1943年に書かれた太宰治「右大臣実朝」には、実朝の存命中はまだ少年であった元「御家人」で、今は出家の身である者の語りとして、以下のような記述がある。もとより、何か、確かな出典があるのだろうが、私には分からない(笑)。早速(笑)、「ウラを取って」みた。偽Excellスプレッドシートの日付関数は、1900年より古くは辿れない。旧暦・干支のついたカレンダーをサービスしてくれているこのサイトを参照して、作表した。もとより、明治より前の元号は旧暦に対応したものであろうし、また、改暦の月日を確認したわけでもないから、ここでは新暦の西暦(笑)に、一律に対応させてある。

承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、・・・
同年。五月大。廿九日、丁卯、・・・
承元三年己巳。五月大。十二日、甲辰、・・・
承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、・・・
承元五年辛未。正月大。廿七日、辛亥、・・・
同年。十月大。十三日、辛卯、・・・
建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、・・・
「右大臣実朝」太宰治(青空文庫)

各年に割り当てられた「干支」、承元二年(1208)は「戊辰」、承元三年(1209)が「己巳」、同じく、承元四年(1210)「庚午」、承元五年(1211)「辛未」、建暦二年(1212)「壬申」、はその通りであるようだ。(参考:西暦・干支・元号)

承元二年の旧「二月」は「小」の月、同「五月」は「大」、承元三年「五月」が「大」、承元五年「正月」が「大」、同「十月」も「大」、まではよいが、承元四年「五月」は「大」、建暦二年「二月」は「小」ということに、このデータでは(笑)、なっている。なお、承元(じょうげん)から建暦への改暦は、承元五年の十月以降に行われたらしいことがここから分かる。

日付に割り当てられた「干支」はどうであろうか?
承元二年二月三日「癸卯」→「庚戌」であり、「癸卯」なら一週前の一月廿六日
承元二年五月九日「丁卯」→「甲寅」であり、「丁卯」なら約二週後の五月廿二日
承元三年五月十二日「甲辰」→「辛亥」であり、「甲辰」なら一週前の五月五日
承元四年五月六日「癸巳」→「己亥」であり、「癸巳」なら、約一週前の四月二十九日
承元五年正月廿七日「辛亥」→「丁巳」であり、「辛亥」なら、やはり約一週前の正月廿一日
承元五年十月十三日「辛卯」→「戊戌」であり、「辛卯」なら、同じく約一週前の十月六日
建暦二年二月三日「庚辰」→「丁亥」であり、「庚辰」なら、ちょうど一週前の正月廿六日、・・・

と、なんとも不思議な、微妙な、ほとんど規則的といってもいいような(笑)、ずれを見せている。同じ「干支」の日は、10と12の最小公倍数から、当然(笑)、60日、つまりほぼ二月に一度しか現れない、だから、一週間内外の「誤差」は、むしろ正確、の部類といってもいいことになろう?実朝の家来であった原著者の思い違い、太宰治の引用時のミス、あるいは、このカレンダー生成プログラムのバグ、原因は多々あろうが、いずれにしても(笑)、そもそも、この日記のような文書に、日付の干支を加えておく習慣が、後の歴史家が考証する際に、60日未満の誤差でのチェック機能を果たしていることを、知ることは出来たのである。