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トリデノウエニワレラガセカイ、キズキカタメヨイサマシク

ちょうど30年たった。あと10年生きているかどうか、わからないから、今、書いておこう。

1978年の4月2日夕刻、私たちは、成田空港建設予定地、その年の3月30日にこの空港は「開港」するはずだったから、「予定地」ではなく「空港」そのもののはずだったんだけど、その第○ゲート近くの山中に「待機」していた。「第○ゲート」と伏字になっているのは、もちろん「セキュリティー上」の理由ではなく、本当に自分がどこにいるか知らなかったからだ。

警察の検問を避けるため、私達の「部隊」を載せたライトバンがかなり迂回したことも事実だろうが、私には、この土地にまったく「土地カン」がなかった。「三里塚闘争」は、過去10年以上にわたって、農地を「守る」闘いであり続けたが、その前年、当時19歳の学生であった私が初めて目にした「北総台地」は、すでに緑なす農地ではなく、機動隊の投光機に照らし出されるばかりの一面の「更地」だった。かかる暴力的な「平準化」こそが、人をして、死をも恐れぬ闘いに駆り立てたのだが、そんなことを考えたのは、ずっと後のことだ。

ヘリコプターが上空を旋回している。細い煙の柱から位置を検知されないよう、喫煙は厳禁だった。私達のヘルメットは、スプレーで茶色に塗られていた。「迷彩(カムフラージュ)」というのはジャングルの野戦用のものだ。ここにはもうすでに「緑」がなかったからなのか、「関東ローム層」の濃い茶色だった。

1960年代の初め、ここに「国際空港」を建設するという案が浮上した。「農業」などという不採算部門を切り捨て工業立国の未来を描いていた政府が相当下劣な「土地収用」を行ったことは想像に難くない。以来、「三里塚」は「反・近代化」のシンボルとなった。「三里塚・芝山連合空港反対同盟」が結成され、測量に対しては「糞尿弾」で応酬し、強制執行には杭に身体を縛り付けて抵抗した。日本社会党・日本共産党、創成期の「新左翼」全党派がこの闘いに呼応した。

戦後のどの「社会運動」についてもほぼ同様なのだが、日本共産党は自分達が主導権を取れないと見るや、分派をつくって敵対するか、「○○同盟は『トロツキスト暴力集団』」とのたまって、国家権力に対して「断固たる態度」で「取り締まる」ことを要求して退散する。おっと、こんな「古語」には注釈を付けなければね。トロツキーは、スターリンの「一国革命」に対して「世界革命」を対置して弾圧され、亡命先のメキシコで暗殺された。「正統派」の共産党が、左翼分派を非難する1930年代以来の常套句だ。非難される側が「トロツキー主義者」であるかどうかは、ほぼ無関係。
続いて、「革マル派」が、こんなものは小土地所有農民の利権擁護運動に過ぎない、といったことをうそぶいて、撤収した。これも注釈、「革マル派」は、革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派というほぼ不必要に「革命的な」名前の党派なのだけど、同じ革命的共産主義者同盟の全国委員会というのが正式名称なんだが、つまり中核派と、それともう一つ社会主義青年同盟解放派という党派と、殺し合いを含む激しい党派闘争を70年代全体を通じて、展開していた。

こうして「三里塚闘争」は、日本共産党と革マル派を除く全左翼党派にとって、60年代後半から70年代前半にかけての極端に政治的な「季節」が徐々に退潮していく中で、ほぼ最後の「結集軸」だったのだ。

「団塊」の世代の人たちは、自分達が生きた1960年代後半をいわば「青春のシンボル」として、いつまでも幸福に「懐かしむ」ことができるように見える。それは他人事だし、結構なのだけど、10年遅れた私達としては、自分達が立ち会った1970年代の終わりの時期を、何かが「決定的に終わってしまった時代」として、ネガティブにしか振り返れない。長い間、「なかったことにしたい」時代として扱ってきたような気がする。

少なからぬ人が死んだ。それも、必ずしも「英雄的」とは言えない形で。たくさんの人が傷を受け、二度とそれについて語ろうとはしなくなった。そんなことはどんな時代でも同じだよ、と、言えば言える。

ずっと後になって、私は自分が「心の病」を病んでいることを知った。「外傷性」のストレスがその病の引き金になる。 70年代末期のあの時代を、しかるべき「過去」として、ちゃんと位置づけ、したがってちゃんと「葬り去る」ことができていないことが、その「ストレス」なのかもしれない、と遅まきながら気が付いた。まことに「抑鬱」とは「喪」の身振りなのだ。

角田光代に「人生ベストテン」というのがあって、人生そろそろ40年にもなるのに、振り返ってみると、これといってなんら華やいだ記憶がない・・・という、暗くておかしい作品で、嫌いではないけど、私にしてみれば、「それどころ、じゃ、なかった!」のね。
「将来を誓い合える人と出会って、結婚しましたぁ〜!」、「自分の能力を評価してくれる上司の元で働ける職場に、やっとめぐり会えた!」、そんなめでたい経験が仮にあったとして、私はそれを「幸せ」とカウントする習慣を失っていた。
結婚もせず、子孫も残さず、会社に勤めても3年以上もったことがなく、財産もなく、年金受給資格すらない現在の私のことを、多分10人中9人は「不幸」と呼ぶだろうが、それには異議をはさまないが、自分が「不幸」なのは、「世界が不幸だからだ」と答えたとしたら、私はやっぱり病んでいるのだろうか?

