あ、はじめまして。「なご平和電脳組」って言うサイトを運営している宮川晋って言います。沖縄に引っ越してきて一年半くらい。米軍ヘリ基地建設問題が取りざたされている名護に住み、2000年G8サミットをここで迎えることになったのはただの偶然です。1年ちょっとぐらい勤めていた土木関係の会社をやめて、失業保険をもらいながら、暖かいところがよかろうってことで一月ほど沖縄を旅行していて、たまたま次の雇い主が見つかったからこっちに来ただけのことです。「運動」ってことでいえば、「そんな時代もあった」時代に生きてきましたから、知らないわけじゃないけれども、そして、名護の市民投票などの経緯も知ってはいましたけども、けっして「運動をするために」、「移住した」訳じゃありません。

 「運動」がらみのウェッブ・サイトを作ったりしたことで、原稿を書かせていただいたりしているわけなんだけども、ウェッブ作成に関してはまったくの素人です。コンピュータが得意なわけでも、好きなわけでもないんです、実は。全産業部門の「ME(マイクロ・エレクトニクス)化」などということが真顔で叫ばれていた1980年代の前半、さしたる能力もなく漫然と大学を卒業してしまった者にとってはソフトウェア・ハウスしか就職がなかったですね。この業界は強烈でしたね。入ってくる人間は、どうでもよかったんですよ。文系でも理系でも、コンピュータの素養があるかどうかなんてどうでもよかったですね。今でもある部分そうだろうけど、大学で教える技術というのはちょっと時代遅れで、新入社員も企業で教育し直さないと使い物にならない。特にコンピュータ関連の技術は日進月歩だから、二線級の会社としては本当にコンピュータなんて一度もさわったこともない人間をプログラマや、あろうことかシステム・エンジニアとして採用してしまったりしたんですね。
 環境アセスメント報告書の作成やそのためのプログラム開発みたいなことを2年半ほどしてました。言語はFORTRANです。月間残業時間が100から200くらい、その業界では当時毎年自殺者がひとり、ふたり出るのが常識だったから、文句は言えなかった。歯槽膿漏が悪化して歯茎から血が吹き出す。こんなことを続けてたら死んでしまう、という寸前に時代の流れがきれいに変って、ちょっと不況になって、もうだれも環境アセスメントなんかにお金をかけなくなるのね。
 だから私はコンピュータなんて少しも好きじゃない。本当にこの世から消えてなくなればいいと思っている。でもこれまでなんだかんだそれで食べてきたんだから、ありがたいものでもあります。はい、技術開発というのはいつも両義的なものなのです。

 あれだけ大騒ぎした沖縄サミットもすんでしまえばそれだけで、それはそれで当たり前なんですが、1999年の暮れに私が沖縄に引っ越してきた頃というのは、ちょっと異様な熱気だったかもしれません、今から思えば。「インターネットを通じて、沖縄の心を世界へ『発信』!」などという錯乱した言葉があふれていましたね。今ではちょっと恥ずかしくて使えない言葉ですが、右も左も、老いも若きも、何か「発信」しなきゃならないって脅迫されてるみたいでしたね。7月までに(!)ホームページを作らなきゃならない、しかも英語版で(!)ってみんなが焦ってたみたいなふしがありました。そう思ってた人たちの多くは実はそれまでインターネットなんて一度も見たこともない、コンピュータなんてさわったこともない風な社長さんとかだったりして、すんでしまえば、「何だ、こんなものたいしたことないじゃないか」って急に反感持ったりして・・・。よくあることです。しょうがないですね。人間のサガですから。
 私もそのひとりでした。名護市長の岸本氏が米海兵隊普天間飛行場の代替施設として名護市東海岸の辺野古に新基地建設を受け入れるという表明をしたのが12月の末、こちらはこちらで「世界」に「発信」しなければならない理由があったわけです。それこそ7月までの間に、「既成事実」の流れができてしまうのか、それとも「軍縮」や「自然保護」といった「国際世論」のトレンドにうまくのることができるのか、どちらも「世界」などという見たこともないものを当てにしなければならなかったのです。
