ずっと以前に、アーウィン・シュレディンガー「生命とは何か」を引用して、エントロピー増大則の「説明」を試みたことがあった。水でみたされた容器の片隅に、鮮やかな赤紫色の過マンガン酸カリウム溶液を滴下する。水槽は、時間が充分に経過すれば、何らの外的な働きかけなしに、均質な濃度になるだろう。それは、「自然が、均質であることを、望んでいる」という「擬人法」を経ずに、説明することができる。水槽をいくつもの薄い薄層に切り分ける。仮に一番左側の部分に過マンガン酸カリウムを滴下したとすれば、当初は、つねに、隣接する薄層間では、左側の方が過マンガン酸カリウムの濃度が高いことになるだろう。ただ単に、この事実のみから、左側の薄層から右側へ過マンガン酸粒子が移動することの方が、その逆よりも、より「起こりやすい」ことが想像される。濃度勾配が存在することが、移動の推進力になる。移動速度が、濃度「差」に比例する。「差」が大きければ移動速度も大きいが、移動そのものによって「差」は暫時解消され、移動速度は小さくなる。これは、タンクにためられた水が、タンク下部の蛇口から流出する様子を記述するモデルに似ている。水位に比例する流出速度を考えると、水位が小さくなるほど速度もまた小さくなる。水位をxとすれば、
v=-kdx/dt
この微分方程式を満たすのは、
x=x0e-kt
底が1より小さい指数関数である。「場所」に沿った濃度差が、「時間」に伴う移動速度変化に関与するのだから、この現象の記述は「場所(x,y,z)」と「時間t」を含む「偏微分方程式となるはずだが、それを扱うのは私の能力を超えるので(笑)、あとは、過度に単純化された例示でお茶を濁すことになる。水槽の中の、隣接したたった2層を取り出し、それぞれが、たった5個の粒子で形成されている。溶媒たる水分子「白玉」○、と溶質である過マンガン酸分子「赤玉」、としよう。最初、過マンガン酸カリウムを滴下した瞬間、左側の区画は、「赤玉」4個と「白玉」1個、右側は5個とも「白玉」という、濃度の「偏り」が存在した。これを「状態I」としよう。これが、一個の「赤玉」が右側に移動した中間状態、「状態II」、を経て、最終的に、両区画の濃度が等しく「赤玉」2個ずつである、「状態III」、になったとしよう。

各「状態」間の変化を、「二つの箱から『玉』を取り出して入れ換える」という操作に置き換えてみると、
「状態I」から「状態II」への変化が生じる確率は、左の箱では、5個のうち4個の「赤玉」のどれか1個を選び、右の箱では、どの「白玉」を選んでもよいから、4/5×1=4/5
「状態II」から「状態III」への確率は、左の箱では、5個中3個の「赤玉」から1個を選び、右の箱では、5個中4個の「白玉」を選ぶことになるから、、3/5×4/5=12/25
このようなことが続けて起こる確率は、したがって、4/5×12/25=48/125

ところが、これを、同じ2ステップで、いったん「状態III」になってしまったものを、「状態I」に戻すことを考えると、
状態III」から「状態II」、3/5×2/5=6/25
状態II」から「状態I」、2/5×1/5=2/25
したがって、6/25×2/25=12/625

と、実に1/20ばかりに、起こりにくいことがわかるのである。自然界では、現に「状態I」→「状態II」→「状態III」という「拡散」が生じ、その逆、「状態III」→「状態II」→「状態I」は起こっていない、という観測事実から、どうやら「世界」では、確率論的に、おこりやすい事柄が起こっている、「因果」の経路は確率論的に、起こりにくい状態から、おこりやすい状態へと、遷移していく、との想定が成り立ちそうなのである。このことの、今一つのさらに重要な含意は、「世界」は、不可逆的に、ある、一方向に向かって、いや、今更隠し立てはしなくてもいいでしょう(笑)、「世界」は、「崩壊」に向かって突き進んでいる、らしいのである。

熱力学第1法則は、「エネルギーの総量は保存されている」と言い、ならば、あるエネルギーが別の形に変換されたとしてもそれは、「元に戻す」ことが可能なのだから、その「変換」を「無限」にくりかえす可能性を保証してくれていたのだけれども、
熱力学第2法則の方は、そうではなく、変換には「方向性」がある、ある方向は起こりやすいけれども、その逆は絶望的に起こりそうにもない、ということは、「保存」と言いながらも、微小量であっても「散逸」を、決して防ぐことはできない、ならば、決して「保存」ではなく、「いつかは終わる」ものとして「世界」は、「設計」されていることを、知らしめてくれたのである。
ものの本によれば、「エントロピーS」は、こ・と・も・な・げ・に次のように定義されます。
S=klogW
どうして、こ・と・も・な・げ・、かと言うと、Wは、その状態が取りうるすべての場合の数、といったことが語られていたと記憶しますが(笑)、これは素人にとってはとんでもないことですね(笑)?、大して大きくもない容器の中に気体分子が閉じ込められている、などと言う設例にあっても、気体分子は、アボガドロ数の桁数、10の23乗、と言う個数で存在するのです。その分子が占め得る「ポジション」をすべて「数えよ」、と言われても、困惑せざるを得ません。10の23乗個の分子を「並べる」方法の数は、10の23乗、の階乗、になりますが、そんな数は、世界中の有数のスーパー・コンピュータでも、ならば、¥39,800のパソコンでは到底、計算できない値です。 それでも、私は、「知」の香りを嗅いでみたい(笑)、「下等遊民」ですから、前回紹介した、極端に単純化されたモデルについて、実際に場合の数を数えてみよう、と思いました。それ以外に、この式には、あと二つばかり疑問が残ります。どうして「対数」を取るのだろう?、「差」に「比例」した「速度」、を定式化した微分方程式の解が、「指数関数」であることが、それと関係しているのではないか?、と想像しています。あくまで想像で、正しいかどうか、わかりません。正しいかどうか、「死ぬまでに」、わかることもなかろう、とあきらめています(笑)。じゃあ、わかっている人に訊けばいいじゃないか?、ともいえますが、私は、それをしません。「じゃあ、消えてやるよ」の論理、の、人間だからです(笑)。もう一つの疑問は、比例係数kに関するもの、これは「ボルツマン定数」と呼ばれ、「気体定数R」を、「アボガドロ数N0」で割ったもの、と定義されます。理想気体に関する「状態方程式」は、
PV=nRT
左辺の次元は、[Pa・m3]=[(N/m2)・m3]=[N・m]=[J]、と、「仕事・エネルギー」を表すことがわかりますが、そうすると、「気体定数R」の次元は、[J/(mol・K)]となる。ならば、「ボルツマン定数k」の次元は、R[J/(mol・K)]を、N0[1/mol]で割ったもの、になる。次元が「1」と言うのは、単位が「ない」ということだ。「アボガドロ数」は、1molの集団がもつ粒子の個数、それはまさに「自然数・カーディナル数」、だから、「次元」を、もたない。という訳で、めでたく(笑)、「ボルツマン定数」の次元は、[J/(mol・K)]÷[1/mol]=[J/K]、と、なかなかシンプルなものになるのである。Wも「場合の数」であるならカーディナル数で、次元をもたず、その対数を取るというのは、ある「進数」に関しての桁数を取ることに他ならないから、ますます(笑)、次元は、ない。ならば、logWに次元はないから、「エントロピーS」の次元は、「ボルツマン定数k」の次元と同じ、[J/K]となる。ならば、「エントロピーS」に「絶対温度T」を乗じたものが、「エネルギー」の次元[J]、をもつことになるではないか?
ここまでで、一つの(笑)、準備は終わりました。少し、休憩(笑)、することにします。
では、前々回の設例、「左」と「右」、二つの区画に、5個ずつの粒子が占めるポジションがある。そして粒子の方はと言えば、全部でちょうど10個だが、そのうち4個が赤く、残り6個が白い○。この10個の粒子、「玉」を、「左」/「右」の2区画に配分する「場合の数」を数えたい。下図、左から順に、「状態I」、「状態II」、「状態III」、この順に「場合の数」が、飛・躍・的・に、増大してくれているなら、その対数に比例するはずの「エントロピー」なるものもまた、それほど飛躍的ではなくなるが(笑)、増大していることになるわけで、ならば「熱力学第二法則」の教えるところ、この順に物事が推移するのが「自然」であることになり、もって、「拡散現象」が、説明できたことになる、「下等遊民」としては(笑)、そのあたりで満足したいと思います。


