音楽の素養のないまま、育ってきてしまいました。楽譜は読めないし、楽器一つ、まともに弾けない。戦後復興から、高度成長期に差し掛かる時代、だから、「世の中」等し並に貧しくて、今から思えば、いい時代だったかもしれない。ようやく小金がたまって、「中流階級」へ向かって「浮上」を開始した人々がぽつりぽつりと現れ始め、「車を持っている」ことを自慢する人なんかも出始めたころだな。「うちのお父さんは、スカイライン2000GTを持っているんだ」、と自慢されて、大して仲良しでもない(笑)、級友何人かを連れてきて、乗せられて、一般道で時速100キロ出してみせる、車に乗ったことのない私は、ドアの閉め方も分からないし、ただただ、恐怖に震えていた(笑)。東京オリンピックの年が、「カラーテレビ普及の年」として記録されているのだが、うちではその年に初めて「白黒テレビ」を買った。それでも、「文化的」(笑)な成熟には、さらにもう少し時間がかかるみたいで、記憶をたどっても、家にピアノがあったり、子供にピアノを習わせたりしている家庭は、ほとんどなかったように思う。小学校の音楽の授業、今はどんなふうか知らないが、教室に足踏みオルガンが一台あって、生徒は、音楽の教科書の裏表紙に印刷されている、一オクターブとちょいと、くらいの鍵盤に指をあてて「練習」するのだ。

中学一年生の夏休みに、生まれて初めて「アルバイト」というものをして、新聞配達、朝刊だけ、自転車の荷台にうずたかく積み上げて、古チューブで固定する。重たくてまっすぐ走れない、雨の日に倒して、積荷丸ごとどぶ川に落としてしまったこともあった。ほとんど役に立たない「働き手」だったが、一日三百数十円、だったか、ちゃんと給料はもらえた。積荷を倒さない(笑)日でも、私は、200軒足らずくらいの配達先を、決して覚えきれなかったみたいで、毎日のように、違った家から、「朝刊が届かない」という苦情の電話が入る、そのたびに、雇い主がバイクで出かけなければならなかったようで、「あの子、ちょっと、頭、悪いんと、違うか?」と陰口をたたかれているのを目撃した。自分でも、そうかもしれない、と思った。ずっと後年、大学一年生のとき、「京料理」の老舗で、ホール係として雇われたが、テーブル番号が覚えられず、観光バスの二千円定食の客の席に、2万円の「懐石コース」の料理運んで、一日で馘首、洗い場に回された。その時も、「おれ、やっぱ、頭、悪いんかな?」、と思った。今から思えば、テーブル番号、という問題ではなく、「世界」には、10倍の値段の差のある「料理」が存在する、ことへの、想像力が、欠けていた(笑)、ってことなんだけどね。

新聞配達のアルバイト、ひと月分の給料で、確か、八千円、一番安いYAMAHAのフォーク・ギターを、買ったのだ。嬉しくて仕方なく、毎日、飽かずさわっていた。でも、結局ものにはならなかったのだ。ギターは、ずっと好きだったが、面白いくらいに(笑)、全然上手にならなかった。20代半ばを過ぎて、サラリーマンなどしながら、「まだ」、休日には、「パンク・バンド」などをやっていた。楽器が下手くそでも、パンクスなら大丈夫(笑)、と思っていたが、今から思えばそうでもなかった。パンクスは、「楽器が上手である」ことなどに「価値を認めない」、ことは確かだが、ほとんどのパンク・バンドは、決して「下手」では、なかったのである(笑)。
自分でも、「下手」なことは重々知っていた。モニター・アンプから聞こえてくる自分のリズムが、耐え難く鈍重で、泣きたかった。今でも時々、夢に見る、バンドのメンバーに「喫茶店」(笑)に呼び出されて、「お前、いくら何でも下手過ぎるから、悪いけど、やめてくれ」と言い渡される、汗びっしょりかいて目を覚まし、嗚呼、もう、「バンド」なんかやってないんだ、って思い出して胸をなでおろす(笑)。

それでも、音楽の話をしようと思う。楽譜は読めなくても(笑)、音感がなくても、「物理学徒」の端くれ(笑)、ではあるし、いくら助手の口述を先輩の大学院生に書き取ってもらって誤魔化した「卒論」であっても、テーマは、「音響工学、音響心理学」だったわけだから、少しは、語るべきこともあるのである。自然数の逆数の和、

を「調和級数」と呼ぶが、これは、振動数の比が、簡単な整数比であるほど、「調和性」が高い、つまり、人間の耳に心地よい響きとして感じられる、ことと関係がある。音波には、「重ね合わせの原理」が成り立つから、異なる振動数の音を同時に発することと、その音を表示する数式をただ加算することとの間に、何らかの関係があっても不思議ではない。ならば、この「調和級数」の和、その一般式は「求められない」ことが知られているが、は、「和音」を表していることになろう。項数が大きくなるにつれて、分母同士の比は、もはや「単純な」整数比、とは言えなくなってくるから、次第に、「不協和音」となっていくだろうけれども、・・・。

その中学一年生の夏休み、初めて手にしたギターの「調弦」だけでも、三日やそこらはかかったかもしれない、それでも、学んだのである。 世界の「民族音楽」は、ことごとく「五音音階(ペンタトニック)」でできている、という話を聞いたことがある。実際、ドレミファソラシド、8音のうち、両端は同じ音名だから、異なる音7つのうち、半音の差しかない、ミ・ファのうちミ、シ・ドのうちシ、を外した5音を、出鱈目につなげてみると、例えば、沖縄民謡風(笑)、のものができたりもするのである。 
だから、人間の「音程」に関する弁別能は、1オクターブ上を別の音と数えて、「6」と言ってもいいし、「8」と言ってもいい、物理学的な根拠がありそうな、もっとも細かい弁別が、「12」なのだ、ということになるのだろう。

最も小さな自然数から順に、より「単純」な比の関係を列挙していく。 「完全5度」と「完全4度」とは、「オクターブ」を介して、「裏返し」の関係に立つ。ドとソが「完全5度」であるなら、1オクターブ下のソと、ドとが、「完全4度」になる。

下のソ、G-1と書こうか、の3分の4倍の振動数が、ド、C0、その2分の3倍が、上のソ、G0、なるほど2倍だから、1オクターブだ。この、あまりにもシンプルな関係のみで、12音すべてを尽くすことができそうに思える。古代ギリシア人も、ピュタゴラス学派も、そう考えたのであろう。円周を12等分し、そこに各音名を書き入れる。ここでは、「反時計回り」に音程が「高く」、振動数が大きくなっていくようにした。「完全5度」の動きは、「対岸」よりも向かってひとつ左、たとえば、CからG、反対に「完全4度」は、「対岸」よりも向かってひとつ右、たとえば、CからF。Cからスタートして、どちらを回ってもよい、12回繰り返したら元に戻る、その過程で、す・べ・て・の・音名を網羅している!
これは高木貞二が、「新式算術入門」(ちくま学芸文庫)の中で、「感覚的な証明」として例示していたが、その「整数論」的な含意としては、
12と5は、互いに素であるから、5nを12で割った剰余を調べると、n=1,2,3,・・・,12に対して、0から11のすべての数が一度ずつ、しかも、決して重複することなく、現われる、

あるいは、同じく、12と5は、互いに素であるから、「ディオファントス方程式」12x+5y=1は、必ず整数解(x,y)を有する、という事実に対応する。

ならば、すべての音名は、このようにして、2:3なるもっとシンプルな「完全5度」の関係のみでつながってしまえるではないか?、と思いきや、困った問題が生ずる。「完全5度」を12回繰り返してたどり着いた先は、確かに同音名であるが、7オクターブ上、なのである。つまり、これは、

が、「近似的」に、成り立つ、ということを言っていることになる。

なるほど「よい近似」ではあるが、もはや、「魔術的」なオーラは失われてしまっている(笑)。

を満たす整数m,nが存在しえないことは、「背理法」で証明できる。もし、解が存在するなら、
3m=2m+n
しかるに、2と3は互いに素であるから、これは不合理である。

下の表で、黄色地に太字の数字になっているところは、A=440Hzからスタートして、「完全5度」の関係だけで、各音名の振動数を計算してみた結果である。7オクターブも回れば誤差が蓄積してしまって、440を27=128倍したものとの間には、1000Hz近い差が出てしまっている。ただ、こんな高周波域で、人間の耳が、音名を弁別できるものかどうかは、疑問であるが。
他のところも、「完全5度」から算出されたものを、オクターブ分だけ下げて一番左の欄に黒字で書き入れた。ここからの問題は、では、「完全5度」以外の、・・・、「完全4度」は、その裏返しだから、よいとして、次に「単純」な、整数比、による計算結果との整合性である。



上の円環図をもう一度参照されたい。

隣接する自然数が分子分母となるような分数に限って、もっともよい近似を与えるものを選んだ結果が、上である。
「オクターブ」が1:2、「完全5度」が、2:3、「完全4度」が、3:4、「長3度」が、4:5、「短3度」が、5:6、・・・、ここまでは、きわめて規則的で、「美しい」とさえ、言えるだろう(笑)。でも、あとは、苦しいね。実際に世間で、ピアノの調律などの際に、どんな関係を用いているのかは、知らない。
いずれにしても、どこかで、必ず、「つじつまの合わなさ」に、直面せざるを得ないはずなのだ、ということだけは、わかる。
「単純な整数比の方が、『調和性』が高くて、耳に心地よい」というのが、「原則」であったとしても、人間の可聴域、何オクターブかに広げれば、どうしても誤差が蓄積してしまう。
J.S.バッハに「平均律クラヴィーア」、ってのがあるだろ?、「平均律」は、well-tempered、claviaってのは、ピアノの古い形だったと思う。その「平均律」は、この「つじつまの合わなさ」を、感覚の側に合わせて妥協を図った産物なのだろう。「現代音楽」の、アーノルト・シェーンベルク、だったか、は、そうではなくて、12音をまったく対等なものとして、均等分割して「12音音階技法」というものを作り上げた、のだったと思う、多分。「単純な整数比」の原理はそこでは断念されるから、「耳への心地よさ」は失われるかもしれない。でも、「和音」の「調和性」とか「不協和性」というものが、どこまでが、「ハードウェア」に依存するものなのか、どこまでが「文化的」なものなのか?、という、難問もまた、存在するのだ。
いずれにせよ、「音楽の素養のない」者が言っていることから、あまり信用できないけどね(笑)。

さて、「調和数列」。 こんな考え方で、あってんのかな?、「素数の音楽」マーカス・デ・ソートイ(新潮文庫)、というのを読んでいる訳なんだが、ちょっと気に食わない本なのね(笑)。「ζ(ゼータ)関数」と呼ばれる、「調和級数」を一般化した形、

に対して、定義域を複素数まで拡張することで、素数の個数を予測する式が得られる、という「リーマン予想」なる未解決問題についての話題らしいのだが、肝心の、複素平面上の「ゼロ点」なるものについては、一向に説明してくれず、「素数の奏でる音楽」などという、誰にでも思いつきそうな陳腐な(笑)たとえ話で、お茶を濁そうとする、
フェルマーの最終定理を証明した、若い数学者が、G●Pのジーンズのモデルになった、とか、別の数学者は、クリケットが得意だった、とか、例えば私は、そんな話、聞きたくない(笑)、「素人」はそんなお話がお好きなんでしょ?、みたいな「エリート主義」が見え透いている。あのね、私が好きな数学者は、証明や説明を「出し惜しみ」しないの。高木貞二は、どんなに話が長くなっても、「これもまた容易なり」、とか言って、とうとうとまくし立てる。吉田武「オイラーの贈り物」は、eiπ=-1を証明するために、必要なす・べ・て・を、用意する、そのためだけに一冊の本を書いた。森毅の教科書は、とても難解だけど、「もし、そこに書かれている数式のすべてを理解できれば、私にも、この理論が理解できるに違いない」と、確信できるから、いつかは理解できるかもしれないじゃないか?、と「希望」がもてるのである。
「これこれの事実を、私は、知っているが、あなたには、きっとわからないだろうから、説明しない」、と言いたがる教師は、じつは、よくわかっていないことが多い、ということも「経験」から(笑)、知っている。
そんなこんなで、ちょっと「むかついた」(笑)、から、八つ当たり、で、こんなこと、してみた?
「素数」などというものに、私は、実は大して興味を持っていないのでは?、とさえ、思えてくる。
素数は、代数の、原子である、
みたいな表現にも違和感を禁じ得ない。「原子」は、「それ以上分割できな・い・もの」として構想された。当初は(笑)、四つか五つです・む・筈のものだったので、メンデレーエフの周期表の下の方にいつまでもだらだらと「新しい」原子が付け加わるのを見て、人々は当惑したはずなのである。その「周期性」こそが、「分割できない」筈のものを、「分割」して得られた新・た・な・「原子」、苦し紛れに「素粒子」と呼ばれた陽子、電子、中性子、の振舞の表れであることを知って、初めて安心できたのである。
「無限に存在すること」が知られてしまっているユークリッドの紀元前の昔から、従って「素数」は「原子」たる資格要件を欠いている。
(1)ある自然数が、いくつかの素因数の積で表示できる、だから、「素数は代数の原子だ」と、あ・な・た・は、言う。
(2)ではしかし、その右辺に並ぶ素因数が、どうして「素数」なのか?、と問われたら、

pが素数であることは、2からp-1までの、多少節約しても[√p]までの、す・べ・て・の・自然数で、割り切れな・い・、こと以外の「証明」は、あり得ないのだ。

これ以上割り切れないから、素因数なのだ、では、どうして割り切れないことが、わかるのだ?、いや、割り切れないからだ、・・・、
○○は偉大な小説家である、では、どうして偉大か?、それは、こんなすぐれた作品を残したからである、では、どうして、そんなすぐれた作品を残し得たのか?、それは、○○が、偉大な小説家だった、からである。
この話は、また、続ける。「ゲーデル・エッシャー・バッハ」にこんな一節を見つけたから。

現実はすべて形式システムに帰着させられるのだろうか?非常に広い意味では、答えは「そのとおり」となることであろう。たとえば現実それ自身が、非常に複雑な形式システムに他ならない、ともいえる。その記号は紙の上ではなく、三次元的な真空(空間)の中を動きまわる。それらは万物を構成している素粒子である。(暗黙の仮定―物質を分解していく過程には終りがあり、「素粒子」という言葉が意味をもつ。)「形だけにかかわる規則」とは物理法則であり、与えられた瞬間におけるすべての粒子の位置と速度から、「次の」瞬間における粒子の位置と速度を求める仕方を教えてくれる。だからこの巨大な形式システムでの定理とは、宇宙の歴史におけるさまざまな時刻での粒子のありうる状態のことである。そこには「時間の始まり」におけるすべての粒子の最初の状態を示す、唯一の公理がある(あるいは、あった)。これはあまりにも雄大な構想なので、純理論的な興味しかない。その上、量子力学(と物理学の他の部分)から、この考え方の理論的な価値にさえ、ある疑義が投げかけられている。そもそも、宇宙が決定論的に動いているかどうかは未解決の懸案である。
「ゲーデル・エッシャー・バッハ」ダグラス・R・ホフスタッター(白揚社)
私が「素数」に、「魅力」を感じるとしたら、それは、
決して、否定文以外では、定義できないこと。
「否定文」の証明は、「無限」を含むときは、一般に不可能である。「〜でない」ことを、最・後・ま・で・列挙しなければならないからだ。
「素数」であ・る・ことの「通有性」がないから、帰納法が使えない。

「ペアノの公理」
(i)1は自然数である、
(ii)nが自然数なら、それに1を加えたものも、自然数である、
に類する「生成規則」が、ないからだ。
したがって、「素数」に対して、論理学がなしうるた・だ・一・つ・の・処方は、・・・、
「背理法」、なのである。


P⊂Q⇔P∩¬Q=φ
PがQに包含されている、ということは、「Pかつ『Qの否定』」が空集合である、ことと、同値である、
これが、「背理法」のロジックで、こうして、
pが素数でな・い・ならば」、すなわち、「pが1以外の因数qをもつならば」、と、「否定文」が「肯定文」に、あざやかに、反転するのである。

