沖縄日誌99

6月2日(水)曇
 テアトル梅田で「ガッジョ・ディーロ」の最終回を観る。フランス人の一青年が、父の記憶を跡付けるべく一本のカセットテープを便りに伝説の歌手を訪ねてロマ人(「ジプシー」)の村を訪れる。はじめは警戒的だった村人も、次第に打ち解け・・・云々。いわく「おおらか」で「牧歌的」で、「酒と音楽とセックスを愛し」、「怠惰」ではあるが「緊密なコミュニティー」を作り上げている「愛すべき」ロマ人に対して、周囲のルーマニア人は蔑視と敵視を隠そうともしない。ある事件を契機にこのロマの集落がルーマニア人の焼き討ちにあい、親しかった人の息子が殺された。失意の中で村を立ち去るフランス人青年、収集したカセットテープをすべて打ち壊し土に埋め、ウオッカをかける。「葬送」の儀礼を模したつもりなのだろう。車の助手席にはロマ人の「恋人」をのせて、パリに帰るというわけだ。
 言うまでもないが、この映画の制作国はフランスである。
 ここで「フランス人」、「ルーマニア人」、「ロマ人」という3変数にさまざまな数値を代入してみよう。数々の「変奏」が可能であると同時に、3変数の間の越え難い「序列」もまた明らかになるはずだ。
 驚くべきなのは、「フランス人」がどうしてかくも超越的な善意者としてみずからを描くことができるのか、世界の「悲惨」に心を痛めて見せる特権的な地位に立つことができるのかということ。いったいその「自信」はどこから来るのだろうか?先進資本主義として世界に君臨した時間の長さなのか?
 たとえば「日本人」には、こんな映画は作れないだろう。こんな映画が作れるようになったら一流の文明国ということなんだろうか。うがった嫌みな言い方だけど、改めて「西洋文明」のはかりしれなさを感じたね。
 気持ちのいい映画ではなかったし、上手な映画とも思わないが、沖縄に旅立つ直前に見る映画としてはむしろふさわしかったかもしれない。
 上に掲げた「ロマ人」に冠せられた修飾語はすべて「沖縄」にも流用可能だ。美しい珊瑚礁に囲まれた南国の楽園は、ダイバーたちの夢であり、サラリーマンやOLの「命の洗濯」の場所。健康食品の宝庫で、時間が「ゆったりと流れる」長寿ナンバーワンのこの島は、だが同時に国内最高の失業率、戦争の記憶、基地の「重圧」と同居する悲しみの島でもある。
 「沖縄」に冠せられるあらゆるプラスのレッテルとマイナスのレッテル、「賞賛」と「同情」、「羨望」と「侮蔑」、実はそれはまったく同根、コインの裏と表みたいな関係で切り離したり、一方だけを取り出したりはできないんじゃないか。引き裂かれたプラス極とマイナス極の彼方に「沖縄」があり、私と「沖縄」の間に無限の距離が横たわっている。京都や大阪や神戸やその他もろもろの場所と同じように、カギカッコをつけなくてもいい沖縄について、話ができるようになるために、何の前提もなく単なる旅行者として、出発しようと思った。
 もっともこんな事は今だから言えることであって、京都でだらだらと失業者をやってる重圧に耐えられなくなったから逃げ出したまでのことだ。一月たって帰ってきた今、前よりも何かが「わかる」ようになったかというと、もちろんそんなことはない。でも、何かがわかるために行ったんじゃないんだから、それはそれで、ええねん。
 四ツ橋線とニュートラムを乗り継いで、那覇新港行きのフェリー「飛龍21」が出港する大阪南港へ向かう。「フェリーターミナル」駅を下りると「かもめ埠頭」行きのシャトルバスは出たばかりだった。船の時刻表についている簡単な地図によれば、目と鼻の先のようなんだけど、歩き出さなくてよかった。タクシーでたっぷり10分、1000円近くかかった。貧乏旅行の初日には痛い出費だが、ともあれ無事にチケットを購入することができた。夜の10時の乗船待合室は売店も閉まっていて何もない。アルコール依存症の私は夜に飲むお酒が用意できてないと不安で不安で何も頭に入らないから、もちろんかばんの中にはサントリーモルツロング缶2本を用意してあったけど、ひょっとして船の中で販売してなかったらどうしようと不安で不安で、待合室では我慢することにした。だから、することがなんにもない。テレビはNATOのユーゴスラビア爆撃をめぐって、日本在住の外国人とかを集めて討論させるタイプの番組を流している。この種の番組の作り方も、外国人の大まじめな発言の「へんな日本語」に爆笑する観客の構図も、あまり趣味ではないので建物の外に出たら雨が降ってきた。前にこのフェリーに乗った人から、夜には「降るような」満天の星が満喫できると聞かされていたので、かなり残念。あまり出だしは好調とは言えないかもしれない。
 乗船が始まった。乗客はまばらで、3段ベッドのかなり独立性のあるキャビンを一人で占有できる。しかも進行方向右側の窓際、天気がよければ景色もよかろう。自販機コーナーにはロング缶1本400円とちょっと高めではあるが、懐かしいオリオンビールが冷えているようだし、安心してやっと「旅情」が湧いてきた。
 デッキに出ると、曇ってはいるが、潮の香りもするし、WTCや阪神高速湾岸線の明かりも美しい。船旅も悪くないじゃない。ちょっとはしゃぎはじめて、PHSが使えるうちにと「今から出発やねん」と、はた迷惑な電話をかけまくり、メールを出しまくった。モバイル時代は一人旅の旅情も様変わりする。それもいいんじゃない?
 南港の防波堤の先の灯台が見えなくなるまで、デッキに立っていた。サントリーモルツを飲みながら。

6月3日(木)曇
 乗るまで気がつかなかったけど、この船は那覇についた後、宮古と石垣を経て基隆に停泊、台湾の西海岸を南下して高雄、さらに東海岸を北上して再び基隆、そこから名古屋に戻って再び大阪へと、一週間かけて回遊する国際航路だったのだ。トイレや食堂のメニューなども日本語と英語に並んで中国語の表示があるし、「植物検疫」に関するポスターも貼ってあったりする。免税売店もあるが、これはもちろん石垣出港後しか開かれない。
 天候が思わしくなかったせいもあって、船内にはってある海図を眺めてすごした。あらためて、沖縄っていうとこがどこにあるのか全然わかってなかったことを思い知った。南西諸島というのは九州の先にちょぼちょぼっとちりばめられてるんだと思っていた。
 種子島から与那国までの間に本州がすっぽり入るくらい。小学校や中学校で使っていたような地図帳では、南西諸島を本州や九州とは別の図面でしかも恐らく縮尺も変えて載せていたのだろう。確かに北海道から(お望みならば北方領土も)八重山までを一枚の図面に落としたら、半分以上が海になってしまうし、朝鮮半島もすっぽり入ってしまいそうだ。
 宮古や石垣は台北よりも緯度が低く、沖縄本島よりはるかに台湾に近い。沖縄本島は南西諸島全体の半分よりやや南、大阪から那覇までの全行程のほぼ中間点に種子島が位置する。といったことを、実は、初めて知った。
 確かに、今日の昼頃進行方向右手にぼんやりと見えた陸地は大隈半島だったかもしれない。それからやがて、屋久島の丸い島影がやはり右手にみえた。
 文字どおりの沖縄への「距離」を体感することができたから、退屈な船旅も良かったかもしれない。
 「飛龍21」はなかなか快適だ。いわゆる2等なんだけど、「ツーリスト・キャビン」というのかな、寝台列車みたいにカーテンで仕切られた3段ベッドが向かい合わせに4組ばかり並んで1ブロックを作っている。シャワールームがあって、ゲーセンがあって、カラオケスナックがある。食堂からの眺めがよくて、メニューも庶民的でリーズナブルなお値段。有村産業っていうこの船会社について、沖縄につくまで何も知らなかった。食堂のメニューに沖縄そばがあったし、通路のかどかどには「石敢当(いしがんとう)」がはられていたから(T字路の出会い頭のようなところには魔物がすむらしく、旅人の安全を守る魔除けのおまじないらしい。沖縄の街路にはどこでも見られるし、石や焼き物で作られた札は土産物にもなっている。もちろんこの時はそれも知らなかったけれど)漠然と沖縄の会社なんだろうとは思っていた。那覇新港のコンテナヤードにはこの会社の名前の入ったコンテナが山程積んであったし、こちらでは相当大きな会社なんだろう。2週間後くらいに、この会社が会社更正法適用を申請したという記事を沖縄タイムズで読んでびっくりした。連鎖倒産など県経済への影響を懸念する旨の知事のコメントまで出ていたからきっと大問題なのだろう。

