- CIAはテロリストを捕獲するために、パキスタン人の訓練を行っていた(2001/10/03)
- ワシントンDCで反戦デモ(2001/09/29)
CIAはテロリストを捕獲するために、パキスタン人の訓練を行っていた
軍事クーデターで99年の実行計画は頓挫
ボブ・ウッドワード、トーマス・E・リックス
ワシントン・ポスト
2001年10月3日
1999年、CIAは約60人のパキスタン情報当局の工作員に対して、密かにアフガニスタン領内に侵入してオサマ・ビン・ラーディンを捉え、もしくは殺害するよう訓練と装備の提供を行っていたと、この作戦に詳しい筋は明かした。
当時のパキスタン首相ナワズ・シャリフ氏と同政府の情報担当者が、クリントン政権との協力の下に計画されたもので、パキスタンに対しては協力への見返りとして、経済制裁の解除と経済援助が約束された。しかし同年シャリフ氏が軍事クーデターで失脚するとともにこの計画は廃棄された。
この計画は合衆国の巡航ミサイルがアフガニスタン領内のビン・ラーディン氏の訓練キャンプめがけて発射され、クリントン政権の高官によれば、亡命サウジアラビア人のこの過激派をもう少しのところでしとめることができたという作戦から1年以内に起動された。この秘密計画はこれまで報道されていたよりも更にあからさまな、ラディン氏捕獲計画の一部をなす。これらの計画の中には更に広範囲の軍事行動、集中的な爆撃や特殊部隊による攻撃などが含まれていた。
これらはブッシュ大統領にとっては、9月11日のニューヨークとワシントンへのテロ攻撃に対する報復攻撃として、ビン・ラディンとそのアル・カエダ・ネットワークに対する戦争を遂行する上で、重要な経験を引き出しこれからの行動の枠組みを策定する上で参照すべき、数々の失敗の記録である。
1999年の10月には、パキスタンの特別部隊は攻撃準備を完了していた、と元高官は言う。「それはもう実行段階に入っていました。」前年のラディン氏捕獲計画の失敗の汚名をそそぐためにクリントン政権の担当者達は色めき立っていた。「まるでクリスマスみたいなはしゃぎようだったよ。」
しかしこの作戦計画は1999年10月12日に廃棄される。ペルベス・ムシャラフ将軍による軍事クーデターによってシャリフ政権が打倒され、将軍はクリントン政権のさまざまな申し出にもかかわらず同計画の継続を拒否したのだ。
現パキスタン大統領であるムシャラフ氏は、ブッシュ政権にとってはビン・ラディン氏を追いつめ彼のテロリスト網を破壊するためのまたとない同盟者として現れた。この、2年前にCIAが計画した不発に終わったパキスタンとの同盟はブッシュ政権にとっても、ビン・ラディン氏への攻撃のための同盟作りの価値を計るとともに、その落とし穴を知るための貴重な経験である。
パキスタンの情報当局はアフガニスタン内部で生じている事態について、貴重な情報を有していた。しかし合衆国の高官は、パキスタンとの共同作戦はいつも失敗に終わる、なぜなら、アフガニスタンの大部分を支配するタリバン軍のスパイがパキスタン情報当局内部に浸透しているからだと、合衆国の前高官は明かす。
「誰と取り引きしているのかが、分からない。いつも影を相手にしているみたいだった」と当時の高官は語る。
「我々は戦争状態にあった」
このパキスタン作戦以外にも、クリントン政権はその前年、CIAに対しアフガニスタン内部のグループや他国の情報当局との協力を得て、秘密作戦によってビン・ラディンしを捉え、もしくは殺害する計画に承認を与えていた。
ビン・ラディン氏殺害への最も劇的な計画は1998年の8月に行われた。クリントン大統領はケニヤとタンザニアの合衆国大使館の爆撃の報復として、アフガニスタン領内にあるといわれるビン・ラディン氏の訓練キャンプとされる場所へのトマホーク巡航ミサイルの発射を命じたのだ。
