西表島から島おこしを考える

Subject: 金星人通信/西表島から
Date: Sat, 11 Mar 2000 02:02:10 +0800

戦う皆様へ連帯の挨拶です

西表島からです。遠い島ですがいつも皆様方の高い志に声援を送っています。

アメリカと日本から「沖縄の心」が試されています。
子々孫々の為に今何を選択すべきか?!!。1千億円という補助金に惑わされている皆さん方も沢山おりますが、、。どうぞご安心下さい。このお金は私の財布にも貴方の財布にも一円も決してはいりませんよ。

知事も名護市長の言葉はあたかも県民の為かのように巧みに言っていますが、ただお金が欲しいだけのあさましさから。しかしそのお金はほとんどヤマトへ里帰りする仕組みですから、はははあああ〜も、、です。

私の古里西表島の経験から参考資料となればと思います。「西表島から島おこしを考える」を送ります。これは2000/1〜2月号/財団法人日本地域開発センター発行:沖縄特集号ーに掲載されたものです。持ち出しは自由です。

皆様のご奮闘を応援しています。西表の神様にも祈願いたします。皆様にもよろしく。
では叉

金星人/西表島から
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西表山大学付録
西表をほりおこす会
〒907-1542
沖縄八重山西表島祖納部落
石垣金星Kinsei Ishigaki
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■西表島から島おこしを考える

1979年第1回沖縄・西表シマおこし交流会議は西表島祖納から始まった。そのきっかけをつくり、推進役として志なかばで故人となられた忘れることができない恩人たちをまず冒頭で紹介しておきたい。下田正夫先生(元西表診療所医師)、吉田嗣延先生(元沖縄協会専務理事)、玉野井芳郎先生(元沖縄国際大学教授)の3人の先生方である。そして玉野井先生と共に私どもの島おこし運動の後ろ楯となられ暖かく見守っていただいた方に現在法政大学学長の清成忠男先生がいます。

1968年ヤマトの大学を卒業と同時に那覇の中学校教員として帰った沖縄は復帰運動の炎が燃えさかり私はその炎の中に飛び込んだようなものであった。学生運動とは全く縁のない学生時代を過ごした私には訳も分からないまま当然のごとくに集会へと足を運びあたかも復帰運動の闘士で連日のようにデモで旗を振りかざしていた時のことである。たまたまテレビを見ていると懐かしいわが故郷「西表のニユース」である。食い入るように見ていると「金持ちがやってきて土地を買い占め地元とトラブルへと発展している」というニュースに驚き、いったいわが故郷西表島で何がおきているのか!。1970年夏、それを確かめるべく15年ぶりに西表に帰った。幼いころ遊び私を育んでくれた懐かしい山川海は変わる事なく迎えてくれた。島は懐かしいお年寄りと子供達で、地元青年は2人しかいず青年会活動も途絶えていた。
テレビもなく電話は学校や郵便局くらいにしかない時代、正確な情報はなく混乱したどさくさに乗じて「復帰すると土地が取り上げられる」というデマが飛び交い、沖縄・ヤマトの金持ち達が芝生を剥がすように一坪タバコ一個の値段(10セント)で島中の土地を買いあさり、一方ではヤミの骨董ブームで墓荒らしが横行する故郷の姿をを見た時、あまりのショックで頭から水をぶっかけられた思いであった。復帰とは、沖縄問題とは??と大いなる疑問となっていった。

1971年のいわゆる「沖縄国会」へ抗議行動団の一員として私は参加した。復帰の実体を自分の目と足で確かめるためであった。そして、そこで私がみたものはヤマトの左右政党の露骨なまでのエゴイズムであった。その時に私は島に帰る決心をした。1972年4月大混乱の中、転勤という形で故郷へ帰り、5月15日の沖縄の世替わりを静かに迎えた。