6月4日(金)晴れ
 明け方、左手にはっきりと島影が見えた。本部半島のあたりだろうか?船の中の有り余る時間を沖縄の道路地図を「予習」することで過ごしたおかげで、そんな地名がわかったりするのがちょっとうれしい。天気がよくなったのとあいまって明らかに海の色も明るくなってきた。ところどころとびうおが飛んでいるのが見える。
 大きく左にカーブを切って、徐々に減速しはじめる。那覇港の防波堤が見え始め、停泊している漁船や貨物船も増えてきた。防波堤の内側には「アジアの十字路、那覇港」と黄色いペイントでかかれている。「きたで、きたで」って感じやね。さすがに感動したね。
 右手に那覇空港、波の上ビーチ、波の上神宮、正面には巨大な泊大橋。地図の上でのシミュレーションで私は那覇新港と泊港を間違えていた。(昭文社の道路地図も間違えている。)その後の市内の移動も泊港を出発点として考えていたから、船が泊大橋をくぐらず、どんどん北上していくのでちょっと焦った。
 船が岸壁に近づくと、あの「もやい」って言うんだっけ、ロープが投げられて、岸壁に固定され機械で巻き上げられる。「海の男」達がそんな作業を、たばこをくわえながらそんなに「てきぱき」という風でもなくこなしている様を眺めるのが私はいつも好きなので、下船は最後になってしまった。先ほど書き忘れたがこの船の客室乗務員はほとんどすべてがおそらく20台の女性ばかりだ。この人たちに見送られながらタラップを降りると、マイクロバスがドアを開けて待っている。那覇新港の埠頭は、那覇市の市街からはかなり離れている。どうやって移動しようかと不安だった矢先だから、これはラッキーと喜んだのもつかの間、歩いても5分とはかからない程度の「那覇新港乗船待合所」の前でおろされた。確かに、これで国際通りまで行ってくれるなんて、そんなうまい話はないよな。
 マイクロバスを下りるとタクシーの運転手さんたちに取り巻かれる。「どこまで行くの?国際通りまで行くよ。」今となってはすっかり懐かしい沖縄アクセント、うちなんちゅーとの最初のコミュニケーションが契約不成立に終わるのは心苦しかったけれど、初日からタクシーに乗るわけにはいかない、お断りした。
 断ってしまった以上、歩かなければならない。宿も何も決めていなかったけど、まだ朝もかなり早いし、ともかく町中までゆっくり歩いて、それから考えようと思った。道路地図を片手に、荷物を両肩に背負って歩き出した。コンテナヤードをぬけてバス道に出る。バス停もあったけど、あまり走ってそうにないし急ぐ旅でもないから歩き続けた。簡易保険センターの前を過ぎ、ファミリーマートがあって妙な形の円筒形の駐車場の角を右折、南下する。
 ファミリーマートみたいな見慣れたものがあると、旅情も半減するけど、安心もするよね。少なくともここは日本語の通じる国なんだから。

≪沖縄コンビニ事情、など≫
 忘れないうちにここで、沖縄のコンビニ事情について語っておこう。圧倒的に「ファミリーマート」が多い。大きく水をあけられて「ローソン」と「ホットスパー」というところか?「サークルK」や「ヤマザキデイリー」がないのは致し方ないとしても、全国区の「セブンイレブン」がまったく見当たらないのは驚きだった。さらに驚きは、かなり田舎の方に行っても、ほとんどのコンビニが24時間営業で、お酒を販売していること。
 お酒ついでに付け加えておくと「アルテック」って言ううす紅色の看板が目印のお酒のディスカウントスーパーのチェーン店が那覇をはじめいたるところにあって、深夜まで営業しているのでたいそう便利だった。
 ついでにデパート、スーパーマーケット談義。那覇の中心パレット久茂地の上にある沖縄の老舗のデパート「リウボウ」はそのロゴを見てもすぐ分かるように西武系。一階ではセゾンカードの勧誘をしてるし、確か6階には「無印良品」もある。国際通りに面した抜群のロケーションにありながら本年8月をもって閉店、77年の歴史を閉じることとなったもう一つの沖縄ブランドの老舗デパート「山形屋」は「内地」のどの系列にも吸収されていなかったんだろうか?
 あと、デパートとしては国際通りの「三越」、沖縄市の「プラザ・ハウス」は高島屋だったっけ松坂屋だったっけ?
 ショッピング・センターとしてはコザ(沖縄市の旧称)中央パークアベニューの突き当たり、嘉手納基地のフェンス沿いに走る「国体道路」に面した「コリンザ」もあげておかないわけにはいかない。一階は食料品スーパーとファーストフード、書店、雑貨店等、二階が衣類、三階はレストランとゲーセンとカルチャースクールとか市民ホールとか、那覇の「リウボウ」をこじんまりした感じ。どの資本系列なのかは調査未了。後でも述べると思うが、嘉手納のカーニバルの日、私たちはここの三階の「地中海フード」系レストランで、たった一杯のグラスワインと水割りで延々とくだを巻いた。隣のゲーセンでは、独立記念日のホリデーなのに遊び相手がいないのだろうか、孤独な米兵が一人、延々とゲームをしていたのが印象的だった。
 スーパーマーケット。沖縄のどこを走っていても目に付く緑の「P」のロゴ、「プリマート」は「イオングループ・JASCO」系。酒類も扱っていて夜遅くまで営業している店舗も多い。もう一つ黄色に赤のロゴの「サンエー」グループは家電なども手がけているが、ニチリウ・グループ、日本流通云々という大阪系のチェーンらしいが、調査未了。
 本土資本がそのまま出店しているものとしては、JASCOが北谷(ちゃたん)ミハマエリアと那覇の金城(かなぐすく)に大規模郊外型の店舗を構えており、ダイエーは「ダイナハ」で知られる牧志店と、沖縄市の泡瀬店がある。ダイエーの店内に入ってみると、たとえ「そうきそば」やマンゴーやポークの缶詰が売られていても、どうしても大阪・神戸に引き戻されてしまう気がするから不思議だ。ダイエー系といえば牧志市場本通りの入り口の「OPA」。たとえば大阪のアメムラなんかと同じように、若い衆が座り込んでタバコふかしたりケータイでしゃべったり、手作りアクセサリー売ったり、テレクラのティッシュ配ったりしてる。どこにでもある光景だ。
 「OPA」の5階か6階には「タワーレコード」がある。沖縄では民謡系もオキナワン・ポップ系、ロック系も含めて独自レーベルがたくさんあるらしく、街角の小さなレコード屋さんがその事務所だったりして、そこらへんまでは調査未了だけれども、確かに大手のレコード店のチェーンはここだけだと思う。後でも述べると思うが照屋林賢の「なんくるぐらし」のなかで、「WAVE」のプロデューサーがレコーディングの話を持ち掛けたが、そんなレーベルは知らんとはねつけたところ、次回西武グループの企業案内の分厚いカタログを持って現れたという笑い話が書かれていた。
 コンビニの品揃えは「内地」とそれほど変わるところはない。もちろん酒コンビニでは泡盛を各種取り揃えている。「内地」の酒屋でも時々売っている上品な「ブラウン」ボトルだけではなく、もっと廉価な実は中身は同じだとも言われる透明ボトルに鮮やかな青色のキャップシールがついた2合ビンや3合ビンが並んでいるのが特徴だ。特筆すべきは氷!「内地」でなら普通は氷屋さんでしか手に入らないようなおおきな直方体の氷の固まりがビニール袋に入れられて売られているところもある。かち割り氷も「内地」のものよりずいぶん大ぶりなものが200円程度で売られている。
 田舎の方に行くと、私がみたのは名護の東海岸だけども、昔は読谷当たりでもそうだったらしいが、集落ごとに「共同売店」って言うのがあって、野菜や肉や豆腐や卵、ポークランチョンミートやシーチキンの缶詰とか、インスタントラーメンとかの食材や、トイレットペーパーなどの日用品を販売している。しかも朝早くから結構夜遅くまで営業している。こういう店で買う豆腐や、トマトやピーマンなどの野菜、そしてお弁当などがたいそう安くておいしいことはまた後に述べる機会があろう。地域の人々の共同出資によって運営されていると言われるこのような売店がどんな風にして始まったのかは知らないが、あるいは沖縄は「コンビニ」の先進国だったのかもしれない。