退屈さをこらえて(笑)やっと読み終えたものの、「素数の音楽」マーカス・デ・ソートイ(新潮文庫)は、決して何事も、例えば「フェルマーの小定理」さえも、「説明」してくれなかったから、やむなく別の本を探して「独学」(笑)、・・・、そこで、いわば「腹いせに」(笑)、次に様な段取りで、書いてみようかと思う。
もちろん、「書かなければならない」、と急き立てられるのは、他に、決して「書いてはならない」こと、ないしは、「書くことができないこと」、があるからだ、というのは、以前も申しあげたとおりである。それらも、やがて、「書くこと」にもなろうが、まだ少し、「時間」が必要なので、・・・。
(1)素数が無限に存在することの証明(ユークリッド風)。
(2)4n+1型素数が、無限に存在することの証明。これは上と同様にしてできる。ところが、
(2')4n+3型素数が、無限に存在すること、は、同様の方法では、証明できない、ことの、確認。
(3)そこで、「フェルマーの小定理」、の証明。
(3')「フェルマーの小定理」の証明、の前提として、「既約代表系」なる概念が必要なのだが、それについての、高木貞治の、「視覚的説明」、これと、以前お話しした、
完全5度を12回繰り返せば、7オクターブ上の同音名に至る、
という振動数と調和性、の話が、つながっている!
(4)「フェルマーの小定理」を用いて、4n+3型素数が、無限に存在すること、の証明。
間違えた。無数性の証明が難しいのは、「4n+3型素数」ではなく、「4n+1型素数」の方だった。だから、訂正。

(1)素数が無限に存在することの証明(ユークリッド風)。
(2)4n+3型素数が、無限に存在することの証明。
(2')4n+1型素数が、無限に存在すること、が、同様の方法では、証明できない、ことの、確認。
(3)「フェルマーの小定理」、の証明。
(3')「フェルマーの小定理」の証明、の前提として、「既約代表系」なる概念の導入。
(4)「フェルマーの小定理」を用いて、4n+1型素数が、無限に存在すること、の証明。

という「予定」である。本日は、さしあたり(1)、(2)、(2')あたりまで。

(1)素数が有限個しかなかったと仮定する。すなわち、すべての素数を列挙することができて、それが、以下のようなものであったとする。
p1,p2,p3,・・・,pm
つまり、「この世」には、素数がm個しか、存在しないのである。そこで、次のような数を考える。
N=p1p2p3・・・pm+1
つまり、すべての素数を掛け合わせ、さらにそれに1を加えたものをNとするのである。
このNは、m個存在するどの素数、pk、ただし、k=1,2,3,・・・,m、で割っても、1余る。
すなわち、存在するいかなる素数ともまた、「互いに素」なのである。
ところで、明らかにNは、すべての素数より、大きい。
いかなる素数よりも大きく、なおかつ、そのすべてと「互いに素」である、というのならば、Nもまた、新たな、「素数」である、と言わざるを得ず、これは、不合理である。QED(これが証明さるべきことであった/This_is_what_is_to_be_demonstrated.)。

(2)4n+3型素数が無限に存在することの証明。
4n+3型素数が、次のm個しか存在しない、と仮定する。
p1=4・0+3
p2=4・1+3
p3=4・2+3
・・・
pm=4・(m-1)+3
これに対して、次のような数Nを考える。
N=4・p1p2p3・・・pm+3
このNは、どの4n+3型素数、pk、ただし、k=1,2,3,・・・,m、で割っても、3余る。
すなわち、存在するいかなる4n+3型素数ともまた、「互いに素」である。
また、明らかにNは、すべての4n+3型素数より、大きい。
これは、最大の4n+3型素数よりなお大きい4n+3型素数が存在していることを意味し、不合理である。証明終わり。

(2')4n+1型素数については、こうはいかない理由は、以下の通り。
x≡1  (mod 4)、かつ、y≡1  (mod 4)
ならば、
xy≡1  (mod 4)
つまり、二つの4n+1型素数の積は、また、4n+1型素数であるのに、
x≡3  (mod 4)、かつ、y≡3  (mod 4)
ならば、
xy≡1  (mod 4)
すなわち、二つの4n+3型素数の積は、4n+1型素数になってしまうのである。だから、4n+1型素数m個の積の4倍に1を加えた数Nを作ってみても、それは、偶数個の4n+3型素数の積たる「合成数」である可能性が払拭できず、「新たな4n+1型素数が得られた!」とは、言えないのである。
もう少し「精密」に、言うべきであった。と言うか、いつもながら、「私」が、あまりわかっていなかった。 「奇数」同士の、したがって、「奇素数」同士の、「かけ算」の結果に関するルールは、以下のようになる。
「かける」という操作を加えられる対象「かける」という操作
4n+1型自然数4n+3型自然数
4n+1型自然数4n+1型自然数4n+3型自然数
4n+3型自然数4n+3型自然数4n+1型自然数
「合同式」で書けば、こんな感じになる。
xyy≡1(mod4)y≡3(mod4)
x≡1(mod4)xy≡1(mod4)xy≡3(mod4)
x≡3(mod4)xy≡3(mod4)xy≡1(mod4)
2以上120以下の「奇数」について、何度もご紹介した、「素数判定/および/素因数分解」Basicプログラムで、分類してみた。
つまり、ある「奇数」が、したがってある「奇素数」が、どちらの「型」であるか?、を、決定するには、素因数に含まれる、 と、断定できる、ことになる。相変わらず、頭の悪そうな(笑)、物言いであるが、・・・。
上の、2以上120以下の「奇数」は、次のように分類できる。すべての「奇数」、に対しても、同様の分類が可能であろう。
 4n+1型自然数4n+3型自然数
素数5,13,17,29,37,41,53,61,
73,89,97,101,109,113
3,7,11,19,23,31,43,47,
59,67,71,79,83,103,107
合成数素因数が4n+1型のみ
25.65.85
素因数に4n+3型を奇数個含む
15.27.35.39.51.55.63.75.
87.91.95.99.111.115.119
素因数に4n+3型を偶数個含む
9,21,33,45,49,57,
69,81,93,105,117
これが、「4n+1型」型素数が、無限に存在することの証明に、「ユークリッド風」のロジックが使えない理由であった。
以下の「証明」は、誤っている。

(2')4n+1型素数が無限に存在することの証明。(×)
4n+1型素数が、次のm個しか存在しない、と仮定する。
p1=4・0+1
p2=4・1+1
p3=4・2+1
・・・
pm=4・(m-1)+1
これに対して、次のような数Nを考える。
N=4・p1p2p3・・・pm+1
このNは、どの4n+1型素数、pk、ただし、k=1,2,3,・・・,m、で割っても、1余る。
すなわち、存在するいかなる4n+1型素数ともまた、「互いに素」である。
また、明らかにNは、すべての4n+1型素数より、大きい。(ココマデハ、正シイ。)
これは、最大の4n+1型素数よりなお大きい4n+1型素数が存在していることを意味し(コレガマチガイ、Nハ、4n+3型素数ヲ偶数個ヲフクム合成数カモシレナイ)、不合理である。証明終わり。

「反例」を探してみよう。 すでに「機械」の力を借りないと、「私」には無理である。「私」は、物凄く(笑)「計算」が下手なのだ。「数学」の予備校講師であったときも、しばしば、黒板の前で立ち往生し、親切な生徒さんのため息混じりの指摘に助けられたものである。新聞配達の配達先の家の場所、「京料理」レストランのテーブル番号、が「覚えられなかった」ように、
この子、ちょっと、頭、悪いんと、ちゃうか?
という疑念は、つねに幼少期の「私」のまわりに漂っていた。無論、それは今でも(笑)、同じ、であるが。
去年亡くなった「母」の、ほぼ、ただ一つの「暖かい」記憶がある。「計算テスト」がいつもビリで、泣いて帰ってくる(笑)、わが子を見かねて、母は、あるとき、珍しく自分から書店に赴いたのであろう、「ドリル」を一冊買って来て私に与え、大きな目覚まし時計とともにテーブルの上に置き、「10分で、ここまで、やりなさい」、と命じた。
ページを開けてみると、それは、いくら「私」に対してでも簡単すぎる内容で(笑)、「制限時間」の半分もかからずに、正解が得られる程度のものだった。「母」の「私」の能力に対する、この「誤った見積もり」(笑)、は、しかし、「いくらなんでも、なめている」などという「不快感」を引き起こすことはなく、「泣いてばかりいる」(笑)子供の「私」は、それを、「愛」と、「解釈」することが、できたのである。

ここまでが、精度の限界であるようである。なんと、「反例でないもの」を探す方が、困難なくらい、だったことが、わかった、のである。
素因数分解を見ると、なるほど、「4n+1型素数」であった稀有の例外を除けば、ことごとく、素因数に偶数個の「4n+3型素数」を含んでいる。
頭悪くて、計算の不得意な「私」に(笑)、どうして、たとえば、542723526131が「4n+3型」、ってわかったか、って?
頭悪い者は、頭悪い者でも生きていける「適応」として、頭使わなくてもすむ方法を、「学ぶ」のである(笑)。100は4の倍数だから、下二桁だけを見れば、4による剰余は、わかるのである。
話を戻そう。では、4n+1型素数が無限に存在することを証明するには、どうしたらよいか?
「無限」は、もちろん、「限りが、な・い・」ことの謂いであるから、「否定文」であるからして、それが結論部分に用いられているこの命題を証明するには、「背理法」による「肯定文」への転換が必要である。前回も紹介した「誤った証明」、最初のくだりをもう一度書いてみる。昔の人は(笑)、ペンで実際にもう一度「書いた」、今は、「cntl+c/cntl+v」で「カット・ペースト」できる。ありがたいことである。

(2')4n+1型素数が無限に存在することの証明。(×)
4n+1型素数が、次のm個しか存在しない、と仮定する。
p1=4・0+1
p2=4・1+1
p3=4・2+1
・・・
pm=4・(m-1)+1
これに対して、次のような数Nを考える。
N=4・p1p2p3・・・pm+1
このNは、どの4n+1型素数、pk、ただし、k=1,2,3,・・・,m、で割っても、1余る。
すなわち、存在するいかなる4n+1型素数ともまた、「互いに素」である。
また、明らかにNは、すべての4n+1型素数より、大きい。(ココマデハ、正シイ。)

前回検討したように、このNは、つ・ね・に・、新たな4n+1型素数である、とは残念ながら、言えない。 この流れで、「フェルマーの小定理」が必要とされるようになるようなのである。
a,bなる二数の最小公倍数をmと名づけ
m=ka=hb
となすときは、a,bの公倍数の一なるabといふ数は、mの倍数即ちabkaの倍数なるがゆえにbkの倍数、又同様にしてhaの倍数にして、而も
a=hg , b=kg , ab=mg
gは、a,bの公約数なり。然れどもgは亦a,bの最大公約数なり。げにもh,kには公約数なし、若し仮にh=h'd,k=k'd(d>1)なりとせば
m'=k'a=h'b
a,bの公倍数にして而もmよりも小なりとの矛盾の結論に陥るべければなり。是故に次の定理を得。
一、二つの数の積は其最大公約数と最小公倍数との積に等し。
「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

漢文訓読調だから「口語訳」が必要、という訳ではなくて、証明のテンポが「頭の悪い」(笑)読者には、ちょっと速過ぎるから、以下のように「読解」してみる。

二数a,bのの最小公倍数をm
m=ka=hb
と書ける。ここで、abという数について考えると、この数は、a,bの公倍数のうちの一つである。ということは、「最小の」公倍数たるmの倍数でもあろう。
ということは、上式を見て明らかなように、abは、kaの倍数、したがって、今度はbkの倍数でなければならない、そこで、b=kgと書く。同様に、
abは、hbの倍数、したがって、今度はahの倍数でなければならない、そこで、a=hgと書くことができるだろう。
ここに、gはあきらかに、a,bの公約数であるが、それが同時に、最大の公約数であることを示したい。「背理法」による。gが「最大」でない、すなわち、
d>1なる数があって、dgこそが「最大公約数」である、と仮定する。これは、h,kが公約数dをもつ、ということに他ならないから、
h=h'd,k=k'd(d>1)
と書けることになる。ところで、
a=hgであるから、a=hg=h'dg
b=kgであるから、b=kg=k'dg
ならばここに、m'なる数を考え、
m'=h'k'dg
とすれば、
m'=h'k'dg=k'a=h'a
であるから、これは、a,bの公倍数である。一方「最小公倍数」mは、
m=ka=hb=k'da=h'db=k'h'd2gk'h'dg=m'
となり、これは、mが「最小の」公倍数であることに反している。よってgが「最大公約数」であることが示された。
したがって、定理、
mg=kag=hbg=ab
を得る。

ほうら!、たちまち「頭悪そう」(笑)、になった。こんな授業してたから、私は、生徒に「嫌われた」(笑)んだね。それも、済んだ話だ。忌野清志郎に、「詩的」に、歌ってもらうと、
苦しんだことが、卒業してしまった、学校のような気が、する、夜。
「ダーリン・ミシン」RCサクセション

ポアンソーはこの論法に極めて趣味ある幾何学的の解釈を与えたり。一の円周をa等分し、其分点に順次0,1,2,・・・,a-1の番号を附す。さて0より始めb個毎の分点0,b,2b,・・・を直線にて連結し行くときは、分点の数はa個に過ぎざるが故に竟(つひ)には円周を幾度か廻りたる後、既に一たび通過せる分点に到着せざるを得ず、而も始めて再度逢着する点は必ず0なり。何とならば再度例へばb点に来たり得べきためには其前必ず0点を経来らざるを得ざればなり。

「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

これは、私があまり好きではなかった(笑)「素数の音楽」マーカス・デ・ソートイ(新潮文庫)なる書物、にも言及されていた、フェルマーの「時計計算機」の仕組みなのだろう。ある数を「入力」すると、文字盤に刻まれた最大数についての「法計算」、その数についての剰余をはじき出してくれる。「法」が12なら、そのまま「時計」であろう。高木貞治は、法16の「時計計算機」を図示した。
16の例示には、なかなか深謀遠慮があることはのちに触れる。「私」の趣意としては、「『完全5度』をつないで行くとすべての音名を網羅する」、の話につなげたいので、12音階に対応して、法12の「時計計算機」にする。

ポアンソー、なる数学者については、手元の数学辞典風のものでも、また、W某ペディアでも知ることができなかった。あるいは高木貞治の同時代人としてポアンカレ、が当然思い浮かぶが、脚注に示されている綴り字は、Poinsotで、ちょっと似ても似つかないことになる。
ちくま学芸文庫版では、新たに図版を作成した可能性も大であるが、この法16の「時計計算機」の図版は、そのかすれ具合も、遠い「明治時代」を呼び起こす。今、「私」は、下の図を、grapesなる大阪教育大学の先生の提供してくださっている「フリー・ウェア」を用いて、難なく、それでも1時間くらいはかかっているけれども(笑)、描いたが、高木貞治は、この、円周に内接する正八角形の図を、いや、「弟子」の誰彼に命じた、かも知れないが(笑)、自ら、定規とコンパスで作図し、その原稿を受け取った版元の写植工は、それをトレースしたのである。
バブル期(笑)、「編集長」の名刺を振りかざして、「銀座」のバーで飲み歩いて、いや、たった一度二度、実はつつましいものだったが(笑)いるときも、数式をたくさん含んだ原稿の写植を小さな印刷会社にお願いしたことがあって、ミスの少なさに舌を巻いたことがあった。「社会主義」の黎明期、筋金入りのアナーキストだったのは、ことごとく植字工であった、なぜなら、彼らは、マルクスもプルードンも、クロポトキンもレーニンも、みんな、仕事そのものの内容として、「読んで」いたからだ、という話を思い出したりしたものだ。


今日は、ここまでにする。

ポアンソーはこの論法に極めて趣味ある幾何学的の解釈を与えたり。一の円周をa等分し、其分点に順次0,1,2,・・・,a-1の番号を附す。さて0より始めb個毎の分点0,b,2b,・・・を直線にて連結し行くときは、分点の数はa個に過ぎざるが故に竟(つひ)には円周を幾度か廻りたる後、既に一たび通過せる分点に到着せざるを得ず、而も始めて再度逢着する点は必ず0なり。何とならば再度例へばb点に来たり得べきためには其前必ず0点を経来らざるを得ざればなり。
「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

では、この「法12」の「時計計算機」を用いて、その「趣味ある」幾何学的解釈を、味わってみよう。「A」を0とし、「反時計回り」に番号を附すと、a=12なのだから、最後の「G#A♭」が、a-1=11となる。
「完全5度」は、その振動数比が「オクターブ」1:2の次に「単純」な2:3であるような関係で、その間に7個の半音を含んでいるから、「分点」の間の距離bは、ここでは7である。一番左に掲げた数字は、「完全5度」で遷移するという「操作の回数」、その次に対応する音名、、カッコ内の数字は、はじめの「A」を基準として何オクターブ上の同音名であるか、を表す、そして「法12」に対する剰余、を掲げた。 「完全5度」の音程で上向する、という「操作」を、h回(h=1,2,3,・・・,a=12)繰り返す。a=12回の操作後には、b=7オクターブ上の同音名「A」に到達している訳だが、その過程で現れた音名は、ことごとく異なっており、なおかつ、12音階、すべてを尽くしている!
はじめの状態から、第11回までの操作回数を表す「順序集合」(0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11)の各要素を7倍した順序集合(0,7,14,21,28,35,42,49,56,63,70,77)、その「法12」による剰余の順序集合(0,7,2,9,4,11,6,1,8,3,10,5)を考えたときに、「順序」を無・視・す・れ・ば・、最初の集合と、最後の集合との間には、その同じ要素を対応付ける「写像」として、次に示すように、
「上への写像」であり(移される集合に、対応しないものがない)、かつ、「一対一対応」(異なる要素は異なる要素に対応する)であるもの
が、ちゃんと存在している、ことが、数論上の重要な定理に関係づけられるようなのである。

この図を、私は、「完全5度」による「上向」と説明したが、逆に、「時計回り」に読めば、それは「完全4度」、これは、「オクターブ」1:2、「完全5度」2:3、に次いで単純な3:4の振動数比をもつ音程であった、による「下降」と見ても差し支えない。「完全4度」は半音にして5個であるから、今度はb=5、5のh倍(h=1,2,3,・・・,a=12)の、法12に対する剰余を計算することになる。
やはり、その剰余を列挙した集合(0,5,10,3,8,1,6,11,4,9,2,7)は、その順序を無視すれば、操作の回数の集合(0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11)との間に、「上への・一対一対応」写像が存在するのである。
「長3度」半音4個、「単3度」半音3個、ならば、どうか?