島に帰った私のまず初めにする事は決めていた。途絶えた青年会活動を復活させることであった。そして、墓荒らしを止めさせ、土地買い占めを止めさせ、島を守る運動であった。
そして、祭に島に帰る若者達へ「島を守るために帰ってこい!。」と酒を汲みつつ口説きまわった。「おまえたちが帰ってきたら教員止めて一緒にがんばるから」と、、。
それから3年目にして青年達が帰ってきた。約束どうり教員を止め、青年達と共に今にも倒れかかった島をいかに立て直すかということから「島おこし運動」と名付けられたものである。

1975年へき地にくる医者がなく、病院のある石垣島までは海を渡って3時間あまりも要し、住民生活の大きな不安であった。診療所が空家となって久しかった時、吉田嗣延氏の仲介で下田正夫医師が西表診療所へ赴任されたのであった。
下田医師は青年達の一番の理解者であり、応援団であった。下田医師が上京のおり当時沖縄協会専務理事の吉田嗣延氏に西表の島おこし運動のことを話したところ、ぜひ「応援しようじゃないか」という吉田嗣延氏の提案により沖縄協会と日本地域開発センターの主催による「西表島おこし交流会議」が開催されることになり、以後3回にわたり全国から様々な経験を持った人々が参加して交流会議がもたれた。

■島おこし運動とは

島に戻り青年達が農業をするということに対して「なにこのボンクラ」と親もまわりからも理解されないのが島の実情であった。中学を卒業すると同時に高校進学で島を出るのは島に生まれた者の宿命である。親達は汗水流し苦労して子供達に仕送りをし、勉強をして立派になってもらいたいと願っている親の願いに反して、教員を辞め、会社を辞めて島に帰り農業をすると言うから理解できないのも当然であろう。島に帰り農業をするという事がいかに不名誉な事であるか、というのが当時の島の風潮であった。青年達の最初の難敵は自分の親であった。理屈は通用しないからである。
今でこそ当たり前に「島おこし」「村おこし」「町おこし」と使われるが、当時は竹富町役場当たりでは行政にたてつく反対運動くらいにしか理解されず、石垣島に役場を置く行政側は全く協力どころか批判的であった。リゾート企業誘致の旗をかかげて、積極的に土地買収の手助けまでしていた役場と議会に対して、私どもは事あるごとに抗議をしていたからである。当時はスナックなどどいうハイカラなものは何一つない西表であるから毎晩のように我が家は青年達のたまり場となり、宿となっていた。夜はスナックとなり歌三線のナマオケ、そして酒を酌み交わしながら「島の未来をどうするか!!」「リゾート基地を誘致すべきかどうか!」という激論が朝まで毎夜のようにつづいた。しまいには手は出るし、飛び蹴りまで、、。それらの中から「島は自分達の力で守り、自分達で創るべきである」という方向が生まれでてきた。企業誘致を巡っては外から持ち込まれた災いにより兄弟、親戚、部落民同志がいがみ合うなどの不幸な経験をくり返してはならないという教訓があった。
そのような時、開催された「西表島おこし交流会儀」で吉田嗣延氏は私の肩を力一杯抱き締めてこう言った。「自分達は今日来ていろんな種も蒔いて行くが、明日は帰る人である。この島を守り育てるのはこの島に生きる若い皆さん方の仕事である。」そして「この西表の島おこしの炎を日本全国にひろげようじゃないか!!」と激励された。そして又玉野井芳郎先生は「ふる里は遠きにありて想うものとせず、近くにありて創るものとせよ!!」といつも優しく激励された。西表の島おこし運動の最終目的はより豊かな西表固有の文化を創造する事にあり、様々な取り組みはそれに至る過程の一つであることから、島おこし運動は言い換えれば文化運動なのである。最近よくマスコミ等で報道される各地の「町おこし」「村おこし」運動をみるとソロバンをはじいているのは良く見えるが、その先の文化がほとんど見えてこないのも特徴のようである。

