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ディエゴ・ガルシア:合衆国、退去強制された島の住人の帰還を認めず

イーヴェン・マカスキル/ロブ・イヴァンス
2000年9月1日
ガーディアン紙

合衆国がイギリス政府に対して、かつて退去強制されたディエゴ・ガルシア島の住民の帰還を認めないよう、強力な圧力をかけていることがガーディアン紙が入手した国務省の文書から明らかになった。
イギリス外務省に送られた6月21日付の秘密文書には、島への住民の再定住は「同地域の有する独特な軍事施設の死活的な戦略的重要性を大きく損なうことになるであろう」と非和解的な立場が示されている。
合衆国はまた、すでに世界的にももっとも戦略的に重要な基地の一つであるディエゴ・ガルシア軍事基地を、さらに拡張する考えを明らかにしている。
イギリスの海外領であるチャゴス諸島では1973年にアメリカ合衆国が軍事基地を建設するために住民が強制的に退去させられた。移住させられた人の多くは現在モーリシャス島に住んでいるが、彼らは基地から140マイル離れたサロモンズおよびペロス・バンホスの二つの島に戻ることを希望している。合衆国はこのオプションを問題外としてきた。
合衆国のこの態度は外務大臣ロビン・クックを窮地に立たせている。住民たちはロンドンの高等裁判所に対して、島への帰還の権利の確認を求めて訴訟を提起しており、10月には彼らの要求を認める判決が下ることが予想されている。
これによって、島の住民とイギリス・合衆国両政府の間に膠着状態が持ち上がることになろう。
野党時代には島の住民の立場を支持してきたクック外務大臣は、今や合衆国との条約上の義務履行を維持しなければならない立場に立っている。
米国務省担当官エリック・ニューソム氏からイギリス外務省米州問題担当官リチャード・ウィルキンソン氏へ宛てられた文書は、クック外務大臣の根回しの余地をさらに奪ってしまった。
政治・軍事問題担当国務次官の肩書きを持つニューソム氏は以下のように述べている。「私はこの機会に、いかなる形においてもチャゴス諸島への定住がきたすことになるであろうディエゴ・ガルシアの有する現在および将来にわたる戦略的重要性を減殺するような不可避の妥協に対して、合衆国政府はきわめて重要な関心を有していることを表明しておきたい。」
さらに同文書は続ける。「アラビア湾、中東、南アジアおよび東アフリカにおける防衛および安全保障に関する我々の責務を遂行するにあたって、ディエゴ・ガルシアは我々にとって決して失うことのできない重要な位置を占めている。かかる理由および海事上の要請から合衆国政府は貴政府に対し同島を、世界に4つしかない同様の機能を有する基地の一つとして、遠征航空部隊の前線基地として開発することを認められることを要望する。」
B-52爆撃機の基地であるディエゴ・ガルシアは1991年の湾岸戦争、1998年のイラクへの更なる攻撃、その他あらゆる作戦行動に際して全面的に用いられてきた。
ニューソム氏はディエゴ・ガルシアの主要な利点として、その位置の持つ戦略的な重要性に加えて、他の地域からの孤立性をあげており、同島の基地に対し合衆国は更なる投資を行うであろうとの予測を述べた。
「チャゴス諸島に定住者が確立されてしまうと、我々両政府にとって安全保障上重要で繊細な軍事作戦、人口集中地域の近傍からは成し得ないかかる作戦を行いうるというディエゴ・ガルシアが現在有する利点を十分に害してしまうことになろう。」と彼は付け加えている。
テロリストがこれらの島を攻撃のために使用する可能性もあると、彼は指摘している。
「隣接する島に人が住むことになれば、警戒・監視のための装備・人員および妨害電波発生装置の導入を考慮せざるをえず、これらは枢要な軍事作戦にとって潜在的な妨害や危険となりうるという懸念がただちに生ずるであろう。」とも、述べている。



ディエゴ・ガルシア・裏切りの歴史

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ディエゴ・ガルシア島のかつての住民達、イギリス政府を相手取って訴訟を提起

ジュリー・ハイランド
2000年7月18日

1960年代にインド洋のチャゴス諸島からイギリス政府によって強制的に退去させられた住民たちが月曜日、ロンドンの高等裁判所に提訴した。1966年から1970年にかけて、当時のハロルド・ウィルソン労働党政府は、ディエゴ・ガルシア、ペロス・バンホスおよびサロモン島の約千5百人の住民を、アメリカ合衆国軍隊との契約に基づき退去させた。
