お葬式


・・・でも、今日は引き続き「葬式」の話をしましょう。 台風18号のあと、うちの家の前の路地で子猫が車にひかれて死んだ。見たことのない猫だったが、雨風が続いて餌にありつけないから迷い込んで来たのだろう。
雨風かやんだら川沿いの窪地に、もちろん他人様の土地だからこっそりと、埋めてあげようと引き取ったが、なかなか雨が止まない。
うちでは猫が主人公、人間は従たる役割しか果たしていないので、猫に噛られたりおしっこかけられたりして困る本や衣類は押し入れに隠してある。押し入れに入れとくわけにもいきにくいもの、例えば携帯電話の充電器とかは、バスルームに置いてある。ここだけが猫の来ないサンクチュアリ、「うつ」がひどくて猫の相手するのさえ辛いとき、私はトイレに「引きこも」る。風呂場にはカメが住んでんだけどね。
ついさっきまで息があったんだろう、まだ温かい体を新聞紙にくるんでバスルームに「安置」した。雨が上がったら、近所の家からハイビスカスの花を失敬してきて、キャットフードをひとつつみお土産に持たせて埋めようと思ってたが、なかなか雨が上がらない。


田口ランディーの小説「コンセント」は、「ひきこもり」だった彼女の兄が、ほぼ餓死に近い形で自死した実話に基づいている。発見までに時間がかかったので遺体の腐敗が激しく、近親者は見ない方がいいと主張する葬儀社の従業員と主人公との会話は、この作品の最も美しいパッセージの一つだ。
日本の古い言葉に「もがり」というのがある。本葬の前に仮に葬ること、と広辞苑にはあるが、室内で遺体と共に暫くの間過ごすことなんだろうと思う。防腐技術のない時代、その臭気は強烈だったに違いない。線香というのは本来死臭を紛らわすものだったのだろう。
ほぼ丸二日間ほど、私は、生前は会うことのなかったこの子猫の死体と暮らした。トイレに行く度に、見る度に表情が変わっていく顔を覗き込み、次第に強くなる臭いが、壁にも、置いてある洗濯物にも、そして私自身にも染み込んでいくのが感じられた。カメの「かめお」には申し訳なかったが、蚊取線香を焚きしめた。


死そのものであるような臭い、昔の人はそれともっと身近に暮らしていたに違いない。「近代化」は、お、また大きく出たね、日常から死臭を追放するプロセスだったかも知れない。 「死への嫌悪が人を更なる殺害へと駆り立てる」、この言葉、どこで聞いたか覚えていない。セルビアの映画作家、ドゥーシャン・マガベイエフの言葉だったろうか?クロアチアやボスニアの戦争が始まるよりもはるか前に撮られたこの人の映画が、私は好きだった。もちろん私たちはその戦争のさなかに、これらの映画を観ることになるのだが。


私が生まれて、18歳になるまで過ごしたのは、兵庫県の西宮市って町でね、さきの震災では大きな被害を受けたところなの。もうすぐ10年になる。
その頃私は京都に住んでいてね、今でもはっきり覚えてるよ。大阪の高槻で塾の講師をしていた私は、仕事の帰りに同僚の若い男を無理矢理誘って、四条木屋町の焼肉屋でしこたまビールを飲んだ。だから明朝、震源から100キロほども離れているにも関わらず震度5、本棚から本が飛び出してくるほどの揺れにも二日酔いで起き出すことができず、直後にかかって来た母親からの電話、不思議といえば不思議、この時は通じたんだよ、このあと3日くらい不通だったのに、にも目が覚めてなかった。
ことね重大さに気付くのはその日の昼頃。テレビのどのチャンネルを回してみても、「現地」からの報告はひとつもない。「神戸」は地上から消えてしまったみたいだった。ヘリコプターからの映像が、阪神電車の石屋川車庫、全ての車両が横倒しになっている様を伝えていた。


両親は食器棚が倒れて破片で手を切った位の被害ですみ、神戸在住の何人かの友人も無事だったことがわかった数日後、もはや、かからない電話を待ち続け、繋がらない電話をかけつづけることはなくなったが、テレビのニュース画面の片隅に、まるでウェッブサイトのアクセスカウンターみたいに、着実に増え続ける死者の数が表示されるようになった頃、私はようやく、神戸に向かった。子供の頃、転んで肘を擦りむいたときなど、傷口を見るのは恐いけど、見つめ続けていないともっと不安、て経験ない?
仕事も何も集中できなかった。身体の一部が、どんな姿勢を取っても、そう、「神戸」に面した側が、ひりひり痛んだ。「うしろ髪」どころじゃない、身体の一部が「神戸」に「差し押さえ」られてるみたいだった。