■西表をほりおこす会の発足

1985年頃西表島にやってくる学者、研究者も含めて「西表ほりおこす会」を発足させた。産婆役となった2人の恩人がいる。リュウキュウイノシシの研究で学生時代から30年も西表に通い続ける動物学者の花井正光(文化庁)氏と西表の人と自然の研究で学生の頃から27年も西表に通い続ける文化人類学者の安渓遊地氏(山口女子大学)である。奥の深い西表の歴史や文化をはじめ、自然と共に生きてきた人々の様々な伝統の知恵をほりおこそうという研究会である。島の未来を考える時に長い島の歴史と文化の中に未来を照らすカギがあるに違いないと考えたからでもある。
奥の深い西表の歴史は伝承はあっても、記録等の文献資料は圧倒的に少ない。1985年夏、偶然に祖納半島で鍛冶遺跡が発見されたことから私は鍛冶遺跡に残された膨大な遺物である鉄鐸を一つ手に那覇に行った折沖縄歴史研究会の高良倉吉氏へ会い近い将来本格的発掘調査をする為の勉強会の相談を持ちかけた。早速、高良倉吉氏の呼び掛けにより若手研究者たちが西表に集まり現地を歩き、最新の資料と情報をもとに3か年間、西表島現地での歴史勉強会が続いた。その情報は県文化課へも提供し、早速県文化課は本格的発掘調査へと取り組んだ。そして発掘調査は10年にわたり継続され、上村遺跡発掘調査報告書、慶田城遺跡発掘調査報告書、船浦すら所発掘調査報告書として県文化課より報告書が出ている。
祖納半島の「上村遺跡」について簡単に説明しておきたい。現在の祖納よりも一段と高くなった上にある事から通称「上村」現在の集落は「下村」という呼ばれる。古い時代の祖納の中心地で中世から現代までの西表の歴史ドラマのメイン舞台となった場所である。この半島に14世から16世紀初めにかけて大竹祖納堂儀佐と慶来慶田城用諸という2人の英雄が登場する。大竹祖納堂儀佐は大陸方面から鉄をいれて鍛冶をしていた人物であった。慶来慶田城用諸は1490年代祖納半島に登場し西表の頭として政治の表舞台で活躍する人物である。1477年嵐にあい遭難した済洲島(韓国)の人々が与那国で救助され、その後この祖納半島で半年も生活した歴史が記録がされ、1640年南蛮船が祖納に上陸して島の娘を拉致していく事件が起き、南蛮船を追い返す目的で薩摩軍が駐留し大和在番が始めておかれた場所でもある。そして又1941年(昭和16)沖縄戦に備えてこの祖納半島全部が要塞がとなり、今も砲台跡は堅固のまま残っっている。西表の歴史の舞台となった祖納半島の半分は1946年当時の陸軍省に強制接収されたまで本の地主に返される事なく、現在は大蔵省が管理している。祖先代々の土地を荒らす訳には行かないと大蔵省に借地料を払い畑として耕しているのが実情である。古い集落跡を残しながらも、現在でも祖納の伝統的神行事で「国指定・重要無形民俗文化財:西表島の節祭」のはじまりの地であり、それをつかさどる重要な聖地である御嶽が3ケ所もある。10年にわたる発掘調査報告からもいかに沖縄の歴史を解明する上で極めて貴重な重要遺跡であるかが明らかにされた。この上村遺跡をしかるべき整備をして、かつて大竹祖納堂儀佐がこの丘より遥か南をを眺めたように西表の未来を見つめる歴史の丘にしたいと願っている。

■東京西表研究会/西表エコツーリズム協会の設立

西表島おこし交流会議と並行して東京の友人達へ協力を呼び掛けた。貴重な経験を土台にして西表の未来を具体化するためであった。3年にわたる議論から西表が大企業にも頼らず自力で生きる為の目指す方向は「エコツーリズム」を推進する事である、という結論に至った。ところが時代はリゾート法が成立しバブル時代へと進んでいた時で、時が熟するのを待つ事にした。それから17年目、1996年5月日本で初めての西表エコツーリズム協会が誕生した。そして1997年全国規模の「エコツーリズム推進協議会」も沖縄で発足した。地球規模での深刻な環境問題は時代の流れをマスツーリズムからエコツーリズムへと変えつつある。そして、環境庁、運輸省も積極的にエコツーリズムの支援に乗り出したのはやっと日本もまともな時代になりつつあることとして大いに歓迎したい。
西表エコツーリズム協会では世界的にも貴重な西表島の自然を大切にしながら、この自然と共存してきた人々の歴史と文化を基本とした西表島らしい新しい旅行のあり方を目指して活動を具体的にすすめているところである。そして西表から沖縄全地域へ、日本全国へと広げて行くことになれば西表島から始まった島おこし運動の意義はさらに高まる事であろう。

