トランス・ジェンダーな夜

 「僕のバラ色の人生」、京都アサヒシネマでの上映をこの週末にみるつもりだったのだけど、どうしても「都を逃れ」たくなって、レンタカーを駆って、明石海峡大橋を渡って、洲本までやってきてしまった。タコとタチウオの刺し身を食べ、海の見える大浴場から冬の花火を見、屋上の露天風呂からオリオン座を眺めた。広すぎるツインルームでひとりでビールを飲みながらこの原稿を書きはじめた。
 多分、女の子になりたい男の子の話なんだけど、見ていない映画について書くことはできない。「トランス・ジェンダー」は世界的にもトレンドで、この国でも昨年の埼玉大学での手術のセンセーショナルな報道以来、「はやり」ものなのかもしれない。
 去年の12月、京大文学部でのイベントで"We Are Transgenders"を観た。夜9時からの上映だったんだけど、つまらない残業のおかげで30分ほども遅れて来てしまった。上映の始まった暗闇の中にきっと色とりどりの奇抜な衣装をまとったゲイやバイやレズやTV達がうごめいているのかと思うと、わくわくした。部屋を満たしている空気がとても暖かいものに感じられた。上映が終わって明るくなってみると、意外に地味な人が多かったんだけど…。
 「男」と「女」っていうのは、たとえそれが圧倒的な多数派であったとしても、「理念型」に過ぎない。ひとりひとりの性的なあり方はそれこそ無限なのであって、無理矢理一次元座標に押し込めたとしても、ちょうど赤外部から可視光、紫外部へと駆け抜ける目くるめく光のスペクトラムのように、無数の色彩を放たずにはいないのだろう。
 社会が「男の子」にあてがってくれる役割分担に、「男の子」に冠せられるすべての形容詞に、耐えがたく息苦しいものを感じてきた。これまではそれを「男女平等」といった「思想信条」の言葉で解釈しようとしてきたけれど、「トランス・ジェンダー」っていう概念に出会って、なにか「腑に落ちる」っていうか、すーっと安心してしまえるような気がした。
 自分は他人とは違うっていうプライドも、生きていくためには時には必要なんだけど、自分と同じような人間がいる、この地上に自分の場所があるっていう感覚はもっともっと、大切なんだ。
 Une Place sur la Terre.地上に一つの場所:J.L.ゴダール、最後はやっぱり気障にミーハーに、きめてみました。
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