「場合の数」を数・え・る・、と言う作業においては、数えるべきものを、「区別する」か「区別しない」か、が決定的に重要な意味をもちます。ここでは、「左/右」2つの「区画」、「区画」内のそれぞれ5個ずつの「ポジション」、そして、配分されるべき4個の「赤玉」、6個の「白玉」、それらについて、「区別ができる/できない」の属性付与をしておかないと、「数えた」ことにならない。
済んだ話(笑)、ですが、私は長年、予備校という所で、バッタもんの数学講師をしておりました。「大学入試センターテスト」の、数学Aでは、何年もの間、問われるのは、ある事象の起こる「確率」ばかりで、「場合の数」を答えさせるものは、ほぼ、出題されなかった。「確率」は、ある特定の条件下に生じる事象の「場合の数」の、全事象の「場合の数」に対する割合ですから、「区別ができる/できない」については、分子と分母で、同じ基準を採用していさえすれば、相殺されて、表立って問題化することがない。「区別ができる/できない」の条件についてくどくど説明せずとも、一意的な解答が得られ、コンピュータで採点して、「合否判定」ができる、穿った見方をすれば、「母に愛されなかった子」は始終「穿った見方」しかできないのですが(笑)、大学入試センターが、「確率」ばかり出題したのは、そういった「便宜」によるものと想像されます。そうなると、いきおい、「区別のつかない4個の赤玉がある」などと言う不可解な文言(笑)を、何の疑いもなく受け入れてしまう習慣が、私たちに、とりわけ「お子様たち」に(笑)、刷り込まれてしまう結果となり、いや、何が不可解か?、と言って、これは何度も言いましたが、もし、本・当・に・、「区別がつかない」、のなら、あなたは、それが4個あることを、決して知ることができなかったはずだからです、・・・、そして、そんなことは、今となっては笑い話だが、私がもたもたと、そんなことを悩みながら、いくつもの答案を黒板にしたためていると、「先生、私のやり方の方が、先生のやり方よ・り・『速い』です!」などと言う揶揄的な声が掛かり、教室全体の失笑を背中で受け止める(笑)、ということにも相成ったわけですね。
でも、今だから言うけど(笑)、それは違いますよ。ここには、「世界」が忘却している最重要論点が含まれていますよ(笑)。これも何度も言いましたが、私が20年来「数えること」についてこだわってきた論点に、灯りを当ててくれたのは、高木貞治の著書、「新式算術入門」(ちくま学芸文庫)に描かれた、「自然数の起源」の話でした。「ものを数える」には、数えるべき対象を、もちろん「区別」した上で、そこに「一対一対応」を維持しながら、自然数、この場合「順序数」を割り当てる。しかるのち、いったん「数え」終わってしまえば、もはや、個々の「対応」関係は、不要な情報であるから忘却され、最・後・に・数え上げた数字、のみが記憶に残される、これが「カーディナル数」である。

神戸の震災で、人が6千人亡くなった、という事実に動揺を受けた自分の心理を、説明できなかったのです。最初から6千人、だったわけではない。私たちは、毎日、テレビ画面の片隅に表示される数字を見つめ続けていた。それは、まさに、今・このとき、「数え」上げられている、一つ一つの「死」に、すなわち、かつては「生」であった個体に、「一対一対応」づけられた「順序数」だった。それが集計され、テレビ画面に表示された瞬間、たちまち「カーディナル数」となり、「区別のつかない6千個の」死体、となるのである。人は、自分が「知っている」他者の「死」にしか、悲しみの感情をもつことができないかもしれない。だって、「世界」では、今この瞬間も、物凄い数の「死」が生じているはずだから、それにいちいち「悲しんで」いたら、やってられない。でも、「知っている」、とは、何なのでしょう?、震災後、瓦礫の中から、一つ、また一つ、と死体を掘り起こし続けた、消防隊員、救急隊員、警察官、自衛隊員、ボランティア、の人たちは、その「死体」がかつてあった人たちを「知っている」わけではないのに、ちゃんと一つ一つの死体に対して、涙を流したに違いない。彼らは、ちゃんと、「区別ができる」ものとして、これらの経験を記憶にとどめているに違いないのです。
そんな「想像力」を与えてくれたのは、またしても、もっと、ずっと後のことですが、「擬猫法」(笑)、だった。最盛期(笑)26匹の猫を飼っていた。そのほとんどは亡くなって、でも今でも12匹いる(笑)。「のべ」30匹以上の猫たちの「死」を看取ってきた。道路でひかれてしまった野良猫の死骸を拾ってきて弔ったことも多々ある。私は、日々かすれていく記憶の中でも、それらの猫たちの顔つきや、毛並みの肌触りを、今でも思い出すことができ、名を呼ぶことができる。路上の死骸に対してでさえ、例えば「白黒で尻尾がちょっと長い」みないな暫定的な名を与えていた。つまり、それは、ことごとく「順序数」として記憶される死、だったのですよ。

神戸の震災の同じ年の秋に、沖縄で、12歳の小学生の女の子が、アメリカ駐留軍の兵士3人の暴行を受ける、という事件が起こった。12月に大阪でも、70年代以来空前の動員数をもって集会がもたれた。震災被害で改修作業中の扇町公園で、次々に壇上に登る沖縄からの代表団の声を聞いたことが、私が、今、「此処」にいることの、直接の、きっかけです。少女の「尊厳」を守ることができなかったことを悔いる、という当時の大田沖縄県知事の発言に、いささかの欺瞞があったとは決して思わないにもかからわず、私には、強い「違和感」が残りました。犯罪の被害者になれば「失われる」、「尊厳」というものを、うまく想像できなかった。今ならもう少し「上手に」説明できます(笑)。○日に一回、駐留米軍兵士による犯罪が発生している、という事実への「怒り」を共有することにやぶさかではないことを強調したうえで、しかしこの言明は、一つ一つの犯罪によってくわえられた「苦痛」を、「カーディナル数」として処理してしまっています。あなたの苦痛と、私の苦痛を、比較することはできない。比較することができる、と誤解しているのは、「世界」を、1次元数直線に対応付けられる「距離」を定義できる「空間」と、見誤っているからに過ぎない。あなたの苦痛を慰撫するための、ただ一つの可能な方法は、ただ、実も蓋もなく、身も世もなく、「悲しむ」こと、だけである。「悲しみ」を「怒り」に変えてはならない。「反撃への衝動」へと「昇華」させてもならない。「悲しみ」の、ただ一つの「正しい」使用法は、「悲しまれる」ことである。
で、舞台裏を明かすと(笑)、こんなことが考えられるようになったのは、かえすがえすも、私が、うつ病を発症したからなのでした。そりゃそうだ(笑)、「うつ症状」は、「対象喪失」に対する、「喪の身振り」の「反復強迫、なのだから。

沖縄に来て二年目の秋、辺野古の反対運動に「挫折」して、引きこもり(笑)、道路の真ん中に迷い出てきてしまった子猫を引き受けることになり、その頃ちょうど「セプテンバー・イレブンス」になったのです。台風16号が久米島上空を3回転半、くらい滞留して、丸々一週間ばかり、この島は機能を失っていた。まだ発症はしていなかったけれど、またしても「6千人の死者」、という「カーディナル数」を思い起こされることになりました。多くの人が指摘しているように、この事件に先行すること数年前に、ナイロビとダルエスサーラムの合衆国大使館に対する爆弾攻撃があり、現地人を中心とする、数百名の死者を出している。あなたが、「セプテンバー・イレブンス」に衝撃を受けた、というのなら、同時に、ナイロビとダルエスサーラムの事件には、「大して衝撃をうけなかった」事実について、証言する義務がある。その違いは、死者の数、数百人と6千人、という「カーディナル数」にあるのだろうか?、それとも、「アフリカ人」と「アメリカ人」で、「死」の「単価」が異なる、と、公然と認めることなのだろうか?