■リゾートの未来

いち早く西表の魅力を察知し時代を先取りした人物に真喜屋優氏がいる。彼は復帰のどさくさに西表の救世主としてデビュウした。そして彼の巧みな弁説に乗せられて財産をだまし取られ失った人がどれ程いるであろうか!!。その土地を転がして「うなり崎」に太陽の村というリゾート基地を建設した。神をも恐れぬ彼は聖地である「うなり崎御嶽」を壊して自分の別荘を建てたのであった。その時島のお年寄りは「あれはいい事ないよ、やがて罰が当たる」と予言した。そして10年目にして予言通り太陽の村は倒産した。その倒産した太陽の村を西武流通グループに売り渡す時役場、議会に対して抗議をした。議会では公聴会まで開催された末、結果は賛成多数で西武に売り渡された。その西武は素晴らしい天国のごとき甘い企画書を我々地元住民にみせて西表島はこんな素晴らしい島になると宣伝した。ところが10年経っても遂にその企画は絵に書いた餅で終わり西武は西表から撤退した。許せないのは廃虚と化した施設をかたずけもせずに逃亡した事である。さらに情けないのは約束を実行しなかった企業に対して一言の文句も言わない役場と議会である。今はその廃虚を竹富町がただでもらい受け「危険!立ち入り禁止/竹富町」の看板が淋しく立っているいるのである。そして又西表に夢を託した真喜屋優氏もバブルと共に夢ははじけ西表を撤退した。すなわちリゾートの未来とは「島の自然と歴史と文化」の破壊なのであった。

■ヤマネコ印西表安心米生産組合の発足

西表島の500年以上に及ぶ稲作の伝統は島で生きる基本である。西表の伝統文化はいわば稲作文化であり、稲作儀礼として沢山の歌や踊りの芸能が生まれでてきた。1985年ころから食管法が全面的に沖縄に適用される事となり、具体的にはお米の等級制度の適用であった。等級制度導入とあわせて農薬の散布が半ば強制的に指導された時、大変な危機感を持った。これまで農薬にも頼らずにきた西表島稲作にとって経験した事のない出来事であったからである。農薬への道かそれとも無農薬の道かの厳しい選択を迫られた時、苦悩の末「無農薬稲作」への道を選択した。それは豊かな自然の恵みを減らす事なくいつまでも大切にして行きたいとの願いからであった。そして、ヤマネコも人間も共存して行きたいとの願いから「ヤマネコ印西表安心米」と命名され、1989年に西表安心米生産組合(代表:那良伊孫一)が発足しアイガモ農法による完全無農薬栽培米をUパックにより全国の消費者へ産直販売をしてしている。1989年当時は米の自由化はされていず、新しくできたばかりの「特別栽培米制度」にのせて沖縄で第1号の特別栽培米の認可を受けた。手続きは大変なもので様々なトラブルもおき、お上より最大級の妨害も受けたが消費者の支援に支えられて難関は乗り越える事ができた。西表島の豊かな自然を大切にした農業の未来を考える時エコツーリズムの支援とあわせて農薬に頼らない農業に対する支援を島全体の環境を保全するという視点からの農水省等国レベルでの力強い支援が求められている。