 それよりちょうど2年前の1997年の12月、市民投票というものがあって、数々の圧力や妨害があったみたいですが、それにもかかわらずともかく過半数が新基地建設に反対だという投票者意思を表明したわけです。それなのにどうしてこんな風に事態が進行してしまうのか、一方で「雇用」や「地域振興」といった深刻でリアルな問題があり、他方でそれらの問いにリアルな希望を提示できない「反対運動」があり、そんなこんなで反対運動に関与した人たちのみならず、反対票を投じた市民のみならず、おそらくその頃この町全体を覆っていたであろう「無力感」、あるいは何か殺気立った「冷め方」めいたものは、よそ者の私にも感じられないではなかったけれども、私としてはただ、「多数決で物事を決めることを建前としているシステムで多数決で決まったことを守らないのはそりゃダメでしょ?小学生にも恥ずかしいでしょ?」と、まさに建前だけででも、主張しなければならないんじゃないのっ、て感じていました。
 「沖縄問題」に長らく関心を持ってきたというわけではありません。いわゆる「平和・反基地ツアー」系みたいなので何度か来たことはありましたが、実際に住んでみるまではフテンマやカデナはおろか、沖縄島がどこにあるのかもあまりわかっていませんでした。98年の5月15日の復帰の日前後にだったと思うけど「普天間基地包囲闘争」というのがあって参加したんですけど、週末と有給休暇くっつけて2,3日くらいでやってきて知らない人と手をつないで「沖縄に基地はいらないぞぉー」とかこぶしを突き上げてみたり、それで満足して空港で「ちんすこう」と泡盛買って帰ったりするのって、何かとんでもない勘違いをしているんじゃないかって、違和感だけが残りましたけれども、同時にその短い日程の中で駆け足でまわった伊江島や辺野古のとんでもない海の色も目に焼きついていて、翌年、それまで10年間住んでいたアパートを引き払って、ダンボール箱11個でこちらに引っ越してくる原動力になってはいたのでしょう。
 「地域闘争との連帯」みたいな「運動」系の文脈からだけではなく、もっと一般的に、自分が住んでいるわけではない土地、自分が所属しているわけではない文化、自分と直接の利害関係があるわけではない事柄、に「関心を寄せる」という「まなざし」がどのようなものなのかということが、ずっと気になっていました。亜熱帯の楽園、エメラルド・グリーンの海、色とりどりの熱帯魚、眩しい白い砂浜、フレンドリーで温厚な人々・・・沖縄に関連づけられるこれら数々のイリュージョン、しかし「戦争の記憶と基地の重圧に呻吟するオキナワ」、「闘うオキナワ」等々という「運動」系の言説が作り上げてきた枕詞たちも、実はそれらと全く同型なのでした。ウソだといっているのではありません。事実的根拠があるからこそイリュージョン足り得るのですから。「楽園」と「闘い」、たった二つのキーワードでピン止めされた茫漠たる距離の間に沖縄島は横たわっています。その距離を測定することに失敗した言葉たちが、際限のない誤解を生み出しつづけているのだと思います。

 「なご平和電脳組」をはじめる前に、その後いいかげんにほったらかしてしまっているから恥ずかしくて余り触れたくないんだけど「ヘリ基地いやです!一万人の声を」っていうのがありまして、これは私の発案じゃないんですが、「基地を作るって言ってるんだけど、どうしましょう?あなたの声を聞かせてください」みたいなノリで、「私たちにはがきを送ってね!」というだけの「運動」なんです。チラシを配ったり送ったりはがきをもらったりという印刷物プラス郵便というメディアがメインなんだけど、どうせだったらということでウェッブ・サイトと、ついでにiモード・サイトと連携させることにしたんです。
 本当に恐る恐る、手探りだったんだけど、その点沖縄はやはり狭い島で、ある種良くも悪しくも「箱庭」みたいなところがあります。チラシを置かせていただくお店や、協力してくださる方など、人づてに紹介してもらったりしても、すぐに連絡が取れたり会えたりします。電話をもらって「じゃ、今から会いましょう」みたいに話が進みます。協力していただいた人たちには失礼だけど、大した「運動」ではなかったし、展望や展開があるわけではない。ただ、私としては、こんな風にして「運動」めいたものを作っていくのもアリなんだなと、学ぶところは多かったですね。
 はがきをわざわざ書いてくださる方達は、もともと「運動」系が多かったですね。チラシの入手経路を考えれば当然でしょう。だから文面も「共にがんばりましょう」、「連帯します」風が主でしたね。いやみな言い方を許してください。労組系のそれこそ「組織票」みたいなはがきを大量にいただいても、その向こう側で必ず誰かがこんな「運動」のために電話をかけたりFAXを送ったりして呼びかけてくれたんだな、という人の動きが見えるから、とても感動しました。