霊感とか予知能力とか、私は皆目ないほうだと思う。毎年お正月の二日か三日、一年に一度しか会わない友人と神戸で会う習慣になっていた。彼は東京に住んでいるのだが、実家は神戸で、年に一度しか帰ってこないから、こんな風になった。ちょうどいい関係だった。しょっちゅう会っても話すことはそんなにないし・・・。
トア・ロードのこじゃれたカフェだったり、駅の近くの串かつ屋だったり、場所はいろいろだったけど、いつも阪急の終電まで粘り、彼は三ノ宮駅の西口まで見送ってくれて、私は泥酔して電車に乗る。


ものすごく寒い夜だった。あのとき、最終の各駅停車で、春日野道から王子公園、六甲、御影、それぞれの駅で降りていった人々の顔や服装を、今でも全部覚えている気がするの。西宮北口の駅前でタクシー待ちのベンチの隣に座っていた女の人、寒そうに手を擦り合せていたのも。
錯覚なんだとは思うよ。そのちょうど二週間後の出来事が、私の記憶に、遡及的に脚色を加え、固着させたんだとは思うよ。


でも、本当にはっきりと覚えている。私は京都に住んでんだから、二時間もあればいつでも神戸にこれる。でもあの年に限って、信号を渡って駅に行き、電車に乗ることが、何か取り返しのつかないことになってしまいそうな、文字通り「後ろ髪を惹かれる」思いにとらわれたことを。


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「ボランティア」なんてその時は思いもつかなかった。明け方のニュースを見るや、有り合わせの食糧や物資をリュックに詰めて自転車やミニバイクで神戸に向かった人達が少なからずいたことを、あとから知った。そんな風な身のこなしができないなんて、私、もう時代に「対応」してないんだな、その時は思ったものだ。


私が初めて「被災地」を見たのは、既に震災から一週間後、まだ左翼の言葉でものを考えるしか出来ない人間だったから、元べ平連系の大阪府議会議員が新聞の地方版で呼びかけた「一日ボランティア」に参加した。その頃には小学校などの各避難所には、それぞれ常駐のボランティアがいてね、また避難している被災者の中にも世話役みたいな自治組織みたいなが機能し始めてたから、そんな一日限りの「ぽっと出」のボランティアに仕事なんかなかった。「何か手伝わせてください!」、「そうね、じゃ、そこ掃除でもしてもらおうか」、「えっと、箒はどこでしょうか」、「あ、今持ってくるね」て、ほとんどじゃましてるようなものだった。三本の箒を五人の大の大人が奪いあっちゃったりしてあさましいちゃ浅ましかったけどね、あの頃は「他人の役に立たなきゃいけない」と焦り、「充分に役に立ってない」と落ち込む「ボランティア症候群」が蔓延していた。人の生き死にがかかっているときに、人が飢えたり凍えたりしているときに!、何の能力も技もない自分を呪ったものだ。


高架が落橋して寸断されていたから乗る人も少なくなった阪急電車のホームは、東京や名古屋から復旧工事にかけつけた電力会社やガス会社の技術者たちでごった返していたのを思い出す。彼等こそまさに被災者たちが待ち望む「役に立つ」仕事をしていた。会社のロゴマークの入ったヘルメットや作業服の、何と誇らしげに輝いて見えたことか!


