十九世紀に入っていきなり建国されたリベリアと異なり、エチオピアでは、ゴンダールを都とするキリスト教王国が連綿と続いていた。しかし王の権威は地に墜ち、ショア、ゴジャム、ティグレといった各地の豪族(ラス)が、土地と人民を支配する独立国のように割拠していた。この十八世紀から十九世紀半ばまでの戦国時代を、「諸公侯時代(ザマナ・マサフェン)と言う。これと同じ時期、ヨーロッパ列強はエチオピアを虎視眈々と狙っていた。東アジア、インド、イランとヨーロッパの結び目である紅海を支配するために、イギリス、フランス、イタリアがエチオピアに目を向けていたのである。


ゴンダールGondar、アムハラ地域、ショアはShewa、ゴジャム、アムハラ地域の南部にGojjamが見える、ティグレはTigray。
そのときタナ湖北辺の藩主であったカッサが、各地の豪族を平定して王国を再統一し、皇帝テオドロス二世として即位した(一八五五年)。テオドロス二世は、藩主を王の任命によるものとし、西洋式の常備軍創設、奴隷制の廃止、税制改革と矢継ぎ早の近代化政策を打ち出した。しかしヨーロッパ人の外交官や牧師を逮捕し人質にとったことから、イギリスと対立し、一八六八年、インド兵主体のイギリス軍との「マグダラの戦い」で大敗して自害してしまった。
この対英戦争でイギリスに協力したティグレの藩主が、テオドロス二世の後を継いで皇帝となりヨハネス四世を名乗った。ヨハネス四世の時代、エチオピアの周囲は侵入を目論む外敵であふれていた。紅海沿岸からはエジプト(ボゴス)、イタリア(マッサワ)、フランス(ジブチ)勢力が内陸部の隙を狙っていたし、東北方面はエジプトやスーダンのマフディ―軍と衝突していた。一八八九年のマフディー軍との戦闘で、ヨハネス四世は流れ弾にあたって戦死してしまう。ヨーロッパ列強が、エチオピア占領に食指を伸ばそうとしたとき、ショアの藩主メネリクが、皇帝メネリク二世となって、植民地化阻止に向けて動き始めた。彼は国力を増強するために、一方で近代化を推進し、もう一方で領土を、オモ人が暮らす南部へと拡大した。首都アジスアベバ(アムハラ語で「新しい花」の意)の建設、郵便、銀行制度の導入、鉄道、道路の敷設などが急ピッチで押し進められた。また新たに征服した南エチオピアには、軍隊を駐屯させながらアムハラ・ティグレ系の人々の入植を図った。これも一種の植民地支配であった。
「オモ人」、アフロ―アジア語族クシ語派の一つに、Omo-Tana languagesがある、これとは別かもしれない、Southern Nations, Nationalities and Peoples' Regionに、South Omoという地区がある、アムハラ・オロミア両地域にまたがる「ショア」Shewaから見れば南にあたる。
しかし、メネリク二世が最も力を注いだのは軍隊の近代化であった。王国の常備軍は九万人を超え、全部隊がライフル銃、連射機関銃、それに大砲などの近代装備を保有していた。これは他の地域では見られないことであった。とりわけ二〇〇〇人の在郷軍人が全軍隊であったリベリアとは対照的である。この武力を背景にして、メネリク二世は、イタリアの保護国化の要求を断固として拒絶した。その抵抗の頂点が、ヨーロッパに対する「ハンニバル以来アフリカが勝ち取った最大の軍事的勝利」といわれる「アドワの戦い」(一八九六年)である。この戦闘で一万七〇〇〇人のイタリア軍は、全部隊の四割を失い壊滅した。その結果、エチオピアの完全な独立が承認されたのである。
メネリク二世の死後、その娘が女王となり、若いラス、タファリが摂政役として政権を担った。タファリは一九三〇年に即位して皇帝となった。ハイレ・セラシエ一世である。この若き皇帝は、一九七四年、皇帝の座を追われ死亡するまで、近代的開明君主と封建的大領主という矛盾した二つの側面をあわせもちながら、長期間、独裁的な執政を続けてきたが、そのあいだエチオピアの社会構造は基本的には変わらなかった。それは、皇帝を頂点として、皇帝に任命された州知事、州知事に任命された藩主あるいは郡長官というピラミッド型の構造であった。藩主にはグルトと呼ばれる、各世帯から税金や労働力を調達する権利があり、恣意的に人々から余剰を奪い取った。さらに藩主から臣下に与えられた広大な土地では、五〇〜七〇パーセントという法外な小作料が課された。こうした封建的な貢納関係が、のちにエチオピア帝政を自壊させた最大の原因であった。
一九七三年から七四年にかけて、農村は旱魃による飢餓、都市は食糧難と物価高騰と、エチオピア社会は深刻な危機に直面した。七四年二月には首都アジスアベバで労働者、市民、学生の大規模な自然発生的デモが起こった。各地の兵士がこれに合流すると、革命の実権は若手将校団が掌握した。九月にハイレ・セラシエ一世を退位させた彼らは、社会主義路線を標榜し、主要産業の国有化や農地解放などの急進的改革を次々に打ち出していった。七七年には強硬派のメンギスツ・ハイレ・マリアムが国家元首となり、ソ連やキューバの軍事支援を背景に、マルクス・レーニン主義に基づく国家建設を推進していく。その一方で、反政府勢力や分離運動を武力で弾圧する強権的支配を続けたため、各地で不満や反乱の火種がくすぶり始めた。