当時ペンタゴンは、さらに強気でかつ危険な軍事行動のオプションを大統領に対して提示していた、と当時の関係者は語る。これらのオプションには合衆国の小規模な特別部隊による、ヘリコプターを用いた夜間の秘密襲撃計画や、タリバンの精神的な支柱であり、ビン・ラディン氏やその支持者が常に訪問しているアフガニスタン南東部の都市、カンダハールに対する大規模な爆撃計画、また、アフガニスタン東部のビン・ラディン・キャンプに対するさらに大規模な航空機や船舶からのミサイル攻撃が含まれていた。
クリントン氏は、その軍事顧問のアドバイスを受けて巡航ミサイルのオプションを選択した。1998年8月20日、66発の巡航ミサイルが、訓練キャンプに降り注いだ。クリントン政権ビン・ラディン氏と関係を持つ化学兵器工場であるとするスーダンの薬品工場にも13発のミサイルが発射された。
無人のトマホーク巡航ミサイルによって攻撃を行うとのクリントン氏の決定は、アメリカ人の生命は一人として危機にさらされてはならないとの判断によるものだ。この決定は彼の国家安全保障チームのおもだったメンバー、マデレイン・オールブライト国務長官、ウイリアム・コーエン国防長官、サミュエル・R・サンディ・バーガー氏を含む人々からも支持されたという。
ブッシュ政権がビン・ラディン氏の仕業だとする先月の合衆国への攻撃の直後、クリントン政権の高官たちは、もっと強力で危険の伴うオプションをとらなかったことが悔やまれるとしている。「私たちが当時、合衆国がビン・ラディン氏と戦争状態にあると認識し今始まるべき軍事行動を当時はじめていればと、悔やまれます。今から思えば、すでに戦争状態だったのです。」と元国防省の高官は語る。
外部の情報通に言わせれば、もっと単刀直入だ。「この攻撃は、実はイスラム世界でのビン・ラディンの評判を高めるきっかけになってしまったのです。攻撃がきわめて限定されていて、あまりにも無力だったから、この男が民衆の英雄になってしまったのです。」ワシントンのシンク・タンク、「戦略および国際研究センター」の軍事アナリスト、ハーラン・ウルマン氏は語る。
無人の巡航ミサイルによる攻撃にとどめるとの決定に参与した高官は、以下の4つの懸念を挙げている。多くの部分でこれらの懸念は、現在ブッシュ政権が直面しているものと同様のものだろう。
まず、ビン・ラディン氏の居所についての情報はとてもあやふやなものだ。当時の報道によれば、例えば、「ビン・ラディン氏はしかじかのテロリストグループの会合に参加している。この会合には100人以上が参加する。」という情報が得られたが、それはどれほど信頼できるものかは分からない。「ビン・ラディン氏が本当にそこにいるかどうかははっきりしなかった。しかしそれはしょうがなかった。全ては諜報活動から選られたデータに基づいていたが、これが正しくないことが分かってしまった。
二つ目の懸念は、無辜の市民を殺傷してしまうことに関するものだ。特にカンダハールはソビエト連邦の1979年のアフガニスタン侵略によって壊滅的な打撃を受けたばかりだから。民間人に多数の死者が出れば、テロ撲滅を掲げる合衆国のモラルに対して、とりわけイスラム諸国から批判が集まるだろう。
ヘリコプターを用いた長距離にわたる攻撃には、夜間に空中給油を行わなければならないという問題もある。ある担当者によると900マイルを飛ばなければならないとのことだ。政府はなんとしても、1980年のイランのアメリカ大使館人質事件における救出作戦、「砂漠第一作戦」での失敗の再来を避けたかった。ジミー・カーター大統領が命じたこの作戦では、イランの砂漠地帯で給油機がヘリコプターと衝突し8人の兵士が死んでいる。