そして、たくさんの大工さんたち。長田区御蔵通り、戦後の神戸の地場産業、靴関連の町工場が集中する長田は、古い木造住宅が多いのに加え道が狭くて消火活動に手間取ったからだろう、被害が甚大だった、そこにいち早くボランティア事務所を構えたのが、当時はかの辻元清美が代表やってたんじゃないかな、「ピースボート」で、私もそこに登録して三月中頃まで週に一二度出掛けては、「仕事」をもらっていた。
アーケードが全焼してたくさんの犠牲者が出た菅原市場、そのJR線に面する南入口で、ニュースにも取り上げられた仮店舗営業第一号となる酒屋さんの二階建てプレハブを作ったのは、「私たち」だ。「ピースボート」は、関東一円から集めたプレハブの廃材をチャーター船に満載して、バレンタインデーに避難所にチョコレートを配るみたいなスタンドプレーが報道されていたのを記憶するから、多分二月初旬に神戸港に接岸させていた。実際すごい機動力だったとは思うよ。
ワンボックスのライトバンにきっちり整理整頓された道具類を満載して、たくさんの大工さんたちが来ていた。菅原市場の現場を指揮した大工さんは絵に描いたような「べらんめい」口調の江戸っ子で、私はほとんど、怒鳴られながら、何本かの「すじかい」を締めた。プレハブってのは縦横の柱の間にパネルをはめ込んだだけみたいな構造だから、斜め方向の応力に対抗するために、対角線状に鋼材をかける。これを「すじかい」っていうんだって。私、「文弱」なインテリだけど、学生時代は「プロレタリア派」を名乗っていた手前、アルバイトって言えば建設現場の手伝いみたいなことばかりしてたから、「肉体労働」には結構自信あったんだけど、このときはからきしだめだったね。長年の不摂生がたたって、四十肩なのか、杭を打とうとしても木槌が持ち上がらない。役に立たないもんだから、一番楽そうな「すじかい」締めにまわされたんだが、これがまた結構むづかしいんだ。両端の金具をプレハブの柱の角に引っ掛け、まんなかの部材はそれぞれに逆ねじが切ってあって、同じ方向に回すと締まるようになってるんだ、わかるかな。力を均等にかけないとねじ山が引っかかって動かなくなってしまう。片方だけ緩めてはずしたりするとますますバランス悪くなって、収拾がつかなくなる。何でこんなことくらいできないんだろ?って、半泣きだった。四面全部締め終った時は、「できるじゃないか!」って江戸っ子の大工さんにほめられて、正直うれしかったよ。


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高槻の塾に戻ると、「現代国語」の入試問題が坂口安吾か梶井基二郎かの「桜の木の下には死体が埋まっている」を引用しつつ、ポストモダンの美麗な文体で「桜という木の、『悪魔的な』多花性」についてまくし立てていた。これらの饒舌は、本当に死体が埋まっているかも知れない場所では、いえ、専門が違いますから、と沈黙するのだろう。こんな文学はいらない、と思った。


本を読むことも、映画を見ることもやめた。何が書いてあるのか、どこの国の言葉で書かれているのかさえ、わからない気持ちだった。震災直後、現地入りしたレポーターたちは本当にうろたえていた。涙で言葉がつまり、カメラマンの手ブレで画像は歪んだ。未曾有の現実を前にして、自らの動揺そのものを通して対象を記述する、それはジャーナリズムとして有り得た唯一つの誠実な方法だったかも知れないのに、三月にはいって地下鉄サリン事件が起こり、そうではない行き方が有り得ただろうに、揺るぎない眼差しで対象を見世物にしてしまう旧来のやり方に、人々は自信を取り戻したみたいだった。



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「廃墟」とか「瓦礫の野」とか「焼け野原」といった言葉が多分あの頃の新聞やテレビには溢れていたはずだが、それらの凡庸で空疎で文切り型の言葉たちは、その想像力を遥かに越える「現実」を記述する能力を欠いていた、のではなくて、そもそも現実を記述する「つもり」がないように思われた。そこは私が生まれ育った、慣れ親しんだ特別な「場所」だったから、そういう言葉を使うことはできなかった。私は沈黙することにした。生まれて初めて「故郷」という言葉を意識した。


「世界は死体だらけだ!」、これは間違いなくドゥーシャン・マカベイエフの言葉だ。クロアチアの親ナチ派、ウスタシア治下のサグレブ、連合軍の爆撃後なのか、瓦礫から死体を掘り起こす人々を映し出す資料映像。あの時の神戸そのままだったんだろう。日頃力仕事なんかしたこともないド素人が倒壊家屋を掘り返し何人もの隣人を生還させた。そこに人が埋まっていることを知りながら、何もできずに過ごした何時間か、そして死臭の漂う空気と共に暮らしただろう数日間。


そこに立ち会うことができなかった私たちは、根拠のない罪悪感にさいなまれた。人は自分に何の責任のない事態に対しても、罪の意識を感じることができるのだ。その年の秋、沖縄では米軍兵士による小学生の強姦事件が起こった。


大阪でも抗議集会が開かれ、沖縄からの賓客を迎え、公称4000人が集まった。左翼の動員数なんて8割方が水増しだが、震災被害で改修中の扇町公園を埋め尽くしたその集会は、70年代以来未曾有のものだったことは確かだ。私もそこにいた。人々は、他人の不幸に感応する能力を取り戻していたのかもしれなかった。


