近代について考える?


大きく出たね。
今日も海に行ったの。浦添のキャンプ・キンザーの裏、港川のバス停から少し北に行くとイバノってスーパーとレストランがあるでしょ?あそこを左に曲がってずーっと緩やかな坂をおりて行く。つきあたりは基地のゲート、キャンプ・キンザーの第四ゲート、その直前を右に曲がって、米軍の通信鉄塔の周りが軍人用のゴルフ場になっていて、その辺りから海が見え始める。那覇から読谷、ケラマ諸島まで見渡せる、ポツリと取り残された自然海岸。隆起珊瑚礁は刃物のように尖っているから裸足では歩けない。それでは客が来ないと思ったんだろう、恩納村などのの観光ビーチは堅い珊瑚礁を、といってももちろん死んだ古代の珊瑚だけどね、それをダイナマイトで爆破してよそから白砂を運んで来て作った人造ビーチなんだって。人から聞いた話だから確証はないけど、サミットのあった年の一年間、僕は名護に住んでいて、「かりゆしビーチリゾート」だっけ?あのホテルの前の海岸が、「造り変え」られていくさまをつぶさに見ることが出来たからあながち誇張でもないと思う。今日は「中潮」、干潮の4時間前に来たけど、海の上だから距離感つかめないけどリーフの先端まで500メートルくらい、その半分くらいまで干上がってる。

引き潮に取り残されたラグーン(礁池)を覗き込むと、びっくりするほど沢山の生き物がいる。海の生き物ってちょっとグロテスクで恐かったりもする。それがまた適度な緊張をかもしだしてくれて・・・。思うに、大人になるっていうのは恐いものが段々なくなっていくプロセスなんだと思う。ていうか、例えば「生身の人間の悪意」とか言ったものの、とてもリアルな、血も凍るような恐さ、なんかに比べれば、多少奇怪な形をしてようが刺や牙を持っていようが、オバケだろうが妖怪だろうがかわいいもんだ、ともいう。シュノーケルを付けて、岩影の色とりどりの魚たちを眺めるのも好きですね。微かな波の音と自分の息しか聞こえない。そうやってじっと自分の気配を殺していると、やっと魚たちが見えてくるのね。あんなに派手な色をしているのに、光の加減で見えないなんてことが不思議なんだけど、魚たちの身体の大きさとその速度の比は、地上の生き物では考えられない桁数であって、こちらの目がそれになれるのに時間がかかるからなんだと思う。

本川達雄「サンゴ礁の生物たち」(中公新書)。本部町の瀬底島に琉球大学の、名前忘れちゃった、海洋なんとか研究所ってあるでしょ?あれ、復帰後しばらくの間東京大学の施設だったんだけど、この本の著者はそこな研究所の所長さんを何年間か勤めていた先生なんですな。沖縄の海ではおなじみのニセクロナマコ、その身体のつくりとか、サンゴと褐虫藻、イソギンチャクとクマノミの共生とか、隆起珊瑚礁のできかたとか、沖縄の海を素材にしたいろんな事柄が、とてもわかりやすく、淡々と書かれているの。別に声高に何かが主張されているわけではないんだが、私にとっては「沖縄」という場所を理解するのに、例えば、「楽園」を褒め殺しにした観光ガイドであれ、「自立」や「独自の文化」について熱く語ったものであれ、「沖縄問題」に悲憤慷慨して見せたものであれ、どんな「沖縄本」よりも「腑に落ちる」ことができた。

サンゴの成育する透明度の高い海は、実は「貧栄養」な海なのだ。海中を浮遊するプランクトンも、その老廃物たる有機物も少ないから海水は澄んで見える。「汚染していない」といった事柄とは少し違う。海中にプランクトンが少なければ魚を始めとした多くの生命を支えることは出来ない。一方で海水が透明で十分な太陽光が海底に届かなければ、サンゴは成育できないし、珊瑚礁によって外敵から守られ、珊瑚礁をめぐる様々な共生関係や食物連鎖に支えられている多様な生き物たちは生きていけない。珊瑚礁は貧栄養の海の中の「局所的」な高栄養地帯なのだ。

寒い海域の魚は海中の大量のプランクトンに支えられて巨大な群れを作って回遊する、サンマみたいに。熱帯の珊瑚礁の海では、海底に固着したサンゴのまわりに局所的に「豊かな」海があって、そこでは、それぞれの固体数は少なくても、きわめて多種の生物が生きている。自然科学的な事柄を安っぽいアナロジー(「対比」という意味です。似た形をしているから対比できるんであって、01に記号化されて原型をとどめない「デジタル」に対して、形あるものを「アナログ」と呼ぶのです。今日のウンチク・・)で社会科学的な事柄に敷衍(ふえん:話を広げること)するのは浅ましいし間違いであることが多いんだけど、ちょっと大事なとこなんでやっちゃいます。