最後の問題は、爆撃機の領空通過やヘリコプターの領土内への着陸をパキスタンなどの近隣諸国が承認するかどうかだった。9月11日以来、パキスタン、ウズベキスタン、タジキスタンは、合衆国に対してその基地の使用及び領空通過を、ビン・ラディンに対するいかなる新たな攻撃に関しても認めている。
44才のビン・ラディン氏はサウジの大富豪の親族の一人であったが、1991年にサウジアラビアから追放され3年後には市民権を剥奪された。1996年の初め、CIAは特別に「対ビン・ラディン」部隊を形成した。これは主に1993年の世界貿易センタービル爆破事件への関与の疑いによるものだ。当時彼はスーダンに在住していた。スーダンは彼をサウジアラビアに引き渡そうとしたが、CIAの説得にもかかわらずサウジアラビアは受け入れを拒否し、スーダンは1996年5月に彼を追放した。
その後彼がアフガニスタンに移動するとともに、合衆国軍及び情報当局にとってビン・ラディン氏は焦点となってくる。1998年の2月彼は、「ファトウァ」と呼ばれる宗教上の命令を発し、アメリカ人の殺害を呼びかけたからだ。「私たちは大慌てでしたよ。」と当時中東と中央アジアにおける合衆国軍の作戦を統括する中央司令部の司令官であった海兵隊の退役将軍、アンソニー・C・ツィニー氏は語った。
その都市の8月、ケニアとタンザニアの合衆国大使館に、2台の爆弾を積んだトラックが突入した。合衆国政府は両事件の背後にビン・ラディン氏がいるとの確証を深めた。問題はすでに、合衆国が、反撃すべきかどうかではなく、どのように、またいつ行うかの段階になってきていたが、これは彼の所在に関する情報次第だった。2週間後、ワシントンがキャッチした情報では、ビン・ラディン氏はアフガニスタン東部でのさる集まりに出席するだろうとのことであった。CIA長官ジョージ・J・テネット氏が提供する情報の質にかかっていたと、反撃に関する政府内での議論に当初から関係していたある高官は振り返る。
「ジョージ氏の情報はある時は確かだったが、そうでもない時もあった。例えばある日はきわめて断定的にこうすべきだと主張したが、2日後とか1週間後、彼はそれほど確かではないが、などと言い出す始末なのだ。」
「これは持久戦だった」
情報の質がこんな状態だったので、攻撃計画は自制的なものとならざるを得なかった。巡航ミサイルでビン・ラディン氏を撃つなどということは、「とても不確かなものだった」と元中央司令官ツィニー氏は振り返る。「情報はそれほど確かなものじゃなかったんです。」
同時にビン・ラディン氏が新たな大きな攻撃を計画しているとの情報も浮上してきた。クリントン政権の高官達は、ともかく行動することが重要だと感じた。うまく行けば彼は死ぬだろう、最低でもバランスを失い、アメリカ軍の攻撃から身をかわすためにエネルギーを費やすようになるだろう、と彼らは計算した。
「彼はアフガニスタン、とりわけその山間部の閉ざされた空間にいれば安全だと感じていたはずだ。だから、少なくとも我々としては、攻撃が到達可能なのだというメッセージを彼に伝えなければならなかった。」とツィニー氏は言う。
こうしてパキスタン沖のアラビア海に停泊する海軍の艦船から66発の巡航ミサイルがアフガニスタンのキャンプに向けて発射された。パキスタンは事前の報告を受けていなかった。当時統合副司令官であった空軍のジョゼフ・ロールストン将軍は、ちょうどミサイル発射の時刻にパキスタン当局者と会見し、作戦について伝えた。彼は同時にパキスタンに対しインドからの奇襲攻撃がないことを保障した。誤解に基づくこのような攻撃が両国間の戦争に結びつく可能性があった。