私が高校生だったころ、目先の利いた人たちは「構造主義」や「現象学」に飛びついていたんだろうけど、目先の利かない貧乏人には、まだまだ「実存主義」の全盛期で、何でもそのころジャン・ポール・サルトルが「世界の半分が飢えているときに、文学は何をなしうるか?」とつぶやいて、世界の失笑をかった。ツツイヤスタカという日本の作家が、「文学は、世界の残り半分を笑い飛ばせる」とか何とか、ちゃんと思い出せないんだが、そんな風な冷笑的な切り返しをして得意になっていた。

「1978年3月30日開港」を宣言して、日本政府は、闘争の「根拠地・シンボル」を物質的に除去して、一気に攻勢に転じようとしていたのだろう。77年5月8日には、「芝山大鉄塔」が倒壊させられた。当時の「雰囲気」というものを知らない人たちにとっては、とても理解できないことだと思うのだが、国家が公共目的のために私権を制限し、私人の所有土地をしかるべき補償の元に強制収用したとして、その是非を事後に裁判で争うのならいざ知らず、「私はこの収用を認めないから、ここに居座り続ける」といえば、それは民事法上は「不法行為」を構成し、その除去のために発動された公権力に実力を持って抵抗すれば、「公務執行妨害」として刑事責任を負うことになるのは当然のことだ。そんなことを、あの時代の人たちが知らなかったわけではない。だが、あの時代が「特異」だったのは、いや、「特異」なのが実はむしろ「今」の方なのかは、実は、熟考に値することなんだけど、かかる「実定法秩序」が「既成事実」によっていとも簡単に乗り越えることができる、ということに対して、人々が「自信を持っていた」のでなかったとしても、少なくとも「普通のことだ」と感じていた、ということは記憶にとどめておかなければならない。

「三里塚」には、いたるところに「団結小屋」があった。当時私は、ほとんど授業に出たこともない「おバカ」な学生だったから、なにもわかってなかったんだけど、「空港用地」として「収用」された土地を「不法占拠」して、しかしもう何年もの間、「既成事実」として維持されてきたところも多かったはずだ。そこには、あまつさえ「鉄塔」や、鉄筋コンクリート製の「要塞」まで建設された。

「芝山大鉄塔」にせよ、78年3月26日の激しい「陽動作戦」の現場である「横堀要塞」にせよ、当たり前のことだが、それは「人がつくった」ものだ。鉄筋コンクリートの建物を建てるには、たくさんの人々の協働が必要だ。地盤を調査し、基礎打ちをする。資材を調達し、運搬する。さまざまな技能を持ったプロフェッショナルたちが、「段取り」に従って作業する・・・。警察や地方自治体、業界団体等々の「公権力・半公権力」の網の目からこぼれるような場所で、こんなことが「白昼堂々」できたのは、とかく「大衆と遊離した」、「ひ弱なインテリ」という戦前戦後を通じる日本の「共産主義」運動のレッテルにもかかわらず、さまざまな業界のいたるところにシンパサイザーがいて、「断固として連帯する!」から、「しゃあないなぁ、あんさんの言わはることやから、あんじょうさせていただきますけども、もうこれっかぎりにしとくれやす・・」にいたるまで、さまざまな形の「人々」の「支持」があったからだ。それがまた、「人々」を動かした。

私は1976年に高校を卒業した。小学校4年生のとき、共産主義者同盟赤軍派が大菩薩峠で「武装蜂起」を目指し、火炎瓶投擲訓練を行ったが、あえなく大量検挙された。私は小学校の作文の時間に、この国家権力による「弾圧」を「糾弾」する文章を書き、多分日教組反主流派(えっと、これも時代考証、「主流派」はもちろん、日本共産党系・・・)の活動家だったんだろう担任の教師に絶賛された。別に自慢しているわけではない、そんな「ませた」小学生は、いくらでもいた。

高度成長期の急速な都市化の波が、私の生まれた阪神間にも押し寄せていた。身体が大きいくせにスポーツが何一つできない私は、「プレモダン的」な「土着民」の子供達に泥水に顔を押し付けられる、みたいな「古典的」な「いじめ」を日々受けていたから、「東京系」の企業が次々に関西支社を作り、従業員の家族達が住み着く「団地」が形成され、小学校の私達のクラスには、毎月のように「新しいお友達を紹介します!」みたいに転校生がやってきて、「東京弁」スピーカーがクラスの半数を超えたとき、私は卑劣にも、これらの「プチブルお坊ちゃま・お嬢ちゃま」に身を寄せることにした。

一学年2百人ぐらいの中から、東大50人、京大100人、みたいに合格者を出す6年間一貫教育私立男子校を「お受験」したのは、








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