八〇年代末期、ソ連邦の崩壊が始まると、スポンサーを失ったメンギスツ政権は急速に脆弱化していく。これをみたティグレ人、アムハラ人、オロモ人などの反政府勢力は協力して、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を結成して反撃を開始した。ついに一九九一年五月、首都に進攻し新政権を樹立した。
ティグレ人民解放戦線(TPLF)を中核とする新政権は、地方分権、民族自決を保障する連邦共和国制を導入した。それは、各民族集団に連邦離脱の権利を与える画期的なものだった。ヨーロッパが定めた国境に沿って国家建設を行うことを自明として来た、これまでのアフリカ諸国とは異なった新たな実験が、新生エチオピアで始まったのである。
その結果、一九九三年五月には、圧倒的多数(九九・八%)の住民の支持を得て、人口二百万のエリトリアがエチオピアからの分離独立を達成した(首都はアスマラ)。TPLFとともに反メンギスツ戦争を戦ったエリトリア人民解放戦線(EPLF)主体の新政府は、両者の同志的関係を基盤にして、エチオピアとの善隣友好関係を引き続き発展させている。
「新書アフリカ史」宮本正興、松田素二(講談社現代新書)1997年初版
この書物の、この部分の執筆者は、大学時代の、「赤ヘル」(笑)の先輩なのでした。文学部の大学院で社会人類学を学び、たびたびアフリカへの調査に出掛けられているらしいことは風のうわさで聞いていましたし、この書物が出版されたときも手には取ってみたものの、読むには至らなかった、先日、古本屋で捨て値で売られているのを発見。記憶の中にあるその人は、「民族解放社会主義革命」の強力な信奉者であり、従って、世界中の共産党は、ことごとく「スターリン主義」に毒されている、(自分たち以外)、とでも言いたげなナイーブな見解を、痛烈に嫌っていて、従って、たとえば、当時「勢力争い」の相手であった中●核派、などからは、蛇蝎の如く嫌われていた。彼らが遠巻きにしている集会などでは、ことさらに、「プロレタリア国際主義の深紅の真赤な紅旗を高々と掲げ」などと、ぶち上げ、あれ「赤」が多くない?(笑)、私たちも、惜しみない拍手を送ったものだった。上の記述にも「同志的関係」などという言葉も飛び出して、個人的には、失礼な物言いだが「懐かしい」印象を禁じ得なかった。エチオピアが再びエリトリアと戦争状態になるのは、この書物の出版後の1998年だから、この章が、ちょっと楽観的すぎる文体で終わっているのも、致し方ないことでしょう。 Small Wars, Small Mercies: Journeys in Africa's Disputed Nations/Jeremy Harding(Penguin)という書物があって、これは1993年に出版されているようだが、おそらく神戸か京都の丸善の店頭で見つけたのだろう、沖縄に来る少し前に、ちゃんと、全部、読んだ。今調べて知ったところでは、1952年生まれのイギリスのジャーナリストらしいが、アンゴラ、ナミビア、西サハラ、南アフリカ、モザンビーク、エリトリア、いずれもまだ内戦が続いていたそれぞれの「戦乱の地」に自ら訪れて、書かれた紀行なのである。今のようにインターネットはないから、かろうじて、当時偉そうに(笑)読んでいたJapan Timesは、「右派系」と言われはするものの、外電に関しては、朝日や毎日よりもずっと豊富であったから、それぞれの戦場の当事者たる、党派のアルファベットのイニシャルは、全部知っていたし、それらを、ソ連系、親中国派、親米派、などと、色分けることもちゃんとできたけれど、「世界」は、そんな「色分ける」ことで「理解」出来るものではないことを、教えてくれた貴重な書物であった。エリトリアに関する部分の、冒頭の部分だけを、引用してみよう。
Jeremy Harding(1952-)
1991年5月、エリトリア人民解放戦線はアスマラに入った。それまで30年にわたってエリトリアを占領していたエチオピア軍は、潰走した。エチオピア人たちは、市の南部に塹壕を掘り、守りを固めた。ここ、アファルバの街を取り囲む丘で、エチオピア軍の6つの分隊と、スパルタキアットと呼ばれるエリート特殊部隊が、戦闘中に壊滅した。エリトリアの勢力が首都へ進軍すると、何千人というエチオピア部隊は、あっさりと諦めた。大部隊が、ケレンへ向けて北に敗走したが、途中で捕捉され、多くが路上で死んだ。