島民の排除と、従ってイギリス植民地からの除外の見返りとして、イギリス政府はアメリカ製ポラリス核兵器システムの購入費用について1千百万ドルの値引きを受けた。チャゴス諸島の中心であるディエゴ・ガルシア島は冷戦期を通じて合衆国軍隊の戦略的要衝となり、紅海やベトナムに駐留する合衆国軍の補給基地として用いられた。イラクに対する1991年の湾岸戦争においても、同島にはB-52が配備された。
かつての島民の一人で、在モーリシャス・チャゴス難民グループの代表であるルイ・バンクール氏が提訴を行った。バンクール氏は、法的に英国臣民であるところの島民を排除することは人権侵害を構成し、また領域内の市民の追放を禁じたマグナ・カルタ13条に違反すると主張する。多くの島民は1千3百マイルも離れたモーリシャスに移動させられた。氏は、現在も残る5百人の島民と3千3百人におよぶその子孫の帰還への権利を求めている。ブレア政権はこの訴えに対し争うことを表明している。
合衆国がこの島に対する関心をイギリス当局に対してはじめて表明したのは、キューバ・ミサイル危機の余韻もさめやらぬ1964年であった。当時チャゴス諸島はモーリシャス諸島の一部であり、従って英領植民地であった。軍事基地としての利用を実現するために、英国政府は1965年モーリシャスに、チャゴス諸島を手放すことを条件に独立を与えた。
チャゴス諸島は、アルダブラ、デスロチェス、ファルクハル各諸島とともに英領インド洋という新たな植民地を形成することになった。ディエゴ・ガルシアとペロス・バンホスおよびサロモンの各島は、今度は合衆国軍隊に50年間にわたって貸し付けられることとなった。
ワシントンはこれらの島にいわゆる「人口問題」が発生することを望まないことを契約上要求していたので、イギリス政府は「諸島の完全不毛化」と呼ばれる政策を実施した。島民によれば、イギリス政府は基本的な公共サービスをストップさせ、貨物船による物資の供給も止めるというやり方でこれを行ったのだ。短期間島を離れた島民は二度と戻ることを許されなかった。多くは船でモーリシャスに連れて行かれた。この見返りとしてモーリシャスの政府は3百万ポンドの資金を得たといわれている。国連の承認を取り付けるため、イギリス政府は同島には民族自決権の主体となるような先住民は存在せず、島の人口は「契約労働者」で構成されていると主張した。
島民たちは彼らの移住について政府から何らの説明も相談も受けたことはなく、また、この移住政策によって彼らやその家族は生涯にわたる貧困を押し付けられることになったとして、イギリス政府の主張に反論している。多くの島民は7年間も待たされた挙げ句に最低限の補償金を受け取ったに過ぎない。島のかつての住民の90%におよぶ人々が現在失業中であり、モーリシャス島のスラム地域で生活している。ディエゴ・ガルシア島の西半分のみが合衆国軍隊によって使用されているのだから、同島の東半分ならびに他の2島に、彼らが居住することは可能なはずだと主張している。
新聞報道は、その「道義的な外交政策」なるものがまたしても疑わしいものとなって来てしまった英国政府の困惑に焦点を当てている。
高等裁判所が訴えを認めれば、外務大臣ロビン・クックが政府を代理することとなる。1970年代に島民の強制移住がはじめて明るみに出た頃、クック氏は労働党内でこれらの政策に反対する急先鋒を努めていた。
この裁判はイギリス政界の戦後史の中でも最もデリケートな部分に光を当てることになろう。公文書庁から最近公開された秘密文書によれば、イギリス政府は当時合衆国政府からポラリス核兵器システムを格安で入手した上、5百万ポンドの資金を受け取ったようである。インディペンデント紙によれば、労働党の外務大臣マイケル・スチュワートからウィルソンに宛てた1969年4月付けの覚え書きがあり、それによるとこの合意は英国議会からも合衆国議会からも秘密にさるべきことが確認されていたという。
ポラリス問題はウィルソン政権のスキャンダルであった。野党であったときウィルソンは原子力潜水艦を含む同計画がイギリスの「独自の核抑止力」として開発されていることを非難し、労働党が政権についたならば同計画を中止することを公約していた。しかし彼は1964年10月に政権につくや否や態度を豹変した。計画の中止には余りにもコストがかかりすぎることを理由に、労働党政権は核兵器開発を推し進め、年間4億ポンドの軍事費を費やすに至った。
イギリスの支配層にとってポラリスは他のいくつかの局面でも重要な意味を持った。
1956年のスエズ運河からのイギリスの不名誉な撤退は、合衆国の主張するところによると、残存する帝国の所有物を防衛するために当然必要な軍事力と政治的影響力が既に失われていることを明らかにした。