 そう、閑話休題、今はまだ那覇に上陸したばかりだったのだ。ファミリーマートの角を右折して南下しはじめたところだった。おりしもサラリーマンたちの出勤時間、すでに働きはじめている人々にとっては朝食の時間でもあるのだろう。佐川急便の運転手さんたちが、店の中で座り込んで食べている弁当がたいそうおいしそうだった。この時はじめてみたのだけれど、那覇やコザの農連市場にもあったけど、普通の町中にも駄菓子や日用品をおいている風なお店の店先におそらくは自家製のお弁当がならべられていて、これがまたうまそうなんだ。これはスーパーなどで販売されている弁当にも共通するんだが、特徴はおかずと御飯が画然と分けられてなくて、御飯の上にたとえばゴーヤチャンプルみたいなものがぶっかけられてあるのだ。値段も250円ぐらいからあるから、沖縄の人にとってはは全国均一価格のコンビニ弁当やほか弁はずいぶん高く感じられるんだろうなと思った。
 ともかくその時見たそのお弁当はたいそうおいしそうだったんだけど、まだ宿も決まってなくて不安だったし、記念すべき上陸第一号の食事はもっと慎重に選びたかったんで、先を急ぐことにした。
 だんだん日差しがきつくなってきた。左手が丘陵地になってきて、沖縄特有の亀甲墓が集まっているところが見えてきたりもした。かなり歩いて、泊港北岸。ケラマ諸島日帰りツアーなどの看板を出したダイバーズショップなどが並んでいる。泊高校のそばだったと思う、突然の星条旗と十字架、アメリカ人墓地、後で知ったことだが、ペリー来航の頃のアメリカ人水兵らの墓らしい。

≪「とまりん」≫
 沖縄本島西海岸を縦断する幹線道路国道58号線と、首里に向かう「崇元寺通り」が交差するところが泊高橋で、那覇市の北の入り口をなす。近年返還された軍用地の「天久(あめく)」地域が「新都心」として開発中だから、また、近々様相は一変するだろうが。泊港はケラマや粟国、久米島などの近距離の船が出るターミナルで、その発券所や待合室とショッピングモール、そして「かりゆしアーバンリゾートホテル」が同居して、「とまりん」というなんともかわいらしい名前のビルを構成している。ここの2階には、カレーやタコライスはあるがどういう訳かピザが見当たらない「ピザハウス・Jr」っていうファーストフード系レストランや、「アトランタ・カフェ」っていうホットサンドイッチの店でインターネットも利用できるカフェや、その他もろもろの雑貨屋さんなどがある。確か3階は「宮脇書店」、これは確か「内地」では国道沿いに深夜営業の店舗を展開しているようなタイプの書店だけれども、那覇では売場面積に関する限り最大のもののようだ。沖縄県内の出版社の書籍などもある程度扱っている。ついでに書店について触れておくと国際通りの「球陽堂書店」がやはり一番品揃えがいいと思われる。特に沖縄関係書籍のコーナー、沖縄発のミニコミなどが充実している。

 やっとの思いで「とまりん」にたどり着き、切符売場の観光案内に混じって「民宿S」のチラシを見つけた。派手なイラストと「アットホームな雰囲気」云々のコピー、何といっても「素泊まり2000円」に心が動いた。「出会いとふれあい」系は得意じゃないし好きでもない、バックパッカー系の若者とお友達になったためしはないし、なりたいとも思わない、だから正直言って「アットホーム」は不安なんだけど、それならそもそもなんでこんな旅をはじめたんだ!などとめまぐるしく葛藤しながらも、ともかくここからはじめてみよう、できるだけ何も考えないようにして、ともかくはじめてみよう。
 電話をかけるのにまだ早い時間のような気がしたので、さらに58号を南下して、はじめてパレット久茂地や県庁の建物を見た。ここから「民宿S」に電話をして、ともかく一夜目の宿は決まった。
 宿は寄宮(よりみや)の方にある。すでににぎわいはじめている牧志の市場をぬけて、農連市場から開南、壷屋を経て、結局全部歩いた。おかげで多少土地勘はついたけれど。時間が早かったため部屋が掃除中だったので、荷物だけを預け、再び出かける。そういえば、まだ朝食を食べていない。
 こうなったら記念すべき第一食はやはり牧志公設市場でしょう。市場から2階に向かうエスカレーターを下りたところに立ち止まると、そこは「道頓堀」って言うお店で、2年前に団体で来たときも確かこの店で料理をしてもらった。ここの2階には中華料理をはじめたくさんの店があるのに、エスカレーターを下りて、ちょっとでも躊躇していると「道頓堀」のおねえさんの呼び込みに負けてしまうのだ。その後一ヶ月間何度かここにやってきたが、実のところ「道頓堀」以外の店に一度も入ってない。それにしても、なぜ「道頓堀」なのだ?
 沖縄そばとオリオン生。 向かいで「ぐるくん」のから揚げ定食を食べていたおばあさんが、声をかけてくれた。おぉ、ジモトのヒトとのフレアイ!「沖縄のそばはおいしいですか?内地のそばは違うんでしょ?」この後一ヶ月の間、この同じ場所で、同じような光景を何度も目撃することになるのだが、「内地」からの、とりわけ「一人旅」系の旅行者はどうしてこんなにも簡単に、卑屈なまでに従順に「沖縄礼賛者」を演じちゃったりするんだろう?別にかわいい話だからいいんだけどね。私ももちろん例外ではない、「おいしいですよ!」、ほとんど感激してやがんの。
 「球陽堂書店」で急遽「るるぶっく沖縄」を購入、27番のバスに乗ってコザに向かう。中央パークアベニューと空港通りをざっと歩いて、なんだたいした街じゃないじゃん、などと思っている。ばかだね。まあ、今日のところは、表敬訪問ということで。
 胡屋(ごや)の商店街の中の「A&W」でチキンとルートビア。「A&W」にくればいやがうえにも「沖縄に来たな」って言う感じが盛り上がってくるね。