おやおや(笑)、ずいぶん話が逸れてしまった。エントロピー増大則など、ふっとんでしまいかねない勢い、それはそれでよい。三浦雅士も言うように、作家が決して想像できなかった領域に、作品自体が踏み込むからこそ、作品は「面白く」なるのである。しばらく、放っておこう、と思う(笑)。
さて、「区別ができる/できない」の属性付与、の論点に戻ります。
「左/右」、についてはどうか?、ここでの議論は、左の層から右の層への拡散現象のモデル、から出発しているのだから、「左/右」の「区別をつけない」というのはナンセンスですが、やってやれないことはない。下の図のように、もし、最初右の層に一滴の過マンガン酸カリウムを滴下したのなら、「状態V」→「状態IV」→「状態III」と遷移して、最終的には、やはり同じ平衡状態「状態III」に達したことになるだろう。「左/右」を区別しない、というのなら、「状態V」と「状態I」、および、「状態IV」と「状態II」は、同じ、であることになるから、すべての「場合の数」をカウントする際に、これらの重複分をカットすることになる。「I,II,IV,V」という「左右非対称」なものについては半減するが、「III」という元来左右対称なものはそのまま生かす、という、なかなか複雑な手続きを要するのである。

状態I
状態II
状態III
状態IV
状態V

またまた話が逸れてしまいそうだが、「原理的」(笑)な問題なので触れておく。上で見たように、「区別がつかない」条件の下で「場合の数」を数えるには、まず、「区別がつく」条件下の数え方をしてみた上・で・、そこから「重複分」を引き去る、という方法しか、「原理的に」(笑)、あり得ないのである。この順序は、不可逆、である。対象となる「もの」一つ一つを区別し、まことに「指折り数える」という如く、厳格に「一対一対応」を保持したまま、自然数を割り当てていく、そうして「順序数」が、ま・ず・、生まれ、数え終わったの・ち・に・、最後に唱えた数字をもって、「カーディナル数」、すなわち「濃度=集合の要素の個数」、としての自然数が、生・ま・れ・た・。「発生論的」に(笑)、この逆は、あり得な・か・っ・た・のである。調子に乗って、もう一つ例示を与える。数学の教科書では、ま・ず・「順列Permutation」が定義され、次・に・、「組み合わせCombination」が導入される。これもまた、逆にすることはできないだろう。
「A,B,C,D,E」と書かれた5枚のカードから3枚抜き取って左から順に並べよ。「抜き取る」動作が「並べる」操作に先行しているから、前者の方が単純なのだろう、と思いがちだが、「場合の数」を数えることに関しては、ま・ず・、並べてみる、しか方法がないことを知るのである。一番左に例えば、「C」を置く。「C」でなくてもよかったから、この操作は、5通りの可能性があった。その右隣には、「C」以外のすべてを置くことができるが、例えば「A」を置いたとしよう。選択肢は4通りあった。さらにその右隣には、「C,A」でなければ何でもよいから3通り。これら各段階の操作は、「独立」であるから乗法定理が成り立ち、これら三つの数字を掛け合わせればよい。5P3=5×4×3、は、こうして生まれた。これは、少し穿った(笑)見方をすれば、次のように解釈できる。もし、5枚から5枚全部抜き取って並べるなら、5×4×3×2×1、だっただろうに、最後の、2×1、をやめてしまっているのである。これはすでに、実際には並べなかった最後の2枚の並べ方についての「重複分」を除去する、という発想になっているではないか?、こうして、5P3=5!/(5-3)!、が、一般化して、nPr=n!/(n-r)!、が生まれた(笑)。ならば、「A,B,C,D,E」と書かれた5枚のカードから3枚抜き取る方法の数は?、これが「組み合わせ」であるが、なんと、こうして、いったん「並べた」後に、いや、実は、並べなくてもよかったのだよ、と言わんばかりに、「抜き取られた」3枚の並べ方、3!、は「重複分」であるから除去する。したがって、5C3=5P3/3!=5!/{(5-3)!×3!}、一般化すれば、nCr=nPr/r!=n!/{(n-r)!×r!}、を、得る。
どうやら「世界」は、まず「区別をする」、しかるのちに、「区別をしなかったとしたら」、と想像する、という「順序」でできているのではないか、と思われる。は・じ・め・か・ら・、「区別しない」、ことはできないのである。いくらでも「警句」めいたものが引き出せそうだが、そんな不用意なことはしない(笑)。「世界」を捉える私たちの思考に、やむを得ざる「順序」があるとしたら、それは、脳のハードウェア上の制限だと疑うことに、当然、なるだろうね。私たちは、このように考える、ことしか、できなかった生き物なのである。どこか別の星に、「順序数」より先に「カーディナル数」を、「順列」より先に「組み合わせ」を、定義できる知的生命体が存在しているかどうかは(笑)、知らない。こうなってくると、ならば、ほかならぬこの星で、発展した、と言われている「自然科学」というものが、一体全体「自然」を対象とするものだったのか?、疑わしくなってくる(笑)。私たちは、「自然」、「世界」から「人間」を引き去ったものを、そう呼ぶらしい、を「写し取る」ことなんかできやしない。

いやはや、話が逸れてしまいそう、どころではない(笑)、前回とはまた全然違う方向だが、完全に「逸れて」しまったね。それも、また、よし。今回はこの辺で(笑)。こんな簡単な「場合の数」を、一向に数えはじめないところを見ると、どうやら筆者は、「数える」ことを「恐れている」ようだ、と精神分析学は答えることになる(笑)。「先生のやり方より、私のやり方の方が『速い』です」、が、余程「トラウマ経験」になっているのだろうね、可哀想に(笑)。「子供」は、「傷つく」のは、「子供」の特権で、「大人」は、そうそうのことでは決して「傷つかない」と思い込んでいる。いや、そんなことないでしょ?、「大人」だってボロボロに傷つく、「子供」に傷つけられてボロボロになってしまった「大人」が山の様に存在している、っていうことに気づくのは、しかし、「子供」が、「大人」に、なってから後、なんだから、もちろん、私もそうだったんだから(笑)、文句は言わないよ。
もう、自分でもほとんど、何を喋っているのかわからなくなってきました(笑)。当初の目論見としては、 おそらくその二つの原因から、死体、はもとより、象徴的に「死」を想起させずにはいない、糞便、廃棄物、に対する強力な忌避感情が生じた。これらのも・の・を、共同体の「外部」に廃棄することで、「内部」を、禍々しい「死」の、文字通り「臭い」から、「浄化」された状態に保ちたい、という欲望が生じたんだと思う。平安京の中心部は、おそらく今の京都市の繁華街よりもっと西にあって、加茂川の河川敷である「河原町」は、死体を廃棄する場所だったと言われている。そこで死体の処理にかかわる作業に従事した職能民が、だから「河原者」と呼ばれた。おそらくこれらの人々は、死者の「荒魂(あらみたま)」を慰撫する霊能をもっている、と想像されただろうから、「畏怖」の対象であり、「聖別」された筈だ。だが、つねに「聖別」は、容易に「蔑視」に転化する。すでに「浄化」された「内部」に、これらの人々が入ってくることを、遠からず「忌避」するようになるであろうことは、想像に難くない。