その「独自核抑止力」はこれに反論すし「大国」の地位を維持することを目的としていた。(イギリスは当初その核兵器システムをNATOに組み入れることを拒否していたのだ。)
実際にはポラリス計画は技術的にも財政的にも合衆国に完全に依存していた。イギリスの世界への野望と持てる資源との矛盾から、ポラリスをめぐるやりとりも同時期の数々の英国と合衆国との間に交わされた合意の一つをなすにすぎなくなることは決定付けられていた。こうして1965年9月には、英国がその誇りを取り戻すために合衆国が行った援助の見返りとして、ウィルソン政権は支出を抑制し賃金上昇を押さえ、のみならずアメリカ合衆国のベトナム介入に支持を与える非公式の合意が交わされたのだ。

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ガーディアン(UK)

英国によって退去させられた島民は今や米軍と対決しなければならない

ジョン・マデレィー

2000/11/05
先週、英国政府に対する裁判で歴史的な勝利を勝ち取った島の住民たちは今や新たな二つの大きな問題に直面することになる。一つは、彼らの島への帰還に対するアメリカ政府の反対を押しきること、もう一つは30年も前に退去させられたこのインド洋に浮かぶ島での生活を再建すること。

アメリカ合衆国国防省は依然としてチャゴス諸島の最大の島、このディエゴ・ガルシア島に対して戦略的重要性を有するとの主張をやめようとはしていない。イロワ人達が退去させられたのはそもそもここに軍事基地を造るためだったのだ。合衆国の賃借権は2016年まで有効である。
チャゴス諸島には65の島があるが、人が住んでいるのはそのうちの3つ、ディエゴ・ガルシア、ペロス・バンホス、そしてサロモンに過ぎない。島民たちは当面ディエゴ・ガルシアへの帰還は不可能であることを認めており、他の二つの島への移住を希望している。
(英国)外務省のスポークスマンは昨日、「アメリカ側とは調整を続けてきた。われわれは条約上の義務を履行しなければならない」と語った。島民の排除は違法であることを認めた判決に対して控訴を行わないとした政府の対応は人々を驚かせた。政府はまた、退去させられた人々を再定住させるための調査を行うとしている。
チャゴス諸島から強制移住させられた2000人の人々のうちおよそ450人は存命である。彼らと、その後生まれた3800人に及ぶ彼らの子供達は島への帰還、そこで漁業、ココナツ、野菜の栽培、養鶏を中心とする生活を取り戻すことを希望している。
移住者のうちのほとんどは現在モーリシャス島に住んでおり、その90パーセントが失業者で、首都のスラムでの生活を余儀なくされている。それ以外の人々はセイシェル島に移住している。
訴訟の原告となったオリビエ・バンクールさん(36才)は外務省がペロス・バンホスの故郷を訪問することを許可した3人のうちの一人である。彼は1968年、4才の時に強制移住させられた。故郷を訪れた彼らは、この熱帯の島の30年間にわたる変容、うち捨てられた家々、崩壊した道路や建物を見た。「でも、私たちはくじけないですよ」とバンクールさんは言う。バンクールさんの弁護士、リチャード・ギフォード氏によると、合衆国政府は公判の進行中に、「国家安全保障に対する脅威」を理由として島民の帰還に異議を述べる声明を発している。一番近傍の島ですら空軍基地から130マイル以上も離れているというのに。6月には合衆国は英国外務省に対し、再定住は「当地域に特有の枢要な軍事施設の戦略的重要性を減殺するものである」と述べた秘密文書を送っている。
しかし、ジフォード氏は言う。「この島々はすでに万人に開放されているんです。今年サロモン島に行きましたが、10隻ほどもの船が来ていました。『ゴミはごみ箱に捨てて下さい』みたいな看板まであるんです。友好的な島民がそこに住むことは、安全保障上の観点からも望ましいことなのです。」チャゴス諸島は1965年にモーリシャスから分離され、英領インド洋と呼ばれる新たな植民地となった。ウィルソン政権は3年後にモーリシャスの独立交渉を行う。この領土は1966年に合衆国に対し空軍および海軍基地の用地として50年間期限で賃貸された。

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チャゴス諸島の住民たちは帰還への権利を主張する

シャーリー・デウォルフ

強制移住民に関する南部アフリカ教会地域委員会は2000年6月、ジェラルド・ムパンゴ司教ならびに私を、モーリシャスの教会に派遣した。われわれの地域委員会が強制移住民への教会活動を支援し、情報交換や支援活動の地域的および国際的なネットワークとの連携を図るために代表団を派遣してきたこの地域の13の諸国のうち、モーリシャスはその最新のものである。われわれを招待し、その滞在を準備し、チャゴス島民を含む強制移住者たちをわれわれに紹介して下さったのはモーリシャス長老派教会である。