「完全5度」、「完全4度」の半音の個数、それぞれ7と5、が、いずれも法12と「たがいに素」であったのに反して、ここでは、4および3はいずれも、12の約数であるから、こんな風に、「一対一対応ではあるが、『上への』ではない」写像になってしまう。
ここで、12を例示に選んだのが「まずかった」ことに気づくわけで、上で、「完全5度」b=7と「完全4度」b=5が、見かけ上区別のつかない「逆回り」だったことからわかるように、ab、または、aa-b、が、それぞれどんな公約数をもっているかによって、この図形の形は決まってしまう。前者が後者の「倍数」であるときは、たった一周しただけで元の点に戻ってしまえるから、「普通の」、とんがった「星形ではない」、ちなみに「普通の」は、やはり高木貞治も表現に困ったのだろう、同じ用語を用いている(笑)、正凸多角形が出来上がってしまうのに対して、前者が後者の「倍数」でなければ、頂点数が有限である以上、い・つ・か・は・必ず起点に戻ってくるものの、少なくとも、一周目にはそれは生じないから、「星形」の図形が、できるのである。
aに12を選んでしまうと、左の表に見るように、「互いに素」であるか、
(a,b)=(a,a-b)=(12,5),(12,7)
もしくは、abまたはa-bの「倍数」になってしまっているか、
(a,b)=(a,a-b)=(12,1),(12,2),(12,3),(12,4),(12,6)
の2種類しかないのに対して、

例えば、aに16を選ぶと、これ以外に、ab、または、aa-bが「公約数」をもつが、しかし、前者が後者の「倍数」ではない、という場合、すなわち、
(a,b)=(a,a-b)=(16,6),(16,10)
が生じるわけで、この場合は、決して一周目には起点には戻らないから「星形」の図形になるものの、すべての分点をカバーするわけではない、という「珍しい」事態を示してくれることになる。

高木貞治が図版に選んだ例示が、まさにこれだったので、その周到さに、改めて舌を巻いた、次第である。

音楽の素養のない者(笑)、であるが、話が大きくそれていることは承知で、言わずもがななことに言及すると、「長3度」のみで構成された和音、例えば、A・C#/D♭・Fが、どんな名前の「コード」なのか、また、どんな印象の響きをもっているのかは、知らない。もっとも「安定」した「雰囲気」を、もたらしてくれるらしい「長和音Major_Code」というのは、「主音、そこから長3度、さらにそこから短3度、そして、最後に完全4度、で、主音の1オクターブ上」、という風に構成されている。左図に破線で書き入れたのが、AMajorである。
すべての間隔が短3度でできた4音の組み合わせ、これは、たしか、「音楽の素養のない」、「極端に下手な」(笑)「老・パンク・ギタリスト」の記憶では(笑)、「サスペンディッド・フォース」と呼ぶのではなかったかしら?、Cを主音として、「フォース」第4音は、C,D,E,FでF、それが半音上がってF#、またはAを主音と見ても、第4音A,B,C,D、のD、それが半音上がってD#、suspendを、「半音上げる」と読めば、一応辻褄は、合う。このコードをどうして「下手なギタリスト」が覚えていたかと言うと、極めて「便利」だからなのだね。4音等間隔であるから、そのうちどれが主音だったとしても同じなのである。「ライブ」だとかで、茫然自失していて(笑)、その曲の「キー(主調)」が何だったかわからなくなっても、「サスペンディッド・フォース」の指の形の音を鳴らしてみれば、曲にフィットしている確率は(笑)、12分の4(笑)、極めて高いのである、合っていなさそうだったら、そのまま同じ形でフレット(指板)上をスライドすれば、3回目までに必ずあっている(笑)場所が発見できる。酷い演奏ではあるが、まぁ、それも、「済んだこと」だ(笑)。
なおかつ、この「サスペンディッド・フォース」、きわめて緊張感のある「印象」を醸し出してくれるコードなのだな。今、押し入れでほこりをかぶっていたヤマハのギターを取り出してみて、15年ぶりぐらいに錆び錆びの弦をチューニングして、恐る恐る音を出してみると(笑)、
たとえば、G-C-D7-Gだけで、「ブルース」風の一曲を物することができることは新聞配達の中学生だった頃から知っていた。「調性」を決めるキーであるG上に構成される長和音「トニック(主和音)」Gに対して、その完全4度の音の上に構成される長和音「サブドミナント(下属和音)」C、そして主音の完全5度の音の上に構成される長和音「ドミナント(属和音)」、でもよいが、それになお、第7音、を加えた「ドミナント・セブンス・コード」D7が、非常に「不安定」で、不安定であるがゆえに、主和音Gに「帰りたい!」という希求を聞き手に醸し出す、それが、「和声」の「解決」というものだ、と、少しだけ、学んだことがある。「ゲーデル・エッシャー・バッハ」には、エッシャーのだまし絵に入り込んでしまったアキレスと亀が、「トニック」という名の飲料水を飲めば、「元」の世界に戻れる、という挿話が描かれている。

で、G-C-D7-GのC-D7の間に、Csus4だかAsus4だかを挟み込んで、G-C-Asus4-D7-Gとやってみると、ほれ!、なかなか、よいのである(笑)。Asus4-D7の動きを、上右図に、示した。
此幾何学的の考究より学び得べき、尚一の重要なる事実あり。上に述べたる作図の中に於て通過せる分点の中(矢の方向に円周を廻るものとして)0に最も近きは如何なる点ぞや。若し上の作図に於て逢着せる分点を更に0より円周上の分布の順序に従ひて直線にて連結し行くときは(図にて点線にて示せる如く)すなわち普通の正h角形を得べきが故に、これらの分点のうち0に最も近き者はa:h即ちgなる番号を帯べるものに外ならず。・・・

「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

円周上に等間隔に並んだa個の分点0,1,2,・・・,a-1に対して0から始めて、例えば反時計回りにb個毎に線分で結んでいく。点は全部でた・っ・た・a個しかない、つまり「有限」なのだから、いつかは必ず、同じ点に至る。そして、最初に至る同じ点は、かならず、0である。なぜなら、これも「背理法」だが、もし0じゃないとして、例えばbだったとして、いや、bに至るには、そ・の・前・に・、すでに0に至っていたはずではないか?
次は、では、通過した、つまり、通過して既に線で結ばれた分点のうち、0に一番近いのは、どこだろうか?、この考察が、上の引用の「翻訳」(笑)である。前回見たように、bまたはa-baの約数なら、「普通の」、正凸多角形ができ、そうでないときは、一周目では0に戻らないから、「星形」の多角形になる。「星形」の場合でも、改めて、「0より円周上の分布の順序に従ひて直線にて連結し行くとき」、正凸多角形を描くことができる。h回の操作後、k回円周を回って0に到達したとすれば、これは正h角形の筈である。ならば、その一辺は、a÷h個の分点に対応する弦であろう。
h角形が描けた以上、haの約数であり、a=hgと書ける。
ここに、ka=hbであるから、hb=ka=khg、したがって、b=kg、こうしてga,bの公約数であることがわかった、さらにそれが最大公約数に他ならないことは、既に述べた「背理法」を用いれば示される。
つまり、得られた「普通の」正凸多角形の一辺は、a,bの最大公約数を表しているのである。

左から順に、高木貞治の例ならa=16,b=6、(16,6)=2、
a=12,b=7、なら、「互いに素」だから、(12,7)=1、
a=12,b=4、なら、4そのものが最大公約数だから、(12,4)=4、
という訳だ。
前回の引用に引き続いて、・・・、

然るに此点は最初の作図に於て、0よりb個毎の分点に移り行きつつ到着することを得たる点なるが故に、
g=h'b-k'a
の如き関係成立するを知るべし。但此処h'はhよりも小、又k'はkよりも小なること勿論なり。・・・

「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

0に一番近い点は、最小公倍数gという番号のついた点だった。その点は、b個毎反時計回りに移動しつつ、a個からなる円周を何回か回ったのちにたどり着いたのだから、
g=h'b-k'a
と、書けるに違いない。しかも、h回の操作後、k回円周を回ったのち、初めて0に到達した、としているのだから、このh',k'は、いずれも、それぞれ、h,kより、小さな数であることは「勿論なり」であろう。ふたたび0に到達する「前に」、gに到達している「筈」だからである。つまり、この式は、
h'回の操作後、k'回円周を回ったのち、初・め・て・、点gに到達した、
と、読める。そんなことは、0に到達する以前には、ただ一度しか起こらないから、だから、このh',k'は、「唯一」の解の組なのである。

幾何学的の仮装を剥奪するときは、此事実は整数論の重要なる定理となる。
曰く、a,bの最大公約数をgとし、a=hg,b=kgとなすときは、h'はhよりも、又k'はkよりも小にして、而もg=h'b-k'aなるが如き整数h',k'は必ず、而も唯一対に限り、存在す。然れども又上の研究に於てabとの位置を転倒するも、gは依然として変ずることなきが故に、h''<h,k''<kにして而もg=k''a-h''bなるが如き整数h'',k''も必ず、而も唯一対に限り、存在すべきを知るべし。
「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

ところで、振り返ってみて、ここまでのすべての話で、abの立場を完・全・に・入・れ・替・え・る・、ことも可能だったことに気づくわけである。
例えば円周を7等分し、0から6まで番号を付ける、
0からスタートして反時計回りに、12ずつ移動する、
例えば1回目、すでに一周したのち5に至る、
2回目は、5+12≡17≡3(mod7)で、3、
3回目は、3+12≡15≡1(mod7)で、1、
4回目は、1+12≡13≡6(mod7)で、6、
5回目は、6+12≡18≡4(mod7)で、4、
6回目は、4+12≡16≡2(mod7)で、2、
そして、7回目、2+12≡14≡0(mod7)で、0、に戻る。
集合(0,1,2,3,4,5,6)から、集合(0,5,3,1,6,4,2)への、「上への・一対一対応写像」が、存在する。

私は「頭が悪い」から(笑)、グラフ描画ソフトを用いれば、正七角形と言えども数分で描ける、とはいえ、わざわざこうしてやってみないと、納得できないのだが、本当は(笑)、そんなことをしないでも、数式の「形式」だけを見て、abの用いられ方は、まったく「対等」であるから、「入れ替え可能」である、と言えるのが、「幾何学」から「数論」への、より高度な「抽象性」のなせる業なのである。

a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=h'b-k'a、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する

という「文章」を見たとき、a,bの用いられ方のどの「現れ」を見ても、これらが対等で、入れ替え可能だ、と断定できる、したがって、

b,aの最大公約数がgb=hg,a=kgであるとき、g=h'a-k'b、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する

が帰結するのである。このままでも「正しさ」には影響がないが、同じ文字を異なる「場面」に用いてしまうと混乱をきたすので、
hkも、入れ替え、かつ、
h'をk''に、k'をh''に、名づけなおす、
のである。こうして、次の「定理」を得る。

b,aの最大公約数がgb=kg,a=hgであるとき、g=k''a-h''b、ただし、h''<h,k''<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する

さらに、内容に影響を及ぼさないように、表記の順序を変えて、

a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=k''a-h''b、ただし、h''<h,k''<k、を満たすh'',k''がただ一組、存在する

並べて書いてみよう。
  1. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=h'b-k'a、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する
  2. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=k''a-h''b、ただし、h''<h,k''<k、を満たすh'',k''がただ一組、存在する
此等の事実を総括して次の定理を得。
二、a,bの最大公約数をgとしa=hg,b=kgと置かば
ax+by=g
なる方程式に適合すべき正または負の整数x,yは必ず存在す。就中(なかんずく)xkより小なる正数にしてyが絶対値に於てhより小なる負数なる者(x=k'',y=-h'')及xが絶対値に於てkより小なる負数にしてyhより小なる正数なる者(x=-k',y=h')各唯一対に限り存在す。
「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

これも上の二文の「置換」によって得られる。
  1. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=h'b-k'a、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する
  2. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=k''a-h''b、ただし、h''<h,k''<k、を満たすh'',k''がただ一組、存在する
それぞれ入れ替えると、
  1. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=yb+xa、ただし、yh,-xk、を満たすy,-xがただ一組、存在する
  2. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=xa+yb、ただし、-yh,xk、を満たす-y,xがただ一組、存在する
ところで、ここまでの議論で、h,kやそれに「'」をいくつか付した文字は、「自然数」であることを当然の前提としてきたのだから、iのx、iiのy、は、当然、負数である。これを加味して、少し書き直すと、
  1. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=ax+by、ただし、|x|<k,yh、を満たすx,yがただ一組、存在する
  2. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=ax+by、ただし、xk,|y|<h、を満たすx,yがただ一組、存在する
さらに、i,iiを入れ替えれば、完成である。
  1. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=ax+by、ただし、xk,|y|<h、を満たすx,yがただ一組、存在する
  2. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=ax+by、ただし、|x|<k,yh、を満たすx,yがただ一組、存在する
この「定理、二」が、ずっと以前に、くどくどと(笑)お話しした、「ディオファントス方程式(2元1次不定方程式の整数解問題)」に関する基本理論であることは、言うまでも、ない(笑)。
自慢ではないが(笑)、私はこの書物のこの部分に、一か所、hkが入れ替わってしまっている誤植を発見した。原本の版組であるよりは、「コピー/ペースト」を多用する「電算写植」のエラーである可能性が高いから、「ちくま学芸文庫」版で混入したものと思う。上の如き変換操作には、これも自慢ではないが(笑)、相当な神経の集中が必要であるから、やむを得ないこととも思う。
それにしても、「対等」なものは「入れ替え」ることができる、という「論理学」ないし「数学」の無色透明な(笑)「抽象性」に、改めて驚嘆する。 例えば、「人権」というものが「近代ヨーロッパ」の特産品、ではない、と信じている(笑)私としては、「自己」と「他者」が、ひょっとしたら「入れ替え可能」かもしれない、という発見は、このような「抽象性」に始原していると、思ってみたりする。

ところで「余談」だが(笑)、すべてが「余談」だから、今更断るまでもないことだが(笑)、例えば私は今この文章を、マイクロソ●トの「メモ帳notepad」で書いているが、こんなシンプルなワードプロセッサでも、ちゃんと「置換」機能がついていて、昔は(笑)「replace_A_B」なるSVOC型コマンドを入力したものだ。「余談」の中でさらに「余談」、メタ「余談」であるが(笑)、高校時代に使っていた「英文法」の参考書の例文が、いまだに思い浮かぶ。
  1. He_made_his_son_a_dentist.(彼の父は息子を歯医者にし・た・)
  2. He_made_his_son_a_kite.(彼の父は息子に凧を作ってあげた)
aの、極めて「家父長的」(笑)な「父」と、bの凧を作ってくれる「優しい」父との対照が鮮烈だったから記憶しているのだろう。
aでは、his_son=a_dentistなる「等式」が成り立つ、すなわちHis_son_is_a_dentist.なるSVC文がありうるから、SVOC、
bでは、his_son=a_kiteが成り立たない、すなわちHis_son_is_a_kite.なるSVC文が、少なくとも常識的な想像の範囲ではあり得ないから、からSVOO、
と、暴虐な父親に凧にくくりつけられて飛・ば・さ・れ・て・、絶叫している「息子」の絵姿を思い浮かべ、「覚えた」わけである。