断っておくが、これらの「知見」は(笑)、文化人類学その他の入門書レベルのものを読むだけで、いくらでも得ることができる。その意味では陳腐なものだから、まさかそんなものを「自慢」している(笑)、と思われると、少し不本意である。というのは、私がこれらの、私にとっては極めて貴重な(笑)「認識」に到達できたのは、かえすがえすも、およそ15年間にわたり、「人」との接触をほとんど断って「引きこもり」(笑)、常時10ないし20匹の「四足歩行哺乳類」・猫(笑)たち、とのみ「語り合って」暮らした経験の「精華」なのである。前にも言ったけれど、「臭わない猫砂」、「一週間換えなくてもいいペットシーツ」、「おしゃれなペット生活を演出する清潔猫トイレ」、といった技術開発に従事している研究者たちの努力には、十分な敬意を表するし、事実、それらの製品は素晴らしい効能をもっている。で・も・、いいですか?、多数のサンプルを取り出せば、その中には、必ず、「偏り」を示す個体が生じてしまう。現にこれらの商品も、市場に出される前に、「95パーセントの猫ちゃんが満足する○○」といった、「統計的検定」を経ているはずなのである。95パーセント、という数字は、実は伊達ではなくて(笑)、数理統計学的根拠を有している。十分大きなサンプルを取れば、あらゆる分布が、「正規分布」と呼ばれれる釣鐘型グラフで表される分布に近づく、と言われている。その分布形を仮定した場合、平均値プラスマイナス2標準偏差、のレンジに収まるのが、実に、ほぼ95パーセント、なのである。だから、「世界」は、95パーセントの「正常」と、残り5パーセントの「異常」で、できている、と、「工業社会」では、これはすでに常識なのである。

ならば(笑)、5パーセントの「異常」が「露見」してしまう最小限の母集団の個数は?、言うまでもなく、100÷5=20、ですね(笑)。聡明な読者には(笑)、もうお分かりいただけましたね?、猫が20匹いれば、少なくとも1匹は、「快適・清潔猫トイレ」を、決して快適とも清潔とも「思わない」(笑)、猫が、現れるに違いないのです。何年もの間、どうして、こいつは、こんな「快適・清潔・猫トイレ」を使ってくれないで、全然とんでもないところに、うんこをしてしまうんだろう?、と、まぁ、「悩みに悩み抜いた」(笑)、でも、過去15年のうち、いつ、その「悟り」の瞬間が訪れたのか、もう思い出せないですけど、あるとき、「どうでもいい」という達観に達したわけです(笑)。今では、ボロボロのうつ症状で足元ふらふら(笑)、起き上がって、一歩歩もうとしたら、あらら、うんこを踏んでしまった、という事態になっても、もう(笑)、大して、驚きません。生き物の「適応力」に、改めて感嘆します。そうでなければ、私たちは、生きてこれなかったでしょう。

そうして足の裏にこびりついた「うんこ」をぬぐいながら、慣れというものは恐ろしいもので、いや、これが、そんなにも「忌避」すべき物質なのだろうか?、とも思えてくる。子供の頃、ということは、ほんの(笑)半世紀前ですけれどもね、水洗トイレはまだ普及していなくて、近郊農家の人たちが、住宅地を回って「肥汲み」をしていました。肥料とすべき人糞を集めるのです。緑色植物は、空気中の二酸化炭素を、地中からくみ上げた水、を原料として、太陽光エネルギーを得て、それこそ極め付きの「エントロピー減少過程」たる光合成をおこない、糖を作り上げる。でも、自分自身の身体を成長させるには、どうしてもタンパク質の原料になるアミノ酸を、「外部」から取り入れなければならないのだ。その窒素分を、きわめて豊富に持つ「糞」を、どうして人は「外部」に廃棄するようになったのだろう?、「経済合理性」がそれを説明できないとしたら、残されているのは、「精神分析学」だね(笑)。私たちは、「恐かった」、のだよ。アミノ酸を豊富に含む「死体」と、「糞便」は、もとより、そのまま「地」に「返す」べきだった。それをコンクリートの暗渠に流し込んで、「見えなく」してしまうことをまず第一に考えたのは、「死」への恐怖によるものだった、と考えても、それほど的外れではないと思う。

おやおや(笑)、また、誰が何を喋っているかすら、わからなくなってきたからこのくらいにするね。もう一度、ちゃんと整理して、話しなおすことにする。
さて、「禁酒」もちゃんと、本日をもって8日目、続いているようなので、「素面」で改めて仕切り直し(笑)、極端に単純化された「拡散」モデル、の、「場合の数」を数えてみることにします。舌の図のように、溶液が、たった二つの層、「左」と「右」でできていて、それぞれの層が、たった5個づつの分子を収容することができる、とする。例えば「左」の層に過マンガン酸カリウムを一滴、ここではそれを4個の「赤玉」で表示する、滴下すると、層間の仕切りを越えて移動する確率は、まさに「たくさんある方が、たくさん」(笑)、というトートロジー、というか、駄々をこねているかのような理屈によって、順次「状態I」から「状態II」を経て、「状態III」に移行するだろう。「状態III」では、「左/右」の層間にもはや濃度差がないから、ここから逆に「状態II」、「状態I」へと遡行することは、経験上、ありそうもない。その「経験上の、ありそうもなさ」を精緻化したのが、熱力学第二法則・エントロピー増大則なのであろう?

状態I
状態II
状態III
状態IV
状態V

「エントロピーS」は、その状態のありうる「場合の数」Wの対数を取ったものの定数倍、と定義されるらしい。すなわち、
S=klogW
kはボルツマン定数でり、その意味を私は説明することができないが(笑)、Wが無次元数(カーディナル数)である以上、Sの次元はkの次元、すなわち、「エネルギー[J]/絶対温度[K]」に等しくなる。ということは、「エントロピーS」に「絶対温度T」を乗じた量は、「エネルギー」と比較可能な量として扱える、これは、後に使うから、黙って(笑)受け入れることにする。
そんな話の流れから、この極端に単純化された「拡散モデル」での、それぞれの「状態」の取りうる「場合の数」を数えてみようとし始めたところであった。「状態I」、「状態II」、「状態III」、の順に「場合の数」が大きくなるならば、確かに「自然」が「経験」上、遷移する方向が、ちゃんと「エントロピー」が増大する方向であることが、確認できるではないか、という訳であった。ちなみに、もし、「右」の層に過マンガン酸カリウムを滴下したのなら、「状態V」から「状態IV」を経て、やはり「状態III」に至って安定化したであろうから、「左/右」をひっくり返せば、ほぼ同じ議論ができるはずだ。

で、物事を「数える」際に、最も肝心なのは、その「数える」べき対象を、「区別できる」ものとして扱うか、もしくは、「区別できない」ものとして扱うか、という点である、と言いたかったところで、話が暴走して(笑)頓挫していたのであった。「区別できる/区別できない」、は、おそらく、それぞれ、「順序数・カーディナル数」に擬えることができるだろう、と想像している。
ここでは、「区別できる/区別できない」の属性を付与すべき対象として、 三つのレベルが考えられる。「ポジション」というのは、そうね、それを「区別しない」というのならば、単なる箱の中で「玉」がごろごろ転がって場所を入れ替えてしまっても気が付かない、という事態、「区別する」というのならば、スーパーマーケットで販売されている卵のケースのように、箱の中に5か所のくぼみがちゃんとついていて、ごろごろ転がらないようになっている、例えば下図のように、その5か所に、「名前」が付されている事態、である。


「左/右」を「区別しない」というのなら、それは「状態I」と「状態V」、「状態II」と「状態IV」、が実は同じであるから、重複分として一方は数えない、とすれば足りるわけで、しかも、ここでの「エントロピー」に擬えた議論にとっては、ちょっと話が逸れることになるので割愛し、 の二つのレベルについて、「区別する/区別しない」、計4通りの条件の下で算出することにする。すなわち(笑)、
ポジション\玉区別する区別しない
区別する(i)(ii)
区別しない(iii)(iv)
ここで、一休み。
先に計算結果を掲げてしまおう。
 (i)(ii)(iii)(iv)
状態I4!×6!×5C4×5C05C4×5C04C4×6C11
状態II4!×6!×5C3×5C15C3×5C14C3×6C21
状態III4!×6!×5C2×5C25C2×5C24C2×6C31
状態IV4!×6!×5C1×5C35C1×5C34C1×6C41
状態V4!×6!×5C0×5C45C0×5C44C0×6C51
具体的な数値としては、
 (i)(ii)(iii)(iv)
状態I86400561
状態II86400050601
状態III17280001001201
状態IV86400050601
状態V86400561
36288002102525
少し疲れて(笑)、少し飽きたので、説明は、次回、ということで。
では、例えば「状態II」を例にとって説明を試みる。

