MABUI


 
 海勢頭豊プロデュース、「月桃の花」の続編といわれる「MABUI」を九条シネヌーヴォのロードショーで観てきた。何様のつもりなんだといわれそうなほど、尊大でシニカルなのを、あらかじめお許しいただきたい。「予想していたほど」悪くはなかったのは、子供たちの演技が、見え見えな筋書きのおしつけがましさを解毒するほどに「素っ気なかった」からかもしれない。
 沖縄の海と空の色、琉球の五音音階、あまりにもトゲがなさ過ぎる沖縄方言のイントネーション。それらは心を和ませもするし、共感を伝えもするだろう。むしろ好きな映画だといっても構わない。
 凡庸であることは罪ではあるまい。しかし、こんな映画、見る前から100パーセント筋が読め、「作者の意図」をすべて箇条書きにしてまとめられるような映画を見て、いっとき涙を流してみたり、「共感」してみたり、あるいはこんな映画を上映するために人を「動員」したりカンパを集めたりすることを「運動」と呼んでみたりする怠惰はそろそろやめにしたほうがいい。
 さまざまな色合いとバリエーションはあるにせよ、たとえば、アメリカと日本の為政者が戦争を引き起こし、罪もない人民が塗炭の苦しみを負った、戦争をひきおこすのは政治であって、政治を変えることで戦争をやめさせることができる、等々といった大きな「物語」がはじめから確固として存在していて、すべての小さな「物語」はその土台を補強する証拠として動員される。大きな「物語」を共有することをはじめから約した人々の間を小さな「物語」が流通し、際限のない「うちわ褒め」が繰り返される。
 大きな「物語」の真偽そのものを問題にしているのではない。一見して疑いを差し挟む余地がないほど「真実」であるからこそ、そもそも「物語」足りうるのだから。
 同じ事を繰り返すことも、それ自体は悪いことではあるまい。しかしもう十分だろう。私たちはもはや「イノセント(無垢あるいは無実)」ではありえないほど、多くのものを見てきたのではなかったか。これ以上、信じている振りをするのは欺瞞、でなければ怠惰というべきだろう。
 たとえば、戦争には「帝国主義の侵略戦争」という悪い戦争と、「解放戦争」って言うよい戦争があるんだって説いてきた人たちは(私たちも含めて)、ボスニア=ヘルツェゴビナとルワンダの戦争をどう「解説」するつもりなんだろう。あるいは端的に沈黙するのか。私たちはもっとしどろもどろになるべきではないのか。
 わかりやすい言葉で書かれ、安心して読める「物語」、肝心なときには安心して閉じてしまえる「物語」。人々を戦争へと駆り立て、憎悪を組織する「物語」と、それは実は同型ではないのか?
 まもなくこの国も確実に戦争を始めるだろうけれど、実は世界の半分はすでに戦争のただなかにある。
 映画の中で、アヤって言う女の子が美しいサンゴの海で泳いでいるとき、戦争末期に近くの崖から身投げした自殺者のものであろう頭蓋骨を見つける。まことに私たちは死体だらけの世界に生きているのだ。
 「ニライカナイ」は海の向こうの死者の楽園なのか。それとも私たちは死者たちと同じ空間を共有しているのか。
 死への嫌悪が更なる殺害へと人を駆り立てるのならば、私たちは死者と共存する方法を考えねばならない。一方の殺害を正当化し、他方の殺害を糾弾するような、ますます疑わしい「物語」を、まだ信じている振りを続けるのか?
 ウソにウソで対抗するのはもうやめにしよう。
 発せられると同時に憎悪に転化しないではいない、勇ましく自信に満ちた「連帯」の言葉ではなく、憎悪の蓄積そのものを解除する、弱々しく、しどろもどろの言葉を用いよう。それが私の「反省」であり、いいたければ「転向」宣言だ。




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1999/02/06 宮川 晋 miyagawasusumu@hotmail.com