≪沖縄ファーストフード談義、あるいは沖縄「ちゃんぷるー」文化について≫
 ここで沖縄ファーストフード談義。マクドナルド、モスバーガー、ケンタッキー、ロッテリア、ミスタードーナツ全部ある。ファーストキッチンはなかったな。そして沖縄独自ブランドとして「A&W」と「JEF」。実は「A&W」はかなり歴史の長いアメリカンブランドで、マクドナルドが日本上陸する前だったはずだ、私が生まれてはじめてハンバーガーという夢のようにおいしい食べ物を食べたのは、神戸元町の大丸の一階にあった「A&W」だった。この話は大事なので後でもう一回する。最近では大阪新世界のフェスティバルゲートにも入ってたな。ルートビア飲み放題、店によってはコーヒーもお代わり自由。「JEF」もそうだけど、アメリカの50年代風の、駐車場にメニューとマイクがついたスタンドがあって、そこで注文するとウェートレスさんが車まで運んでくれるような仕掛けになった郊外型の店舗が多い。もっとも、このシステムを利用している人は少ないみたいだけど。ちなみに「A&W」はジモティーは「エンダー」と呼ぶらしい。コザのプラザハウス近くの「エンダー」にいったときは、時節がら、期末試験の勉強にテーブルを占領して長居している高校生が多かったな。
 「JEF」の特徴は、オキナワン・メニュー、ゴーヤのオムレツをはさんだゴーヤバーガーとか、それにポークランチョンミートを加えたヌーヤル・バーガーとか、氷ぜんざいとか。
 あと、ファーストフードに類するものとして、ドトールコーヒーは国際通りに一軒、「内地」ではすっかり減ってしまったシェーキーズ・ピザパーラーは沖縄では健在。
 「A&W」や「JEF」もそうなんだけど、沖縄の「ジャンクフード」業界にはアメリカ占領時代の影響が色濃く影を落としている。近頃では「内地」でもはやりはじめているという「タコライス」、御飯のうえにトマトソース味の牛ミンチにレタスの細ぎり、トマトなどをあしらってチーズとメキシカン・サルサをかけて食べるという、タコスの具と御飯のまさに「ちゃんぷるー」化なのだが、米海兵隊キャンプ・ハンセンの「城下町」金武(きん)町の「キング・タコス」が発祥の地と言われる。なぜ、メキシカンかといえばこれは、「琉球処分」以降の日本政府の「棄民政策」と関係があるのだろうか。今から百年ほど前、ペルー、ボリビア、ブラジル等の南米諸国とともにメキシコにも多くの沖縄県民が「移民」した。その末裔が沖縄に帰ってきて、これらの店をはじめたとも聞いたが、ウラを取っているわけではないので確かな話ではない。
 沖縄とメキシコの浅からぬ因縁としてついでに、糸満の平和祈念公園近くに「サラバンダ」なるサボテンをフィーチャーした、息を呑むほど!、すがすがしいほど!チープな「テーマパーク」がある。レストランではテキーラがたっぷり飲めて、メキシコ人のバンドの皆さんが「ベサメ・ムーチョ」ならまだしも、「コンドルが飛んでいく」(ペルー民謡だろうが!!)を演奏してくれたりする。「内地」の観光客はめったにここまでは来ないだろうけど、私はかなり気に入っている。園内の周回列車が「パンチョ・ビッジャ」って言う名前で、これは1910年の革命英雄の名、メキシコでは、与野党ともに「革命」の名を冠している(「制度的革命党」と「民主革命党」)ことからもわかるように、「革命」は「建国」伝説にも近しい。そんな名前をさらりと使ってしまえるところが、「沖縄チャンプルー文化」の面目躍如というべきか、きっと「メキシコ人民」も許してくれるだろう。
 摩文仁(まぶに)から乗ったタクシーの中で「サラバンダには沖縄唯一の電車が走ってるんだって!」とパンフレットに書いてあった通りの話をしたら、運転手さんが「戦前には沖縄にも電車があったんですよ」って、少し不満そうに、少し悲しそうに話してくれた。
 「メキシカン・ジャンクフード」のチェーン店としては、先にも述べた「ピザハウス・Jr」が「とまりん」、「コリンザ」、「ジャスコ那覇店」に展開しているほか、コザ発の「チャーリー多幸寿」が中央パークアベニューの本店をはじめ「ジャスコ那覇店」などにある。
 なお、浦添市牧港の「フォーエバー産業」製の「タコライスのもと」が国際通りなどでも3箱千円で売られているから、お土産にどうぞ。
 ついでに、ブラジル料理の「パスティス」の店(「パスティス高良」)が牧志公設市場裏の商店街にあった。イタリア料理の「ラビオリ」を9倍くらいに拡大したものを揚げたものといえばいいだろうか、あるいは「ピロシキ」の具をパイ生地に包んだものといえばいいだろうか?テイクアウト専門で一個100円。
 「ちゃんぷるー」という食べ物は、ゴーヤであるとかナーベラと呼ばれるへちまの若い実であるとか豆腐であるとかもやしであるとか、およそ沖縄の家庭の台所にはいつでもありそうなものを、冷蔵庫の中の残り物だったりするありあわせのものを、ごちゃまぜにして炒めて食べるもののことをいうんだと思うけど、ここで欠かせないのはハッシュドビーフ、ポークランチョンミートの缶詰(デンマーク製「チューリップ」ブランドが有名)、「シーチキン」などのツナ缶。プリマートなどのスーパーに行くといつでもこれらが山積みされている。あるいは戦争直後の収容所生活の中で米軍が配給したり、米軍からかっぱらったりしたこれらの食材を、手に入りにくい動物性蛋白のいわば「代用品」として取り入れたことが始まりなのかもしれないね。今では沖縄の食文化の不可欠の一要素となっているようだ。確かにそのままでも食べれるこれらの缶詰は、塩、コショウなどの基本的な調味料で味付けがされているから、単にまぜて炒めるだけでもうまみがでる。イージーといえばイージーなんであって、ちかごろ長寿県沖縄の秘訣としてゴーヤなんかが健康食品としてもてはやされているけれども、「自然」を求める人ならばまゆをひそめるようなチープな「大量消費文明」の産物がそれらときっちり同居しているわけだ。
 沖縄の街角に立っていると、夕方にでもなればどこからか三線(さんしん)の音が聞こえてくるような気がする。若い人でも三線がひけたり民謡を知ってたりする人が多いし、今でも結婚式などの際には「かちゃーしー」っていう踊りがでたり、放課後に高校生達が体育館や公園で「えいさー」っていう太鼓の練習をしていたりするこの島の暮らしを見た人たちは「おぉ、伝統が息づいている!」などと感動しちゃったりするのだけれど、例えば民謡のお師匠さんみたいな偉い人でも、求められれば喜納昌吉の「花」や「はいさいおじさん」、ブームの「島唄」なんかをさらりと演奏したりする。
 「自然」とか「伝統」っていうものは、「そのまま」、「手付かずのままで」、保存すべきだと考えてしまうことが多いけど、それは実はとんでもない思い違いで、偏見にすぎないのではないかしら。
 かつては米軍の配給品の缶詰の空缶を使って作られたという「カンカラ三線」っていうのが、今でも民宿や飲み屋さんに置いてあって、宴もたけなわとなってくると、本物の三線に混じって登場する。カンカラの部分をピンクや黄色にペイントして鮮やかにハイビスカスを描いたものが、牧志の市場本通り商店街の土産物屋さんで売られていた(お値段7千円)けど、これだって、ほかに材料がない、食べることに困っていたときにニシキヘビの皮なんか探していられない、だけど唄を歌いたい、三線を弾きたいって思ったから、身の回りにある手近なものを、「ありあわせ」のものを「代用」して、作ったんだろう。(こうゆうのを確かレヴィ・ストロースっていう文化人類学者は「ブリコラージュ」って呼んだんだよ。ごめんね、中途半端なインテリ風吹かせて・・・)こうして、「伝統」の中に新しい要素が取り入れられ、やがてそれが「伝統」の不可分の一要素となり、「伝統」そのものがが変容する。肝心なことはその変容が、決して任意の、自発的なものではなくて、やむを得ないもの、そうする以外には仕方のないような事情に迫られて起こったこと。
 「山の形が変形してしまうほど」砲弾を受けたこの島は、50年前になんにもないところから出発した。50年後の「なんでもありそな国」からやってきた旅行者は、おぉ、これぞ「沖縄チャンプルー文化」ってもてはやすけど、思えば私たちと「沖縄」の「行き違い」はここから始まっていた。沖縄は、それがいいと思って、選んで、チャンプルーをしたんじゃない。ほかに方法がなかったから、それしかなかったから、そうしたんだ。そして、沖縄だけじゃない、およそ「文化」って言うものはそうゆうもの、与えられた条件のもとで、それしかない答として生まれてくるものなのではないかしら。
 さまざまな人たちがこの島に「わたしたちが忘れてしまっていたもの」だとか、「ありえたかもしれないもう一つの生き方」とかを求めてやってくる。ダイビングやマリンスポーツを愛する人たちは「沖縄には、まだ美しい海が残っている」という。都会の生活や仕事のストレスにうんざりしているサラリーマンやOLは「沖縄には、ゆっくりとした時間が流れている」という。民俗学の学究たちは「沖縄の生活には、まだ神話のリズムが残っている」という。「平和運動」や「反基地闘争」にやってくる左翼の人たちは「沖縄には、まだ革新統一戦線が残っている」という。
 どれもうそじゃないし、誰かをこきおろそうと思っているわけでもないよ。宮古島のとある民宿に、毎年夏になると年次有給休暇を全部使い尽くしてやってくるOLがいるんだって。やってきたといっても、別に泳ぐわけでもない、潜るわけでもない、ただ、えんえんとゴロゴロしているらしい。本当に、いい話だなぁっと思った。
 私たちは、みんなどっかこっか「病んで」るわけよ。自分にはない「何か」、こちらにはない「何か」を求めてはるばるやってくるけれど、見つけたと思っているのは実は自分自身の「鏡像」だったりする。「鏡」の役割をあてがわれた沖縄の人たちは、「そんな事言われても・・・」と少し当惑しながらも、ダイバーもOLも民俗学者も左翼も、わけへだてなく寛大にもてなしてくれている、ということではないかしら。
 「鏡」に像がが思い通りに映らないとなると、今度は一転してこきおろしはじめる。ずっと後になるけれども、名護の民宿でいあわせた一人の「ないちゃー(内地人)」は、同じく一日中ごろごろしているだけなんだけど、新しい若い宿泊客が来る度に、オリオンビールの缶をぷしゅっと開けながら、いかにオリオンビールがまずいか、いかに沖縄人が怠惰か、いかに沖縄の土木工事が手抜きか等々をえんえんと説教しているの。「こんなことは、むこうでは通用しやせんよ」が彼の口癖だったね。うちなんちゅー(沖縄人)のビジネスパートナーの手ひどい詐欺にあって逃げられたみたいな話をするんだけど、よくよく聞いてみると、どうも単に彼の思い通りにいかなかったというだけのことで、「詐欺」とか「横領」とかの毒々しい話ではなさそうなんだけど、「とっ捕まえて殴ってやらないと気が済まない」と彼は言うわけで、あちこちの民宿を泊まり歩いてはこんな話をし続けているだろう彼の情熱の源がどこにあるのかはわからないけれど、彼もまた明らかに「病んで」いるわけで、その「病み」方は、「沖縄には、まだ・・・がある」風の根拠のない賞賛と実は同根なのだ。
 たとえば日常生活は「大量消費社会」の「低俗」文化に毒されてはいるが、それとは全然別の「毒されていない」場所に「脈々と伝統文化が息づいていた」みたいな社会があっても別に構わないし、それだけ余裕があったわけだからそれは結構なことなんだろうけれど、たとえば沖縄は「大量消費文化」も「低俗」も「伝統」も、とりあえずごちゃ混ぜにするしかしょうがなかったわけだし、それ以外に方法がない状態で「ちゃんぷるー」文化を生み出したのに、あとになって出来上がりを見て、「あら、これもいいじゃない」なんて、ほかの生き方もできた、それだけ余裕があった人たちが羨ましがったり、嫉妬してみたりしているわけ。