以下に掲げるのはこの訪問の報告の抜粋であり、チャゴス島民に焦点を当て、簡単な背景の説明と彼らとの討論の要旨、国際的な教会の支援が必要な問題として取り上げられるべきものについて述べたものである。
チャゴス諸島はモーリシャスとインドのほぼ中間のインド洋に浮かぶ島嶼である。65の島々からなり、60平方キロの面積を占める。そのうち最大の島がディエゴ・ガルシアである。1700年代に一握りのフランス人の植民者がこれらの無人島に住み着き、油の生産のためにココナツのプランテーションを開始した。この事業に必要な労働力を確保するために、彼らはアフリカ各地から奴隷を輸入した。これらの人々のもともとの名前や出自などの記録がないため、彼らの起源をたどることは困難であるが、マダガスカル、モザンビーク、セネガルの出身者がいたことが推測されている。その他の住民はインド洋全域に分布し、「クレオール」と総称される奴隷や植民者の子孫である。わずかではあるが南インドからタミル人もチャゴス島へやってきたようである。
ナポレオン戦争の後、フランスのインド洋領土がイギリス領へと移りフランス人の植民者もまたチャゴス島を離れた。彼らの奴隷であった人々が彼らのココナツ油の事業を引き継ぎ、独自の経済を形成しはじめた。1760年の最初の到着以来、5世代にわたるチャゴス島民は共通の遺産、文化、言語、歴史、そして彼ら自身の民族的同一性を育んできた。彼らはチャゴス諸島の先住民となる。
英国はその行政上の便宜から、チャゴス諸島とその他いくつかの島をモーリシャスと共に一括した。1965年のモーリシャス独立交渉に際して英国政府は、チャゴス諸島とその他いくつかの島を「英領インド洋(BIOT)」として再編すべく300万ポンドをモーリシャスに対して支払った。国連はモーリシャスの領土を分割するこのようなやり方を糾弾したが、これは無視され、一年後英国はアメリカ合衆国との間に、チャゴス諸島の最大の島であるディエゴ・ガルシアを軍事基地建設目的で貸し出すために50年期限のしかし延長可能な、高額な賃貸借契約を締結したのだ。
冷戦状況のもとでアメリカ合衆国は当地をソ連を牽制するための戦略地域と位置づけた。3000人のチャゴス島民はこの行政上の変化について、何らの相談を受けることはもとより、知らされることもなかった。一度合衆国の基地が建設されるや、65の島のどれ一つにも住民が住むことは許されないなどということに気づくはずもまた、なかった。
1965年から1971年の間島民をその住居から追い出すために、不正な方法が何度か用いられ、ついにたった一人もいなくなってしまうところまで来た。
フェルナン・マンダリンさんは、島の家から追い出された時の記憶を次のように語る。「1966年に妻と私は結婚したばかりで、船でモーリシャスまでやってきた。モーリシャスまで買い物とか仕事とか、医者にかかったりとか、休日を過ごすため、とかにやってくるのは離島の住民にとって普通のことだったんです。モーリシャスの人々も、チャゴスでコプラの仕事のために働きに来たり、こうして私たちは行ったり来たりしていた訳です。往復の船がいつも出ていました。でも、妻と私が1966年にモーリシャスでの用事を終えて帰りの船に乗ろうとすると、この船はこれからはもう乗客を乗せられないっていわれたんです。私たちは次の船を待つことにしました。しかし、時が経つにつれて、チャゴスからはどんどん人がやってくるのに、誰一人として島には帰れないんだということがわかってきました。これは周到に用意された計画だったんだということがわかるには、時間がかかりました。モーリシャスの独立に向けて事態が展開しはじめると、モーリシャスの領土に隣接したいくつかの島々は独立できるけど、チャゴスは依然としてイギリスの植民地のままなんだということもわかってきました。そうして1971年にはアメリカの軍隊がやってきて、私たちの運命がどういうものなのかがはっきりした、と言うわけです。」
あるチャゴスの女性も同様の経験をわれわれに語った。「私たちはある午後、ビンゴで遊んでいて、私の2才になる子供がプラスチックのメダルを鼻に詰まらせてしまった。島には医者がいなかったので私はこの子をモーリシャスの病院まで連れて行かなければならなかった。治療が終わって帰ろうとすると、島に帰る船はない、チャゴスからの便はあるがチャゴスへの乗客の輸送は中止されたと言うんだ。結局私の夫も私たちに会うためにモーリシャスにやってきた。ほかに方法はなかった。私たちは封鎖されていたんだから。