状態II
 (i)(ii)(iii)(iv)
状態II4!×6!×5C3×5C15C3×5C14C3×6C21
  1. 「ポジション」も「玉」も、区別がつく、という条件。

    「ポジション」に区別がつく、というのだから、上の図のように、「玉」・気体分子の存在しうる場所、各層に5個づつに、「名前」が付けられる。
    (左1,左2,左3,左4,左5,右1,右2,右3,右4,右5)、という風に。
    ところが(笑)、「状態II」という言い方にはもともとそんな含意がなく、ただ、「赤玉」が、「左」の層に3個、「右」の層に1個、ある、ということしか言ってない。そうなってしまうと、この図、
    状態II
    は、数ある「状態」の、一つの例示、ということになってしまう。
    (左1,左2,左3,左4,左5,右1,右2,右3,右4,右5)、という風に表記できるだろう。
    このたった一例について、今度は、「玉」に区別がつく、という条件の下で場合の数を計算し、そのうえで、他に同じく「状態II」に該当するものが、上の例示以外にいくつあるかを考慮し、その分だけ掛け合わせなければならないわけである。
    「区別のつく赤玉」が4個あり、これを、(左1,左2,左3,右1)の4か所に並べ、その一つ一つの並べ方に対して、これと「独立」に、
    「区別のつく白玉」6個を、(左4,左5,右2,右3,右4,右5)の6か所に並べるのであるから、4!×6!、なのである。このような「例」がいくつあるかといえば、
    (左1,左2,左3,左4,左5)の5か所から、「赤玉」を置くべき3か所を選び、これと「独立」に、
    (右1,右2,右3,右4,右5)の5か所から、「赤玉」を置くべき1か所を選ぶことになる。だから、5C3×5C1、もちろん、「白玉」について考え、5C2×5C4、としても、当然同じ値になる。
  2. 「ポジション」には区別がつくが、「玉」には区別がつかない、という条件。
    上の(i)の後半で、既に説明になってしまっている。「赤玉」に個性がないのだから、どの「赤玉」であっても同じだ、つまり、どこに置かれているか、だけが、問題なのだから、ただ「ポジション」を、「左」なら5個から3個、「右」なら5個から1個、選べばよい。「赤玉」が決まれば、残りを「白玉」に割り当てるだけで、決定する。だから、5C3×5C1、となる。
    「世界」を数えるには、まず「区別がつく」として数え、しかるのち、「区別をつけない」というのなら、重複分を差し引く、のが原則だ!、みたいに大見得を切ってしまったから、ちょっと引っ込みがつかないが(笑)、どうも、この問題に関しては、(ii)を原則として考える方が素直なようにも思えてきた。
    無理矢理言い訳をすれば、(i)で求めた、4!×6!×5C3×5C1について、実は、4個の赤玉の並べ方4!、および、6個の白玉の並べ方6!は、重複だ、と言えるから、割るのである、と言ってもいい(笑)。
  3. 「ポジション」には区別がつかないが、「玉」には区別がつく、という条件。
    箱の中のどこに置いてもいいのだから、「置く」以前に、置くべきものを選び出した段階で、話は終わっている。だから、例えば、「左」の箱に入れるべきものとして、「赤玉」を4個から3個、「白玉」を6個から2個、選べばよい。だから、4C3×6C2、となる。
    もちろん、「右」の箱について考え、4個の「赤玉」から1個、6個の「白玉」から4個、選ぶ、すなわち、4C1×6C4、としても当然、同じになる。「左」を決めれば、残りが「右」となって自動的に決まってしまう、同じく「右」を決めれば「左」が決まる、からである。
  4. 「ポジション」も、「玉」も、区別がつかない、という条件。
    さて、上の、(i),(ii),(iii)は、それぞれ「場合の数」こそ、異なるけれど、各「状態」の持つ場合の数の比は、ぴったり一致しているのである。
    I:II:III:IV:Vの比が、いずれも、1:10:20:10:1となっている。確かに、当初の目的、「状態I」から「状態II」を経て「状態III」に至る変化は、「場合の数」が、すなわち「エントロピー」が、増大する方向に沿って進んでいる、と言えそうである。
    ところが、この、どちらも区別をつけない、条件では、著しく様子が異なってしまう。「もの」から、「名前」を奪ってしまうと、それは、もはや、数、まさに、「カーディナル数」としてか、把握できなくなるのだ、ということが、よくわかる。
    ここでは、「状態II」は、例えば「左(赤3、白2)、右(赤1、白4)」、と言った記法で表されてしまう。「左/右」どちらの箱にも、「玉」は5つまでしか入らない、かつ、「赤玉」は全部で4個、「白玉」は全部で6個、と言う制限を組み込むと、実に、例えば「左」の箱に入れるべき「赤玉」の個数を、変数xとすれば、他の3数も、自動的に(笑)、xのみによって決定されてしまうのである。すなわち、
    「左(赤x、白5-x)、右(赤4-x、白6-(5-x))」
    ところで、xの取りうる値の定義域は、x=0,1,2,3,4
    なるほど、これですべて尽くされているから、それぞれの「状態」は、xという数の取り方、つまり、一通りずつ、ということになってしまう。もちろん、分子の拡散モデル、という目的からは、この「数え方」は度を過ごした抽象化であり相応しくないのだろう。現に、「状態I」から「状態III」で、少しも「場合の数」が増えないのだからね。ここで、それぞれの1という数字を5つの「状態」について加算して、5通り、ということ自体が、ナンセンスにも、思える。でも、どうしてナンセンスなのか?、と、問われれば、それほど簡単でもないような気もする。
    という訳で、これ以上深入りもできそうにないから、今回は、終了(笑)。

熱力学第一法則は、エネルギーの総量が不変である、と言い、熱力学第二法則は、いや、にもかかわらず、エネルギーの一部は必ず散逸してしまう、と主張する。矛盾したことを言っているように、もちろん素人には(笑)思えるのだが、矛盾していない、のだとすれば、「エネルギー」という同じ言葉で表されるものに、二様のものを区別し、一方は、完全に「回収」することが可能であるが、他方はそれが叶わない、「回収」できないから、実際は「使えない」のだけれども、それをも含めて「総量は不変」、と言っている、と「読む」ことになる。
「水は高きから低きに流れる」、と言うが、「高い」ところにあった水は、「重力による位置エネルギー(ポテンシャル)」というものを、たくさん持っていた、なぜなら、「高い」ところにあるためには、「誰か」が、エネルギーを出捐して、そこに運ばなければならなかったはずだからで、目に見えるわけではないその「仕事」が、何か「もの」に化体して、そこに蓄えられている、と、「物象化」して理解する以外、我々には(笑)、方法がなかったのである。これが「低きに流れる」ことによって、「重力による位置エネルギー」は失われるが、代・わ・り・に・、水は勢いを増す、それは、その「もの」が、今度は、「運動エネルギー」なるものに姿を変えた、と見ることになる。山本義隆氏が言うように、こんなことが、自然の観察から「素直」に導かれたわけではないだろう、何が何でも「保存」されている量があるに違いない、との「思い込み」がまずあって、一方が減った以上、別の何物かが、増えているに違いない、それを例えばここならば、「運動エネルギー」と名付けた、という事情であろう。ここまでが第一法則(エネルギー保存則)、であって、ところが、その勢いを増した水を導いて、何らの外部からの「仕事」を加えることなく、もとの高さまで戻すことは、決してできないのである。これが第二法則(エントロピー増大則)にかかわる部分で、ということは、エネルギーの総量が「減ってしまった」、といってよかったはずなのだが、そうは言わず、一部分が「散逸」したが、その「散逸」分まで含めれば、なお、総量は「保存」されている、といわば言い募った(笑)のである。