 「A&W」にちょっとよっただけで、こんなに話がそれてしまった。ともかくその日はコザはそれだけで、胡屋からまたバスに乗ってかえってきた。
 宿の部屋の壁には「毎晩7時から、コンパやります。泡盛飲み放題。気軽に参加してください。」なんて書いてある。こうゆうのに参加した方がいいんだろうか、参加しないと「いやなやつ」と思われやしないかとか、考えさせてしまうところが「素泊まり2000円」に含まれた潜在的なリスクなのだといえよう。「出会いとフレアイ」がいやなら、ビジネスホテルにでも泊まればいいのだ。
 でも、この宿には一週間近くお世話になることになったんだが、結局なじめなかったね。

6月5日(土)晴れ
 沖縄に来たら、ともかく泳がねば、とごく常識的なことを考えて、地図を眺めて一番近そうなビーチというわけで、北谷のサンセットビーチにむかう。
 牧志の市場から開南にかけての商店街は迷路のよう。「サンライズなは」と書かれたアーケードなんだが、これは最終的には平和通りにつながっている。そこの「JEF」で朝食。ヌーヤルバーガー、別に悪くはないけどね、なんでもゴーヤをいれれば沖縄ってもんでもなかろう、っていう味だったかな。
 パレット久茂地の一階の「沖縄観光コンベンションビューロー」っていう立派な名前の観光案内所でバスの路線図をもらう。何かのガイドブックのカラーページをモノクロコピーして、しかも少しゆがんでたりして、それをホッチキスで綴じたものを気の毒そうに渡してくれた。今後一ヶ月間、これが、すりきれるまで活躍するわけだけれども。

≪沖縄のバス事情≫
 那覇交通、沖縄バス、琉球バス、東陽バスの4社共同運行。系統ごとに運行会社が違うのだと思う、多分。
 系統番号20未満は那覇市内線で、那覇交通のみ。「銀バス」と呼ばれているようだが、どこが銀なのか。青とグレー(これが銀なのか?)のツートンカラーのものと、白地に赤や緑の斜めのストライプの新型車両がある。前乗り中降り、料金前払い、均一200円。
 系統番号が20から120番台までが「市外線」つまり長距離で、すべて整理券車、乗車時に整理券を受け取って降車時に払う。入口も出口も前一個所。両替機付きの料金箱がほとんどだが、東陽バスには運転手さんがお釣を出すものもあった。「市外線」に使われているバスの車両が、「ちゃんぷるー」の面目躍如。どこからかき集めてきたのか、ほとんどは観光バスのお下がりで、フロントグラスに行き先表示盤を無理矢理埋め込んだりした改造車もあった。なかには「市内線」からコンバートしてきたものもあって、これは車両中央のドアを塞いでシートを増設しているのだ。
 那覇バスターミナルから出るバスは、北部は名護、南部は糸満まで。その先はそれぞれ名護バスターミナル、糸満バスターミナルからの乗り継ぎになる。58号線経由の中部・北部行きのバスは同じ系統番号でも県庁前から直接58号線に入る「久茂地経由」と、国際通りを安里まで行って崇元寺通りを通って泊高橋から58号線に入る「牧志経由」がある。
 国際通りは片側一車線しかなくて、交通量も多いから、かなり渋滞する。そのため、牧志や松尾のバス停は「市内線」と「市外線」で別の場所に設置してある。 
 糸満方面に行く南部線は、那覇バスターミナルから那覇市内を軽く一周して再び那覇バスターミナルに戻ってきて、それから南部方面に出発するものが多いようだ。だから那覇バスターミナルから南部に行くときは、道路の反対側、確か税務署や職安の分室があったりするところ、から乗らねばならない。

≪北谷ミハマ・ハンビーエリア≫
 北谷町の地図を広げてみよう。おそらく航空写真からトレースしたものだろう道路と建物の影以外、町名も何も書いていない「米軍施設」の部分が、およそ6割ぐらいを占めている。(嘉手納町だとこれが8割を超えているそうだ。)
 国道58号が南北を貫き、そこから県道が3本、北から順に23号、24号、130号だけが東に抜ける経路となっている。23号が嘉手納飛行場とキャンプ桑江(Lester)、24号がキャンプ桑江とキャンプ瑞慶覧(Foster)の境界をなす。基地以外の市街地は、23号と24号に挟まれた内陸部と、国道58号の浜側に限られている。
 58号の浜側のエリアのうち、一番南側のキャンプ瑞慶覧の向かい側に「ハンビー・タウン」、その北のキャンプ桑江、米軍病院の向かい側あたりに「ミハマ」(美浜)が広がっている。58号線を走っていると、片側は延々と基地のフェンス、もう片側はファーストフードレストランやマーケットの看板が林立しているから、ここでは目隠しをして連れてこられても方角を間違えることはない。
 ここは近年返還された軍用地だそうで、特に美浜の方ではまだまだ手付かずの空き地が目立つ。ミハマ・ハンビーエリアには「若者」系のお店がどんどんできていて、那覇の国際通りやコザの中央パークアベニューとともに、ガイドブックなどでも注目される新しい「おしゃれ」な街となっている。
 ハンビーの方は古着屋や雑貨の店、シーフードレストラン、フリーマーケットのスペースなどが林立している。日曜日だったけどフリーマーケットはそんなににぎわってなくて、京都の感覚で言うと若者のフリーマーケット・プラス・「弘法さん」や「天神さん」の市といった趣。シーフードレストランでは「ペスカディリア」、元空軍兵士のアメリカ人が経営者だそうで、ラテンな乗りの楽しいお店。千円程度でランチバイキングもあるみたい。
 ミハマの方には、ジャスコ北谷店とそれに隣接した多分7軒ぐらいの映画館からなるシネマコンプレックス、その北側には「アメリカンビレッジ」と呼ばれる言ってしまえばどこにでもある郊外型のショッピングモール。米軍放出品系の古着屋さん。ダイビングプールのあるスポーツクラブ、日曜大工(DIY)の店、カラオケ、ゲーセン、などなど。2階の「南国食堂」って言うチープなシーフードレストランは、オープンテラスから見る夕日の眺めがすばらしい。
 「波布蛇箱(HABU BOX)」という創作Tシャツの店については触れないわけには行かない。「琉球民族」のロゴとか「島ぞうり」と呼ばれるビーチサンダルをモチーフにしたものなどとてもおしゃれで普通の土産物にも最適だけど、興味深いのは一連の「平和」モチーフの作品。「Piece of a Peace」ってのいうのは、全面にヘルメットに迷彩服で匍匐前進する米軍兵士が描かれていて、兵士と兵士の隙間がちょうど沖縄本島の形になっている。その他、手作りアクセサリーや絵葉書など、狭い店だが十分楽しめます。
 ジャスコ北谷店の浜側には「カーラハーイ」、コザから本拠地を移してきた「りんけんバンド」のスタジオに隣接するライブハウスで、月に一二度「りんけんバンド」のライブがあるほか、連日「りんけんバンドJr.」改め「ティンク・ティンク」(老人が子供をあやすときに使う三線の音の擬音語、照屋林賢の同名の映画がある)という十代の女の子のバンドのライブが3ステージある。チャージは500円で、料理もメキシカンジャンクフード、「ビーフエンチラーダス」などリーズナブルな値段で、とてもよろしい。
 ここにしても、喜納昌吉の牧志の「チャクラ」、ディアマンテスのコザ・パークアベニューの「Pati」、ちょっと趣は違うけどネーネーズの宜野湾真志喜の「島唄」にしても、オキナワン・ポップのミュージシャンはそれぞれ「本拠地」たるライブハウスを持っていて、メジャーになる前はそれこそそこで毎日3ステージこなしていたりしたんだろう。舞台度胸が付くのも、唄や演奏がうまくなるのもけだし当然だと思った。

