病院のポンちゃん(1)
二日に一度くらい、「面会」に行くのが日常になった。
「お見舞いに来ました。」
「は〜い、では、ごゆっくりどうぞ」と、看護師さんがポンちゃんの入ったかごを持ってきてくれて、診察台の上で「面会」する。
普通、「入院患者」たちは、鍵のついた「檻」が壁一面に並んだ「病棟」にいるのだが、ポンちゃんはあまりにもちっちゃいし、動き回れないから、普段はこの緑色のかごにおさめられて、お医者さんや看護師さんたちがくつろいだり談笑したり、ご飯を食べたりする部屋に一緒にいるらしい。
「面会」といっても、特に「話す」ことは、ない。
「病棟」に「面会」に来た飼い主たちが、大声で犬猫に「語りかけ」てるのが聞こえることがあるんだけど、もちろん、私も自分の家ではうちの犬猫たちと「べらべら」しゃべってんだけど、人前でそんなことするのは気が引けてね。
だから、頭をなでたり、指先で鼻やほっぺたを「ツンツン」して遊び相手したり、静かな時間が流れる。
便て膨れ上がっていたおなかも、何度かの浣腸のおかげでだいぶ小さくなってきた。背中の傷も固まってきて、少し毛も生え始めている。
普通、こんなにちっちゃいと尿道も未発達だから、カテーテルもなかなか入らないらしい。
「無理だろうな、と思ってたんですけど、一番細いのが入ったんですよ!」と、先生が説明してくださった。
だから、たまっていた尿の大部分は排出でき、腎臓への負担は大幅に軽減された。食欲もあるし、傷の予後も良好だし、「いい感じなんですよっ!」って、多少興奮気味におっしゃるのを聞いて、私、なんか、うれしくなっちゃった。
ポンちゃんが「生き延びれる」かもしれない、ことが「うれしい」というのとは違うの。
生き物は、もちろん「生きて」いるから生き物というのだけれど、ある特定の時間に対して、「生きている」か「死んでいる」かの2つの値しかとることのできない「関数」に過ぎない。私は明日死ぬかもしれないし、80年後も生きているかもしれない。
半身不随のポンちゃんについても、それはまったく同様なのであって、そこに「情感」の入り込む余地はない。
私が生きているか死んでいるか、このポンちゃんとかいう猫が生きているか死んでいるか、は「社会経済的」と呼ぼうが、「生態学的」と呼ぼうが、「マクロ」世界にとっては特に意味がない。「生き延びたい」、「生きていてほしい」という、とても「ミクロ」な欲望を、例えば「命の大切さ」と呼んでしまう「誤り」こそが、私たちの「言語」の持っている「欠落」であり、
啄木が「『あゝ淋しい』と感じた事を『あな淋し』と言はねば満足されぬ心には徹底と統一が缺けてゐる」と言い、二葉亭四迷が「眞實の事は書ける筈がないよ」と感じ続けて来た「違和」と関係があるんじゃないの?って「サトリ」は、数年前にひらいた。
この猫の診療を引き受けることは、私の「支払い能力」から考えて、この動物病院にとってそれほど「メリット」のあることではない。
難しい「症例」の患者に対応するのは、獣医さんや看護師さんにとって、経験を増やし、「スキル」を向上させるために役立ちはするだろう。
でも、そんな「実利的」なこととはちょっと違って、この猫のかごを取り囲んで、ここのお医者さんたちや看護師さんたちが、「あれで行こう、いや、この方がいい、そのためにはまずあれをして、・・・」とか、いわば「大のおとな」が、こんな死んでいても当然の子猫について大真面目に議論したはずなんだ。
その瞬間のある種の「華やぎ」は、「命の輝き」といったねっとりと油っぽい手垢がしみこんだ「情動」であるよりは、もっとさばさばした、「知的」なものだったと思うのね。
私がこの猫を家に連れて帰って、「お前はこんな障害を持った猫を引き受けられるのか?」って、当然自問自答するわな?でも、真っ先に何を考えたと思う。
うんことしっこの世話ができるか?これに尽きる。今の仕事のシフトを前提として、一日二回なら二回、大便をひねり出して、肛門の周りを消毒し、汚れたタオルと新聞紙を取り替え、タオルを洗濯する。それができるか?できるならGO!だ。「愛」も「責任」も、そんなウェットなものが入り込む余地はなかったね。
「生きる」ことには、「価値」も「意義」もない。ただ、「生き延びさせる」ためには「技術」と「知性」が必要だ。断っておくが、「地球を救う」ことができるとしたら、それは「愛」ではなく、「知性」だ!
ポンちゃんの「無邪気な笑顔」、猫は決して笑わんけど、言いたければ言えばいい、が媒介したかもしれないこの「知的」な「華やぎ」を、ここのお医者さんたちや看護師さんたちと「共有」できたことが、うれしかったのだ。
難しい処置をするときも暴れず、頭をなでたりご飯を出せばご機嫌で、「とても性格のいい猫ね!」と先生方もほめてくださる。「そうですか?」、もちろん「親バカ」は、うれしくてしょうがない。
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