 でも、私が聞きたかった「声」は、そんな勇ましい「闘いのかけ声」ではなく、もっと弱々しい、自信なさげな言葉たちでした。あけすけな言い方をすると、沖縄の基地撤去を掲げている左翼政党の支持者や、基地や巨大開発に反対している市民運動にコミットしている人々が日本全国にどれほどいらっしゃるのか知らないけれども、そしてそれらの人々を「糾合」するというのも大事な仕事なんだろうけど、単に「数」でいえば、申し訳ないがそんなタカが知れた、くたびれた「読める票」をいくら使い回ししていても「勝ち目」はないし、なにより「わかりきった人たち」同士が内輪で「そうですよねぇ」と確認ばかりし合っているような言論は不健康だと感じていました。今までこの問題を知らなかった人が知りはじめ、知ってはいたがあまり関わりたくないと思っていた人が発言したり参加しはじめたりするチャネルがなければしょうがないと思ったのは、そもそも私自身ちっとも「わかりきった人」ではなかったからでもあります。
 そんなところにビビッドに反応して共感を示してくれた人も何人かいて、コンタクトをとってくれました。「運動」系プロパーとはちょっと違うそんなつながりが、特に引っ越してきたばかりで友達もいなかった私にとっては何よりの財産だったし、変な自信もついて「これはいけるんじゃないの?」みたいな「野望」も頭をもたげてきましたけどね。
 ウェッブ・サイトを作るというほとんど初めての仕事はそんな「弱々しい」「運動」の実験フィールドとなりました。やわな文体を作るのは、だってそれしか書けないんだから特にむずかしくはありません。検索エンジンに登録したり、自動検索ロボットが読んでくれる「メタタグ」を作る際には、カテゴリーやキーワードの設定でなるべく「運動」系に「偏ら」ないように、いろいろ工夫はしてみました。だって「市民運動・反戦・平和・基地問題」などというカテゴリーに登録されちゃったら見るのは「ギョーカイ」の人たちだけでしょ?「サンゴ礁・海・ダイビング・リゾート」みたいな嘘八百なキーワードをつけておいたのは、とかく「観光客」を軽蔑したがる「運動」系とは違って、年間400万とも言われるこれらの人々、那覇空港から恩納村や読谷村のリゾートホテルに向かうバスの車中、北谷から嘉手納の国道58号沿いに延々と続く基地のフェンスを間違いなく目撃しているはずのこれらの人々を、敵に回してどうする?と思ったからです。

 いいことばかりじゃありません。「きれいごと言うんじゃないよ、基地があっての沖縄だろ?」みたいなメールをもらったりもするわけです。とくにiモードサイトなんかはじめる以上は相当きついのがくるんじゃないかって覚悟はしてたんですけど、やってみるとそれほどでもなかったですけどね。もちろんこれは「ジャンク・メール」なんかじゃない。「いやがらせ」などでもない。携帯電話のキーボードを親指でめまぐるしく叩いている相手が、ほんとにむかついてるんだなっと、ひしひしと伝わってきて、それゆえに一層見る方は消耗するんですが、これはどう考えたって、文字通りきれいごとではなく「貴重なご意見」なんです。見やすいステレオタイプだったり、論理にはっきりと穴があったり、退けようと思ったら簡単なのかもしれないが、それはおたがいさまであって、こちらの立てている「おりこうさん」な議論の見やすい「穴」を吹き抜けるすきま風の「寒さ」に対する当然の苛立ちだと思うわけです。
 私自身は「運動」というものにそれほど確信を持っているわけではないので、特にこんなメールを受取る度、いちいちはげしく落ち込んでいました。自分で読んでみても「さむい」と思う文章のウソがやっぱりばれたなって感じでね。だからメールボックスあけるのも気が重かった。でも、今から思うにこの経験が一番大きかったのかもしれません。「運動」っていうものはどう悪ぶってみたとしても、やっぱりなにがしかの「善」を主張しているわけでしょ?そこにどうしてもつきまとう尊大さや押し付けがましさに対するむき出しの、しかし正当な憎悪に、書き手の方が直面する必要があると思いますよ。
 調子に乗ってひどいこと言わせてもらいますけど、「左翼」や「運動」の人たちには、あまりにも長い間日の目を見ない暮らしを続け過ぎたから無理もないけど、自分の書いた文章をひょっとしたら他人が読むかもしれない(!)という可能性をあまりまじめに考慮しない人が多いみたいですね。同人誌並みの発行部数しかない雑誌で、はじめから「身元の知れた」読者達と際限ないうちわ褒めを繰り返すか、たまには趣向を変えて口汚ない罵り合いを演じてみるか、いずれにしても傍から見ているととても気色悪いんですが、多分「傍から見られる」なんてこと自体、予想していないんでしょうね。