 ハンビーからミハマにかけての海岸沿いは「北谷公園」で、19世紀頃に難破したたしかイギリス船をこの町の住民が救援した歴史があるらしく、おそらくそれをイメージしたものなのだろう、船の形のオブジェが飾られたりしている。公園の北端が「サンセットビーチ」という人造ビーチで、わたしはここではじめて沖縄の海を経験することになる。数えるほどの客の大半は米軍人とその家族。泳いでいる間中、間欠的に58号のむこうの基地から砲弾を発射するような鋭い爆音が聞こえてきた。気に留めるものは誰もいなさそう。
 この後も何度も経験したが、戦闘機の轟音が聞こえて慌てて空を見上げると、すでにかげも形もない。音速で飛んでいるのだからしょうがないだろう。逆にたまたま空を見ていて音もなく戦闘機が横切ることがある。だいぶ後になって音が聞こえ始める。

≪アイスクリーム談義≫
 北谷ミハマ・ハンビーエリアで忘れてはならないのが「ブルーシールアイスクリーム」。これも米軍占領時代の遺産の一つ、「アメリカ生まれの沖縄育ち」がキャッチフレーズ。「The Big Dip」という名前のカフェが牧港本店とここ北谷ミハマにある。本店よりもミハマの方が店が広々としていて落ち着ける。紅芋、ウベ(紅山芋)、サトウキビ、マンゴタンゴ、パイナップルなど、沖縄ならではのものがおすすめ。シングルコーン200円、ダブル350円、シングルも「内地」のハーゲンダッツなどよりはずいぶん大きい気がするのはアメリカンな錯覚だろうか。
 ついでにアイスクリーム談義、ブルーシールの「ぱちもん」としては、「スターシール」、名前からして台湾資本なのだろう「Formosa」ブランドなど。あと、週末や祝日となると、国道58号や330号の沿道にはすう百メートルごとの等間隔にアイスクリーム屋のパラソルが並ぶ。店番をしているのはどう見ても高校生ぐらいの女の子達だ。排気ガスもひどいしかなりきつい仕事だと思うけど、いくらぐらいもらってるのかしら。

 国際通りの「比屋定(ひやじょう)」っていう店で、「琉球御膳」だかなんだかそんな感じの名前の定食を食べた。1500円という沖縄の水準からすると結構高い値段だったが、昨日からジャンクフードばかりだから、そろそろちゃんとした(?)沖縄料理が食べたかった。
 「じゅーしー」、最初は「ジューシー」な御飯(?)などと、冗談かと思った。沖縄風炊き込み御飯のことで、スーパーのお弁当などでもよく見かける。お米の状態から具を入れてだしで炊く文字どおりの炊き込み御飯のこともあれば、例えば味噌汁のようなものを白い御飯のうえにぶっ掛けたものをも含めて呼ぶようだ。ここで食べたのは、にんじんと干し椎茸、豚肉の炊き込み御飯で、だしは多分豚骨スープにかつをだしと醤油味を加えた、沖縄そばに使われるものと同じ。
 「中味汁」、中味(なかみ)とはなるほど読んで字のごとくだけれども、豚の腸のことで、こんにゃく、椎茸、豚肉などとともにこれまた豚骨スープで煮込んだもの。
 「耳小(みみぐぁー・みみがー)のピーナツバターあえ」、みみがーは豚の耳。さっと茹でたものを細ぎりにしたものだろう。
 「じーまみ豆腐」、じーまみはピーナツ、沖縄の特産品の一つ。食感はごま豆腐のようだけれど、もっと粘りがあって、そして甘みがある。

6月6日(日)曇
 今月の初めから本部(もとぶ)の方で、夏だけのアルバイトをしている知り合いがいて、彼女もはじめての休みだし、いっしょに遊ぶことにした。「民宿S」での「ゆんたく」にはいまいちのれなかったし、ほとんど人間としゃべるのは久しぶりという感じだったね。
 那覇でレンタカーを借りて国道58号をひたすら北上。沖縄の道路を初めて運転するわけで、感慨もひとしお。不思議な気がするのは、まわりの車がみんな「沖縄ナンバー」なこと。ふだん京都とかでは、「前の車、滋賀ナンやで、いなかもんちゃうん」とか「後ろのやつ、なにわやん、やばいんちゃうん」などとひどいことをいいながら運転しているものだから。
 沖縄らしさといえば「Yナンバー」、米国軍人軍属の車両をあらわす。海兵隊の普天間飛行場のある宜野湾(ぎのわん)市や、58号線の山側がほとんど全部基地、南から順に海兵隊キャンプ瑞慶覧(ずけらん)(Camp Foster)、海兵隊キャンプ桑江(Camp Lester)、空軍嘉手納飛行場(Kadena Air Base)がひしめき合っている北谷町に入るととたんに増えてくる。無保険車によるひき逃げ事故とか、悪いうわさは絶えないから、ルームミラーから「Yナン」が見えるとさすがに最初はちょっと緊張したね。それに、いわゆる国民性の違いでもあって、日本人みたいに車をそんなに丁寧に扱わないから、べこべこにへこんだ車も結構あって、その国民性は悪いこととは思わないけど、こちらはレンタカーなんだから当てられてはかなわない。

 あまりにも有名な「万座ビーチ」散歩してみたり、北谷では昨日「予習」しておいたミハマ・ハンビーを偉そうに案内したり、国際通りの土産物屋や雑貨屋をかたっぱしからシバイたり、なんとも絵に描いた観光客みたいな楽しい一日であった。

≪海人(Umin-Chu)≫
 「沖映通り」っていうのかな、あのダイエーのある通り、それが国際通りに突き当たる角、「むつみ橋」交差点の北東数軒目に、「海人(うみんちゅ)」という店があって石垣出身の有名な書家がデザインしたTシャツがえらい人気のようだ。確かに「海人(Umin-Chu)」っていうシャツを着ている人は山のようにいて、国際通りにも売ってる店がたくさんあるが大半はパチモンで、この店のものだけが「本物」だというわけだ。

6月7日(月)晴れ
≪首里城≫

 首里城。琉球石灰岩の石組みで作られた城壁、相変わらず天気がいいので、ここからの眺めはすばらしい。およそ西北西ぐらいの方向に向かって海が見える。西海岸でいつも目印になるのは牧港の沖縄電力火力発電所の煙突2本。
 朱塗りの色も真新しいこの首里城を「作り物みたいだ」って毛嫌いする人もいるけど、平安時代あたりの建造物がまだまだぼこぼこ残っていて風雪に耐えてきた趣ある色合いをめでてきた京都人などには想像しにくいことだが、ここは100パーセント「作り物」として出発するしかなかったんだ。かつての首里城の地下には日本軍の司令部があって、米軍の攻撃で完全に破壊された。戦後米軍はここに琉球大学を作り、琉球大学が郊外の西原町に移転して以降はじめて首里城再建のプロジェクトが実を結んだ。
 そう、ここは、臆面もなく、胸を張って、「作り物」なのだ。