「近代」は寒い国から始まった。産業革命がおこったイギリスは温帯?どころか寒帯?でしょ?同じ種類のものをたくさん作る、言うまでもなくこれこそが「分業」の、「工場制機械工業」の前提ですね。同じ種類のものがたくさんあることが、定型的処理を可能にしもってコストを削減し、利益を生み出す。囲い込まれた羊たち、都市に溢れる人口、不熟練労働者、植民地のプランテーションで栽培される綿花。大掛かりな仕掛け網を使った漁業もしかり。「少品種大量生産」という近代のキーワードも、それが単に「寒帯」から始まったという歴史の偶然に依存しているとしたら?「文明」とは言わせない。黄河もユーフラテスもエジプトも、熱帯でしょ? 同じ長さのきゅうりがぎっしりと段ボール箱に詰まっていること、同じ長さのサンマが発泡スチロールの箱にきっちり詰まっていること、それが私たちの世界の農業、漁業が「普遍性」を持つ根拠だった。普遍というのは、流通することに他ならないんだからね。

寒帯の森林や土地が「本来」単相だったわけではないだろう。薮や下草を刈り取って成長の早い樹木を植林した。土地に手を加え「耕すこと」、cultivate、少なくともヨーロッパ語ではそれが「文化」と同義なんだから、否定したり反省したりしてもしかたない。ただその単調な手つきが、熱帯のエコシステムと絶望的に噛み合わなかったんだということを、きっともう間に合わないのかも知れないけど、知る必要があるんだと思うよ。

ここでは「豊かさ」という言葉が二重三重にねじれている。透明な「貧栄養」の海の局所的な生物多様性。濁った「富栄養」の海。あちらを非難してこちらを称揚していればすむほど、ことほど左様に単純ではないのだ。

この本を勧めてくれたのは、南太平洋の島に住み着いてしまった風変わりな友人だったけれど、南の島からはちっともいいニュースが伝わってこないよ。

ある島でリン鉱石の鉱脈が発見された。欧米の採掘会社が入って来て投資する。島民も豊かになった。お金の使い道がないから車を買う。狭い島だから行く所がない。やがて鉱石は掘り尽くされ、島はさびれる。「ふたたび」さびれたんじゃないよ。「豊か」になったから初めてさびれたんだ。島のあちこちには乗り捨てられた外車がころがってるって。別のある島では、アメリカのドール社が島一つ買い取って全部パイナップル畠にした。台風の多いところなんだ、雨で表土が流されてマングローブが壊滅、地元の漁業も壊滅した。皮肉を言ってるんじゃないよ、でもどこかで聞いた話でしょ?

オキナワという島では、施政権返還後日本の補助金がたくさん入って来て「土地改良事業」がはじまった。表土が雨水で流出し、この島の四囲をおおっていた珊瑚礁はほぼ絶滅した。

昨日、突然思い立って瀬底島行ってきた。朝7時に那覇を出て高速も使わず走ること二時間半。ビーチはまだ開いたばかりだったから人も少なくてゆっくりできた。腰ぐらいまでの水深なのに、海中を見るとちょっと頭がくらくらするくらい、たくさんの魚がいる。自分の回り1立方メートル当たりの生き物の数、っていう点からすれば、猫17匹と同居している私の部屋も相当なもんだが、ラッシュ時の地下鉄もこれには敵わない。
チョウチョウウオのペアが餌を求めて移動するのをゆっくり追いかけると、びっくりするほど大きなブダイが横切って、そう、これだけはちゃんと名前覚えたんだ、ムラサメモンガラってカワハギの仲間、派手なペイントを施した電車みたい。枯れたエダサンゴのまわりには真っ青なルリスズメダイ?、白黒の縦縞のミスジリュウキュウスズメダイ?とか、が群れをなしてる。根本のほうには、ほら、ハリセンボンが隠れてるでしょ?
後で図鑑で調べようと思って、特徴を覚えようとするんだが、慣れてないから何が特徴かすらわからず、あまりにも数が多いので段々わけがわからなくなってくる。酸素の少ない環境で頭を使うのはやめたほうがいいのかも。

でも、名前を知るってのは大事なことなんだよ、きっと。ただ抽象的に「魚が減った」なんて言うんじゃなくてね。僕なんてもう「ムラサメモンガラ」なんて十年来の旧知のような気がするもの。

あまり長い間入っていられない。朝だからまだ水が冷たいから身体が少し冷えたのかも知れないけど、あまりの「生物多様性」に「酔って」しまったみたい。観光客がどやどや押し寄せてくる前に、自分もかつては観光客だったくせにね、早々に引き揚げ、名護の「道の駅」でパイナップルかって、「おっぱ牛乳」、今帰仁の乙羽岳のふもとの牧場で作られたおいしい牛乳があるの、のアイスクリーム食べて、帰って来た。そうそう、瀬底の研究所は、琉球大学熱帯生物圏研究センター瀬底実験所、だった。
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