という訳で、どうやら、総エネルギーを、「回収」可能な部分、と、どうしても「散逸」してしまう部分、の和として論じるのが都合がよい、ということになったらしい。総エネルギーをH、またの名を「エンタルピー」、「回収」可能部分をG、「自由エネルギー」、そして、「散逸」部分が、どうやら、「エントロピー」と関連しているらしく、前に述べたように、「エントロピー」Sの次元は、「エネルギー/絶対温度[J/K]」であったことから、エントロピーSに絶対温度Tを乗じたものが、「エネルギー」で書かれた等式の一行に書き加えることが、一応、可能なのである。改めて断るまでもないが、私は、自分が決して「理解」していないことを「説明」しているから(笑)、もちろん、正しくない可能性は、大であるが、乗りかけた船だから(笑)、続けることにする。すなわち(笑)、

H=G+TS

移項して、

G=H-TS

ある反応が、自然の状態で、つまり「外部」からの介入なしで、生じるか否かは、この「自由エネルギー」Gが、反応の前後で増大しているか減少しているか、で、判断できる、というのである。
第一法則は、エネルギーHが高い、したがって、不安定な、状態から、低い、安定な状態に事態が推移することが「自然」である、と主張しそう(笑)なのに対して、
第二法則は、事物は、必ず、エントロピーSが小さい状態から大きい状態へ、複雑なものから、単純なものへ、確率の低いものから高いものへ、と、遷移することを主張する。
これら二つの要請が、一致する場合と、相反する場合とが、ありうる。

A+B+・・・→C+D+・・・

という化学反応式で、左辺は、ま・だ・、反応が起こっていない「まえ」の状態、右辺は、既・に・、反応が起こってしまった「のち」の状態、前者を「反応系」と呼び、添え字1で、後者を「生成系」と呼び、添え字2で表すと、

G1=H1-TS1
G2=H2-TS2

厳密には、反応の前後で温度が変わりうるが、簡単のために(笑)、簡単じゃないとわからないから(笑)、温度は一定、だから、Tには添え字がない。「後」から「前」を引き算擦れが、その差が「変化量」Δとなる。

G2-G1=(H2H1)-T(S2-S1)

すなわち、

ΔGH-TΔS

ΔHと、ΔSについて、その符号は、次の如き意味を表すことになるだろう。
 +-
ΔH吸熱発熱
ΔS増大減少
ならば、これらの組み合わせによって、自由エネルギーの変化量ΔGの符号は、次の如くになるはずだ。
ΔH\ΔS+-
++,-+
--+,-
今回は、ここまで。
自由エネルギーの変化量は次のように定義できるから、
ΔGH-TΔS
とすれば、絶対温度Tは当然(笑)常に正の値であるから、エンタルピー変化ΔH、および、エントロピー変化ΔS、の符号によって、ΔGの符号は、次表のように定まるだろう。
ΔH\ΔS+
(エントロピー増大)
-
(エントロピー減少)
+(吸熱)+,-+
-(発熱)-+,-
すべての化学種には、標準生成エンタルピー、および、標準エントロピー、という量が計測、ないし算出され、化学辞典風の書物には、それが掲載されているものらしい(笑)。その計測方法、算出方法については、私は、一向に理解していないから(笑)、もちろん、説明もできないが、そこは、やはり「乗りかけた船」ということで、「知ったかぶり」で済ませることにする。参考文献としては、「熱力学で理解する化学反応の仕組み」平山令明(講談社ブルーバックス)を用いた。

では、始めよう。まず、メタンの燃焼。

CH4(g)+2O2(g)→CO2(g)+2H2O(g)

「(g)」は、気体(gas)であることを表す。計算にかかる前に、予測してみる。まず、ΔHは?、そりゃ、「発熱」だろ?、じゃなきゃ、誰も「燃やし」たりしないだろ?、でも、考えてみたら、これだって不思議なのだ。地球の大気に充分な濃度の遊離酸素の層ができたからこそ、そもそも酸素呼吸を獲得した陸上動物が生じ、そのずっと後になって、人類なるものが「火」をエネルギー源として用いられることになったのだ。では、誰が、まず、初めに、酸素を作ったのか?、シアノバクテリアを始祖とする緑色植物である。で、後に述べるように、光合成によるグルコース合成は、「吸熱」かつ「エントロピー減少」で、「自然」には進行しない反応の典型例なのである。一体どうなっているのか?、結論を先取りしてしまうと面白くないが、小出しにしておくと(笑)、まさに、それは、「太陽のせいだ」、なのである。アルベール・カミュ、だったっけ?(笑)
それはさておき、では、ΔSは?、これも後に話すが、グルコースみたいな複雑な分子が、二酸化炭素と水、みたいな単純な分子に化けてしまう、というような反応では、「常識」的に、ああ、「複雑」から「単純」へ、確率の「低い」ものから確率の「高い」ものへ、なるほど、「エントロピー増大」であるな、などと判断できる場合もあるのだが、ここは、かなりいわゆる微妙で、あって、メタン、酸素、二酸化炭素、水、反応物も生成物も、いずれ劣らず、それほど複雑とは、言えなさそうな構造なのである。だから、計算が必要なのである。
前回式中で紹介した、HなりSなりを、それぞれ、標準生成エンタルピー、なり、標準エントロピー、そのものと読み換えていいのかどうかも、自信はないが(笑)、ここでもそれは、不問にしておく。
 標準生成エンタルピー
H1[J]
標準エントロピー
S1[J/K]
CH4(g)-74.8×103186.3
2O2(g)0205.1×2=410.2
反応物-74.8×103596.5

 標準生成エンタルピー
H2[J]
標準エントロピー
S2[J/K]
CO2(g)-393.5×103213.7
2H2O(g)-241.8×103×2=-483.6×103188.8×2=377.6
生成物-877.1×103591.3
したがって、
ΔH=H2-H1={-877.1-(-74.8)}×103=-802.3×103<0・・・(発熱)
ΔS=S2-S1=591.3-596.5=-5.2<0・・・(エントロピー減少)

なるほど、予想通りである。確かに、「エントロピー減少」とはいうものの、その変化量は、後に出てくるものと比較しなければ、何とも言えないはずだが(笑)、非常に小さいのである。
常温、室温、25℃、絶対温度としては、T=273+25=298、として、では、自由エネルギー変化量ΔGを計算してみると、

ΔGH-TΔS=-802.3×103-298×(-5.2)=-800750.4

となり、この反応は、「自然」に、進行することがわかった。メタンガスがあり、酸素が十分にあり、そして、適当な「火種」、反応の「きっかけ」さえあれば、爆発的に進行し、メタンか酸素かどちらかがなくなってしまうまで、「燃え」続けるだろう、という「日常経験」からの予想に、合致しているのである(笑)。
「エントロピー減少」という、「単純」から「複雑」が生み出される、その意味では「不自然」な反応なのだが、それを補って余りあるほどの、多大な「発熱」があるから、進行するのだ、と、解釈することになるだろう。

本日は、ここまで。この調子で、続ける(笑)。実のところ、そろそろ飽きてきている(笑)のだけれども、さすがに、大見得を切ったから、ここで投げ出すわけにもいかないからね。
尿素の合成、

2NH3(g)+CO2(g)→H2N-CO-NH2(s)+H2O(l)

「(s)」は、固体(solid)、「(l)」は、液体(liquid)、を表す。計算に入る前に、予測を立てよう。アンモニア、二酸化炭素、水、いずれも、かなり単純な分子構造であるのに引き換え、尿素は、相当複雑といえそうである。ならば、この反応は、「エントロピー減少」、ΔS<0、であって、ということは、もし、この反応が「自然」に進行するのだとしたら、これを補って余るほど、十分に「発熱」、ΔH<0、でなければならないことになろう。
 標準生成エンタルピー
H1[J]
標準エントロピー
S1[J/K]
2NH3(g)-46.1×103×2=-92.2×103192.5×2=385.0
CO2(g)-393.5×103213.7
反応物-485.7×103598.7