6月8日(火)晴れ
 レンタカーを返すまでに少し時間が余ったから、豊見城町のJEFで朝食、クロワッサンサンド。あんまり「内地」ではないことのように思うが、沖縄ではファーストフードの店に新聞が置いてある。もちろん「沖縄タイムス」と「琉球新報」だが。ここ数日両紙の一面トップは、去る6月4日の嘉手納基地でのハリアーの事故について報じている。ハリアーっていうのは後に嘉手納のカーニバルで「見学」させてもらったけれど、ジェットエンジンの噴射口が下向きにかえられるようになっていて、垂直に上昇・下降ができる仕掛けになった小型の航空機。長い滑走路を必要とせず、空母に積載可能、海兵隊が上陸支援に使用、とのことだ。事故を起こした部隊は岩国を本拠地とする海兵隊だが、嘉手納空軍基地に常駐しているのではないかという問題が焦点化しているようだ。
 沖縄のレンタカーは、ほとんどが空港近くに営業所を構えている。「ニッポンレンタ」やトヨタ、日産などの全国ブランド以外に中小の「沖縄ブランド」の会社があって、かなり破格に安い値段で利用できる。これはどこの会社でもそのようだが、空港や市内のホテルや民宿など指定したところまで送迎してくれるというのが、観光立国沖縄ならではの特徴。
 今回も送ってもらえばよかったのだけれど、特に急ぐ用事はないし、この近くを歩いてみることにした。
 このあたり、小録(おろく)・金城(かなぐすく)もやはり近年返還された軍用地なのだろうか、再開発の槌音かまびすしいという印象。空港から牧志、さらに首里の方までを結ぶと言われているモノレールの建設工事が行われている県道221号線ぞいは、ジャスコ那覇店をはじめ郊外型巨大店舗が軒をならべている。
 奥武山(おうのやま)公園。那覇市外中心部と国場川をはさんだ対岸にあるこの巨大な公園は、もと国体会場だったらしい。沖縄は国体を二度開催している。戦後50年以上を経た今となっては、2順目にさしかかっているから珍しくもないけど、復帰直後に「特別国体」として一度、そして1987年の「海邦(かいほう)国体」。この公園はおそらくその古い方のものだと思う。
 「国体」の名前が付いたものとしては、北谷からコザを結ぶ県道23号、85号は「国体道路」と呼ばれている。沿線の沖縄市コザ運動公園もまた国体を機に建設されたものなのだろうが、どちらの国体のものなのか調査未了。
 奥武山公園の日陰のベンチなどで、少し眠りたいと思ったんだけど、ここぞという場所にはすべて「先客」がいた。この御時勢、しかも「内地」の2倍の失業率の沖縄、公園で野宿する人がいないわけがない。
 奥武山公園の南側、県道221号線ぞいの「ブルーシールカフェ・ハーモニー」でタコライスと石垣島の地ビール「ダックスブロイ」のヴァイツェン(近年はやりの小麦のフルーティ系ビール)で朝食。開店したばかりなのだろうか、従業員が右往左往しているように見受けられる。もっとも、これは端的に偏見なのだが、沖縄のファーストフードやコンビニの接客業務は確かに「内地」に比べてのんびりしているかもしれない。「こんなことは、むこうでは通用しやせんよ」と私もまたつぶやいてみてもいいのかもしれないけれど、先を急がない旅行者にとってはそれもまた「南国情緒」であって、それがまた「偏見」ではあるのだが、むしろ好ましく思われもした。

 国場川にかかる「那覇大橋」、この橋のたもとには「竣工1970年」との記述があった。元号でなく西暦の表記、当たり前なのだが、1972年までここは「アメリカ」だったのだ。
 国場川の右岸沿いに港の方まで歩く。辻というあたりは昔の遊郭だったところだそうで、今でもソープランドなどが軒を連ねている。「波の上」の一帯、今はビーチや、自動車教習所があるところだが、米軍占領下の「Aサイン」(米軍が発行する営業許可証)の時代には歓楽街だったと言われる。崔洋一監督の「豚の報い」が、まもなく公開されるというのを新聞で見て、又吉栄喜の同名の小説(文春文庫)を沖縄に来てから読んだのだが、同じ作家の「波の上のマリア」(角川書店)という作品はAサイン時代のこのあたりを舞台としている。
 波の上ビーチでひと泳ぎ、ここは那覇港の防波堤の内側なのだが、それでも「内地」の水準から言うとかなり水は透明で、波打ち際にもたくさんの小魚が泳いでいたのが驚きだった。
 松山公園、福州園などをまわって国際通りまで戻ってきたらもう夕方だ。
 福州園というのは、明の朝貢国だった琉球王朝時代、交易船の停泊地だった福建省の州都福州と沖縄のの友好を記念して作られた中国風の回遊式庭園。この公園の位置する久米の一帯は、その時代「久米三十六姓」と呼ばれた中国からの渡来人が住みついた地域で、孔子廟があったり、また今でも中華料理店などが多い小規模ではあるが「チャイナ・タウン」の様相を呈している。
 なんとなく民宿に帰りたくない気分だったので、国際通りの球陽堂書房で立ち読み。照屋林賢の「なんくるぐらし」(築摩書房)、閉店まで粘って一気に読んでしまったら冷房がききすぎていたのですこしかぜ気味。「なんくるないさ」というのは、沖縄方言で「なんとかなるさ」の意。

6月9日(水)晴れ一時雨
 朝食は牧志の市場の南入り口にあたる開南のさらにすこし南、「農連市場」のあたりの食堂で沖縄そば。道路に面したカウンターに椅子がしつらえてあって、食券を買って注文する形式。沖縄の大衆食堂にはどこでも「味噌汁」というメニューがあって、例えばここでもそれが500円位するのでびっくりするのだけれど、これは「内地」で言うそれとは違って、立派なメインディッシュなのだ。その作り方をゆっくり見学することができた。だし、おそらくかつおプラス豚骨、を煮立ててにんじん、もやし、豆腐を加える。沖縄の豆腐(島豆腐と呼ばれる)のおいしさについてはまた述べる機会があろう。そのかなりこしのある豆腐を手でちぎるようにして、なべに入れるのが面白かった。さらに豚肉、おそらく煮込んだ「三枚肉」をきざんだもの、かまぼこなどを加え味噌を溶かしいれる。煮立ったところで青菜、「にが菜」と呼ばれるものだろうか、を加え火を止める。そばを入れるような大きな丼に卵を割り込んでおいて、ここに注いで出来上がり。
 民宿の近くの与儀公園には市民会館や県立・市立図書館がある。特に予定もないし、何より冷房がガンガン効いているのにひかれて、午前中はここで過ごす。高嶺剛監督の「夢幻琉球つるヘンリー」という映画が5月の末に沖縄で公開されたという話を聞いていたので、沖縄タイムスの記事を探す。同じ監督の「ウンタマギルー」はもう7、8年前になるだろうか、そのパンフレットがちゃんとこの図書館の「沖縄関連コーナー」においてあった。ジョン・セイルズ(「セコーカス・セブン」、「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」、「リアンナ」などの作品でマイノリティーやいわゆる「異議申立て」の運動とかに対して、ちょっと切なくもやさしい視線を送り続けている(!)アメリカの映画監督、「ウンタマギルー」には米軍施政長官役で出演)がそこに一文を寄せているのだが、「日本では沖縄という言葉は『シンボル』としてしか用いられないのだということがわかった」みたいなことが書いてあって、この文章の冒頭で述べた沖縄に冠せられる正と負の修飾語云々というのは、実はこの文章にインスパイアされたものだ。
 昨日の「なんくるぐらし」に触発されて、三線の楽譜なども眺めてみたが「工工四(くんくんしー)」というその表記法が何のことかわからず、ため息を吐いて閉じてしまった。

≪ビール談義≫
 国際通りに出て「ヘリオス・ビアパブ」にて、昼間からヴァイツェンとラガーを一杯ずつ。ヘリオス酒造というのは名護にある泡盛の酒蔵なのだけれども最近玉城(たまぐすく)村のあたりだったかにビール工場を作って、沖縄県におけるビール市場のオリオンビールによる独占に挑戦しようとしているようだ。
 那覇市内にはこことあと波の上に「バッカスの胃袋」なるシーフード系レストランがあって、那覇港の防波堤の向こうに沈む夕日を眺めることのできるオープンテラスがあったりするのだが、値段は少し高いかも。
 何といっても沖縄のビールといえばオリオンだろう。350ミリリットルの缶が200円で、キリンその他の「内地」産のビールの230円に対して価格的にも優遇されている。食堂などでもオリオンビールを採用している店がおそらく8割ぐらいだろう。他のブランドをおいている場合でも、生中一杯オリオンなら500円、キリンなら600円とか値段に差がつけてある店が多い。それでもなおキリンにこだわったりする「内地人(ないちゃー)」はいるわけだけど、単に「郷にいっては郷に従え」というばかりだけでなく、やはり沖縄で飲むオリオンは抜群においしいと思う。
 ちなみに、缶コーヒーなどの清涼飲料水は、「内地」では120円になってから久しいのに、まだ110円だ。