In May 1991 the Eritrean People's Liberation Front entered the city of Asmara. The army of Ethiopia, which had occupied Eritrea for thirty years, was routed. The Ethiopians had dug fortifications to the south of the city. Here, in the hills around the village of Afalba, six Ethiopian divisions and an elite commando known as Spartakiat were destroyed in combat. As the Eritreans advanced on the capital, thousands of Ethiopian soldiers simply gave themselves up. A large contingent fled north to Keren but their retreat was cut and many died on the road.
Afalba、不明


エリトリア人たちは、アスマラを取り戻すべく、1961年から、戦ってきた。1950年代、エリトリアは、エチオピアとの間に連邦国家を形成していたが、後には、端的に、併合された。30年に及ぶ戦争の間に、およそ、5万人の男女のエリトリアの兵士が、戦闘中に死亡、しかし、飢饉、疫病、あるいはエチオピア軍の空爆によって死亡した民間人の数は、それを凌駕する。何年にもわたって、ハイレ・セラシエ、エチオピア皇帝にして、王の中の王と呼ばれる人物、は、サハラ以南アフリカ地域に対して、アメリカ合衆国が割り当てた援助資金の半分以上を受け取ってきたが、それらのうちのかなり多くの部分をエリトリアとの戦闘に費やした。しかし、1974年に、この皇帝の体制を覆した軍事政権を支えるべく、ソ連邦がつぎ込んだ資金に比べると、ワシントンによる皇帝への支援など、小さく見えてしまうぐらいだった。1978年までに、エリトリア側は、北部の不毛の山岳地帯に追い込まれてしまっていたが、彼らは、そこに10年間、ほとんど誰に知られることもなく、とどまり続けた。1988年、彼らは決起し、アファベットの要塞を占領した。当時、アジスの政府の崩壊は、もはや時間の問題となっていたから、エチオピア内部でも、他の反乱軍組織が、戦闘に加わって来たし、モスクワはと言えば、もはや、その崩壊しつつあるかつての顧客を救済する、熱意も、また、資源も、持ち合わせていなかった。
The Eritreans had been fighting to regain Asmara since 1961. Eritrea had been federated with Ethiopia during the 1950s and later, annexed outright. In thirty years of warfare, around fifty thousand Eritrean men and women were killed in action, but many more civilians died as a result of famine, disease and Ethiopian aerial bombardment. Over the years, Haile Selassie, Emperor of Ethiopia and King of Kings, had received more than half of the United States' military allocation to sub-Saharan Africa, of which he spent a good deal in Eritrea. But Washington's support of the Emperor was small compared with the funds which the Soviet Union would bestow on the military regime which overthrew him in 1974. By 1978 the Eritreans had been pushed back into the barren mountains of the north, where they remained for ten years, in virtual obscurity. In 1988 they broke out and took the garrison of Afabet. The collapse of the government in Addis was by then only a matter of time: battle had been joined by other rebel fronts inside Ethiopia, and Moscow had neither the enthusiasm nor the resource to save its foundering client.