イギリスが、住民の生活の糧であったコプラの会社を買い取りただちに工場を閉鎖すると、さらに多くのチャゴス人が経済的な理由による移民を余儀なくされた。モーリシャスからの海上路が絶たれてしまって食糧の供給が得られなくなり、漁業しか頼るものがなくなってくると、ますます多くの島民が移民となった。そんな時でさえ、少数の人々は頑固に島の住居にとどまりつづけたのだ。フェルナンさんのおばあさんとその姉妹もこれらのとどまりつづけた人々である。「はじめは、ディエゴ・ガルシアから一番遠いパコス・バンホスには居てもいいと言われた。イギリス軍がやってきて、ここに米軍基地を作るから出ていってもらうと言われた時は、48の家族が残っていただけだった。人々は抵抗したが、強制的に排除されセイシェルに向かう船に乗せられた。人々は島の人々の出生と死亡の記録を持ち出そうとしたが、これは没収された。航海の途中チャゴス人の中には自殺した人もいる。私たちの家族はこうしてモーリシャスとセイシェルの間に引き裂かれてしまったのだ。」
モーリシャスに取り残されてしまった多くのチャゴス人と同様、フェルナンさんの夫婦も日々の生活を、住居や食糧を提供してくれるここのモーリシャス人の善意に依存している状態だ。チャゴス諸島からの系統的な排除政策が実施されたにもかかわらず、組織的な再定住への支援や、高度に都市化されたモーリシャス社会での生活に対し定住者を適応させるような計画は何ら実施されなかった。彼らは自らの漁業や油の圧搾の技術が何ら利用されることなく朽ち果てているのに気づいた。あるジャーナリストはこう述べている。「彼らはむしろニューヨークの路上に放置された方がましだった」と。15年後、彼らのうちの40パーセントが依然として職業についていない。英国政府はモーリシャス政府に対していくらかの財政的な補償を与えているが、これすら移住者たちが最初にやってきてから12ほどもたった1978年になるまでは行われていなかったのだ。この補償というものも、小さな土地の形で与えられるのだけれども、10年以上にもわたって移住者たちはモーリシャス人達に対して借金をしていたりするから、その返済のためにこれらの土地もただちに現金化されてしまうのだ。しかもこれらの補償の見返りとして、彼らはチャゴス諸島への帰還の権利を放棄するとの文書に、十分にその意味を理解しないまま署名をしなければならないのだ。
ある午後、モーリシャス長老派教会の議長であるロドニー・カーパネン師は私とムパンゴ司教をカシス地区、現在多くのチャゴス人の移住者が居住している、首都の中のスラムが散在する地域、に案内してくれた。私たちは、ルイ港のドックと市の墓地に挟まれた小さな建物に人々が詰め込まれているのを見た。貧困は明らかだった。このような建物の一つで私たちは地域グループのメンバーと会見した。どうやって生計を立てているかと言う私たちの質問に対しては、モーリシャスに着いて以来ずっとハウス・メイドをしている老女、ここかしこで日雇い仕事をしている男性、工場で臨時工をしている人、健康状態がよくないので仕事を見つけることができず、子供を働きに出していると言う女性、等々。「今日は何も食べてない。食べ物は子供にあげなければ、働くのにエネルギーが要るからね」と、この女性は言った。
「チャゴスからやってきたことで、ここで何らかの差別を受けたことがあるか?」との質問に対しては、「もちろんだ。私たちはいつも『国に帰れ!』と言われているし、学校で子供達は『レ・ジロワ(島民)』と呼ばれてばかにされる。これは人種問題じゃなくて経済問題だ。私たちの子供達はほかの子供達が持っているものを持っていないのだから。」
「モーリシャス社会の中では社会がいくつかの階層で構成されていて、人々はその経済的地位にしたがって差別を受ける。経済的にもっとも下位にいるモーリシャス人ですら私たちを見下している。」という女性もいた。
また、別の女性は「私は工場で働いているんですけど、昨日のお昼時みんなと食事に出た時のことでした。道端に酔っぱらいがいるのを見て、一人の男の人がいったんです。『あいつはチャゴス人にちがいない』って。これが私たちが日々直面している人々の態度なんです。」
こんな意見もあった。「モーリシャスの政府は、私たちをここに移住させることを承認したにもかかわらず、私たちの存在を無視している。まるで人を海に放り込んでおいて『泳げるならあがって来いよ、だめなら・・・しょうがない』みたいな態度だ。」