■の開設

1979年第1回西表島おこし交流会議のとき「島おこし染織展」として会場に展示した。1975年教職を辞めてから西表の豊かな自然の恵みを生かした仕事とする為に染織の勉強を始めていたばかりで手探りの時期であった。西表では染織の伝統は途絶えて40年以上にもなっていて、すべてがゼロからの出発であった。隣の竹富島から人材を誘致し紅露工房を開設して20年が経った。西表島の自然は工芸資源として実に素晴らしい。これらの自然の恵みを生かした西表らしい染織をつくり出すさまざな試行錯誤をくり返してきた。その間たくさんの人々の出合いと交流は西表の染織を模索する中、多くの事を学ぶ機会であった。ニユーヨーク在で沖縄染織研究家のアマンダ女史、デザイナーの三宅一生氏、日本民芸館長の柳宗理氏、桐生で新しい素材を駆使して布を生み出す新井淳一氏、コーディネーターの今井俊博氏らとの出合いと交流は最新の情報と感性が西表にいながら伝えられるという恵まれた環境があった。そして1998年11月には「紅露工房:石垣昭子の作品」がニユーヨーク近代美術館MOMAでの展覧会に招待された。それにあわせてそれまで数年かけて石垣昭子(紅露工房)と真木千秋(真木テキスタイルスタジオ)と真砂三千代(デザイナー)の3人のコラボレーションによる「真南風/まあぱい」という西表の新しいブランドをニユーヨークで発表し、1999年3月には真南風のふる里である八重山で初めてのファッションショウをアトリエ游で開催した。西表島の豊かな自然の恵みである天然素材を生かすべく人の手によって光をあてる試みから20年余、今世界へと発信できる作品が出来つつある。

■西表から見える沖縄の未来

1997年5月アジアセンターの助成を受けインド、タイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、日本、沖縄の各地で織物を生業としている女性達が集い西表島紅露工房にてワークショップが行われた。アジアの織物は絣の道を通してまさしく1本の糸で繋がっているいる事が良く理解できた。同年11月から12月にかけてフィリピン・マニラーパナイ島-台湾・原住民の染料植物、繊維植物の調査に行った。そして1998年3月には台湾主催の中日編織学術検討会が台中県で開催され、「西表の織物について」石垣昭子は発表者として招かれた。そのシンポジウムはいかに熱気溢れていたことか!。午前中台湾政府の代表でネクタイを締めて挨拶をした方が午後からはTシャツにかえてフロアーから発言を求め台湾織物の未来について熱っぽく語るのには驚いたものである。そしてまたシンポジウム直後に私のところへ飛んできた若い女性がいた。32歳になるという台湾原住民タイヤル族の女性で大きな涙をぽろぽろ流しながらこんな質問をした。「私は教員をしていたが辞めて自分の部落へ帰り伝統の織物を復活させようとして、苧麻を植えたりしているが、部落のお年寄り達は笑ってバカにしている。どうすればいいの??」という質問に私は感動し、ここにも私と同じ道を選択して歩き出した若い人がいたことに喜んだ。そしてこう返事をした「私も20年以上も前にあなたと全く同じように迷いながら、この道を選択しました。あなたの選んだ事は全く正しいことです。勇気を持って是非頑張ってほしい」と、、。現在の日本に沖縄にこのような情熱を持った若い人が果たしているであろうか!。
特に台湾の中でも台湾原住民は各部族の伝統工芸・芸術はには実に素晴らしいものがある。織物はお年寄り方がわずかにやっているのが現状ではあるが、先のような若い人も出てきている事は希望へとつながり素晴らしい。 台湾原住民芸術の中でも彫刻芸術はさらに素晴らしい、これまで伝統的暮らしの一つであった彼等の彫刻を新しい芸術として高めたヒーローにパイワン族の青年で撤古流(さくりゅう/36歳)がいる。台湾原住民博物館の復元された彫刻はほとんどが撤古流の作品である。彼は今台湾原住民の伝統の芸術・文化を守り育てることを目的とした「部落学校」を創る為に台湾政府と交渉をしている、と熱っぽく語った。さらに驚いたのは台湾原住民サイシャット族の伝統織物に八重山の伝統織物である「ミンサー」そのもがあったのである。
台湾の事で心が痛むのは先の台湾大震災で震源地の南投県にある台湾手工業研究所が完全崩壊したという知らせであった。幸いにして研究員である私の友人は無事であったが、今がれきの下から大切な布を一枚ずつ取り出していると偶然繋がった電話の向こうからの声であった。 一日も早い台湾の復興を願うばかりである、、。