アスマラは、ほぼ一年以上にわたって包囲されたが、エリトリア側としては、なるべく破壊を最小限にしたかったので、しかるべき時期が来るまで、南部と東部という二つの戦線を維持しつつ、待つことにしたのだ。解放戦線が到着すると、街中が興奮に包まれた。町の住人たちは、戦車やトラックに這い登って、戦士たちを抱擁した。エチオピア軍が、撤収と同時に街を焼き尽くすぞと、どれだけ彼らを脅迫したかを、彼らは語った。彼らは、エチオピアによる占領を示すシンボルを次々に引きずり下ろし、反乱軍の部隊に、食べ物や飲み物をもってきた。
Asmara had been surruonded for over a year, but the Eritreans wished to take it with a minimum of damage and so they waited, disposed along two fronts, to the south and the east, until the moment was right. Delirium broke out in Asmara as the Liberation Front arrived. The townspeople climbed on the tanks and trucks to embrace the fighters. They told them how the Ethiopian army had threatened to burn the city to the ground as it left. They tore down the symbols of Ethiopian occupation and brought out food and drink for the rebel battalions.
アファルバでの戦闘開始の知らせを受けるや、メンギスツ・ハイレ・マリアム、エチオピアの支配者、軍総司令官、省長官会議議長、労働党書記長、はアディス・アベバから逃亡した。彼はすでに彼に先立って、妻子を国外に送っていた。1991年5月末、アディスは、北部から攻め込んできたエチオピア人民革命民主戦線の手に落ちた。少なくとも一つのエリトリア人部隊が、その戦闘の最終段階に加わっていた。
On receiving news that the Eritreans had begun their assault on Afalba, Mengistu Haile Mariam, ruler of Ethiopia, Commander-in-Chief of the Armed Forces, Chairman of the Council of Ministers and General Secretary of the Workers' Party, fled from Addis Ababa. He had already sent his wife and children ahead of him. At the end of May 1991, Addis fell to the armies of the Ethiopian People's Revolutionary Democratic Front, which had closed from the north. At least one Eritrean battalion was among them in the final stages of the war.
アスマラは、ほとんど破壊を免れた。要塞を包囲したとき、エリトリア側は、駐機されたままの戦闘機を何機か、それに、相当数の重装甲車を確保した。アスマラの解放者たちと、アディス・アベバの新支配者たちとの間には、友好的な言葉が取り交わされ、エチオピアの将来を論ずる会議に招請をも受けたが、彼らはこれを断った。その代わりに、エリトリアの地位に関する住民投票が二年以内に実施されるべきことが、発表された。もっとも、それは、ほぼ、形式にしか過ぎなかった、と言うのは、この地域は、すでに事実上、独立国の様相を呈していたから。
There was almost no destrucion in Asmara. When the garrison surrounded, the Eritreans took several grounded fighter aircraft and a quantity of heavy armour. Cordialities were exchanged between the new rulers in Addis Ababa and the victors in Asmara, who were invited, but declined, to take part in discussions on the future of Ethiopia. Instead they announced that a referendum would be held on the status of Eritrea within two years. It would be a formality; their territory was in effect an independent state.
