような気がします。一度こうして戦争という巨大な機械がモーメンタムを得てしまった以上、それを止めることはほぼ不可能に思えます。たくさんの人が死ぬでしょう。すでにいくつも報道されているように「誤爆」によって民間人が死ぬでしょう。民間人の犠牲者が増えることによって国際世論が喚起され、モラル上の「高地」を維持できなくなる前にアメリカ政府としては、何らかの「成果」を挙げておきたいのだろう。そのバランスが達成できたら今回の戦争は「お開き」になるでしょう。しかし、アメリカとその世界秩序を破壊するためには、命を捨てることをもいとわない「テロリスト」たちがふたたび、何十人、何百人と現れるでしょう。
私たちはただじっと、このちょっと「嫌な感じ」が終わるのを待っていたらいいのです。さしあたり私たちの頭上には巡航ミサイルも、アンスラックスも降ってきていないのだから。
際限のない暴力の連鎖を断ちきれないのは、「軍事的解決しかあり得ない」と確信しているアメリカ合衆国の政策担当者に原因がある。合衆国の明白な「ダブルスタンダード・二重の基準」こそが世界中に憎悪を生み出しつづけている。
しかし同時に、こうした事件が起こるたびに雨後のタケノコのように現れてくる「理解ある」議論もまた、テロリズムに存在の根拠を与えているのではないですか?
合衆国本土で数千人の死者が出て「初めて」、パレスチナやアラブ、イスラム世界に対する合衆国の政策の「問題」が明らかになったというのなら、決して少なからぬ犠牲を伴ったこの「テロ」攻撃は、成功だったということになりませんか?だったら、諸手を挙げて賛成しましょう。
そうではない、かくもたくさんの人が死ぬことに対して何か「嫌な感じ」が残っているのなら、その「嫌な感じ」を大事にしましょう。「正義」の言葉に身を委ねないで!
パレスチナの「インティファーダ」を「支持する」というような言論が、例えば安全な日本のどこかの飲み屋のテーブル越しにかわされているかもしれないような事態を私は「不道徳」だと思います。
戦車に火炎ビンを投げ、マシンガンに石で対抗するような「無謀」な運動をどうして支持することができますか?イスラエル人とパレスチナ人の犠牲者の数は、どう低く見積もっても1対10ぐらいでしょう。明白な不平等をこれ以上「例証」する必要がありますか?
死者の数を相変わらず私たちは「取り引き」材料にしています。他人の死に、他人の不幸に事寄せて、「正義」を語ることは止めましょう。それは戦争を遂行する議論と同型なのだと思います。
2001年10月14日
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