さらに、「私たちはモーリシャスのパスポートを持っておらず、BIOT(英領インド洋)のパスポートを持っている。だから法的にはモーリシャスの国民ではない。一方イギリス政府も我々の存在を認めようとしない。BIOTのパスポートのほかにビザの発給を受けなければイギリスに行くことはできないのだ。私たちはどこの国民でもないみたいだ。」
彼らの文化的同一性の維持と、チャゴス等への帰還運動の推進のためにチャゴス社会委員会が結成された。しかし最初のチャゴス人が島を離れてから現在までに35年が経過している。彼らの子供達はモーリシャスで生まれ故郷に対する直接の経験を欠いたまま成長してきた。当初の島の住民だった人々はたった500人が残っているに過ぎない。島に戻りたいと思っているのは年配の方たちだけですか、と私たちは尋ねた。
モーリシャスで生まれた若いチャゴス人の一人はこう答える。「私たちはここに適応していません。私たちはいつも故郷に帰りたいと思っている。私たちは固有の文化や固有の民族的同一性を持った母系社会に属しています。モーリシャス社会のシステムは私たちを取り込むのには向いていません。私は私たちの地域社会に持ち込まれたたくさんの社会的病弊を見てきました。私たちはアルコール中毒や暴力といった、我々の伝統的な価値システムの崩壊の兆候に同化することができません。私たちは私たちの生来の権利と、私たち自身でありつづけるための自由を確保したいと思います。」
もう一人のモーリシャス生まれのチャゴス人の若者。「私の父も母も今年死にました。彼らは心の奥底に悲しみをたたえたまま死んだのです。お年寄りたちの顔を見ると、彼らの瞳にたたえられた悲しみを目撃することができ、彼らの声のトーンにもその悲しみを聞き取ることができます。故郷に居続けることができたなら、彼らは有り余るほどの食物に恵まれていたはずです。ここにはなにもありません。それはとてもつらいこと。私たちのうちの何人かはチャゴス諸島に定住しようとしないだろうけれども、私たちの家族にはそこに住む権利を保障してほしいと思います。
ムパンゴ師は、チャゴス人達の権利を求める運動のためには、どの教会に参加しているかと尋ねた。ナポレオン時代の法律によってチャゴス島の奴隷たちは、カトリックというフランス植民地主義者の宗派を選ぶことを強要された。従って今日のチャゴス諸島の人民は、少なくとも名目的にはカトリックである。しかし若い世代の人たちはペンテコスタル派の教会に目をむけつつある。チャゴス人コミュニティーの人たちに対して、彼らが経験してきた事柄に関して教会はどんな立場を取ってきたかという質問をしたが、これに対する答えはとてもフランクなものだった。
「私たちに対するこの犯罪が犯されている時、教会は私たちのそばにいたはずだが、すべてを見た上で、何もしなかった。
「私は教区委員会のメンバーで、この30年間と言うもの熱心に教会に通っているが、一度も牧師さんが我が家に来てくれたことはない。私の通っている教会にとっては市のこのエリアは存在していないかのようだ。」
同じような経験を語るチャゴス人。「牧師さんがうちに来てくれたのは初めてのことだ。」
私たち3人は個人としてはそれぞれ英国国教会、長老派、統一メソジストの教会を代表しているけれども、同時にこの地域、地方においてキリスト教的な家族的結合を表象しているのだということを説明した。だから私たちがそれぞれの教会に対して公然と発言して欲しいと思うことをいってくれと頼んだのだ。ここにおいても彼らはきわめてあっけらかんで、私たちはこの点について感謝しなければならない。
「私は教会が生命をもち、生命を表現するものであって欲しいと思う。しかし私たちから見ると、教会は既に死んでいるとしか思えない。教会は集会と崇拝のためだけに存在すべきじゃない。教会はまさに彼らの任務である仕事を政治家に任せっきりにしている。いわゆる『チャゴス問題』は単に政治的な問題として扱われてきた。政治家たちは選挙の前になるとやってきて私たちの票を欲しがる。でも彼らが我々の福祉などについて関心がないことを我々は知っている。30年間にわたる私たちの社会と私たち人民の精神に対する政治的な裏切りについて何の考慮もされていない。教会こそがこの問題を最初に取り上げるべきだったのに。
「私たちは今危機的な状況に在る。ここに腰を落ち着けて私たちの話を聞いて欲しい。」ロドニーはこれらの人々の証言にいたく心を動かされたようだ。モーリシャスのキリスト教徒はチャゴス諸島の人々に対しておかされている不正義に気がついていたし関心も持ってきた、しかしチャゴス人が教会の牧師や教会自体に求める要求は充たされていると考えていたことは大きな間違いだった、と彼は弁解した。彼は自らの所属する宗派によるチャゴス人民への支援を約束しただけでなく、他派に対してもこの問題への関与を求めるために活動することを約束した。ムパンゴ師と私は国際的な場面でモーリシャスの教会の活動をバックアップするために私たちができることをすることを約した。もし、彼がタンザニアにおける彼の教区に対する責任がなかったなら、きっと彼はすべてを捨ててここポート・ルイスにボランティアの牧師としてとどまっていただろう!地域の人々は、自分たちの闘いが孤立したものではないのだというということを知って大いに元気付けられたと語った。