少なくとも1発のミサイルが失速してパキスタン領内に落下したが、それ以外はアフガニスタンにまで飛び、アフガン・パキスタン国境近くの小さな町コースト均衡のテロリスト訓練キャンプと思しき場所に突入した。ほとんどの巡航ミサイルは対人クラスター爆弾を搭載しており、できる限りたくさんの人間を殺傷できるよう設計されていた。現場からの報道ははっきりしないが、多くの人が言うにはおよそ30人の人が死んだ、しかしビン・ラディンではなかった。
クリントン政権が攻撃後に入手した情報によれば、ビン・ラディン氏はミサイル攻撃の2ないし3時間前にキャンプを離れたということだ。攻撃の10ないし12時間前に離れていたとの報告もある。
合衆国軍の関係者によると発射時刻はスーダンへの攻撃と合わせるため、またミサイルが発見されることをできる限り避けるために日没後に設定された。これによって発射が数時間遅らされた。もっと早めに発射していればビン・ラディンをしとめることができたかもしれない、とふたりの関係者が語っている。
コーエン氏はビン・ラディン氏は事前に攻撃のあるべきことを知らされていたから逃げたのではないかと考えた。作戦の4日前、国務省は「きわめて深刻な危険」があるとしてパキスタン領内にいる合衆国の政府関係者およびその家族のうち必須でない部署の人々数百人に対して退去勧告を行った。この動きがパキスタン情報当局からタリバンへと密告されビン・ラディン氏の知るところとなったと考えている担当者もいた。
この見解については否定する元関係者もいる。情報が漏れたからではなく、そうでなくてもビン・ラディン氏にとっては合衆国が反撃を行うであろうとの十分な前触れがあったというのだ。
1998年の攻撃に関しては、その後処理もまずかったのではとの議論がある。とくにクリントン政権がビン・ラディン氏を殺そうと試みて失敗し、にもかかわらずその後注意を払うことを止めてしまったのではないかという点について。
攻撃の試みは続けられた。特殊部隊と攻撃用ヘリコプター搭載船がこの地域に駐留して警戒しており、ビン・ラディン氏の居所を示すはっきりとした情報が入り次第攻撃できる体制にあった。1999には2回、ビン・ラディン氏がアフガニスタンのかくかくの村にかくかくの時間にいるとの情報が入った。村そのものを破壊することが議題に上ったが、民間人の殺傷につながる攻撃を許すほどその情報は確かなものとは言えなかった、と関係者は振り返る。
これに加えてCIAは同年パキスタン情報当局の協力を得てビン・ラディン氏への攻撃のためにパキスタン人特殊部隊を訓練する秘密作戦に着手した。
「これは持久戦だった。この問題が国家安全保障チームの間で真剣に議論されなかった週はなかったといってもいい。」とコーエン氏は最近語った。
「1998年以来アル・カイーダとビン・ラディン氏はアメリカにとっての第一の脅威であった。それは再優先課題であり、さまざまな措置がとられた。」とバーガー氏は語る。
しかしビン・ラディン氏を捕獲する新たな攻撃を許すほどの確度の高い情報がやってくることは二度となかったのだ、と関係者は語っている。
「『新たな情報が入った。軍事行動に移るために秘密会議を持たねば・・・』という電話が何度入ったことか」と元国防副長官ウォルター・スローコーム氏は語る。「あまりにも慎重すぎたかもしれない。私はそうは思わないが。」
この報告には研究者ジェフ・ヒメルマン氏の協力を得た。
ワシントンDCで反戦デモ
クリスチーナ・ビノ‐マリーア
ワシントンポスト
2001年9月29日
何千人というデモ参加者がワシントンの街路を埋め尽くした。9月11日のニューヨークとワシントンにおけるテロ攻撃の余韻も覚めやらぬ中、反グローバリズムの主張は反戦のスローガンに取って代わられた。