 パレット久茂地の最上階に「パレット市民劇場」があり、小規模な映画上映会などに利用されているようだ。沖縄には、普通の地方都市としてはもちろんやむを得ないのだが、いわゆる「名画座」系の映画館はない。こことかコザの「コリンザ」の最上階にある同じような劇場とかがその役割を果たしているのだろう。
 今日の番組は「カメジロー・沖縄の青春」。50年代の占領時代に人民党総裁の瀬長亀次郎という伝説的な那覇市長がいて、米軍政府からは「赤い市長」として忌み嫌われ予算を凍結されるなどの嫌がらせを受け追放されてしまうのだが、基地による土地取り上げに反対する運動の先頭に立った市長としての11ヶ月間を描いたものだ。4月頃に一度目の上映があって、今回は「アンコール上映」ということらしいが、広い会場に観客は数人。こんな言い方で申し訳ないが、悪い映画ではないと思うよ。

 いったん民宿に帰って、近くのコインランドリーで洗濯。突然のにわか雨。いかにも南国の「スコール」みたいな激しい降りだ。コインランドリーにしばし閉じ込められてしまった。
 気候のせいなのか、あるいはアメリカナイズされているからなのか、沖縄には、少なくとも那覇には(コザでは結構探すのに苦労した)コインランドリー、しかも24時間営業のものがかなり多い。

 夕方からバスに乗って北谷ミハマの「カーラハーイ」にライブを聞きに行った。前にも述べた「りんけんバンドJr.」改め「ティンク・ティンク」という女の子の三人組みのボーカルバンド。レパートリーは、りんけんバンドの曲と、伝統的な島唄が半々ずつくらい。
 こんな若い人たちが、島唄という民謡のレパートリーをたくさん持っていて、しかもそれを琉球の民族衣装なんかきちゃって楽しそうに歌っているのを見ると、ちょっと「伝統」って言うものに対してコンプレックスを感じてしまう。
 例えば私の「音楽経験」のコアを作っているのは、ブリティッシュ・ハードロックであるとか、アメリカン・ヒッピーカルチャーであるとか、パンク・ニューウェーブとかであって、今でも自然にからだがついていきそうなのはそういうリズムなのだ。それは他人の「文化」なのであって、他人のものを流用することが一般に悪いのではなく、問題はそれが「母国語」で書かれていないことなのだ。今でもアメリカ人のラップはかっこよく聞こえても、日本語のラップを聴くと歌詞の貧しさにちょっと寒々としてしまうことが多いけど、「本場」のラップだって、たいしたことを歌っていないことの方が多いわけで、結局、言葉として了解できないことが「好み」の前提となっていることに少し恥ずかしさを感じてしまうのだろう。
 「うちなーぐち」で書かれた島唄を、沖縄の若い人たちが楽しそうに歌っていると、「あぁ、伝統が息づいているな、われわれの文化もかくあるべし」と思ってしまいがちだけど、やはり、いまさらヤマトの民謡を「発掘」してみたり、「やっぱり、日本人は演歌だね」などとうそぶいてみたり、それが自然にできるなら別に問題はないけども、無理なものは無理なのだろう。
 前にも同じ事を述べたけれど、沖縄が伝統文化と共存して、それを「チャンプルー」化してきたのは、そうせざるをえないやむを得ない事情に迫られてそうしてきたからなのであって、同様に、「内地」の日本文化が「西洋」を手本として、「伝統文化」をむしろ否定的なものとして隅に追いやり、がむしゃらに近代化をしてきたのもそれはそれでやむを得ない事情に迫られてきたことなんだ。「ほかの方法がありえたかもしれない」と反省してみることは大事なことだけれど、単純に後戻りができると錯覚してしまうのは、きっと贅沢な錯覚にすぎないのだ。

6月10日(木)曇(?)
 元祖沖縄風コンビニとでもいうのか、ポテトチップスからトイレットペーパーまでおよそなんでも売っていそうな「よろずや」の店先に毎朝ならべられるお弁当がたいそうおいしそうという話は前にもしたな。
 昨日、コインランドリーの近所にそのような店を見つけたので、今日の朝食はそれを試してみることにした。残念ながらゴーヤと卵の炒めものみたいなオキナワン・メニューはなくて、白身魚のフライ、ひじき、漬物、付け合わせに「やきそば」等々の普通の弁当であったが、前にも述べたが、おかずが御飯のほとんど「上」にのっかっているのが沖縄風!多分300円未満だったと思う。
 与儀公園のベンチで、捨て犬なのだろう、元は由緒正しそうな野犬たちに囲まれながら、落着かない朝食を摂った。
 今日も引き続き那覇市立図書館で、読書。照屋林助(照屋林賢の父)の「てるりん自伝」(みすず書房)を読む。後にコザの「てるりん・はうす」で彼の「ライブ」、手製のエレクトリック「四線」(四弦の「三線」)を、チープなリズムボックスのサウンドにあわせて弾きながら唄い、語る、そんな貴重な2時間を過ごすことになるのだが、このときは照屋林助の名前すらほとんど知らなかった。
 1945年の4月1日に、米軍の沖縄本島上陸が始まって、3月末ケラマ諸島の奇襲上陸になすすべもなく撤退していた日本軍を尻目に、米軍は4月3日までに北谷読谷から勝連にいたる本島中央部を横断するエリアをほとんど無抵抗で占領する。これによって本島は南北に分断され、南部では日本軍が司令部を首里から南部に移しながら抵抗を続けたため、住民を巻き込んだ悲惨な事態がたくさん生じた。これに対して北部は、山間部に逃げていた人たちがマラリアのためにたくさん絶命することもあったけれど、比較的早い段階で米軍の占領政策を受入れ収容所生活に移り、そうして生き延びることができた。てるりんの一家は、米軍上陸当時、確か読谷に住んでいて、北に逃げた。
 「もう、まいった。負けた。たすけてくれ。」そういう言葉をもっと簡単に口に出すことができていたなら、沖縄の人がこんなにもたくさん死ぬことはなかった、とてるりんは言う。

 牧志の市場でパイナップルを買い、近くの空き地に座り込んで食べる。外側もオレンジ色の「スナック・パイン」というやつで、「内地」で見られるフィリピン産のものよりやや甘い。前に北京で食べたのと同じ味わいだ。
 山形屋の西側の路地を入ったところに「ちんだみ工芸」という三線の店がある。入っていくとおばさんが親切に声をかけてくれて、三線の試奏をさせてくれた。この店オリジナルの三線入門のCDがあって、調弦のしかたから、「工工四(くんくんしー)」の読み方まで説明がしてある。「安里屋ゆんた」のイントロをひいてみて、結構いけるじゃない、すっかりその気になってしまった。
 国際通り松尾の北側あたりの、県教育会館だっけ、なんせ県教組のノボリが立っているような建物の一階の食堂が、なんとなくおいしそうな気がしたので入ってみた。刺し身定食と冷やっこ、オリオンビールと泡盛一合でさんざんねばった。

 これで那覇に約一週間、そろそろ潮時だろう、明日からは読谷に移る。そこからさまざまな「デアイトフレアイ」がある訳だが、それはさて置き、今回はこの辺まで。

6月11日(金)晴れ
 初めて市内線のバスに乗った。5系統で真和志小学校前から西町三丁目まで。波の上の近く、ピンク色の建物なので間違いようがない「パシフィックホテル」というホテルの一階に、コスモスネットという会社の事務所があって、インターネットも利用できるようになっている。沖縄に来る前からインターネットで調べておいたのだ。30分500円ということだが、今まで何度か利用したが、結局何時間使っても500円にしてくれるみたい。機械はマックとウインドウズが2台ずつくらいか。
 インターネット・カフェとしてはほかに、前にも述べた「とまりん」2階の「アトランタ・カフェ」の奥にはマックとウインドウズが一台ずつ置かれてある。あまり利用する人はいないみたいで、喫茶店のおそらくアルバイトのウェイトレスさんが、マニュアルを見ながら恐る恐るダイアルアップ接続してくれる。ここも30分500円。あと、国際通りの三越の西隣のビルの2階に、携帯電話屋みたいなのがやってるのが一つ、最近開業した。マシンの台数はここが一番多い。
 ここでみなさんにメールなどを書いて、いよいよ読谷に向かって出発することになる。
 那覇交通の三重城(みーぐすく)営業所のとなりには公安委員会の免許試験場があるのだが、そこの食堂で、前にも述べた「味噌汁」をはじめて試してみた。
 再び市内線5番でパレット久茂地まで、28番に乗り換えて読谷に向かう。