1. リアリティーの砂漠へようこそ

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リアリティーの砂漠へようこそ

スラボイ・シジェク
2001年10月13日
Free Speech



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世界貿易センターの爆破はまた、私たちがともすれば犯してしまう二重の脅迫への誘惑に抵抗する必要性を示している。もし誰かが端的に、それのみを無条件で弾劾したとすれば、第三世界の邪悪からの攻撃下にある「無実のアメリカ」なるあつかましくもイデオロギッシュな立場に立っているように見えざるを得ないだろうし、他方で、アラブ過激派の主張のより深い社会・政治的根拠について注意を喚起しようものなら、すでに十分な報いを受けた被害者をまだ責め立てているかのように見なされるだろう。ここから導かれるただ一つの結論は、まさにこの対立そのものを拒絶し、両者の立場を同時に採用すること。もし弁証法的な意味における全体性というものを求めるならば、これらの二つの立場のどちらかを選択することは不可能だ。両者共に一方的で、虚偽だからだ。それに関して明白な倫理的な立場を引き出すことができるような場合では全然ない。我々はここで道徳的理性の限界にさしかかっているのだ。道徳的な観点から言えば、被害者たちには罪はない。これらの行為は忌まわしい犯罪だ。しかしかかる「無実さ」そのものがまさに無実ならざるものなのだ。かかる「無実な」立場をとること自体が、今日の世界化した資本主義の宇宙の中では、虚偽の抽象に過ぎない。
同じことはさらにイデオロギッシュな理解の衝突に関しても言える。今回の攻撃は、民主的自由の世界が防衛しようとするに値するものに対する攻撃であると主張することもできよう。イスラムやその他の宗教的原理主義者が批判してやまない退廃的な西洋文明の生活スタイルは、同時に女性の権利と多文化共生の寛容さを有した社会だ。しかし、一方でそれは、地球規模の金融資本主義の中枢でありシンボルであるものへの攻撃だったと主張することも可能なのだ。もちろんこれは「テロリストたちも責められるべきだ、しかし部分的にはアメリカにも罪があった」などという罪の共有に必ずしも結びつくものではない。そうではなくて問題点はむしろ、この二つの側面は実際には何も対立していない、同じ領域に所属しているということにある。地球的な資本主義が一つの全体性であるというのなら、それは資本主義それ自身とその対立者、すなわち資本主義そのものに対して「原理主義的」なイデオロギー的根拠から抵抗しようとしている勢力との弁証法的統一なのだから。

結局、9月11日以降に浮上してきた2つの主な主張は、スターリン風に言うならば、どちらももっと悪い。一方で、愛国主義の物語、囚われの「無実」、愛国的なプライドの高揚、これらは言うまでもなく空虚だ。しかし、同時に左翼の物語、アメリカ合衆国は当然の報いを受けたのだ、彼らはもう何十年にもわたって他人に対して同じことをしてきたのだから、などという言説が多少なりともましだとでも言えるのだろうか?ヨーロッパの、またアメリカでも、左翼のお決まりの反応は、同程度にスキャンダラスだ。およそ想像し得るあらゆる愚劣さに満ちた言葉が語られ、書き飛ばされているのだ。例えばこんな「フェミニスト」な指摘。WTCタワーは2つのファロス中心主義的なシンボルであって、まさに破壊=去勢されることを待ち望んでいたのだ!ルワンダやコンゴに比べれば、6000人の死者がなんだというのだ、などというほとんど惨めな算術は、ホロコーストに関する歴史修正主義を思い起こさせずにはいない。また、タリバンにせよ、ビン・ラディンにせよ、それはアフガニスタンでソビエト軍と戦わせるために、CIAが作り出し、資金援助してきたものではないか、という事実についてはどうだろう。それにしても、なぜかかる事実が、彼らに対する攻撃に反対する議論の中で引用されねばならないのか?自ら作り出した怪物を除去することこそまさに彼らの義務なのだと主張する方がまだしも、論理的ではないのか?「そうだ、確かにWTCの崩壊は悲劇だ。しかし、この悲劇の被害者に全面的に同情すべきではない、なぜなら、それはアメリカ帝国主義を支持することにつながるからだ」と、もし、誰かが考えたとしたら、すでにそれは倫理的には破滅をきたしている。ただ一つの適切な立場は、すべての被害者に対する、無条件の連帯である。罪悪感と恐怖を配分する算術を道徳化することでは、肝心なポイントを見失ってしまう。それぞれの諸個人の恐怖に満ちた死は、絶対的であり、比較不可能なのだから。簡単に言えば、例えば、単純な心理的な実験をしてみよう。もしあなたが自分自身の中に、WTC崩壊の被害者に対して、全面的に同情することに対して、何らかの心理的抑制が働いていることが感知されたなら、そしてそれに対して「そうだ、しかし何百万人もの苦しんでいるアフリカの人のことを考えれば・・・」などという言葉によってその同情を補強したのならば、それはあなたの第三世界に対する共感なのではなくて、あなたが暗黙のうちに第三世界の被害者に対して、支配者としての人種主義的な態度をとっていることを示しているものに過ぎないのだ。もっと正確に言うならば、このような比較論的言説は、必要であり、なおかつ同時に受け入れることができないものである。世界中で、日常的に、これよりももっと悲惨な事態が発生していることを必ずはっきり伝えなければならない。しかし同時に、愚劣な「罪の算術」に陥ることなくしなければならないのだ。




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左翼のさらなる無残さは、爆破の何週間かあとで、「平和にチャンスを!戦争では暴力は止められない!」なる古びた呪文をふたたび唱えはじめたことだ。ものごとが思い通りに行かなかったときに現象する、まさにヒステリー的な降下の症状。爆破の後の新たな複雑な状況に対して具体的な分析を行う代わりに、そう、左翼は事態の独自の解釈を提案するチャンスが与えられていたにもかかわらず、それを怠り、「戦争反対!」なる、まさに盲目的で儀式的な歌を謳いはじめたのだ。ここには基本的な事実を提示する努力さえ欠落している。合衆国政府は、報復攻撃を延期することを通じて、これは通常の戦争とは違うのだ、アフガニスタンの爆撃は解決にはならないのだ、ということをみずから、事実上認めているにもかかわらず。ジョージ・ブッシュ氏が示した程度の洞察力さえ、ほとんどの左翼が示し得ないという悲しい状況。


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