では、問題です。次の一文の、abを入れ替えるためには、どんなコマンド入力、あるいは、キー操作をすればよいですか?

a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=h'b-k'a、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する

たとえば、replace_"a"_"b"、としてしまうと、

b,bの最大公約数がgb=hg,b=kgであるとき、g=h'b-k'b、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する

となってしまい、どれが「本来の」、「a」であったかの情報が失われてしまう。「エントロピー」が、増大してしまう(笑)、訳ですな。そこで、次のような「苦肉の策」をとる、
  1. まず、すべてのaを、文中には、とても有りそうもなくて混同の恐れのない、珍奇な文字列、例えば、「へのへのもへじ」に、置き換える。「珍奇」であることに於いて、「情報、すなわち、エントロピー」は、「保存」されるのである。すなわち、replace_"a"_"へのへのもへじ"

    へのへのもへじ,bの最大公約数がgでへのへのもへじ=hg,b=kgであるとき、g=h'b-k'へのへのもへじ、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する

  2. 次に、replace_"b"_"a"、この際、文中の他の部分に「b」を含む文字列が、ない、ことの確認が必要である。

    へのへのもへじ,aの最大公約数がgでへのへのもへじ=hg,a=kgであるとき、g=h'a-k'へのへのもへじ、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する

  3. 最後に、replace_"へのへのもへじ"_"b"、

    b,aの最大公約数がgb=hg,a=kgであるとき、g=h'a-k'b、ただし、h'<h,k'<k、を満たすh',k'がただ一組、存在する
出来上がり。この定理が、「フェルマーの小定理」の証明に用いられ、「フェルマーの小定理」が「4n+1型素数が無数に存在する」の証明に用いられる、長い長い話が、続く。「話」が「続いて」いる限り、「私」は、「生きて」(笑)、いる。
此等の事実を総括して次の定理を得。
二、a,bの最大公約数をgとしa=hg,b=kgと置かば
ax+by=g
なる方程式に適合すべき正または負の整数x,yは必ず存在す。就中(なかんずく)xkより小なる正数にしてyが絶対値に於てhより小なる負数なる者(x=k'',y=-h'')及xが絶対値に於てkより小なる負数にしてyhより小なる正数なる者(x=-k',y=h')各唯一対に限り存在す。
「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

つまり、ディオファントス方程式ax+by=gには、次の2つの解が必ず、存在する。
  1. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=ax+by、ただし、xk,|y|<h、を満たすx,yがただ一組、存在する
  2. a,bの最大公約数がga=hg,b=kgであるとき、g=ax+by、ただし、|x|<k,yh、を満たすx,yがただ一組、存在する


いくらでも(笑)時間はあるから、「確認」してみる。
この図の場合、a=16,b=6では、g=2,h=8,k=3であるから、
16x+6y=2
両辺を2で割って、
8x+3y=1
「ユークリッド互除法」により、
8=3×2+2
3=2×1+1
1になったからこれで終了、したがって、
1=3-2×1
2=8-3×2
下の式の「2」を上の式の「2」に「代入」(笑)、するのだ、
1=3-(8-3×2)×1
するってぇと、「1」が「8」と「3」の「1次結合」で表された、ことになる、んだな、
1=8(-1)+3×3
こうして、もとの式と見比べれば、x=-1、y=3という「特別解」が得られる。
もとの式と、この特別解を代入した式を並べてみて、引き算する。
8x+3y=1
8(-1)+3(3)=1
すなわち、
8(x+1)+3(y-3)=0
移項して、
-8(x+1)=3(y-3)
ここに、(8,3)=1、つまり、8と3は互いに素、だから、
x+1=3j,y-3=-8j
なる、整数jが存在する。すなわち、
x=3j-1,y=-8j+3
これが、このディオファントス方程式の「一般解」である。
さて、上のiiの解を探そう。まず、0<xk=3であるから、
0<3j-1<3、1<3j<4、1/4<j<4/3、これを満たす整数は、j=1
次に、|y|<h<8であるから、-8<y<8
-8<-8j+3<8、-11<-8j<5、5/8<j<11/8、これを満たす整数は、j=1
両者をともに満たすのは、j=1
よって、(x,y)=(2,-5)
次にiの解、-3<x<3、かつ、0<y<8、であるから、
−3<3j-1<3、0<-8j+3<8、
−2<3j<4、-3<-8j<5、
−2/3<j<4/3、-5/8<j<3/8、これらともにを満たす整数は、j=0
よって、(x,y)=(−1,3)

では、a=12,b=7だから、g=1,h=12,k=7、
12x+7y=1
「ユークリッド互除法」で、
12=7×1+5
7=5×1+2
5=2×2+1
1になったからこれで終了、したがって、
1=5-2×2
1=5-(7-5×1)×2
1=7×(-2)+5×3
こうして「1」が、「7」と「5」の「1次結合」になった、さらに、
1=7×(-2)+(12-7×1)×3
1=12×3+7×(-5)
今度は、「1」が、「12」と「7」の「1次結合」になった、もとの式と並べて引き算、
12x+7y=1
12×3+7×(-5)=1
12(x-3)+7(y+5)=0
-12(x-3)=7(y+5)
(12,7)=1だから、
x-3=7j
y+5=-12j
すなわち、
x=7j+3
y=-12j-5
iiの解、0<xk=7、|y|<h=12すなわち、-12<y<12
0<7j+3<7、-12<-12j-5<12
-3<7j<4、-7<-12j<17
-3/7<j<4/7、-17/12<j<7/12
両者をともに満たす整数jは、j=0
よって、(x,y)=(3,-5)
iの解、-7<x<7、0<y<12
-7<7j+3<7、0<-12j-5<12
-10<7j<4、5<-12j<17
-10/7<j<4/7、-17/12<j<-5/12
両者をともに満たす整数jは、j=-1
よって、(x,y)=(-4,7)
吾輩が幾何学的に証明したる事実を直接に論証せんことも亦容易なり。今
b,2b,・・・,(h-1)b
aにて除して得べき剰余(最小正剰余、以下同じ)を考へんに此等の剰余はnb-qa=rの如き数なるが故に何れもa,bの公約数なるgの倍数なること明白なり。而も此等の剰余の中相等しき者決してあることなし。何とならば今仮にn,n'は1,2,・・・,h-1の中より採りたる二個の相異なる数にして、而もnb-qa=r,n'b-q'a=rなりとせば、例えばnn'となすとき、(n-n')b=(q-q')aを得、bhよりも小なる数n-n'を乗じて得たる積が既にaの倍数なりとの許すべからざる結論を生ずるべければなり。
吾輩の作れるh-1個の剰余は皆相異にして、而も尽くa即ちhgより小なりと言ふ上は、此等の剰余はその全体に於てg,2g,・・・,(h-1)gなる数と同一ならざるを得ず、即ちそのうち一つ而も唯一つがgに等しきなり。さて例へば
h'b-k'a=g
なりとせばh'<h随てk'<kにして定理は再び証明せられたり。・・・
「新式算術入門」高木貞治(ちくま学芸文庫)

円周上に等間隔に並んだ点0,1,・・・,a-1を0から始めてbごとに線でつないでいくことをh回繰り返したら、0に戻った。この操作の各回ごとに到達する点に付された番号は、
b,2b,・・・,(h-1)b
aで割った余りに違いない。それらの余りは、みんな、次のような形をしているであろう。
nb-qa=r
n回の操作後、円周をq回まわったうえで、番号rに着いた、別の言い方をすると、
nbaで割ったとき、商がqで、余りがrだ、と言っている。
ここに列挙したh-1個の余りは、
まず、すべて、a,bの最大公約数gの倍数であろう、これは、式を見れば明らかである。また、
これらの中には、同じものは、決して含まれていない。こちらは、「背理法」で証明する。
どれか二つの余りがともにrだったと仮定する。
nbaで割った商がqで、余りがr、かつ、
n'baで割った商がq'で、余りがこれもr、と仮定するのである。
nb-qa=r・・・(1)
n'b-q'a=r・・・(2)
この二式がともに成り立つ、と言うのだから、辺々引いて、
(n-n')b=(q-q')a・・・(3)
ここで、n-n'は明らかに、nより小さい、ということは、もちろんhよりも小さい。
h回操作後に、円周をk回まわって初・め・て・0に到達した、としている、つまり、
a,bの最小公倍数mが、
m=hb=ka
と表せる、と言っているのに、hよりも小さい数n-n'をbに掛けたものが既にaの倍数だ、と主張する式(3)は不合理である(証明終)。
さて、
b,2b,・・・,(h-1)b
aで割ったh-1個の余りは、皆互いに異なる数であって、いずれもgの倍数であり、しかも、除数aより小さい者でなければならない。
a=hgより小さいgの倍数は、まさに以下のh-1個、しかあり得ない。
g,2g,・・・,(h-1)g
とすれば、これら二つの系列の数字のそれぞれの集合、集合(b,2b,・・・,(h-1)b)と集合(g,2g,・・・,(h-1)g)との間には、「上への・一対一の写像」が存在する!、ことになる。
・・・

またしても、歯切れのいい文体を、ちょっと頭悪そうに(笑)「翻訳」することになったが、以降、高木貞治の書物では、前回紹介した定理二、から、「ディオファントス方程式」へと話は進むのだが、こちらでの議論に必要なのは、この部分で、もう一度まとめると、

(a,b)=g・・・この表記は、「a,bの最大公約数がgである」と読む、
であって、
a=hg,b=kg
とするとき、
b,2b,・・・,(h-1)b
aで割った余りの集合の各要素は、すべて異なった数であり、かつ、この集合と、aより小さなgの倍数、
g,2g,・・・,(h-1)g
を要素とする集合との間には、「上への・一対一写像」が、存在する。

例を挙げる。

a=16,b=6,g=2,h=8,k=3
1・6≡6(mod16)
2・6≡12(mod16)
3・6≡18≡2(mod16)
4・6≡24≡8(mod16)
5・6≡30≡14(mod16)
6・6≡36≡4(mod16)
7・6≡42≡10(mod16)
(6,12,2,8,14,4,10)と(2,4,6,8,10,12,14)

a=12,b=7,g=1,h=12,k=7
1・7≡7(mod12)
2・7≡14≡2(mod12)
3・7≡21≡9(mod12)
4・7≡28≡4(mod12)
5・7≡35≡11(mod12)
6・7≡42≡6(mod12)
7・7≡49≡1(mod12)
8・7≡56≡8(mod12)
9・7≡63≡3(mod12)
10・7≡70≡10(mod12)
11・7≡77≡5(mod12)
(7,2,9,4,11,6,1,8,3,10,5)と(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11)

後の例では、(a,b)=1、すなわち、abは互いに素、であって、このときは、aより小さな自然数がす・べ・て・、現われる。
どんな自然数でも、除数aに対する剰余は、割り切れるときの0を除けば、自然数1,2,・・・,a-1である。aによる剰余の集合が、この集合と「上への・一対一対応」をなすような自然数の系列を、(mod a)の「既約代表系」、と呼ぶ。
ここでは、7,14,21,28,35,42,49,56,63,70,77が、(mod12)の「既約代表系」だ、ということになる。
この用語を用いて、上の定理、g=1の場合は、次のように書けるだろう。

(a,b)=1、すなわち、abが互いに素、であるとき、(mod a)の「既約代表系」、
1,2,・・・,a-1
の各数に、bを乗じた数の系列、
b,2b,・・・,(a-1)b
もまた、(mod a)の「既約代表系」、をなす、

これでやっと「フェルマーの小定理」を証明する準備ができた。
「フェルマーの小定理」は、次のようなものである。

pが素数ならば、すべての(a,p)=1なる自然数aに対して、
ap-1≡1(mod p)

もう三年に近く前になるのかな?、高木貞治のこの書物を読み始めたころ、もちろんまだ(笑)「仕事」があって通勤バスの中で、この部分の証明の書かれたわずか二三ページを、読もうと試みたのだ。
たっぷり一時間半、かかった(笑)。漢文訓読調の文体にもなじみがなかったし、「数論」の予備知識に至っては、「皆無」だったから、無理もない。
沖縄のバスは、近年は新車も多くなったが、以前は、本土から持ち込まれる中古車が多く、懐かしい(笑)京都や神戸の市バスが、大して塗装も替えぬまま、走っていたものである。サスペンションが古びているからだろう、だから、酷く、揺れる。座席にしがみつきながら、それでもノートをとって、一行一行「解読」した。
今から思えば、大したことではないのだが、初めて「意味」が理解できた時の喜びは、半端ではなかった。数少ない(笑)、「幸福」な瞬間の、記憶なのである。
何のために「フェルマーの小定理」を証明する必要があったのか、ほとんど忘れてしまって(笑)いるから、もう一度、振り返ってみる。

(1)素数が無限に存在することの証明。ユークリッドは、次のような方法を用いた、とされている。
素数が有限個しか存在しない、すなわち、すべての素数を列挙することができて、それが、以下のm個であったと仮定する。
p1,p2,p3,・・・,pm
そこで、次のような数を考える。
N=p1p2p3・・・pm+1
このNは、m個存在するどの素数とも、「互いに素」である。
存在するいかなる素数とも「互いに素」である、というのならば、Nはまた、新たな、「素数」である、と言わざるを得ず、これは、不合理である。証明終わり。

(2)4n+3型素数が無限に存在することの証明。
4n+3型素数が、次のm個しか存在しない、と仮定する。
p1=4・0+3=3
p2=4・1+3=7
p3=4・2+3=11
p4=4・4+3=19
p5=4・5+3=23
・・・
pm
これに対して、次のような数Nを考える。
N=4・p1p2p3・・・pm+3
このNは、p1を除・く・、どの4n+3型素数、pk、ただし、k=1,2,3,・・・,m、で割っても、3余る。
すなわち、存在するいかなる4n+3型素数ともまた、「互いに素」である。
さらに、下の表に見るように、4n+3型素数を奇数個、その素因数に含むことなく、4n+3型の合成数を作ることはできない。
xyy≡1(mod4)y≡3(mod4)
x≡1(mod4)xy≡1(mod4)xy≡3(mod4)
x≡3(mod4)xy≡3(mod4)xy≡1(mod4)

これは、Nが、 ことを意味し、いずれの場合も、不合理である。証明終わり。

前回、掲げたものには、いくつか不正確な部分があったので、こっそり(笑)、改定してある。たとえば、(2)で、Nは、p1=3では、割り切れてしまうではないか!、とか、(1)(2)ともに、「存在すると仮定されたどの素数よりも大・き・い・」という条件は、特に必要がない、むしろ邪魔だ、という気がする。

そして、これらと同じ論法では、「4n+1型素数が無限に存在すること」が証明できないのであった。
(2')4n+1型素数が無限に存在することの証明。
4n+1型素数が、次のm個しか存在しない、と仮定する。
p1=4・1+1=5
p2=4・3+1=13
p3=4・4+1=17
p4=4・7+1=29
p5=4・9+1=37
・・・
pm
これに対して、次のような数Nを考える。
N=4・p1p2p3・・・pm+1
このNは、どの4n+1型素数、pk、ただし、k=1,2,3,・・・,m、で割っても、1余る。
すなわち、存在するいかなる4n+1型素数ともまた、「互いに素」である。
ところが、下の表に見るように、4n+3型素数を偶数個、その素因数に含み、なおかつ、、4n+1型素数を一切、その素因数に含まない、合成数たる、4n+1型自然数が存在する可能性が否定できない。
xyy≡1(mod4)y≡3(mod4)
x≡1(mod4)xy≡1(mod4)xy≡3(mod4)
x≡3(mod4)xy≡3(mod4)xy≡1(mod4)

したがって、これだけでは、Nが、 とは断定できない。証明ニ失敗シタ(笑)。

では、どうすればよいのか?、「フェルマーの小定理」の証明に取り掛かる前に、どうしてそれが必要になるのか?、の道筋を見ておきたい。
「4n+1型素数が無限に存在すること」の証明は、以下のような段取りで行うらしいのである。これは、「素数入門」芹沢正三(講談社ブルーバックス)に掲載されていたものを、毎度のことであるが(笑)、やや、頭悪く(笑)、鈍重に、改変したものである。
(4)4n+1型素数が無限に存在することの証明。
4n+1型素数が、次のm個しか存在しない、と仮定する。
p1=4・1+1=5
p2=4・3+1=13
p3=4・4+1=17
p4=4・7+1=29
p5=4・9+1=37
・・・
pm
ココマデハ同ジ。
これに対して、次のような数Nを考える。
N=4・p12p22p32・・・pm2+1
なんと、存在すると仮定した有限個の4n+1型素数をことごとく2乗してしまうのである。なぜ、2乗するのか?、いや、それは、2乗すると、「うまくいくのだ」では、「阿呆」は納得できないので、「悪い頭(笑)」で考えてみたが、そもそも、どうしてそんな風な方法を「思いついた」のか、または、それが「うまくいく」との「予測」が立てられたのか?、うまく説明できる「理由」にはたどり着けなかった。おそらく(笑)、「4n+3型素数を2乗すると、4n+1型合成数になる」という事実と、「関連がある」に違いない(笑)、とは思える。
では、この先、どのような「不合理」を帰結すれば「背理法」が完成して、証明できたことになるのか?