多くのデモ参加者は黒い衣装で、顔の一部をバンダナで隠している。警察の攻撃を避けるためにごみ箱のふたやガスマスクをつけているものもいる。反資本主義、反戦のスローガンの書かれたプラカードを持ち、平和への呼びかけをメガホンで叫んでいる。
ほとんどの場合、デモというよりはお祭りの雰囲気が漂っている。太鼓や鐘の速いリズムをたたき出すミュージシャンの周りにはダンサーたちが集まってくる。サラ・アンドリュー、23才、は国会の建物の前の石造りの泉の前ではだしで踊った。参加者たちはその水の中を通り抜ける。
「世界銀行への抗議行動であるよりは、この雰囲気の方がポジティブだと思うよ。」と彼女はいう。
デモ参加者と警察との衝突のほとんどは、午前中に行われたここワシントンに本拠を置く「反資本主義集合」というグループの主催するデモで起きた。午前10時に始まったそのデモはユニオン駅近くの上院前公園から、ペンシルベニア街NW18丁目19丁目の世界銀行、国際金融基金本部前に向かうものだった。
ワシントンDCの警察長官チャールズ・ラムゼイ氏はインタビューの中で、午後3時までの逮捕者は1ダースにも満たないとしている。警察の阻止線を破ったこと、無許可の行進を行ったことがほとんどの逮捕の理由である。しかし無許可で行進した参加者の中にはデモを続けることを認められたものもいる。
午前の参加者も含めて行われた午後のデモでは、反戦デモの参加者と、これに反対する対抗デモの参加者の間で、短いにらみ合いが起こった場面もあった。この2つめのデモはペンシルベニア街NW14丁目のフリーダム・プラザから午後3時に始まり、国会前で解散した。
ペンシルベニア街を下るデモ参加者は、国立文書館前でおよそ50人ほどのアメリカ国旗を振る人々に迎えられた。「ようこそ、ビン・ラディン・ファンクラブのみなさん!」、「自分自身を防衛して何が悪い?」、「戦争によってヒットラーは倒されたのだ!」、「裏切り者と臆病者の集会」などのプラカードとともに。
2つのグループは警察の阻止線によって隔てられ、行進は平和的に続けられた。
対抗デモの参加者の一人ロブ・チョークレーさんは、「この人たちとは違う考えを持ったものもいることを示したかった」と述べた。
数千人が参加して行われたこの2つめのデモは「国際ANSWER―戦争を止め、人種主義を終わらせるために、今こそ行動を!」という連合組織によって呼びかけられた。このグループはニューヨークの政治活動組織「国際行動センター」によって呼びかけられ、当初はホワイトハウスを包囲する計画だった。
ワシントンDCの警察は今日の抗議行動には4000人が集まるだろうと予想していた。ワシントン像前では対抗デモも計画されていた。
この週末には国際金融基金(IMF)と世界銀行(WB)の会合に対して10万人にのぼる抗議行動参加者が見込まれていた。これらの会合は世界貿易センターを倒壊させ、ペンタゴンの一部を破壊し、数千人もの人が亡くなったテロ攻撃の影響で、中止された。ワシントンで集会を開く計画を断念したグループもあったが、多くは盛りあがる反戦の機運に乗じて、迅速に動員を行った。
このような反戦の気運の中心には、ブッシュ政権によってテロ攻撃の黒幕とされているサウジ生まれのオサマ・ビン・ラディン氏は軍事力によってではなく法廷によって裁かれるべきだとの考えがあると、参加者の多くは述べている。
ナタリー・ウィリアムス、IMFと世銀本部への抗議行動にニューヨーク・イースト・ハーレムから来た68才の女性は、爆撃反対のロゴマークとともに反戦ポスターを掲げていた。
「今にも起ころうとしている戦争に対して、声を上げることを、決して『反米的』と呼ぶべきではありません。私はアメリカ合衆国の政策に反対しているだけなのです。世界中の人々を抑圧するようなこの政策を取りつづけている人たちに反対しているのです。」