 「言葉づかい」の問題ではないと思うんですよ。「フンサイ」や「ダトウ」などという血なまぐさい言葉を好んでいた人たちも、さすがに最近では「がんばりましょう」とかかわいらしい言葉を使いはじめていますが、それでも一向に「受け」がよくならないとしたら、自分の文章が人を寄せ付けない構造になってないか、人をげんなりさせてないか振り返ってみたらいいんじゃないでしょうかね。たとえば、「・・・は・・・である」というどこにでもある断定の言葉、それは「・・・は・・・にほかならない」、「・・・が・・・であることは言をまたない」と尊大に構えようが、「・・・は・・・ではないでしょうか?」、「・・・は・・・だと思います」とちょっとかわいくへりくだってみようが実は同じことなんですが、これが必ずしも論証を要しないほどに自明な事実の陳述であるよりは、「私は・・・を・・・と認識する」というステートメントであることの方が多いわけですね。そしてそのステートメントは、そのような同質な認識を持った人たちだけをあらかじめ読者として選び取るための符牒、メタメッセージの役割を果たすわけです。
 私もまた70年代の子供です。相手を黙らせるために、より攻撃的な言葉、より極端な言葉を切りかえす、言葉は理解のための道具ではなく、誰かをたたきつぶすための「武器」でした。言葉が追いつかなくなると、今度は声の大きさとか机を叩くとか、そして文字通り人を殴るとか、他の「武器」に移行していくのはいわば自然の流れだったわけです。言葉が「対話」への希望であるよりは、むしろ対話の拒絶、ディスコミュニケーションの宣言であったそんな時代も、あるいは幸福だったのかも知れません。拒絶の宣言すら、「より高次の」対話の可能性を秘めているなんてロマンチックなことを赤面せずに言えたのですから。でもディスコミュニケーションはやっぱり単なるディスコミュニケーションにしかならないとしたら?
 1970年代に世界をとりまいた「対決主義」の文化というのはある種とても子供っぽいものだったんじゃないかと思っています。チェン・カイコーって言う中国の映画作家が「文化大革命」期の自分の経験を振り返ってそんなことを言っていたので思いついただけのことなんですけど。「大人はわかってくれない」し、「大人」の作ったシステムはすべて悪だから全部打ち壊してやるんだって言うのは気持ちいいですよね。それはよく分かります。誰でも分かっているんですよ。こうして「連帯を求めて孤立を恐れず」とかうそぶいていた人たちの多くが、今や健康に年を取り、中小企業の社長さんとか普通の「オヤジ」におさまっている。もうじき年金受取ったりするんですよね!さいわいに「世界革命戦争」も勃発せず、こうして健康に老いることができるのは慶賀なことであり、誰も止めません、どうぞ。電車の中で携帯電話で大声で話をする「若者」にこっそり眉をひそめてみせたりするあなたは、ちょうど35年ほど前にあなたが「打倒」すると宣言していた「大人」たちにそっくりだということを理解する最低限の「寛容さ」さえ持っていただければね。

 インターネットが「運動」にどんなに「役立つ」かということがおそらくこの本のテーマなんでしょう?でも、それは無理なんじゃないかな?インターネットとか電子メディアとか、いくつかの新しいメディアが問題なんじゃなくって、そもそも「左翼」や「運動」の言葉は、「どんな」メディアにももう何年も前から、「対応」してなかったんじゃないですか?
 「新しいメディアの形は新しいメッセージの形を要求している」みたいな気の利いたことをいって話をまとめようと思ってたんですが、よく考えたら何も「新しい」から「変らなければならない」のではないんですね。ひょっとしたら私たちは、人に話を聞いてもらう、その前提として人の話を聞く、そんな超基本的な「対話の作法」をそもそも知らなかったのかもしれません。
 少なくとも現在までのところ、インターネットはとてつもなく「民主的」なメディアです。何よりお金がかからないから私のような慢性的な半失業者にもやってこれました。「なご平和電脳組」はおかげさまで現在まで8000件あまりのアクセスがありましたが、同じことを印刷メディアでやろうと思えば、1通80円の郵送費と単純に計算してみてもそれだけで64万円!プロバイダとの契約料金、電話代含めてもその5分の1もかかってないと思います。印刷費、紙代、折り込み等の作業時間。考えただけでうんざりしますね。カラダにも環境にもよくありません。
 それにいくらオカネやケンリョクがあっても、この無秩序に増殖する「ワールド・ワイド・ウェッブ」を「独占」することはさしあたりできていないのだから、自分の文章が読んでもらえないことを「大手出版社」や「マスコミ」のせいにして、孤高を気取ったり逆境を嘆いたり、世を憂えたりする怠惰は通用しませんね。面白くなければ、誰も読まない。何とさわやかな「市場原理」!