このNは、4n+1型自然数であることは明らかであり(笑)、存在するいかなる4n+1型素数とも互いに素である、ことまでは、言える。
ところが、またしても、4n+3型素数偶数個のみを素因数とする、すなわち、4n+1型素数を一切素因数にもたない合成数である可能性が否定できないのである。

そこで、帰結さるべき「不合理」、「矛盾」は、
Nが、4n+1型素数を、少なくとも一個、素因数として、ど・う・し・て・も・、もってしまう、
という事実、になるのだ。
そして、ここに「フェルマーの小定理」の適用場面が生じる、訳であるらしい。それは次回以降と言うことにして、ここでは、「実験」をしてみる。例によってBasicで、前に使ったものをちょいと改造するだけで、このNを生成し、素数判定または素因数分解してもらうことにした。2乗がこんなに含まれるから、たちまち数は大きくなり、6個目、すなわち、
N6=4・52・132・172・292・372・412+1
が、精度の限界のようである。

なるほど、見事に(笑)、右辺に現れるのは、素数である場合も、合成数である場合の素因数も、ことごとく、4n+1型、なのであった!
「フェルマーの小定理」を証明する。

pが素数ならば、すべての(a,p)=1なる自然数aに対して、
ap-1≡1(mod p)

ここまでのところで、「私たち」が手にしている「材料」は、以下のものである。

(a,b)=1、すなわち、abが互いに素、であるとき、(mod a)の「既約代表系」、
1,2,・・・,a-1
の各数に、bを乗じた数の系列、
b,2b,・・・,(a-1)b
もまた、(mod a)の「既約代表系」、をなす

同じ文字aが、全然異なる文脈で用いられるから、「頭の悪い」私(笑)でなくとも、混乱する。まず、後半の「ステートメント」のaを、混同の恐れはないと思われるから、ことごとくpに、すり替えよう。

(p,b)=1、すなわち、pbが互いに素、であるとき、(mod p)の「既約代表系」、
1,2,・・・,p-1
の各数に、bを乗じた数の系列、
b,2b,・・・,(p-1)b
もまた、(mod p)の「既約代表系」、をなす

さらに、bを、aにすり替えてしまおうか?、既にこの文にはどこにもaは出てきていないし、すり替えれば、一層、証明すべき「定理」と、形が似てくるように思えるから、・・・。

(p,a)=1、すなわち、paが互いに素、であるとき、(mod p)の「既約代表系」、
1,2,・・・,p-1
の各数に、aを乗じた数の系列、
a,2a,・・・,(p-1)a
もまた、(mod p)の「既約代表系」、をなす

この「命題」は、任意の自然数pに対して「真」であるから、「自然数」の部分集合「素数」についても成り立ち、こう書いても、「十分条件」であり、何の問題も、ない。

pが素数ならば、すべての(a,p)=1なる自然数aに対して、
(mod p)の「既約代表系」、
1,2,・・・,p-1
の各数に、aを乗じた数の系列、
a,2a,・・・,(p-1)a
もまた、(mod p)の「既約代表系」、をなす

さてここで、両系列は、順番こそ異なるけれども、かならず同じ要素のみで構成されている、と確信できることから、「すべてを、掛ける」という、「暴挙」(笑)、を思いつくわけである。曰く、
1×2×・・・×(p-1)≡a×2a×・・・×(p-1)a    (mod p)
即ち、
1×2×・・・×(p-1)≡1×2×・・・×(p-1)ap-1    (mod p)
即ち、
(p-1)!≡(p-1)!ap-1    (mod p)

合同式の演算については、ずいぶん前にちゃんと証明付で(笑)書いたはずだが、忘れてしまった。
両辺に、同じ数を、(1)足しても、(2)引いても、(3)掛けても、全然かまわない、ただ、(4)割るときだけは注意が必要で、「割る数(除数)」が、「法(mod)」と「互いに素」であるときのみ、許されるのだった。
ここでは、できれば、両辺を、(p-1)!で割りたい。
まず、合同式、以前の問題として、「ゼロ割り」でないことの確認が必要である。0!=1と「既約」しなければならなかった「理由」についても、以前に(笑)、話した。だから、いかなるpに対しても、(p-1)!は0にはならない。
次に、(p-1)!は、素数pに対して、それより小さい自然数をすべて乗じたものなのだから、pと「互いに素」である。
両辺を、(p-1)!で割ることが、許される。よって、
1≡ap-1    (mod p)

うわぁ!、「証明終」、QED、This_is_what_to_be_demonstrated.ではないか!
というわけで(笑)、「フェルマーの小定理」もめでたく証明できたことだし、そこから「4n+1型素数の無数性」の証明の道筋も、ほぼ、わかっているのだし、さっさと、この「お題」、終りにすればよいものを、・・・、どうやら「私」は、「終わらせたくない」、ようで(笑)、もちろん、その「象徴的」な「意味」について、わかりやすい「精神分析」(笑)、を施せば、「私」は、まだ、「死にたくない」(笑)、のであろう。

「フェルマーの小定理」
pが素数ならば、すべての(a,p)=1なる自然数aに対して、
ap-1≡1(mod p)

例示をしてみたくなったのである。無論、くどいが、頭の悪い私は、そうしないと、呑み込めないから(笑)だ。
a=12、p=7
としよう。12音階を、完全5度でつないでいくと、すべての音名が網羅される、という、おなじみの例だと、残念なことに、法が12で、素数ではないので、それをひっくり返した方。

法7に対する剰余、つまり、どんな数でもよい、7で割った余りは、割り切れた場合の0というものを除けば、7より小さな自然数すべて、である。それを、一番左の集合A、としよう。
A(1,2,3,4,5,6)
その集合Aの各要素をことごとく12倍した数の集合B
B(12,24,36,48,60,72)
今度はこの集合Bの各要素を7で割った余りの集合を、C
C(5,3,1,6,4,2)
集合Aから、集合Cに対して、「上への・一対一対応」写像が存在することが、集合Bを、法7、における「既約代表系」と呼んでよい、ことの根拠である。

AからB、そして、BからC、への各要素の対応関係、そして、

AからCへの、「上への・一対一対応」写像。この図を描くこと自体に、おそらく「位相幾何学」上の難問が含まれているのだろう。なかなか、大変であった(笑)。
ならば、Aの要素すべてをかけ算したものも、Cの要素すべてをかけ算したものも、ともに、1×2×3×4×5×6=6!
Bの要素すべてをかけ算したものは、7-1=6個のすべての要素を12倍しているのだから、これに127-1をかけて、127-1×6!
そして、上の図を眺めれば、
1≡36≡3×12(mod7)
2≡72≡6×12(mod7)
3≡24≡2×12(mod7)
4≡60≡5×12(mod7)
5≡12≡1×12(mod7)
6≡48≡4×12(mod7)
で、同じ法の合同式では、左辺同士、右辺同士、掛け算しても構わないのだから、
1×2×3×4×5×6≡36×72×24×60×12×48≡127-1×1×2×3×4×5×6(mod7)
(7-1)!≡127-1×(7-1)!(mod7)
(7-1)!は、法7と互いに素だから、両辺をこれで割ることが許され、
1≡127-1(mod7)
なるほど、これが「フェルマーの小定理」、であった(笑)。うたぐり深い元プログラマは、自分の弱い頭脳より「機械」を信頼する。Basicにまた登場してもらった。

a= 12/p= 7
ABC
1 12 5
2 24 3
3 36 1
4 48 6
5 60 4
6 72 2
ap-1= 2985984= 7* 426569+ 1

なるほど(笑)、正しい(笑)。では、問題です。12の6乗を7で割った余りが1であることを、証明しなさい。「証明」って、あんた、そんなもの、実際にやってみたらいいわけだが、それは、上で、機械に、やってもらいました。そうではなく、本当に(笑)、12を6回かける計算をするよりは、多少なりとも、「簡単」そうな、方法を探しなさい、と言っている。
12に一番近い7の倍数は、7×2=14だな、だから、12の6乗を7で割った余りは、12-14=-2の6乗を7で割った余りに、等しい。という事柄を表記するのに、「合同式」という道具は、きわめて有効なのだな。
127-1≡126≡(7・2-2)6≡(-2)6≡43≡64≡7・9+1≡1(mod7)
と、一行ですむところ、もし「合同式」が使えなければ、例えば、去年までの高校数学の「旧課程履修者」にとっては、次のような答案に、なるだろう。同じく126=(7・2-2)6と変形したうえで、「二項定理」により、最後の項のみが7を因数に含まない、と、論じることになる。

私としては、この「論じ方」が、そんなに、嫌いではない。だから、「賢い」生徒さんたちには、「まだるっこし」かったんだろうな。だから、「凄い」予備校講師になれず(笑)、どうしてなれないのか?、よくわからないから、「うつ病」になったり(笑)、したんだろうな。でも、もう何度も言ったけど(笑)、それも、済・ん・だ・、話だ(笑)。せっかくプログラムまで作ったのだから、ほかの例も、出しておこう。
a= 8/p= 3
ABC
1 8 2
2 16 1
ap-1= 64= 3* 21+ 1
a= 6/p= 17
ABC
1 6 6
2 12 12
3 18 1
4 24 7
5 30 13
6 36 2
7 42 8
8 48 14
9 54 3
10 60 9
11 66 15
12 72 4
13 78 10
14 84 16
15 90 5
16 96 11
ap-1= 2821109907456= 17* 165947641615+ 1
(4)4n+1型素数が無限に存在することの証明。「背理法」による。
4n+1型素数が、次のm個しか存在しない、と仮定する。
p1=4・1+1=5
p2=4・3+1=13
p3=4・4+1=17
p4=4・7+1=29
p5=4・9+1=37
・・・
pm
これに対して、次のような数Nを考える。
N=4・p12p22p32・・・pm2+1

このNは、4n+1型自然数であり、存在するいかなる4n+1型素数とも互いに素である、ことまでは、言える。
ところが、4n+3型素数偶数個のみを素因数とする、すなわち、4n+1型素数を一切素因数にもたない合成数である可能性が否定できないのである。
xyy≡1(mod4)y≡3(mod4)
x≡1(mod4)xy≡1(mod4)xy≡3(mod4)
x≡3(mod4)xy≡3(mod4)xy≡1(mod4)

そこで、帰結さるべき「不合理」、「矛盾」は、
Nが、4n+1型素数を、少なくとも一個、素因数として、ど・う・し・て・も・、もってしまう、
という事実、になる。

Nの、素因数の一つをqとする。このqが4n+1型素数ならざるを得ない、ことを導きたい。もちろん、言わずもがなな確認だが、qNの、ただ一つの、素因数であったなら、そして、qが4n+1型素数であるなら、それは、N自身が4n+1型素数であることになり、望ましい「不合理」(笑)、なのである。

のちに用いることになるから、用意しておくが、ここで、当然にも(笑)、Nは奇数だから、その素因数もすべて奇数である。したがって、qもまた、「奇素数」、唯一の「偶数の素数」2、以外の素数のことをそう呼ぶ、である。
Nqを素因数にもつ、という事実を「合同式」で書けば、
N≡0(mod q)
両辺から1を引いて、
N-1≡-1(mod q)
すなわち、
4・p12p22p32・・・pm2≡-1(mod q)
さらに、
(2・p1p2p3・・・pm)2≡-1(mod q)・・・(1)

ところで、「フェルマーの小定理」によれば、

pが素数ならば、すべての(a,p)=1なる自然数aに対して、
ap-1≡1(mod p)

ここでの文脈で使いやすいように、上の文の「p」を「q」に置換すると、

qが素数ならば、すべての(a,q)=1なる自然数aに対して、
aq-1≡1(mod q)

無論、上の(1)式に、「似せたい」のであるから、
a=2・p1p2p3・・・pm
と、したい。そのためには、(a,q)=1、すなわち、aqが互いに素であることを確認しなければならない。
「互いに素」は、「1以外に公約数をもたない」、と、「否定文」で定義されざるを得ないから、またしてもその証明は「背理法」によらざるを得ない(笑)。
a=2・p1p2p3・・・pmqと「互いに素でない」すなわち、1以外の公約数をもつ、と仮定する。ところで、qは素数であるから、これは、aqを素因数にもつ、ということに他ならない。すなわち、
a=2・p1p2p3・・・pm=kq
なる自然数kが存在する。ところで、
N=(2・p1p2p3・・・pm)2+1
であるから、
N=k2q2+1
これによれば、Nqで割った余りが1、すなわち、Nqが互いに素、ということになるが、これは、Nqを素因数にもつという前提に矛盾している。QED。
(2・p1p2p3・・・pm,q)=1
が示された。

ならば、「フェルマーの小定理」により、
素数qに対して、
(2・p1p2p3・・・pm,q)=1
であるから、
(2・p1p2p3・・・pm)q-1≡1(mod q)・・・(2)

ここで、上で確認したことを思い出せば、qは「奇素数」であった。ならば、q-1は偶数であって、
q-1=2r
なる自然数rが存在する。すなわち、
(2・p1p2p3・・・pm)2r≡1(mod q)・・・(2')

さて、(1)(2')を見比べるに、
(2・p1p2p3・・・pm)2≡-1(mod q)・・・(1)
(2・p1p2p3・・・pm)2r≡1(mod q)・・・(2')
いかにも(笑)、(1)式の両辺をr乗せよ、と言わんばかり(笑)、ではないか?