 標準生成エンタルピー
H2[J]
標準エントロピー
S2[J/K]
H2N-CO-NH2(s)-333.2×103104.6
H2O(l)-285.8×10369.9
生成物-619.0×103174.5

ΔH=H2-H1={-619.0-(-485.7)}×103=-133.3×103<0・・・(発熱)
ΔS=S2-S1=174.5-598.7=-424.2<0・・・(エントロピー減少)

同じくT=298として、

ΔGH-TΔS=-133.3×103-298×(-424.2)=-6888.4

という訳で、なんとか負であるから、「自然」に進行する、とはいうものの、先のメタンの燃焼の場合に比べて、ΔGの値は二桁ばかり小さく、その差は、いわば「吹けば飛ぶようなもの」と言える。残された操作可能な変数として、温度Tをもっと大きめに見積もってみると、ΔGは正の値になりかねない。もしそうなるとしたら、この反応、正反応は、「自然」には決して進行せず、反対に、尿素が加水分解してアンモニアと二酸化炭素になる、という逆反応が「自然」に進行してしまう、ということになるだろうね。ΔG=0となるTを算出してみると、

-133.3×103-T×(-424.2)=0
T=314.2

ということで、314.2-273=41.2、摂氏41.2度より高い実験条件では、逆反応が起こる、ということになろう。正反応が「発熱」なのであるから、その熱を逃がさないでいたら、実験装置の温度は当然高まる。つまり、低温で実験を開始したら正反応が進むが、やがてその反応が止まり、ある程度の高温になると、逆反応が始まってしまう。ちょうど、その臨界温度付近であったなら、反応は、どちらにも進まない、いわゆる「平衡状態」になる、と言えるのだろう。

次、とてもよく似た反応である筈なのに、対照的な挙動を示す、食塩NaClの溶解、と、塩化カルシウムCaCl2の溶解、を比較する。
NaCl(s)+aq→Na+(aq)+Cl-(aq)
 標準生成エンタルピー
H1[J]
標準エントロピー
S1[J/K]
NaCl(s)-411.2×10372.1
反応物-411.2×10372.1

 標準生成エンタルピー
H2[J]
標準エントロピー
S2[J/K]
Na+(aq)-240.1×10359.0
Cl-(aq)-167.2×10356.5
生成物-407.3×103115.5

ΔH=H2-H1={-407.3-(-411.2)}×103=3.9×103>0・・・(吸熱)
ΔS=S2-S1=115.5-72.1=43.4>0・・・(エントロピー増大)
ΔGH-TΔS=3.9×103-298×43.4=-9033.2
「吸熱」ではあるが、それを補って余りあるほど「エントロピー増大」の寄与が大きいから、「自然」に、進行する、という解釈になろう。

CaCl2(s)+aq→Ca2+(aq)+2Cl-(aq)
 標準生成エンタルピー
H1[J]
標準エントロピー
S1[J/K]
CaCl2(s)-795.8×103104.6
反応物-795.8×103104.6

 標準生成エンタルピー
H2[J]
標準エントロピー
S2[J/K]
Ca+(aq)-542.8×103-53.1
2Cl-(aq)-167.2×103×2=-334.4×10356.5×2=113.0
生成物-877.2×10359.9

ΔH=H2-H1={-877.2-(-795.8)}×103=-81.4×103<0・・・(発熱)
ΔS=S2-S1=59.9-104.6=-44.7<0・・・(エントロピー減少)
ΔGH-TΔS=-81.4×103-298×(-44.7)=-68079.4
こちらは、「エントロピー減少」ではあるが、それを補って余りあるほど「発熱」の寄与が大きいから、「自然」に、進行する、という解釈になろう。

今回は、ここまで。
塩化ナトリウムと塩化カルシウムで、その溶解の仕方がずいぶん異なるのは、何故なんだろう?
前者が、「吸熱」かつ「エントロピー増大」、後者が、「発熱」かつ「エントロピー減少」、だから、綺麗に反対になっているのだが、「吸熱/発熱」に関しては、実はそれほど大きな差はない。大きく寄与しているのは、「エントロピー」の方のようである。一方のナトリウム水和イオンNa+(aq)の「標準エントロピー」が、59.0、であるのに対して、カルシウム水和イオンCa(aq)のそれが、−53.1、え、プラスとマイナスなら、全然違うじゃない、という訳ではなくて(笑)、そもそも、標準エントロピーなるものの算出方法を私は知らないわけで、何をもって0の基準であるかがわからないから、そういう比較は成り立たない。
世に、「示強変数/示量変数」という概念があり、物理学でも、化学の得に平衡理論のところでは言及すべき場面があるから、「ばったもん」の講師であっても説明できなければならないはずなのだが、今だから言うが(笑)実は、よく分からない。少なくとも、ここでの、「標準生成エンタルピー」にせよ「標準エントロピー」にせよ、何かを基準に0を設定し、それより大きいものをプラス、小さいものをマイナス、としているのだから、これらの量に関しは、決して「割り算」を行って、一方が他方の何倍である、という議論をしてはいけないことは、わかる(笑)。

常識的に見れば、「水に溶ける」、というのは、例えば手に取ることのできるしっかりした「塊」であったものが、昔、歌の文句にあったが「とけてしまえばみな同じ」で、どこにあるかわからなくなってしまう事態だから、当然、複雑から単純へ、確率の低いものから高いものへ、の、「エントロピー増大」過程、と思いきや、塩化カルシウムに関しては、そうとも言えない、それほどに、このカルシウム水和イオンは、「秩序」性が、高いらしいのである。
なるほど、またまた、本題、そんなものがあったとして(笑)、からは外れるが、これはこれで興味深い。ナトリウムやカリウムは、「アルカリ金属」に属し、極めて「イオン化傾向」が高いから、イオンとして単独で存在するのが安定であるから、めったなことでは沈殿、すなわち不溶性の塩、を形成しない。だからこそ、生体内では、細胞膜内外を行き来できる、もっとも流動性の高い、電荷の担い手、として採用されているのであろう。これに対して、カルシウムは、「アルカリ土類金属」、その「イオン化傾向」は、「アルカリ金属」よりもやや小さく、それに対応して、炭酸イオン、硫酸イオン、などによって、容易に沈殿を形成する。言うまでもなく(笑)、炭酸カルシウムが石灰岩であり、硫酸カルシウムが石膏、である。もう一つ、リン酸イオンとも不溶性の塩を形成し、これが動物の「骨」の主成分である。「骨」が水に溶けては困る(笑)、のは言うまでもない。だから、次回、リン酸カルシウムの溶解反応が、「自然」には決して進行しえないことを見ることにする。

で、前回の数表から読み取れるのは、もう一つ、これもまた、アルカリ金属とアルカリ土類金属の違いを際立たせているものなのかもしれないが、 つまり、塩化カルシウムでは、あまり高温にすると、溶解が生じなくなってしまう。
ΔGH-TΔS=-81.4×103-T×(-44.7)
ΔGが0になる温度は、T=1821.0、摂氏1548度、ってことで、あまり現実的ではないが、・・・。塩化ナトリウムの溶解度曲線は、これは高校化学の資料集にも載っているが、ほとんど温度の影響を受けない横一直線、では、塩化カルシウムは、と調べてみたが、残念ながら(笑)、見つからない。ま、見つかったら見つかったで、また、いろんなこと考えなければならないから、面倒でもあるのだが(笑)、ま、そんなことが、「わかった」ってことで、今回はこの辺で。
では、生き物の骨が、そう簡単に水には溶けない、ことの説明をしよう。
Ca3(PO4)2(s)→3Ca2+(aq)+2PO43-(aq)
 標準生成エンタルピー
H1[J]
標準エントロピー
S1[J/K]
Ca3(PO4)2(s)-4134.6×103251.5
反応物-4134.6×103251.5