 私は何か勘違いをしているんだろうか?「運動」というのは人が文字通り「動く」こと、変化することなのでしょ?仲間同士で「セッサタクマ」して「高めあう」のも美しいけど、「わたし」でも「あなた」でもない未知の「第三者」にも解読できるコードを持っていなければ「2」を超える広がりが、原理的にありえないんじゃないかと思うんですけどね。

 サミットの直前ぐらいだったかなぁ?ある教職員労働組合なんですけど、名護の町中にこんなタテカンがたくさん出ました。「人殺しのための基地はいりません!」
 私がアメリカに生まれていたら、そして体力に自信があったり、ほかに仕事がなかったり、あるいはそんな事情じゃなくても、たまたま、兵士になっていたかもしれないし、そうやって沖縄に来ていたかもしれない。そうでなかったのは単なる偶然に過ぎない。私はこの人たちのことを「人殺し」とは呼べませんね。「人を殺してはいけない」とも教わったけど、「職業に貴賎はない」とも習いました。どちらも守られてはいないルールですが、人を殺すことにつながることが職業である事態はそれほど例外的でないことも知っています。職業を続けていくには誇りが必要だし、たとえ自分の行為があまり望ましくはない効果を生み出すものであったとしても日々の労働の満足感を否定されるのはつらいこと。
 自分ではない誰かをマージナルな位置に追いやることなしに「正義」は主張できないんでしょうか?
 50年間にわたって存続してきた沖縄の米軍基地が「人殺しのための」基地でなかったことは一度もありません。その「アメリカ政府の横暴」を許してきたのが「日本政府の狡猾さ」であり「日本人民の無関心」であったこともそのとおりでしょう。でも50年間持続する事態に現実的な根拠を与えたのは、その「人殺しのための」装置が、同時に生産と消費の装置であり、雇用や業務の発注を通じて地域の経済の不可分の一部として成立してしまったことなのでしょう?そして、今、新しい基地をここに建設するのはいやだという名護市民の多数意思に声援を送ろうとするのならば、何よりもこの問題の「解決」のために知恵を絞らなければならないのに、またもう一度、「ヒトゴロシノワルイアナタ」と「ヒトゴロシヲシナイヨイワタシ」の間に線を引いて、ピケット・ラインのこちら側に人を動員しようって言うんでしょうか?間違っているだけではなくて、それは端的に無理でしょう。
 数千年以上も続いた「戦争」という文化が、そう簡単に消えてなくなりそうもないことは誰だって知っている。一握りの悪辣な帝国主義者とブルジョワジーが自らの利権のために戦争を引き起こし、人民に塗炭の苦しみを与える。資本主義というシステムを打倒すれば戦争はなくなる。今からおよそ150年くらい前に共産主義が提示したキャッチーなビジョンは当然にもすっかり色あせ、ユーゴスラビアとルワンダの戦争をまのあたりにして完全に沈黙しました。
 「平和」というのはそれほど自明なオプションではありません。

 アメリカ合衆国自治領プエルト・リコにビエケス島という人口9千人の島がありまして、その島の面積にして4分の3が合衆国海軍およびNATO軍の基地・演習場になっています。1999年4月にデビッド・セインズ・ロドリゲスという軍に雇用されていた民間人警備員が誤爆によって死亡した事件をきっかけに、一年間あまりにわたって、基地の敷地に「侵入」して爆撃演習を妨害するという非暴力・市民的不服従の抗議行動が継続されてきました。サミットの前後に、沖縄にも代表団が来て下さって、そのトラブルずくめのツアーの準備をお手伝いさせてもらった経緯から、関連情報を翻訳してサイトに掲示していますから、ぜひ見てほしいんですけど、その中に「非暴力に関する一考察」というのがあります。「不法占拠」者の排除のために1千人のFBIと海兵隊が投入された直後、ニューヨーク・ヤンキース・スタジアムでヤンキース・オリオールズ戦の試合中プエルト・リコの旗を掲げてグラウンドにダッシュしあっさり逮捕されたあるプエルト・リコ人の獄中記なんですが、たしか「『平和』というのは、『他者』に対する態度(アティテュード)の一つなのだ」といっていました。「沖縄の反基地闘争におけるインターネットの 利用」に関するレポートとしては何の役にも立たなかったであろうこの文章の締めくくりには、この言葉を使わせていただきましょう。