同じ法による合同式が二つあったとき、左辺同士、右辺同士を、掛け合わせても、よい、ことの確認が必要である。気になるので(笑)、証明しておく。

を示したい。

とおくと、

なるほど。

ならば、既に成立していることがわかっている合同式の両辺をr乗することも、許される。
(1)式の両辺をr乗すると、
(2・p1p2p3・・・pm)2r≡(-1)r(mod q)・・・(1')

これを(2')と比較する。
(2・p1p2p3・・・pm)2r≡1(mod q)・・・(2')

同じ法の合同式には、推移律、
ab(mod p)、かつ、bc(mod p)、ならば、ac(mod p)
が成り立つ。えっと、これも証明をお目にかけてもいいが(笑)、・・・、そんなことをするから、「私」は、嫌われる(笑)。

(1'),(2')より、
(-1)r≡1(mod q)

この式は、あくまでも『合同式』であって、普通の「等式」ではないのだから、やや慎重に扱おう。
左辺(-1)rは、rの偶奇性によって、次の2通りの場合があり得、かつ、それらしか、ない。
  1. rが奇数のとき、(-1)r=-1
  2. rが偶数のとき、(-1)r=1
だから、ここでは、rが偶数、と断定できる。「私」は、このくらい、くどく(笑)言わないと、理解できないのだから、仕方がない。
さて、rは偶数、であるから、これをば、ある自然数sを用ひて、r=2s、と置くこともまた可能なり。

ところで、
q-1=2r
であった。ということは、
q=2r+1=4s+1
なる自然数sが存在する、ことが、帰結する。
qは「素数」であることが前提だったのだから、だから、qは「4n+1型素数」である。

今ここで示された事実は、
qNの素因数であるならば、qは「4n+1型素数」である、
である。
「背理法」の帰結として、「私たち」、誰よ?、それ、が必要としていたのは、
Nが、少なくとも一個の「4n+1型素数」を素因数にもつ、
ということであった。
「身に余る光栄」、などという言葉があるが、まことに、求めていた以上のことが、示されてしまったのである。つまり、
Nの素因数はす・べ・て・、「4n+1型素数」ならざるを得ない、
と言っているのだから、・・・。

枝葉末節にこだわって(笑)、喋りすぎるからいけないのだが、いつも、「何の話だったか?」、わからなくなってしまう、が、もとの「背理法」の枠組みに、戻ると、
「4n+1型素数」が有限個しか存在しないと「仮定」して、その有限個の「4n+1型素数」を組み立てて、Nという数を作ってみたところ、Nは、その素因数として、存在するどの「4n+1型素数」とも異なる「4n+1型素数」を、もたなければならない、どころか、それし・か・、もつことができない、ことが帰結した。
これは「背理」である。なぜ、そんなことが生じたかを考えるに、「4n+1型素数」が有限個しか存在しない、なる「仮定」が、誤っていた、のである。だから、
「4n+1型素数」が有限個しか存在しない、は「偽」である、
「4n+1型素数」は無限に存在する、の方が「真」である、これが証明すべきことであった。

やっと、終わった。「4n+1型素数」は無限に存在する、ことを「知る」ことが、「実生活」上、何の役に立つのか?、という問いの立て方を、「私」は、しない。「実生活」、がどんなものなのか(笑)、「私」は、知らずに生きてきてしまった。「知って」いれば、「こんな」人生ではなかった(笑)、かも知れないが、人は、「知らない」ことについて、「述べる」ことが、できない。終わってみれば、どんなことでも、それなりの「達成感」がある。それが「数学」の、「治療効果」であることは、何度も、言った。お望みならば、フェデリコ・フェリーニ「道」の中で、「Il_Matto(狂人)」が拾い上げた路傍の小石、みたいなものだ、とまで、言っても、いい。
これが無益なら、すべてが無益だ、
その言葉が、ジェルソミーナGelsominaにとっても、R.D.レイン「引き裂かれた自己」(みすず書房)に紹介されている患者の一人にとっても、「救済」であったなら、それは、
「世界」には、何のた・め・に・存在しているかわからないものが、たくさん、存在する、
したがって、
何のた・め・に・存在しているか、を、「立証」しなくても、存在していて、か・ま・わ・な・い・、
ことを、宣言してくれたことに、尽きる。

フェリーニ「道」のDVDのパッケージの解説では、ジェルソミーナGelsominaが、精神障害者であるように説明されている。私は、まず一度、R.D.レインの患者をまねて(笑)、何度も、観たのだが、この映画を観たとき、そのようには、思わなかった。「寓話」、「説話」の登場人物を、「正常/異常」に区分せずにやまないのは、それ自体、自分だ・け・は、「正常」だと信じている者の「強迫観念」であろう、などと角の立つこと(笑)は言わずとも、そのような「常識的」な「まなざし」を、免れていた、どころか、画面に現れる、ロバや羊や、サーカス団だけに、象や、そんな「動物」ばかりに、気を取られてしまう自分が、既に「正常な」、「人間」から、「こぼれて」しまっていることを発見して、少しばかり、「嬉しかった」のである(笑)。
R.D.レインも、その患者が「自らを殺すことを、やめた」きっかけを与えたこの映画について、かなりページを割いて言及しているのだけれど、ジェルソミーナの「精神状態」を、「診断」するような、ことを、一言も書いていない、ことを確認して、改めて、「溜飲を下げた」、次第である。

この証明を初めて読んだとき、一行一行たどって行けば、なるほど、「ご説、ごもっとも」(笑)で、なるほど納得、せざるを得なくなるのだが、どこか、「腑に落ちない」ものを感じていた。よくあることで、これはもちろん私の「頭」が、あまり上等でない(笑)ことに由来するのだろう、もう、そんなことは「しなくてもいい」(笑)から、ほんとに助かった(笑)が、例えば、この内容で「授業」する自信が、私には、ない。
そこで、毎度のことであるが、「実例」で、「目にもの見せよう!」という訳である。

Basicでは6個目の「4n+1型素数」41、までについて、Nを計算できたのだけど、Exc●l、その「バッタもん」(笑)のKingSoft_SpreadShe●tでは、一つ手前37までが、精度の限界のようであるから、そこまでを「例示」としよう。
この世に、たった4個の「4n+1型素数」、5,13,17,29、しか存在しなかったとしよう。
N=4・52132172292+1=4107528101
は、その素因数として、37,173,641701なる3個の、ことごとく(!)、たった4個しか存在しないはずのいずれの「4n+1型素数」とも異なる、「4n+1型素数」であるものによって、構成されている。
この数は、37,173,641701のいずれでも割り切れるのだから、
N≡0(mod 37)  ,  N≡0(mod 173)  ,  N≡0(mod 641701)

私は、この式(1)が、「腑に落ちなかった」のである。「合同式」というものに慣れていないから、「等式」にまつわる常識から、二乗してどうして-1になるのさ!、と息巻いていた(笑)のである。
(2・p1p2p3・・・pm)2≡-1(mod q)・・・(1)

でも、ちゃんと「目にもの見せ」られた。
4107528101が37で割り切れるなら、4107528100を37で割ったら、そりゃ36余るだろ?
4107528101が173で割り切れるなら、4107528100を173で割ったら、そりゃ172余るだろ?
4107528101が641701で割り切れるなら、4107528100を641701で割ったら、そりゃ641700余るだろ?




「背理法」の証明、というのは、不思議な経験で、「現実」とは敢えて、「異なる」仮定の世界に、まず、入り込む、そして、それが「現実」と齟齬を来すことをもって、「仮定」の誤りを検出する。上でやったみたいに、「4n+1型素数」が有限個しかない、なる「仮定」の世界で、さらに、屋上屋根を重ねるように、「aqと1以外の公約数をもったなら」みたいな、「メタ・背理法」を、導入してしまうと、いったい何が現実だったのか?、の感覚が次第にかすれてきて、それはそれ自体として、「ハイ」、な感じで気持ちいい(笑)、と言えなくもないが、私たちは、「元の世界」に「戻る」、手綱、のようなものを、つねに、握りしめていないと、いけないのである。
「ゲーデル・エッシャー・バッハ」では、これが、「転調」の比喩で語られるのであるが、確かに、ある「主調」から曲が始まる、どこかで、「転調」する、また、「転調」の中で「転調」する、といったことが繰り返されたとしても、ひょっとしたら、聴く人は、曲の途中から聞き始めた人でも、「今は主調ではない」ことを検知できたりする。いつか、主調に戻り、「解決されて、曲が終わるに違いない、と、期待できたりする。なんでそんなことがわかるかというと、「今、主調ではない」なる「緊張感」が、作曲家をして、そんな「信号」を発せしめているからかもしれないが、まぁ、素養のない者の談義は、このくらいにして、・・・。
「ゼータ関数」というのはこんな形をしている。x=1ならば、「調和数列」である。

このxに、自然数ではなく、有理数ですらなく、さらに実数でさえない(笑)、複素数を代入する、などという無謀なことを(笑)、「リーマン予想」、それはなんだか、「素数」の密度にかかわりがあるらしいのだが、を考えるプロセスでは必要なのであるらしい。私自身は、特に「リーマン予想」とやらに関心があるわけではないのだけれど、理学部数学科に進学した元生徒さんと話をしていたら、やっぱりこの話題になって、やむなく(笑)、付き合うことにしたのだ。子供の「歓心を買う」ために、無理をする哀れな老人、という絵姿なのだが(笑)、「愛薄い」子供のなれの果て(笑)に相応しく、とくに文句はない。Amaz●nで、それに関する書物まで注文したから、もし、多少なりとも理解できれば、また、得意そうに話をしよう。本当に久しぶりに「人」と喋ったから、予想通り、翌日はものすごい「うつ症状」に見舞われて、猫を胸の上に乗せて、天井の模様を睨み付けているしかできない一日だったから、「自然数を、複素数乗、して、逆数を取る」、っていったいどうゆう計算なんだ?、と、夢うつつに考えてみた。では、「ゼータ関数」のxのところに、複素数z=a+biを代入する。

問題は、虚数単位のくっついている方なので、これをAと名付け、両辺の自然対数を取り、ふたたび対数の定義に従って、指数表記にする、相変わらず「頭悪そう」な作法だが、

ところで、「オイラーの定理」、数ある「オイラーの定理」のうち、「複素平面上での指数関数と三角関数の関係」に関する「オイラーの定理」だが、

これで、「ゼータ関数」の第k項の計算方法がわかったことになるのでは?、自信ないけど(笑)。
「Grapes」でグラフを描き、「Tiny_Basic」で計算してみた。

たとえば、z=0.5+2iの場合、第1項が(1,0)になるのは当然だから、第2項から第10項まで、各項の計算結果が図中の赤丸、時計回りに渦巻きを描いて中心に近づいていく。各項の絶対値および偏角は、次のようになるから、

kが増えるにつれて、x軸の正方向からスタートして「時計回り」に、動径を次第に小さくしていくのは、さもありなん(笑)。

 
第10項までの和を取ってみると、-1.09+0.06iとのことで、さらに、第1000項までの和が、最後の行にある、15.74+0.85i、・・・、もちろん、それに何の「意味」があるのか?、などという説明を私に求めても無理、というものであるが(笑)。

同様に、z=1+iの場合、

 

と、まことに「オチ」のない話になった。それでも、没頭している間は、もろもろの「苦痛」を(笑)、ひと時は忘れていられるのだから、「治療効果」は、あるのだ。
Amaz●nから、「『リーマン予想』を解こう、新ゼータと因数分解からのアプローチ」黒川信重(技術評論社)、が届いた。前回やってみた「ゼータ関数」、

xのところに、「直接」、何かの数値を「代入」する、ということ自体が、とても「見当はずれ」のものであったことを、はじめの20ページくらいを読んで、知った。いや、やってみても構わない(笑)のだけれど、それがあまり実りあるものではない、「失敗例」であることを、18世紀くらいの「人類」は(笑)、既に知っていたらしいのである。「素人」が、下手なことをすると、「火傷」する、好例なのであるが、しかし、「素人」以外の何物にもなれなかった(笑)、者にとっては、残念ながら、その教訓は意味をなさない。生まれながらの「玄人(くろうと)」はいないわけで(笑)、誰もがはじめは「素人」なのであるが、恵まれた環境、才能、または、努力、を通じて「素人」は「玄人」に、な・る・。
「恵まれた環境をもつ」∨(または)「恵まれた才能をもつ」∨「努力する」
という資格要件は、そんなに過酷ではない。前二者がなくても、ただ「努力」すればよいのだから、だから「世界」には、「私は『努力』した」ことを誇示する人々が、後を絶たないのである。「ド・モルガンの法則」によれば、その「否定」は、
「環境に恵まれず」∧(かつ)「才能にも恵まれず」∧「努力することも怠った」
私の見積もりでは(笑)、「私」と同じく、何事にに関してもことごとく「素人」でしかないままに、死んでいく「同胞」が多数派を占めることは明白なのだが、しかし人は、少なくとも「墓碑銘」には、彼または彼女は、「何者かではあった」と、刻ませずには、いないようなのである。そうでもないよ、「人々」は、決して「何者」でもないままに、たくさん、たくさん、死んでいったではないか?、うちの猫たちも、ただの一度も「何か」を、「残して」くれるよう、要求することなく、死んでいったよ。彼、または、彼女、達は、私の胸または腹に「でん」と乗っかり、「さぁ、腹を撫でろ!」と、要求しはしたが、「私を忘れないで!forget_me_not」とは言わなかった。
無限級数に対して「解析接続」、なる処置を施さねばならない、ようなのである。なぜか?、つまり、どうしてそうしなければならないか?、そうしなければならないことが、が、わかったか?、は、もちろん私にはわからないし、この書物も説明してくれている訳ではない。一つの例が与えられ、なるほど、それはその通りだ、と、「目にもの見せられた」わけで、どうしてそんなことが起こったのか?、については「狐につままれた」ままである。ここでは、その例を再録するにとどめるが、ところで、「狐(キツネ)」という動物は、見たことがない。人に憑依することで知られ、稲荷社の番人であり、油揚げを好む、とされる犬の近縁種、である。茹でた大豆を粉砕し、そのタンパク質を、にがりというイオン性物質を触媒として、熱変性させた食品が豆腐で、それを油で揚げたものが「あげ」であるが(笑)、そんな複雑な工程を要する食品を、「野生」の動物が好むとは信じられない。うちの犬たちに(笑)、あげを出したら、喜んで食べそうな気はするが、・・・。「トンビ(鳶)にあぶらげをさらわれた」なる表現もあるが、トビ(タカ科)なる猛禽類が、今しも豆腐屋から購入したばかりの、豆腐やあげをお鍋に入れてうちまで持ち帰ろうとすると、上空から急降下してそれをかっさらって行った、という謂いなのだろうが、近縁種のミサゴ(タカ科、英名Osprey、「オスプレイ」)が、魚を捕まえる見事な手つきを見ていると、あり得ないことでもない、と、思えてくる。狸(たぬき)、は見たことがある。京都の東山の、白川通より山側の、そう、鹿ケ谷(ししがたに)というくらいだから、かつては、シカが跋扈していたのだろう、のあたりを、深夜、歩いていると、前方に、何か「そわそわと」(笑)、歩いている者がいる、近づくと、排水溝に隠れてしまう、そう、ちょうど、今、遊水地でマングースに出くわすのと同じくらいの頻度で、私は、「狸」を、見ていた。もう「解析接続」なんて、どうでもいいので(笑)、昔話ばかりするが、自転車の荷台に巨大な水槽をしつらえ、そこに豆腐を浮かべて売り歩く豆腐屋さんは、ラッパのような楽器を奏でて自らの到来を告げる、私たちは、鍋を手にしてそこに集まるのである。川を越えて十分ばかり歩いたところにある「公設市場」の豆腐屋さんはしかし、「新進」の気風をもっていたようで、斜めにしつらえられた機械の上方の入り口に、一丁の豆腐を入れると、下方の出口から、なんと、ビニール袋にパッケージされた豆腐が出てくるのである。「私たち」は、そのディスプレィに惜しみない拍手を送り、もはや、お鍋をもたずに市場で買い物ができる「時代」の到来を、歓迎したのである。
さて、「狐につままれた」話であった。以下のような、「変哲もない」(笑)無限等比級数を考える。

この書物、「『リーマン予想』を解こう、新ゼータと因数分解からのアプローチ」黒川信重(技術評論社)、では、「ζ(ゼータ)」はギリシア文字で、ローマ字、つまりラテン文字の「Z」に対応するからだろう、大文字の「Z」は関数記号に用いられているから、混乱を避けるべく、ということだろう小文字の「z」は用いられず、複素変数を表すのに、小文字の「s」が使われるようなので、その通りにする。「狐につままれた」状態なのだから、偉そうに「改変」する自信はないのである(笑)。
無限級数の和、というものは、第n部分和の極限、として定義される、という事情は、複素関数であっても変わらないであろう。

これが収束する条件は、必要十分条件であるかどうかは知らない(笑)が、実数の世界ならば、-1<1/s<1、すなわち、s<-1またはs>1となろう。この条件を満たせば収束することは明らかだから、十分条件としては、というべきなのかな?、複素数の世界ではどうなのだろう?、つい最近聞きかじったばかりの「複素関数論」、素人ながらに考えてみるに、ある変数が、ある値に「限りなく近づく」、というときに、 のだった。

「ド・モアブルの定理」というのがあって、

ある複素数をn乗するとは、その絶対値|s|がn乗され、その偏角argsn倍されることであった。上の図の赤い円が複素平面上の原点中心の単位円、としよう。青い破線が、原点を通る実軸とθの角度をなすとすると、その半直線上の点は、ことごとく偏角θであるから、
r(cosθ+isinθ)
と表される。ちょうど単位円との交点のところが、r=1、そのわずかに内側にs、わずかに外側にs'をとってみた。

というわけである。これらをn乗する、つまり、2回、3回、と、繰り返し掛ける、様子を点で表してみた。はじめに単位円の「内部」にある点ならば、次第に動径を小さくしながら中心に向う渦巻、「外部」にあった点ならば、次第に動径を大きくしながら、外に向かって広がっていく渦巻、なるほど、 ここでは、1/sという複素数のn乗が問題になっているので、

というわけで、1/|s|<1、すなわち、|s|>1が、上の無限級数の収束の条件となる。
毎度のことながら、この本には、「|s|>1ですから、〜となります」と、さらりと一行で書いてあることを、これだけ「煩悶」(笑)しないと理解できないのである。しかし、頭が悪い、というのも、こんな風にいくらでも「煩悶」すべき事柄が「ある」、という意味で、「幸せ」(笑)、と言っても、いいのであろう?