神戸の兵庫や長田には、大阪の大正ほどではないけど、沖縄出身者がたくさん住んでいてね、被災地の夏祭りの出し物にもエイサーや三線はつきものだった。この集会にも関西在住の沖縄のミュージシャンがきていた。ポリティカルな「言葉」以前に、掛け値なしの「悲しみ」という単純な感情で、神戸と沖縄がつながっている、錯覚かもしれないけど、私はそう感じていたし、そう感じていた人はほかにもたくさんいたんだと思う。

その二年後、私はいわゆる「平和系」ツアーってやつで、生まれて初めて沖縄を訪れ、さらに二年後にはそこに住むことになるんだから、人生って不思議なもんだよ。


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世界は本当に死体だらけなんだよ。京都の繁華街、四条河原町は平安時代からの処刑場だった。私が奥武島に魚を見にもぐりに行くとき車で走るコースは南風原陸軍病院跡地から糸数壕、「ひめゆり部隊」のデス・ロードをなぞっている。人々は死体の上に文化を築いた。死体と共に生きる方法を学べば、私たちはもっと幸せになれるかも知れない。

沖縄に来てからすぐ、どのページを開いても気が滅入るようなひとりよがりな文体の地元左翼雑誌に、ある「平和ツアーガイド」の女の人のインタビュー記事を書かせてもらった。この人には何の恨みもないし、浦添のどこかの飲み屋でビールの杯を重ねつつ取材した晩のことは、珠玉のような記憶として残っている。後に私がウェッブサイトを作ったとき、とてもやさしいメールをもらったこともあるよ。
その人が言ってた。沖縄に「平和系」修学旅行で来て、「ひめゆり」資料館見て気持ち悪くなって、昼ご飯食べられなくって、こんないやなものばかり見せられて、沖縄になんか二度と来るもんか!って作文に書いて帰った高校生がいたって。

その高校生は、いまどうしてるのかな?二度と沖縄に来ることはないかもしれないけど、沖縄の「愛し方」を一番よく知ってるかもしれないよ。


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「戦争を語り継ぐ」必要なんてない。心配しなくても戦争はいつでも、そこにある。その愚かさを忘れてしまったから人々は戦争を繰り返すのだ、って誰が決めた?ちゃんと覚えているからこそ繰り返すんだ、って方がありそうな話だろ?

「悲しみを怒りに変え」たり、「怒りを力に変え」たりしてはいけない。悲しむべきことは、まずもって第一義的に、徹底的に、身も世もないほどに、実も蓋も無く、悲しまれなければならないの。
割れたちゃわんを繋ぎ合わせてみる、子猫の死骸を抱きしめる、そんな意味のない行為こそが「服喪」の身振りなのだ。沈黙に耐えられなくなった人々は、饒舌によって空白を埋め尽くし、「悲しみ」を雲散霧消させる。それは「死臭」が日常を侵食しようとすることに対する正当な防衛行為なのだから、大目に見てあげればよいのかも知れないけどね。
「貿易センタービルはファロス中心主義のシンボルであり、倒壊させられることを待ち望んでいたのだ!」という程度の「悪意」さえもない、「少女の『尊厳』を守れなかった大人たちの責任」やら「沖縄に基地を『押し付けて』来た本土の国民の責任」やら、そんなほとんど思考の痕跡のない言論に対しても・・。

本当は「空白」こそが希望だったのに。何かを「失う」ということは、その失われた物が占有していた空間が「空けられる」ことなのであって、それは新たなものを作り出す「希望」にほかならない、と、ヴァルター・ベンヤミンがどこかに書いていたはずだ。あの年の夏、神戸市東灘区の、すっかり見通しが良くなってしまった一面の更地の間を歩きながら、ゲシュタポの手先に追われてピレネー山中で自殺したこの人の言葉を、何度も思い出していた。

北谷町ミハマや、那覇市天久、その広大な返還軍用地に、ありきたりの大規模小売店舗が次々と建設されていくのを見るのが好きだった。まるで「神戸」みたいだったから。「歴史」の深みを持たないぺらぺらの作りものの街。いいじゃない?「歴史」を剥奪された私たちには、それしか作れないのだから。


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1995年1月17日
5回目の春
つづら折の宴

沖縄日誌98


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