『教えられなかった戦争・沖縄編』について

 『教えられなかった戦争・沖縄編』を観てきました。想像していた通りのひどい映画でした。 この映画を、「いい映画だからあなたもご覧なさい」と他人に勧めることは、私としてはできそうにありません。
 もし、この映画を上映して何か意味があるとすれば、それは、この映画のどこがどんな風に「間違っている」かを徹底的に、それこそ5分おきに映写機を止めてでも、検証し、討論することしかないとすら思います。
 それは、何も「こじゃれた」映画批評をもてあそぶためではなく、たとえば映画というものを通した人間と人間の「対話」、人間と人間の関係を変えるという意味での「運動」を検証するという意味で、決定的に重要なことだと考えるからです。
 皆さんの企画に、何も協力しないばかりか横合いから水をぶっ掛けるかの振る舞いをお許しください。
 以下に、この映画のどこが間違っていると私が感じたかについて、いくつかのポイントを指摘します。ご検討ください。

・映画を制作する主体の「匿名性」について
 ナレーションの中で、何度か「わたしたち」というあいまいな一人称複数が用いられ、そこではほとんど「古風」で平板な歴史観が開陳されてはいるが、「わたしたち」が何者であるかは決して明らかにされない。
 時には対象(ここでは阿波根昌鴻その人、もしくは「伊江島のたたかい」?)と同一化し、時には観客に溶解する。
 集会参加者などを映し出すときのカメラの位置、阿波根昌鴻氏に対するインタビュアーの受け答え、などに注目されたい。あのみみざわりな「うん、うん」といううなずき・・・
 ドキュメンタリー映画ではしばしば、対象がカメラの前でいかにリラックスしているかによって、撮影者と対象との信頼関係、そして、その信頼を得るために撮影者が投入してきた努力等々が測られうる。あるいは、そのような信頼を得ることができなかった場合でさえ、対象の敵対的な態度そのものによって、関係の困難さを表現できる。
 ところがここで現れているのは、「信頼」というよりはただの「馴れ合い」ではないのか?
 映画の製作者も、対象も、そして、さらに重要なことだが、観客として「予定」されている人たちも、あらかじめいわば「身内」なのだ。これは怠惰というべきではないのか?

・「ウラをとる」という努力を怠っていることについて
 事実を提示するときは複数のソースからの情報を確認して、裏付けをするというのが、それ自体まゆつばなものではあるが、ジャーナリズムの基本ではないのか?
 上に述べたこととほとんど重複するが、ここではほとんど「身内」からの証言しかあげられていない。
 何も「反対派」の意見も示せという意味ではないが、事実を一つの方向からしか提示しないから、まったく陰影のない平板なものになってしまう。

・カメラが「反戦平和資料館」の外へほとんど出ていっていない!!
 自主上映運動の映画に対して、お金をかけていないという科で責めるのはフェアーなことではあるまい。
 しかしこの怠惰さはちょっと特筆すべきではないか?
 あるいはこの映画は「反戦平和資料館」の展示品の説明ビデオとしてでも作られればよかったのかも、ひょっとしたら制作者はそのくらいの気持ちだったのかも・・・
 それは「映画」とどこが違うのか、違わないというのならそれはそれでも構わないが。

 「教えられなかった戦争・フィリピン編」については、「『悲惨な現実』というものを提示しておきながら、その『解決』の発見を観客にゆだねるのではなく、制作者が、またしてもあいまいな一人称でもって、無責任な『希望』を提示し、観客が安心して映画館を出られるように誘導している点で、真に反動的だ」というような趣旨のことを述べたことがありますが、今回の映画はその水準にも達していないと思います。
 大変傲慢で失礼な記述ではありますが、ご検討ください。
              99/04/28 宮川 晋

戻る