で、「狐につままれる」のはここからなのだが、これが、この無限級数の「すべての複素数への解析接続である」というのである。そして、こともなげに(笑)、
「たとえば、

となります。解析接続する前の等比級数のままでは、

となって、解析接続後の正しい値-1とはかけ離れたものになっています」
などとおっしゃるのである。あれ?、絶対値が1より大きい複素数であることが収束の条件であり、その収束した形をもって式を得た、その式に、絶対値が1より大きいという条件を満たさない1/2を、代入していいのでしょうか?、と、「ど素人」は不安で仕方がない(笑)。ともかくは、「そういうものなのだ」と「受け容れて」、先に進むことにする。まだ、最初の20ページなのだ(笑)。

この本の著者の黒川信重氏は、数論、とりわけ「リーマン予想」に関する第一人者のようで、1952年生まれ、というから、間もなく定年、退官、なのでしょう。150年に及ぶ歴史をもつ「未解決問題」に、人生の多大の時間を注ぎ込んできた人ならでは、現時点で自分がわかっていることはすべて公開して、後進の研究に託そう、という切実な気持ちが行間から伝わってきます。いささかも失礼な意味でなく、これは「遺書」なのでしょう。人生に、何の「達成」もなかった(笑)私のような者でも、感動を禁じ得ません(笑)。
でも、天才数学者にはありがちなことだが、論述の随所に、当然だろ?、とばかりに省略された部分があるようで、頭の悪い読者には、やはり、ついていくのが大変だ。「この本は、中学生や高校生くらいの若い人がリーマン予想を解けるように成長することを目標に」と、はしがきにはあるが、まさか、そんな中学生、おらへんやろ?、でも、黒川氏自身は、「スターリングの公式」、

以前、ずっと前に、数理統計学の教科書の僅か半ページの証明を解読するのに、私は、多分、一週間ばかり、かかった(笑)、その証明方法を高校生の時に「発見」し、数学雑誌に発表した、などというのだから、さもありなん。
さて、いよいよ「リーマン・ゼータ関数」、

について、全複素数に対して「解析接続」をほどこすことになる。「解析接続」の意味するところが少しも理解できないままに(笑)。準備として、「二項展開」、ないしは「二項定理」の「拡張」が必要なようである。

nが自然数の範囲で定義されるこの「二項定理」を、なんと、全複素数まで、拡張する、というのだ。つまり、

カッコの中に縦に(n,k)とならべるのは「組み合わせ」の別の表記法だが、nを、自然数ではなく、整数、有理数、実数、どころではなく複素数まで拡張する、というのだから、もはや、「nこの異なるものから、k個選ぶ組み合わせの数」などという定義は意味をなさないから、この表記法をもって、「拡張された二項係数」とする、という訳だろう。同時に、Σ記号の終点が、当然と言えば当然、自然数nではなくなって、∞に代わっているが、これは、この「拡張された二項展開」においては、有限項では収束しないことになるからであるらしい。

の「類推」から、以下のように定義する、らしい。

私にはもちろん、それを証明する能力はないから、この「拡張された二項展開」が、「テイラー展開」の特別の場合だ、なる記述を手掛かりに、簡単な例で確認してみるにとどめることにする(笑)。


aに、複素数の範囲で、何を代入してもいい、というのだが、恐れ多いので(笑)、慎ましく、一つの「負の整数」と「有理数」でやってみるにとどめる。

テイラー級数展開(マクローリン級数展開)は、次のようなものである。


、と、、という二つの関数について、「テイラー展開」と、この「拡張された二項展開」とを、比較してみる。
  1. について
    • テイラー展開
    • 拡張された二項展開

  2. について
    • テイラー展開
    • 拡張された二項展開

なるほど、同じだ(笑)!、あまり感銘の深い(笑)ものでもないが、これらの無限級数展開を、有限項で止めたら、その関数の近似を与えるはずなので、グラフも作ってみた。
で、うまくいくと調子づくので、恐る恐る、複素関数にも手を出してみる。最もシンプルそうな(笑)、f(x)=(1+x)iというのでどうだろう?
  1. f(x)=(1+x)i  について
    • テイラー展開
      まず、オイラーの公式によって、

      これを順次微分する。

      後から気づいたが、こんな大袈裟なことしなくても(笑)、これ(↓)でよかったのだろうな。1i=1、言われてみればその通りだが、ちょっと気持ち悪く(笑)、てね。
    • 拡張された二項展開
なるほど!、・・・、それがどうした?、って話ではあるが、私はそもそも、何のためにこんなことをしているのであろう?
二年目を迎えると「失業者」も堂に入ったもので、・・・、ところで「堂に入る」が気になったので広辞苑に問い合わせたところ、「堂に昇り室に入る」ってことで、「学問が成就すること」であるらしい、なんだか出来のよくないジョークみたい(笑)、・・・、もはや、一日中、な〜んにもしなくても、何にもしないことへの「罪悪感」が希薄になってきた。何かをしなければ、という「強迫」も。もちろんそれが、必ずしも「幸福」な状態、とは言えず、ほとんどの場合、とても、「殺伐」としている(笑)のだけれどもね。
それでも、猫と戯れ(笑)てみたり、鳥のさえずる姿を見つけたり、それから、数式がうまく導出できたりすると、ひととき、「生きた心地」がするから(笑)、だから、生きている訳だ。
「リーマン・ゼータ関数」、

これを、「真に受けて」(笑)、sに、0,-1,-2、を代入すれば、それぞれ、



と、ことごとく無限大に発散するのであるが、いや、そ・う・で・は・な・い・、それらは、それぞれ、-1/2、-1/12、0、となるのだ!、との論証に、見よう見まねでノート数ページを費やした経過を、ここに再録するわけであるが、残念なことに(笑)、私は、それが、少しも「嬉しく」、ないのである。何故だろう?、私の愚鈍、愚直な(笑)「直感」は、「いや、それは、どう考えても∞だろ?」、と告げている、そ・う・で・は・な・い・、と言わねばならない議論の先が、ま・だ・、少しも見えず、かつ、それが「見える」ようになるまでの「残り時間」が、私には、もう、ない、ような気がしているから、きっと「不愉快」(笑)、なのだろう。この書物、
「『リーマン予想』を解こう、新ゼータと因数分解からのアプローチ」黒川信重(技術評論社)、
の、まだ、たった、40ページなのだ。これらの「基礎訓練」のはるかかなたにあるものが、「リーマン予想」、何を予想しているのかすら素人にはわからないこの「予想」は、おそらく、
「素数の分布は、それほど、『無秩序』ではない」、
という知見を人類にもたらしてくれるようなのだが、ちょっと待ってくれ!、「私」はそんな「注文」をした覚えは、ない!
という訳で(笑)、素数の分布を調べてみた、例によってBasicで。まだまだいけそうだったけれど、見ている方が退屈(笑)なので、とりあえず(笑)、3万まで。自然数N以下の素数の個数π(N)が、N/logeNに、近似的に等しくなる、

なる「素数定理」が19世紀末に、証明されているそうなので、それもあわせて計算してみた。残念ながら(笑)、何の感興もない(笑)、グラフが得られた。もちろん「何の感興もない」のは、私が「無能」だからである。


ついでに(笑)、副産物として、3万までのすべての自然数を、素数であるか、または合成数であるならばその素因数分解を示した数表も、同時に、当然であるが、得られた(笑)。印刷すればA4版で500ページ以上にものなる、決して、印刷されないことを望むが(笑)、これは私のささやかな「遺書」の一部として(笑)、公開しておこう。HTMLファイルである。下手くそではあるが、ソース・プログラムも一緒に。
多分私は、「それほど、『無秩序』ではない」、ことが、「気に食わなかった」、「世界」は、もっと「無秩序」であってほしかったのであろう。二十世紀の「発見」はことごとく、一見、秩序立っている事柄の背後に、「無秩序」が潜んでいる、ことの発見だった。「ブラウン運動」、しかり。ミクロ的な「無秩序」が、マクロ的な「秩序」を生み出す。しかし「マクロ」なまなざしは、決して「ミクロ」に近づくことが、で・き・な・い・。「不確定性原理」、「不完全性定理」、そう、「ポスト・モダン」は、「人間には、できないことが、たくさんある」という、「敗北宣言」の、一覧表だった。それが心地よかったのは(笑)、同じく「敗北」だらけだった(笑)、「挫折した」、元・革命派、の、感傷であるかもしれぬ(笑)、が、ともかく、ここに来て、今更、いや、ミクロ世界は、以外に、秩序がある、などと言われても、それは、「話が、違う!」のであった。
ずいぶん時間が空いてしまったが、では、始めよう(笑)。どうして時間が空いてしまったか、というと、「寝込んで」(笑)、いたからだ。食欲は減退したが、より正確にいうと、それは、「食べることさえ、面倒くさくなった」という事情であって、とくに身体のどこかが「物理的に」(笑)、故障したわけではない。眠ることしかできない。眠ることなら(笑)、いくらでもできる。だが、この「眠り」は、どこかに欠陥があるようで、少しも身体の「再生産」につながらず、空回りしているようなのだ。眠りに落ちたときと、目覚めたときの疲労感が、同じか若しくは、むしろ増大しているかもしれない。眠ることにさえ(笑)、「疲れる」のである。物凄く不快な「夢」、「お前の一生は、ほら、ここが、間違っていた」とばかりに、いちいち「検証」してくれるような「番組」(笑)が「三本立て」くらいで「上映」されるのだが、目を覚ますと、そんな「悪夢」でさえ、いとおしい、目を覚ましてしまったことがとても「残念」で、窓の外が白んで、鳥たちの「トワイライト・ソング」が聞こえる、「清冽な」一日の始まりが、しかし、「恐い」のだ。「外」の「世界」は、「悪意」に満ちていて、だから「恐く」て、とても外に出られない。でもその「悪意」は、例えばカフカの小説のように、何か「理不尽」、「不条理」なもの、という訳でもなく、「どうせ、私が悪い」(笑)、ことを、「私」はどうやら、熟知しているらしいのである。だから毛布を頭からかぶって、「人工」の「夜」を造り、もう一度眠りに退行しよう、とするのだが、どこかの段階で、あれ?、身体の方が既に「醒めて」しまっている。起き出すことができることを知るのである。ひどい夢ばかりの浅い眠りなのは、犬猫たちのトイレ掃除や、餌出しを怠っている、という「罪悪感」に由来していることは、当然、知っている。知っていて、なお、身体が動かなかったのだが、そうして、もはや、身体が動く、ということになってしまえば、「甘美な」罪悪感に(笑)浸っている訳にもいかず、長年使わずに放置されていた機械の錆びつき放題だった部品部品に、油を差しながら少しずつ力を加えてみれば、やがてゆっくりとではあるが、滑らかに、回転し始める、みたいに、「私」もまた、時間をかけて、動き始める。
冬から春にかけて、うちの何匹かの猫たちが、立て続けに亡くなったので、「私」は深い「喪」の中にある。そのことは、いずれ、書こう、「書くこと」が「喪」を完結するのである、トラウマ経験が、それを「吐露する」、「語る」ことによってしか「昇華」されないようにね。でも、「まだ」、それができない気がしているから、だから、「私」は、大して興味があるわけでもない「素数」の話に没頭している「振り」をしている。人が饒舌になるのは、決まって、「何か語るべきことが豊富にある」か・ら・、語るのではなく、決して語ることのできないも・の・に押しつぶされんばかりになっているから、何か、「他の」ことについて、延々としゃべり続け、そうでなければ「沈黙」、という暴力的な「空白」が生じてしまうことに、全力で抵抗するのである。それでも、没頭している「振り」をすること自体は、とても有効な治療法なのだ。ひとは、「嬉しい」ことがあるか・ら・、「笑う」のではない、「笑う」という顔面の筋肉の動きが、「嬉しさ」を誘発するのである。
すっかり少なくなってしまった犬猫たちの食事やトイレの世話は、拍子抜けするほど(笑)簡単に終わってしまう。そして、終わってしまえば(笑)、もう、ほかに、することがない(笑)、のである。人は(笑)、することが「ある」ことに喜びを感じ、「ない」状態は、不安や欠如の感覚をもたらすかもしれない。でも、空間を占有するものが失われ、何も「ない」という状態は、そこに如何なるものを再配置することも可能である、という意味において(笑)、「自由」である、と言って差し支えない。「ない」ことが、「自由」なのである(笑)。「私」は、そんな「自由」を満喫すべく、再び、惰眠に退行するのであった。
35年前の「応用数学」の教科書は、それほど理論的な「深み」を必要としない(笑)、工学部の学部学生向けのものだから、一つ一つがそれぞれ大部な書物として説かれなければならないはずの、「ベクトル解析」、「複素関数」、・・・、といった項目が一章に、いわばコンパクトに(笑)まとめられているので、便利ではあるのだが、ここで問題になっている「解析接続」なる概念は、どうも、その最終章、「複素関数の無限級数」のところに関連事項が書かれているような「気がする」、ところまでは、わかった。「ベクトル解析」の話が、面積積分から体積積分、「ガウスの法則」の手前のところで頓挫している状態だから、そこまでたどり着くのにあとどれくらいの時間が必要なのか?、そもそも、たどり着くことが、「残された時間」内に、できるのか?、思うに、「老いる」というのは、「時間」の「有限性」を知ることなのである。生命を、減衰振動y=Ae-ktsin(2πt/T)になぞらえるならば、ミクロな時間間隔では、単振動とみなしうる。毎日が同じであり、去年あったことは今年もある、でも、少し視点を後方に移動させると、「全体像」を見渡すことができ、明らかに振幅が小さくなっていることにあらためて気付くのである。「原理的には」(笑)、減衰振動も、振動を止めることは、ない。タンクの底に設置された蛇口を開けて水を流出させるとき、流出速度は、タンク内の残留量に比例する、とすれば、「原理的には」、タンクは空になることが、ない(笑)。水が最後の一滴(笑)、になったときでさえ、それに見合う圧力によって流出は続き、最後の一滴だったはずの一滴が、もっと小さい、新たな最後の一滴(笑)、になるだけのことなのだ。ところが、「実際には」(笑)、蒸発、とか、容器表面への付着、などという、「モデル」に盛り込んでいなかった要因によって、「最後の一滴」は、どこかで、「消えてなくなる」、つまり、「減衰振動」という「モデル」から、何か別の過程を記述する「モデル」へと、不連続的に、移行することになる。例えば、それが、「死」だ、と言っていい。

こうして、「有限」な時間に拘束されている「私たち」が、「無限」を構想できるというのは、何か落ち着かない(笑)感じがするのだが、「解析学」の書物には、たとえば、
1.99999・・・、という循環小数は、「実は」、2と同じなんである、
と、こともなげに書かれているものだが、「私」は、それが、どうも「身体感覚」として、納得できない気がしていた。

右辺の、「・・・」も、「lim」記号も含んでいない「平明な」式が、左辺の無限級数と、「同じ」ものである、という認識が、ひょっとして「解析接続」なる概念なのだとしたら、それは、
1.99999・・・、という循環小数は、「実は」、2と同じなんである、
と、同じ物言いなのでは?、と、素人ながらに、考えてみた次第である。さらにひょっとしたら(笑)、これが、カントールの「実無限」なのだろうか?、とも思う。「無限」は、常識的には、「限りなく××する」という「操作」を表す概念だから、「1」とか、「−1/2」とか、「√3」とか、・・・、そういった「数」とは、「階層」、「レベル」、「範疇」を異にするものであるべきところ、いや、そんなことないよ、「∞」も、「数」だよ!、と、「軽やかに」(笑)言って見せたのがカントールだったのかもしれないのだが、でもそれは、動物園の檻を順に見て回ると、キリン(ジラフ)がいて、バイソンがいて、オポッサムがいて、ワオキツネザルがいて、・・・、そこに、「動物」と銘打たれた生き物が収容された小屋がある、みたいな感じで(笑)、「唐突」であることを否めない。
という訳で、素人としては、特に、「実無限」を受け入れることに頑迷な抵抗を感じている、素人としては(笑)、 と、もちろん、おそらく(笑)正しくないに決まっている暫定的な「定義」を受け入れることにして、話を進める。

「リーマン・ゼータ関数」の、第1,2項だけを別扱いし、第3項以降を、かなり無理矢理な形で(笑)、「拡張された二項展開」を適用できる形に変形する。
m=n-1なる変数変換をほどこせば、