エルベ・ラセミヤン氏は「人権および民主主義のためのインド洋機構」で活動する弁護士でありチャゴス社会委員会の訴訟においてはその代理人となっている。彼は訴訟に用いる背景説明の文書を我々に見せて下さり、チャゴスの人々が求めているものについて次のように要約してくれた。チャゴス諸島に生活する権利を回復すること。これは合衆国の軍隊が残留するとしてもだ。合衆国の軍隊はチャゴス諸島中の最大の島、ディエゴ・ガルシアを占領しているに過ぎず、ディエゴ・ガルシア島は最も近い諸島内の他の島から100キロ以上離れているのだ。島のかつてのインフラ、特にコプラ産業に関連する施設が元の所有者のもとに回復さるべきこと。再定住が実現すれば10年ないし15年以内にココナツ・プランテーションは商業的にも割に合うものにすることが可能だと彼らは見積もっている。英国はチャゴス人民に課されてきた犠牲に対して、適正な補償を行うべきこと。この補償の内容には、子供および成人に対する基本的な教育および職業訓練を含むものとする。島嶼に対して加えられた環境破壊はすべて回復さるべきこと。環境保護団体の調査によれば、英国および合衆国政府によって島の動植物を保護するための施策がなされていることが示されているが、多くの小さな島では、ネズミに食い荒らされているのが実状である。
ラセミヤン氏の説明によれば、チャゴス社会委員会の戦略はこれらの要求のみを、一つはモーリシャス政府を通して、同時に国連先住民族の権利宣言に徴して国連を通じて、また国連先住民族問題常任委員会の設立を通して追求していくことにあるとのことである。この訴訟の重要な論点の一つは、チャゴス人が本当に「先住民」の定義に当てはまるかどうかだった。
先住民の権利という観点以外にこの訴訟にアプローチする方法はいくつかあるのではないかと、我々は今回のモーリシャス訪問を通して学ぶことができた。
そのうちの一つは、イギリスがチャゴス諸島をモーリシャスの行政権から分離したことに関する主権問題であろう。もともと英領インド洋(BIOT)はほかにも多くの島嶼を含んでいたが、これらは最終的にセイシェル政府が独立を獲得した1976年、そこに委譲された。チャゴス諸島のみが現在もなおBIOTを構成しつづけているのだが、モーリシャスの内部にもチャゴス諸島をモーリシャスに返還することを求める声がある。
実際、モーリシャスの憲法にはチャゴス諸島を含むべきことが明記されている。過去20年以上にわたって、この返還要求は野党陣営から主張されていたのだが、この7月に野党は87パーセントの得票率をもって議会多数派となった。しかしチャゴス問題が緊急性を持った課題として取り上げられるかどうかは、社会的・民族的な様々な階層の不安定な均衡の上に成り立っているモーリシャスの政治状況、またそのような状況の中で様々な未解決の問題を誘発しかねないチャゴス問題の複雑さを考えると、いまだ明らかではないといえよう。
チャゴス返還は現下の非同盟諸国運動の要求でもある。また、アフリカ統一機構(OAU)も、加盟国それぞれの主権および領土的一体性の尊重こそがOAUの根本理念のうちの一つであることを確認した1980年7月のフリータウン・サミットにおいて、チャゴス問題への懸念を表明している。ディエゴ・ガルシアがモーリシャスの不可分の一部であることを確認した決議が可決されている。それ以降さしたる積極的な関与は見られなかったのだが、OAUは最近コモロ諸島の分離を防止するための軍事介入の準備を行うことを通じて、インド洋島嶼の領土的一体性に対するその見解を明らかにしたといえよう。これはチャゴス人民にとって好意的な前例を形成したとも考えられる。
この問題と深く関連しているのは、チャゴス人民の市民権に関する錯綜した状況である。現在モーリシャス在住チャゴス難民グループ議長のルイ・オリビエ・バンクール氏が英国政府を相手取って提起した訴訟が係争中である。独立国であるモーリシャスにチャゴス人民を強制的に移住させた点においてイギリス政府は、イギリス市民をイギリス領土から追放することを禁じているマグナ・カルタおよび関連国際諸法に違反しているとのバンクール氏の主張について英国高等裁判所は現在検討中である。島には先住民は存在せず、単に経済的移民が存在するだけだというのがイギリス政府の常からの見解である。記録によれば1974年イギリス国防省のスポークスマンの発言は「我々の記録には住民に関するもの、住民の排除に関するものは一切含まれていない」というものだった。高等裁判所の判決は本年10月に予定されている。