昨年1999年6月にマレーシア・サラワク洲で開催された国際イカットフォーラムに招かれたときに先住民族であるイバン族の織物にも「ミンサー」そのものを発見して驚いたものである。マレーシアでは近年化学繊維/化学染料が盛んに使われている事から、イカット本来の伝統の天然素材を見直す目的で開催されたものであった。発表者の多くはアメリカ・ヨーロッパの研究者であったのも特徴の一つであった。アジアを歩き織物を通してみた時沖縄の素晴らしさを改めて発見した。それは沖縄という小さなエリアに様々な手仕事としての工芸(織物/染色/焼物/漆器/木工/ガラス/その他)の伝統と洗練された技術がまとまってあるということの素晴らしさを改めて見直した。これだけの技術集団の存在は沖縄の大きな資源に他ならない。さらに染色、織物は沖縄の伝統芸能の世界を美しく豊かなものにしているのである。このよう工芸の伝統と芸能文化の伝統が深く結びつき生きずく世界がどこにあろうか!。おそらく世界の中でも沖縄だけであろうという発見であった。アメリカ・ヨーロッパは急ぎ過ぎた近代化により消え去った手仕事はほとんどアジアには残っている中でアメリカ・ヨーロッパの研究者が特に沖縄に注目しているのは「本物の手仕事が沖縄にある」からであるが、もしかするとその事に沖縄自身が気がついていないかも知れない。
そしてもう一つの宝物の発見は「芭蕉布」である。琉球王国時代に東南アジアから糸芭蕉が持ち込まれ、沖縄独自の技術の工夫により現在の素晴らしい芭蕉布が完成されている訳だが、かつては東南アジアでは当たり前に使われていた糸芭蕉であるが、今や糸芭蕉の繊維から「着物/服地」としての布を創っているのは世界でも沖縄だけであるからまさしく沖縄の「宝物」なのです。
これらの工芸の技術を沖縄の資源として21世紀いかに世界へむけて発信するか、行政の大いなる手腕が期待されよう。琉球王国時代そのままの伝統のコピーではもはや現代の暮らしの中では使われないのは当然である。技術は真似は出来てもだれも真似のできないのは沖縄の独特で豊かな感性である。沖縄の風、水、土、太陽で育った天然素材と洗練された優れた技術が豊かな感性により新しい沖縄の染織の世界が開けてくるであろう。伝統とは実はいつの時代にも生きているものだからである。観光土産品の開発も確かに大切な事であるが、それとあわせて世界に誇りうる「美しい布」を創り出さねばば駄目である。すばらしいもの、美しいものに憧れて人々は世界中からくることでしょう。コマーシャルじゃないが、ウチナービケーンではダメなのです。
現在沖縄の重要課題の一つとされている「普天間基地の跡地利用」の中に例えば世界に開かれた工芸・芸能・を勉強する学校ができる事により世界中から若者が沖縄の文化を学び交流する事になるならばどれ程すばらしいことでしょうか。それは又沖縄の優れた文化を世界に発信する近道でもあるでしょう。沖縄の大きな資源の一つはは琉球王国以来育まれた工芸文化であり芸能文化であり、そして優れたたくさんの人材です。これらを資源として生かさないのは余りにも勿体無いことであろう。