 標準生成エンタルピー
H2[J]
標準エントロピー
S2[J/K]
3Ca2+(aq)-542.8×103×3=1628.4×103-53.1×3=-159.3
2PO43-(aq)-1284.1×103×2=-2568.2×103-217.6×2=-435.2
生成物-4196.6×103-594.5

ΔH=H2-H1={-4196.6-(-4134.6)}×103=-62.0×103<0・・・(発熱)
ΔS=S2-S1=-594.5-251.5=-846.0<0・・・(エントロピー減少)
ΔGH-TΔS=-62.0×103-298×(-846.0)=190108.0
自由エネルギー変化量が、こんなにもでかい、正の値だから、この反応は、決して「自然」には、進行しないのだ。
リン酸カルシウム、なる、一見とても複雑な構造物に比べ、水和カルシウムイオン、なり、水和リン酸イオン、なり、の方が、はるかに「低エントロピー」、秩序立っている、との事実に、意外の感に打たれるが、水和結合、というものが、いかに強力化、またしても、「水」という物質の著しい「親和性」に由来しているのかも知れぬ、ということで、今回は、ここまで。
グルコースの分解、
C6H12O6(s)+6O2(g)→6CO2(g)+6H2O(l)



分子模型を一見するだけで明らかなように、反応物の一方であるグルコースは、生成物たる二酸化炭素、水、のいずれに比べても十分に「複雑」な構造物であるから、右向きの反応、正反応は、きっと、相当なエントロピー増大反応であることが予測される。
そして、この反応は、生体内でこそ、酵素を触媒としたゆるやかな反応ではあるけれども、「燃焼」なのであるから、これまたきっと、発熱反応の筈なのである。
だから、この反応は、「エントロピー増大」、ΔS>0、「発熱」、ΔH<0、であって、
ΔGH-TΔS
から、右辺の2項はいずれも負、操作可能な変数、絶対温度Tをいかにとろうとも、決して、ΔGを正にすることは不可能であることがわかる。
つまり、この反応は、「自然」に、ごく普通に(笑)、起こってしまう反応なのである。そこら辺にある(笑)、砂糖、というやつは、このグルコースと、もう一つその異性体であるところのフルクトースというやつが結合した、スクロースと呼ばれる分子なのだが、同じようなもんだと思いねぇ。化学反応には「きっかけ」、というやつが必要、難しく言うと「活性化エネルギー」というものが、最初の一撃、として必要で、だから、砂糖をお皿の上に置いておいただけでは、まわりにいかに酸素分子が豊富にあったとしても、いきなり燃え出したりはしない。そこで、きっかけ、として、マッチ、今どきそんなものを使う人がいる、として、で火をつけると、たちまち炎を上げて燃え上がり、上記右向きの反応がどんどん進行し、それは留まるところを知らず、ということは、反応物の一方である砂糖、スクロース分子が完全に失われるまで、燃え尽きるまで、この過程は、決して止まない。それが「自然」におこる、ということの意味である、だろうと思う(笑)。
数値で確認してみよう。
 標準生成エンタルピー
H1[J]
標準エントロピー
S1[J/K]
C6H12O6(s)-1274.4×103×2=-92.2×103212.1
6O2(g)0205.1×6=1230.6
反応物--1274.4×1031442.7

 標準生成エンタルピー
H2[J]
標準エントロピー
S2[J/K]
6CO2(g)-393.5×103×6=-2361.0×103213.7×6=1282.2
6H2O(l)-285.8×103×6=-1714.8×10369.9×6=419.4
生成物-4075.8×1031701.6

ΔH=H2-H1={-4075.8-(-1274.4)}×103=-2801.4×103<0・・・(発熱)
ΔS=S2-S1=1701.6-1442.7=258.9>0・・・(エントロピー増大)

室温、摂氏25度、T=298として、

ΔGH-TΔS=-2801.4×103-298×258.9=-2878552.2

という訳で、こうして自由エネルギー変化ΔGが、今まで見てきたどの反応よりも、その絶対値が桁外れに大きな負の値、となっていることをもって、この反応が、如何に「自然」に、起こりやすいか、が理解できる、というものであるが、そのさらに重要な含意は(笑)、ならば、この反応の逆反応、二酸化炭素と水からグルコースを合成する、という反応、
6CO2(g)+6H2O(l)→C6H12O6(s)+6O2(g)
が、絶望的に、起こりそうもない反応であること、なのであろうと思う。
ところが、まわりを見て見たまえ!、この反応こそが、そこいらの、変哲もない、それこそ「名もなき雑草」の如きが、、余談だが(笑)いい話なので書いておく、牧野富太郎氏は、この表現に激怒されるそうで、「莫迦なことを言うねぃ、名前のない草があるものか!、名前なら全部、俺が付けた!」、ということだが、・・・、日々、こともなげに(笑)、成し得ている「光合成」とは、生物学の教科書をひもとくと、「カルヴィン・ベンソン回路」なる複雑極まりない図表が掲げてあるが、その根幹を抽出すれば、まさに、この反応、グルコース合成、なのである。どうして、そんなことが、可能なのか?

「光合成」、を、「見た」、ことがありますか?、私はあ・り・ますよ(笑)。十分に日射しの強い昼間、海に入ってみましょう。この島のまわりを囲む裾礁、と呼ばれる珊瑚礁の先端、リーフエッジの内側の浅い海、特に砂地の場所ならば、ところどころ「海草藻場」と呼ばれる、「草むら」ができている。文字通り「草むら」のように見えるのは、この草が、トチカガミ科、という陸上の植物の仲間であるリュウキュウスガモという草だからでしょうね。徹底的な草食(herbivorous)の海生哺乳類ジュゴンの食草だから、沖縄の言葉では、「じゃんぐさ」と呼ばれる。ジュゴンは、「じゃん」とか「ざん」とか呼ばれるのだ。その草むらの中を泳いでいると、いたるところから、気泡が立ち上っているのが見える。そのリュウキュウスガモの、それこそ、そこらへんの地上の「雑草」と変わらないようにも見える緑の細長い葉の上には、おそらく「光合成」によって生じただろう、もちろん「光合成」にとっては、不要な「廃棄物」として(!)、気体の酸素の粒が、そう、絵姿としては、地上の草の葉に、朝露の水滴が結んでいるのと、ちょうど、図と地、液体と気体、を入れ替えたみたいな恰好で、無数に付着していて、朝露ならば粒が成長すると「重力」に耐えきれなくなって落ちるのだが(笑)、ここでは逆に、「浮力」に耐えられなくなって、水面に向かってゆっくりと昇り始めるのである。
それを初めて見たとき、何か、唯物論者にもあらず(笑)、「神々しい」などという言葉を思い浮かべてしまったのは、そもそも、もともと海水を詰めた「袋」が陸に這い上がったものに過ぎない「私たち」が、遺伝子の記憶する(笑)「等張液」の中にいるのだ、などと言う妄想、でもきっと「アルカイック」な根拠を有する妄想(笑)、に、いつもながらとらえられていただろうからだけれどもね。

間もなく、話が「佳境に入る」でしょう(笑)。「光合成」という、およそ起こりそうもない化学反応を可能にしているのは、た・だ・一・つ・、太陽光エネルギーの、無制限の供給です。地球は、決して「閉鎖系」なんかではあり得ず、ほぼ一方的、と言ってもいいほどの、もっぱらエネルギーを流入させるの実の「開口部」を大きく広げた「開放定常系」です。
中沢新一の聞きかじり(笑)によれば、かつて「重農主義者(フィジオクラット)」たちは、これをば、「純粋な自然の贈与don_pur_de_la_narure」と呼んだそうで、英語ならさしずめ、pure_donation_from_the_natureってとこでしょうか、「交換」に対して「贈与」を対置するのは、もはやおなじみの「ポストモダン」ではありますが、やはりここでも、この「太陽光」という「贈与」を、根幹に組み込みつつも、「隠蔽」することなく存続できなかったのが、ほかならぬ「資本主義」であったことが、明らかにされるでしょう(笑)。次回期待(笑)。