主権問題に関するもう一つの観点は、インド洋の島嶼を外国軍隊の活動のために使用させることの問題点、そこには潜在的に核兵器使用の懸念が含まれる、に関するものである。事実ディエゴ・ガルシアは湾岸戦争およびソマリア介入に際して重要な役割を果たして来た以上、既に核兵器搭載能力を有した航空機や船舶が配備されているに違いないとの推測がある。1996年のペリンダバ条約およびその議定書が、アフリカ周辺地域を非核地帯とすべくOAU加盟諸国および核兵器生産国によって調印された。そこにおけるアフリカ周辺地域の定義にはインド洋およびその島嶼が含まれている。イギリスはこの文書においてチャゴス諸島をアフリカに含めることに対して、BIOTが英国の一部であることを根拠に、反対した。合衆国は当地域がイギリスの植民地である以上、ディエゴ・ガルシアに同条約の適用はないと主張している。しかしOAUはチャゴス諸島が非核地帯であることを保証することが自らの責任であることから、1980年のディエゴ・ガルシアに関する決議を維持している。この論点に対する結論はペリンダバの交渉においては出ていない。しかも同条約は領域内へのまたは領域内を通過する核兵器の輸送を「被駐留国」の裁量としてみとめている。従って核兵器生産国が同地域に大きな軍事基地を有する限り、核大国としては条約の規制から全く自由に振る舞うことができるのだ。こうしてアフリカを非核地帯と定義することがまったくの空語となってしまう。
チャゴス問題を取り上げているアムネスティ・インターナショナルの弁護士、シェイラ・キータルース氏はモーリシャスにおいても、国際的なレベルにおいても教会がもっと積極的に関与すべきことを呼びかけている。彼女の判断によれば、チャゴス島民のモーリシャスにおける闘いはずいぶん時間がかかったけれども、現在の国際社会の状況はこれまでになくこの問題に真剣に耳を傾ける傾向が見えてきているという。もし国際的な教会のネットワークがこの問題に責任を持って取り組むならば、状況は大きく変ってくるだろうと彼女は主張する。モーリシャス訪問の最後にあたり私はモーリシャス長老派教会の年次大会に出席できる光栄に浴した。同教会の指導部は来る数年間の重要課題として強制移住させられた人々への援助に取り組むことを掲げている。彼らはチャゴスの人々と共に「協力委員会」を設立する計画である。またモーリシャスへ集団で職を求めてやってきて、おもに衣類産業に従事している若い移住労働者への援助をこれまでにもまして強化することにしている。私たちはまた、同様にモーリシャス在住の強制移住者たちに関心を持っている英国国教会の牧師たちと意見の交換をする機会を持つことができたし、モーリシャスの「キリスト教会の友」と共に「異邦人の教会となるために」という半日のワークショップを開催した。同じ趣旨のワークショップは教会の青年部によっても開催されている。こうしてムパンゴ師と私は、モーリシャスの教会がこの重要な課題に十分にコミットしているのだという強い印象を抱いてこの島を去ったのだ。
南部アフリカの地域レベルで、ひとまずはこのレポートを14のメンバー・ネットワークと、インド洋地域の教会をまとめている様々な教派内または教派間の組織を通じて公開することにした。これに対する意見や助言を求める。
チャゴス諸島の住民の数は少ないかもしれない。しかし彼らの闘いが含意するものははるかに射程の長い問題であり、国際的な関与が求められている。この点に鑑みこのレポートはまたAACC、強制移住者援助のための大陸委員会、WCC国際問題委員会(ジュネーブ)、キリスト教援助連盟、国連キリスト教事務所、英国教会連合、合衆国の教会のロビー活動の中心としてアフリカ問題ワシントン事務所、モーリシャスもその一員である南部アフリカ開発共同体との教会関係のつながりから、このレポートは南部アフリカキリスト教委員会の会員にも公開される。
関連する情報、行動に向けたアイデアなどを求めています。私たちの地域委員会の事務所又はモーリシャスの教会、チャゴスの関係者に連絡して下さい。
シャーリー・デヴォルフ:南部アフリカ教会強制移住民支援プロジェクト地域コーディネーター
Bo926 Mutare, Zimbabwe // tel 263 20 66923 // fax 263 20 60494 // email:sacmup@aloe.co.zw
アイランド・カズンズ・ネットワーク