もう一度変数をnに戻して、

ここで、以下の、「拡張された二項展開」によって右辺第3項を変形するのだが、

以前、紹介したときには強調するのを忘れたが、この式の適用条件は、|x|<1、なんでそうなるのか?(笑)、は説明できないが、これも前に紹介した、有限項での近似、が、x=0の近傍でしか当てはまらないことから、一応(笑)、納得はできる。もし、|x|≧1なら?
|x|=1なら、そもそも「展開」の必要がない(笑)し、|x|>1なら、

とすれば足りる、つまり、

ということだろうか。
n≧2に対しては、だから上のような変形をほどこして、|1/n|<1となるようにしたのだね。相変わらず、「頭悪そうな」(笑)論述であるが、・・・。

さて、

を、もとの式に代入して、

ここで、nに関するΣと、kに関するΣとを、入れ替えてしまう。そうすることによって、n○○の項を、まとめることができるからであろう。

ここで一つの「循環」が生じているようなのである。複素数sに対して定義された「リーマン・ゼータ関数」ζ(s)が、

ならば、そのsに、ことごとく自然数kを加え、次のようにζ(s+k)を表記することも可能だろう。

これをば、今「拡張された二項展開」によって得られたばかりの上式の右辺に代入すれば、ζ(s)とζ(s+k)との関係式、ある種の「漸化式」、が得られるのでは?、との期待が生ずる。もう少し形を整え、つまり、Σ記号の始点をn=2にそろえて、

さて、代入する。

まだまだ先は長い。時間の有限なることを知らず、「いつまでもお元気で」生きるつもりの(笑)老人は、「少し疲れたので、続きは後からね」、と言って、筆を置く、ことが、できるのである(笑)。
では、得られたこの式、のΣ記号の部分、「拡張された二項展開」の部分を書き下してみると、

nCkの自然数nを、複素数aに拡張して、以下のように定義したのだから、


したがって、

さらに、

ζ(s)と1とが消えるから、これを消して、右辺第2項を左辺に移項する。

ここで、s+1=tなる変数変換をほどこす。

両辺を(t-1)で、割る。えぇっー?、そんなことしていいのか?、申し訳ないが(笑)、もう、よくわからないが、言われた通りに反復すると、ここでの「リーマン・ゼータ関数」の、複素変数sに関する条件は、その実部が正、すなわち、Re(s)>0、ということであるらしい。もちろん、めでたく「解析接続」なったのちは、平気で(笑)、s=0、だのs=-1、を「代入」してしまうことには、なるんだけどね。だから、ともかく、t-1=sは0ではないことにして、両辺をこれで割ることも許されることにしよう。

その上で、変数名をtからsに戻す。え、そんなことしたらまた定義域がずれる、と素人は不安でならないが(笑)、よいことにしよう。

左辺の1を右辺に移項して、一応、出来上がり。

さて、元来の(笑)ζ(s)は、Re(s)>0で定義されるのであった。ここで最後に得られた式の変数sは、実は一度t=s+1と変数変換したのち、そのtをふたたびsに読み替えたものだったのだから、ならば、新たなζ(s)は、Re(s)>1で、ちゃんと、定義域に収まっている。
右辺に現れるζ(s+k)ただし、k=1,2,3,・・・はどうかといえば、
Re(s+k)=Re(s)+k≧Re(s)+1、であるから、ますますもって(笑)、問題なく、定義されるではないか?、とは、もちろん素人の「憶測」である。

で、この式から、ζ(1)が求められる、と、またまたこともなげにおっしゃるのだが(笑)、さっきRe(s)>1と言ったばかりじゃないか?、仕方がない、そういうものなんだ(笑)、と納得することにして、
両辺に(s-1)をかけたうえで、s→1という極限操作を行う。第3項以下をΣ記号を使ってまとめると、

ここで、

であるから、と言われましても(笑)、これがどんな値なのかは一向に判らないが、ともかくこれが無限大となって、「0×∞」型の「不定形」にならない限り、上の式の右辺は、1に収束する、と言えることにはなるのだろう。つまり、

ここまででえられた「成果」は、以下の2式、本日は、ここまで。

さて、これ、下の囲みの中の、上の方の式、が、「リーマン・ゼータ関数」の、全複素数に対する「解析接続」なんだそうである。


というのは、次のような「論法」によるらしい。 こんな「無限後退」を繰り返して、結局、Re(s)について、無制限に、この式によってζ(s)を導ける、というのである。もちろん、この書物は、こんなまだるっこしい説明をしている訳ではない。「狐につままれた」(笑)ままの、「頭の悪い」一読者の「憶測」。

そして、その具体的な計算に、上の囲みの、今度は下の、極限の式、が必要になるようだ。では、始める。頑迷な素人の目には(笑)、どう考えても、以下のように、ことごとく無限大に発散する、としか思えない、ζ(0)、ζ(-1)、ζ(-2)、について。


と、こうして、ζ(0)=-1/2、ζ(-1)=-1/12、ζ(-2)=0、が、ことごとく、「導けた」、訳である。依然として(笑)、何も「納得」できない(笑)ままに、しかし、着実に(笑)、達成感は、あるのである。それは、これらの作業が、一つの、「労働」であったからであろう。
もう、当分「素数」の話なんか、うんざり、だったのだが、折悪しく(笑)、「素数の奏でる物語」(講談社ブルーバックス)なる書物が新たに出版されたようで、どいつもこいつも、「素数」と言えば、「音楽」だの「奏でる」だの、月並みな、安っぽい、比喩ばっかり使いやがって(笑)、と悪態をついていたのだが、「4n+1型素数」と「4n+3型素数」との性質の違い、を中心に据えて論じられているようだから、読まないわけにはいかない(笑)ではないか?
そうして、読んでみれば、まだまだ知らなかったことで、しかも、残念なことに(笑)、「興味深い」事柄がつぎつぎに現れてきてしまったから、また、始めることになってしまった。なんでも、

素数pに対して、√pの連分数展開は、循環する、

ことが知られている、そうなのである。しかも、その循環節の長さを調べてみると、これが、「4n+1型素数」と「4n+3型素数」とで、くっきりと際立って異なった特徴を示す、というのである。
pの連分数展開、というのは、次のようなものである。
連分数そのものの形をかくと、どんどん縦に長くなっていって大変なので、上の最終行のような表記法があるそうだ。そして、循環節がわかれば、循環小数の表記に倣って、頭に線を引いて表す。
Basicでプログラムを書いてみた。

循環節の長さがあらかじめ分からないのに、どこから循環が始まった、というのを機械に判断してもらうのは、ちょっと高度な方法、もしくは、大きな記憶容量が必要と思われるので避けて(笑)、とりあえず、q15あたりまで計算してもらうことにした。逆数を取って整数化、などということを繰り返すと、当然機械の内部ではある近似が用いられているはずだから、その誤差が蓄積してしまって、おかしな結果が出てきてしまう。だから15回に留めたのだが、それでも、暴走してしまう場合もあるようである。

そして、これが計算結果。例によって、「4n+1型素数」をグリーン、「4n+3型素数」をオレンジに色分け、長い循環節の場合は、これだけのデータで断定することはできないのだが、おそらく循環節と思われる部分に、ブルーの線をほどこした。赤い手書きの数字の書き込みは、循環節の長さである。なお、√37の後半、赤いばってんがついているのは、誤差が蓄積して生じたと思われるエラーである。
さらに、コンピュータの力を借りず、手計算でやったらどんな具合か、ということを御覧に入れるために、というか、プログラムが正しく動いているのか心配だったから(笑)、検算の必要があったので、一番循環節が長い√43について、示した。





さて、何がわかった(笑)か? あれ?、さっき、初めて読んだときは、とても興奮(笑)したのに、今は、「それがどうした?」ってくらいに冷めてしまった。
とりあえず、本日は、ここまで。
先日のと同じ、素数pに対して√pの連分数展開を、今度は、Excel、いや、その「バッタもん」のKingS●ftSpreadSheetでつくってみた。芸のない(笑)「コピー・ペースト」を繰り返すだけだから、存外、簡単だった。逆数を取って整数化、の繰り返しで誤差が広がる事情は、ここでもほぼ同じ、赤い線を引いた部分はそのエラーと思われる。同じく青い線が循環節。



循環する、ということは、当然「無限」回繰り返さない限り、その値にはならないわけで、もし有限回で止めたなら、それは「近似値」を表すことになる。無限に続く連分数[q0,q1,q2,・・・]において、それを、k+1番目で止めたもの、[q0,q1,q2,・・・,qk]を、「k次近似分数」と呼ぶのだそうで、それを、ak/bkと書くことにする。
√7と√13について、実演してみよう。別にいつまでやっても構わない理屈だが、√7は循環節の長さが4だから、「4次近似分数」まで、√13は循環節の長さが5だから、「5次近似分数」まで、求めることにした。





当然のことながら、次数を高くすればするほど近似の度合いがよくなる、真の値に近くなるのであるが、その近づき方が、興味深い。グラフにすると一目瞭然、オレンジが√7の近似分数、緑が√13の近似分数、青の実線が√7の真の値、青の破線が√13の真の値、横軸は次数。
奇数次では、真の値より低めに見積もられ、偶数次では、高めに見積もられ、それが繰り返され、「ジグザグ」に、収束していきそうな様子がうかがわれるであろう。



100未満の素数すべてについて、5次までの、「近似分数」を、計算してみたのが次の表。
それがどうした?、って感じで、今日のところは「ネタ」が尽きた。この「近似分数」の話が、「ベル方程式」x2-py2=±1なる2次不定方程式の整数解問題に、つながるそうなのである。


整数x,y、素数pに対して、
x2-py2=±1
なる2次不定方程式を、「ベル方程式」と呼ぶのだそうである。これが、どうして、√pの連分数展開とその近似分数に関係があるかというと、
pの連分数展開のk次近似分数をak/bkとする、すなわち、

「〜」は、近似的に等しい、の意である。そして、この近似は、次数が高くなるほど当然よくなるのであったが、真の値への近づき方は「ジグザグ」で、kが偶数のときは「低め」に、kが奇数のときは「高め」に、それぞれ見積もられるらしいことは、前回話した。この事実は、次に様に表現できるだろう。

ならば両辺を2乗して、

さらに分母を払えば、

ak2,bk2,pは、ことごとく整数なのだから、左辺、ak2-pbk2、なる式の値は、当然整数であろう。ならばこれを順次計算していけば、kの偶奇ごとに正負を入れ替えながら、ある整数値をはじき出してくれることになる。も・し・、その整数値が、±1に、た・ま・た・ま・、なることがあるのなら、当該ak2,bk2こそが、「ベル方程式」の解であることになる。そのようなことが起こるのか?、おこるとして、そこに何か法則性が見いだされるのか?

前回使用したKingS●ftSpreadSheetの数表を若干改良して、素数pの各値に対して、連分数展開[q0,q1,q2,・・・]、k次近似分数ak/bk、さらに、ak2-pbk2の値、をはじき出してみた。以下には結果だけを、「素っ気なく」紹介するが、いやはや、もし、これを、昔ながらの手作業でやるとしたら(笑)、A3版の、昔懐かしい「集計用紙」を、数枚、ということは広げれば畳半分くらいにはなろう?、どれだったかのバージョンのExcel対応の拡張子「xls」のファイルでアップロードしてあるので、ご用事のある方は(笑)、利用されたい。

p=2,7,13,43について、やってみた。近似分数を求める経過も、はじめの何項かだけ、紹介しておいた。

まず、p=2について。連分数展開の循環節の長さをtとすると、ここでは、t=1、それに対して、k=0,1,2,・・・、に対応するすべての、ak,bkが、「ベル方程式」の解になっている。
なお、k=20では、エラーが生じているようである。



次、p=7。連分数展開の循環節の長さtは、t=4、それに対して、ak2-pbk2の値もまた、-3,2,-3,1と、節の長さ4で循環するのが興味深い。したがって、この値が1となるのは、k=3,7,11,15,・・・、で、循環節の長さt=4を公差とする等差数列をなしているのである。−1となる場合は現れないようで、ということは、
p=7に対応する「ベル方程式」は、k=4j-1(j=1,2,3,・・・)なるak,bkを、解にもつ、と言えそうではないか?



p=13。連分数展開の循環節の長さ、t=5、であるが、ak2-pbk2の値は、-4,3,-3,4,-1,4,-3,3,-4,1と、節の長さ10で循環しているように見える。ただ、これを5項ずつに区切って、(-4,3,-3,4,-1),(4,-3,3,-4,1)の2グループに分けてみれば、あとのグループは、前のグループのメンバーを順番通りに並べ、ただ、ことごとく正負を入れ替えたものであることがわかる。広い意味で(笑)、循環節5と言ってもよかろう?
さて、この値が±1となるのは、k=4,9,14,19,・・・、で、循環節の長さt=5を公差とする等差数列をなしている。
p=13に対応する「ベル方程式」は、k=5j-1(j=1,2,3,・・・)なるak,bkを、解にもつ、と言えそうではないか?



最後に、p=43。連分数展開の循環節の長さtは、t=10、それに対して、ak2-pbk2の値もまた、-7,6,-3,9,-3,6,-7,1と、節の長さ10で循環する。この値が1となるのは、k=9,19,・・・、ちなみにk=20でエラーが出ているから、これ以上は確かめようがないが、おそらく、循環節の長さt=10を公差とする等差数列をなしているのだろう。−1となる場合は現れず、ということは、
p=43に対応する「ベル方程式」は、k=10j-1(j=1,2,3,・・・)なるak,bkを、解にもつ、と、やはり、言えそうではないか?



かくして次の定理が、もちろん、証明も何もしていない、「類推」のみであるが、得られたことになる。
素数pに対して、√pの連分数展開の循環節の長さをtk次近似分数をak/bk、とするとき、
j=1,2,3,・・・に対して、k=jt-1と定めると、
頭が悪い(笑)「私」のために、具体的に書き出してみると、

さらに、

今回は、とりあえず(笑)、ここまで。
「双子素数」、補遺。「素数」というのは、「1と自分自身以外に『素因数』を持たない数、ただし1は除く」、と定義される、と言ったが、考えてみるとちょっと悩ましいのは、「素因数」が、「素数」の「因数」である限り、そこからはあらかじめ1は除外されているのだから、この定義は循環を含んでしまうような気がする(笑)。「1とそれ自身以外では割り切ることができない数」、とでも言った方がよいのだろう。正式な整数論の書物がどういう書き方をしているのかは知らないが。それはさておき、素数である以上、それは、少なくとも「偶数」ではない、あ、まためんどくさいことになった(笑)、ただ一つ、偶数の素数、2、が存在する、だからそのめんどくさいのを除外して、「奇素数」と呼ぶ。ならば、その「奇素数」は、「1の位」が、1,3,5,7,9のいずれか、である、このうち、「1の位」が5であるものについては、必ず5の倍数であるから、5そのもの以外は、決して素数たりえない、ということは、「双子素数」、それは、隣接する二つの奇数がともに素数である、ということだから、その「1の位」は、「1-3」、「7-9」、「9-1」のどれかでなければならないだろう。
例えば、100までの「奇素数」で、「双子素数」なのは、(11,13)、(17,19)、(29,31)、(41,43)、(59,61)、(71,73)、に加えて、いわば例外として、(3,5,7)といういわば「三つ子素数」が存在する。

「三つ子素数」が(3,5,7)以外には決して存在しないことを証明せよ。
隣接する3奇数を取り出した場合、必ずそのうちの一つは3の倍数である。ところで3の倍数であってしかも素数であるのは、3そのもの以外に、あり得ない。よって、「三つ子素数」がもし存在するとすれば、それは3を含むものでなければならない。すなわち、(1,3,5)、(3,5,7)であるが、1は素数ではないので、(3,5,7)のみとなる。
以前、3万までの自然数について、素数判定、もしくは、素因数分解、を行うプログラムをBASICで作ったのを、得意そうに(笑)ご紹介したが、そのリストの末尾をのあたりを見ていると、なんだか、「9-1」型「双子素数」が多いように思われたので、いやはや、プログラム作成、というの、業としてそれをなすと、身体を壊して転職続きの「転落の人生」(笑)、となるが、失業者の独居老人には格好のkilling_time、時間つぶし、であって(笑)、でも、自慢ではないが(笑)、そんなに時間を潰すこともなく、ただ、あまり洗練された技法とも言えず、マイナーなバグも残っているのでソースをご紹介することはしないが、けっこう、簡単にできてしまった。で、結論として、「1-3」型、「7-9」型、「9-1」型、の、存在比率には、それほど目立った偏りは、ない、という、オチのない話、になったが、せっかく作ったので、掲げておく。