■沖縄の豊かさとは

各地を歩き回る時いつも「西表の豊かさとは」そして「沖縄の豊かさとは」何なのか!をさがしてきたが、ついにそれを発見した。西表島は人間が生きて行くのに程よい小さな島国ありながら世界の宝「イリオモテヤマネコ」も共存してきた。私どもはは稲作を基本として、山の水はどこでも安心して飲める。冬には山に入り猪を捕り、マングロープの畑に出かけ蟹海老を捕り、そして島の周囲に広がる珊瑚礁の畑に出かけ魚貝海草をとる。時には大海へ出かけて魚を捕る。そして自然の恵みにより美しい織物がうまれる。という人間が歩いていける範囲にこれらの自然の恵みのすべてがセットである島は世界中でもたぶん西表島くらいであろう。これこそが西表の豊かさである。我らの祖先はこの豊かな自然と共存しながら様々な自然とつきあう知恵を伝え、歌となり、芸能として西表固有の文化を育み今の私達に伝えてくれた。

さて、現在の沖縄島はどうであろうか。健全で安心して飲める水が、健全なる山が、健全なる川が、健全なる珊瑚礁の海が、果たしてどれだけ大切にしているでしょうか。かつては西表にほぼ近い豊かなる自然に恵まれていた島である。これらの豊かなる自然の恵みに支えられて琉球王国も存続しえたのであるが、今の沖縄島は平和基地の象徴として「リゾート基地」があり、一方軍事基地の象徴として「アメリカ軍基地」がいばっているが、アメリカ軍基地の一番の弊害は人と自然の結びつきを断ち切った事にある。各村々の人々の暮らしは集落と山川海が一つとなり繋がり深く結びついていたのが、基地により断ちきられてしまっているは今の沖縄の人々の大きな不幸である。この二つの基地に共通しているのは基本的には「植民地型産業」である事と、ものを生産しないと言う事である。沖縄のリゾート基地をより健全にして行くには観光とリンクしたモノを生み出し生産する事をしなければダメになる事は明らかであるが、米軍基地は永遠に決して沖縄の人々の暮らしを豊かにするモノを生産する事はない。こんな軍事基地があと1千年先も沖縄にとって必要とは到底考えられない。豊かな山、川、海は沖縄の人々の暮らしを永遠に支える無限の生産工場であり、持続する経済発展への土台なのです。21世紀の沖縄は子々孫々の為に今何を選択すべきか!答えは簡単な事であるが、それを言葉で表わすには勇気がいる。今まさしく基地問題で沖縄の未来の選択を県知事と名護市長はアメリカと日本から迫られているが、1千年先のわが沖縄の子々孫々から感謝される勇気を出してほしいものです。

1996年12月カナダ・バンクーバーに行った折、カナダを代表する生物学者ディビット鈴木氏に「カナダの山の水は飲めますか?」という質問をしたところ、「カナダの山では安心して飲める水はどこにもない!!」という返事に驚いた。旅行先で山の美味しい水を御馳走になる何よりの楽しみはあきらめる事にした。さらに続けてデビット鈴木氏はいった。今の行き過ぎた文明はもはや救う手立てはないが、しかし道は一つだけ残されているといった。その道とは「この土地を知りつくし、この土地に生きてきたカナダインディアンの長老の知恵に学ぶ事である、行き過ぎた文明がこの長老の知恵と融合するならばこの地球は救われるであろう」といった。さて、現在の沖縄島の山で安心して飲める水がどれほどあるでしょうか。健全なる水(自然)を失った文明は全て滅んだと言う人類の歴史の教えを今、私達は胸に手を当てて静かに考えてみたいものです。そして、1千年後に於いて子々孫々から感謝されるような哲学を持った政治家がいたら心から拍手をおくりたいと願っています。

1999年12月6日/月刊「地域開発」2000年1月沖縄特集号原稿
西表をほりおこす会 石垣金星(いしがききんせい)

■文章中の参考資料です。
※ 西表エコツーリズム協会
住所:沖縄八重山西表島上原870
会長:平良彰健(たいらしょうけん)
電話&FAX;09808-5-6331
E-mail: ecotour1@mocha.ocn.ne.jp
※ 西表安心米生産組合
住所:沖縄八重山西表島祖納618
電話&FAX:09808-5-6302
代表:那良伊孫一(ならいまごいち)
E-mail:kinsei@sun.interq.or.jp 1 1