「戦争」・「の」・「映画」



 今日は「戦争」・「の」・「映画」についてお話させていただきます。十三第七芸術、京都朝日シネマで連続上映された、とは言っても相互につながりがあるわけではない3作「ウェルカム・トゥ・サライエボ」、「ボスニア」、「パーフェクト・サークル」、いずれもボスニア・ヘルツェゴビナの戦争を素材としています。
 最初の一作は「西」ヨーロッパがこの戦争に注いできた「視線」を理解するのに有効かもしれない。今しも美容院から出てきた女性が狙撃される。テレビカメラ、マイク、照明のクルーが一斉に壁づたいに現場に殺到する。ヨーロッパの辺境バルカンのこの戦争はこのようにして「お茶の間」と直結していたのだろう。プレスクラブでの連夜の乱痴気騒ぎと、孤児院の子供たちをイタリアに移送するという臆面もないヒューマニズムが共存し交錯する。混乱しているのはバルカンなのか、それともヨーロッパと全世界なのか?
 後の2作はそれぞれ戦争当事国のユーゴスラビアとボスニア・ヘルツェゴビナで制作された。画面の「向こう側」に不可視の敵として描かれる対象が「残虐な」ムスリム人であるか、セルビア人であるかの差異はこの際いったん括弧に入れておこう。
 銃口の向こう側の「敵」があるいはかつての隣人であり友人であること。狙撃者の弾丸を避け、背をかがめて小走りに交差点を駆け抜けること。「戦争」はどこか海の向こう空のかなたから「降ってくる」と信じている20世紀の文明人の想像力はにこの戦争に耐えられるのだろうか?
 しかし、これが世界の半分以上の地域で現実化している「世界標準」なのだとしたら? まことに、錯乱しているのはスクリーンの向こう側なのか、こちら側なのか?
 もう一つ重要なこと。ここに映し出されるおびただしい血液、累々たる屍はつくりものに過ぎないことを決して忘れないこと。映画はどこまでいってもスクリーン上の光の揺らぎに過ぎない。「現実」ととりちがえられた「幻想」、それは戦争そのものを引き起こす「幻想」と同根であるかもしれないのだから。




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1999/05/10 宮川 晋miyagawasusumu@hotmail.com