参加者の多くは黒や赤の旗を掲げ、太鼓やプラスチックのバケツの底などを叩いていた。
デモの途中、Hストリート11番街と12番街の間では短時間ではあったが、参加者と警察との間で小競り合いがあった。参加者の一部が警察の車両の上に乗って、警官はこれに対して催涙ガスで参加者を押し返して対抗した。
オブザーバーとしてデモに参加していた全国法律家協会の弁護士ゲーブ・トールトン氏はこの事件を目撃した。
抗議者たちは「車を取り囲んで、その車ともう一台のSUVをとめようとしていた。彼らは車の上に座りこんで、警察の方は催涙ガスをまいた。怪我人はないと思う。ヘルメットを剥ぎ取られた女性警官がいた。」
警官の一人は催涙弾に当たったようだ。警備副隊長のテランス・W・ゲイナー氏は世銀付近の泉で目を洗っていた。ジョン・ジェンティール警部によるとゲイナー氏はそれほど重傷ではない、「催涙ガスがちょっと目に入っただけだ」とのことだ。
午前中のデモの間も、ほとんどの参加者は警察に対して好戦的にふるまうよりも、反戦のメッセージを伝えることに努力を集中していたようだ。
カタリーナ・エリコ、サンフランシスコからヒッチハイクでやってきた18才、はテロ攻撃のおかげで、今日の抗議行動のトーンが大きく変ったという。
「平和、愛、連帯といったものに対して焦点が当てられてきましたね。それまではもっと過激で暴力的でしたけれど。テロ事件によって、ある種、人々はかなり冷静になってきました。」
西ペンシルベニアからやってきた20才の参加者、「融合」なるコードネームしか明かさなかった彼は、今回の攻撃に責任を有する人々に対して、合衆国は、軍事的な攻撃を行うのではなく、交渉を始めるべきだという。
「破壊に結びつくもの以外のあらゆる可能性を試すべきです。平和と停戦を交渉によって得ることができなかったら、私たちは軍事攻撃も止むなしとせざるを得ないでしょう。でも私たちはまず、なぜ彼らがこれほどまでに私たちを憎悪しているのかを理解すべきです。例えば、私たちはこの国の政府のイスラエル支持の政策に関して、妥協しなければならない部分はあるだろうし、経済的な帝国主義によって他国に対して絶対的な支配を覆いかぶせることを止めなければならないでしょう。テロリストたちと同様に合衆国自身もまた今回の事件の責任を負っているのです。」
抗議者たちが世銀とIMF本部に到着すると、警察は約1時間にわたって彼らを解散させなかった。世銀の前で警察は参加者を取り囲み、金属製の防護壁と阻止線で入り口を封鎖した。この間参加者たちはサッカーをしたり、手をつないで歌を歌ったりした。警官を揶揄する声もあった。やがて時間が来ると警察は参加者をHストリートの方へと押し返しはじめた。
合衆国公園警察の警官は黒い乱闘服で警察の支援に駆けつけた。彼らは群集制御のために阻止線を作った。
午後1時ごろ、HストリートNW15番街でデモ参加者と警官の間で小さな衝突があった。群集の上に催涙ガスが振りまかれた。最前列にいた警備当局のラムゼイ氏は、一人の参加者を見つけ出し手錠をはめて連れ去った。
デモは14番街からフリーダム・プラザへ向かって行進した。そこでは2つめのデモのために待ち受けていた数百人の人々が合流した。
行進の経路では店の窓から見物人がデモを眺めている。ニューヨーク州ロチェスターからの旅行者、ダリル・ウィリアムスさんは、「今、こんな時に、国を二分してしまうようなこの人たちの行動に怒りを禁じ得ない」と述べた。
明日は「ワシントン平和センター」と「アメリカの友奉仕委員会DC事務所」の主催による集会が、16番街NWユークリッド街メリディアン公園で午前11時から開催される。その行動ではデュポン・サークル、アダムス・モーガンまでデモを行う。