何万人ものエチオピア人、ほとんどは、軍人と行政府の役人たちだったが、が、エリトリアから追放され、アスマラでは、祝祭が始まった。家族たちの中には、5年ぶり、10年ぶり、15年ぶり、いや、時にはもっと長い離別の後に、再会を果たした者たちがいた。祝祭は、次第に手が付けられなくなるほどにまで、続いた。ほどなくアスマラの住民たちは、お祝い疲れで、朝起きて働く、料理をする、仕事に出掛ける、そんなことさえできなくなってしまったものだ。祝砲によって死者やけが人まで出て、市内は、停滞した。とうとう、EPLFは、公式祭典を四か月先まで延期することで、このお祭り騒ぎに、終止符を打たねばならなくなった。
Tens of thousands of Ethiopians, most of them soldiers or administrators, were evicted from Eritrea and the celebrations in Asmara began. Families were reunited after five, ten, fifteen years, sometimes longer. The celebrations continued until they threatened to get out of hand. Before long, the citizens of Asmara were too tired to get up in the morning, to work or cook or go about their business. There were deaths and injuries from festive gunfire and the city was at a standstill. In the end, the EPLF put a halt to it by fixing on a date four months distant for formal festivities.
一方、アスマラに駐屯しなかった部隊には、じゅんぐりに、市内を訪れる許可が出された、数日間そこに滞在した後、また、国内のいずれかの任地に移動するのだ。アスマラに常駐することになった部隊は、幸運な者たちと見なされもした。彼らは、古いアメリカの通信基地であるカグニューに駐屯した。日中、彼らは親せきを訪問したり、背の高いヤシの木が、道路脇に等間隔に植栽された、メイン・ストリートのカフェで、時間を潰していたりした。戦士たちは、見ればすぐわかった、着けている勲章や、軍服のせいではない、一皿のアイスクリームに対する執心、エスプレッソ・マシーンのまわりをうろうろするその様子で、わかってしまうのだ。彼らは、およそ十年間を、岩戸砂漠の荒野に過ごしてきた者たちなのだ。
In the meantime, those divisions that had not entered Asmara were allowed to visit in rotation, staying for a few days and then returning to their posts elsewhere in the territory. The units based permanently in Asmara were regarded as the lucky ones. They were billeted in the old American communications base at Kagnew. During the day they would visit relatives or pass among the tables in the cafes on the wide main street, which was colonnaded with tall palms. You could tell the fighters right away, not from any vanity of bearing, nor from their dress, but by their fascination for the ice-cream tubs or the way they hovered by the espresso machines. These were people who had spent a decade in a wilderness of rock and desert.
Kagnew、アスマラ南東郊外、現アメリカ大使館附近と思われる
アスマラの住民たちは、ある種の意識下のショック症状の状態にあり、解放者の歓迎と、死者たちへの服喪の、集団的な祝祭が、9月になって挙行されるまで、立ち直れないように見えた。しかし、その時期まで、安全保障などが、問題となることは、一切なかった。その年の暮れに至るまで、アスマラの路上では、ただ一つの銃火器も、見ることがなかった。
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The citizens of Asmara remained in a state of sublime shock from which they would not emerge before the collective rite of welcome and mourning had been performed in September. Until then, security was not an issue. By the end of the year not a single weapon was to be seen on the street of Asmara.
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「小さな戦争と、小さな慈悲、アフリカの紛争地域への旅」ジェレミー・ハーディング(ペンギン/1993年)
Small Wars, Small Mercies: Journeys in Africa's Disputed Nations/Jeremy Harding(Penguin/1993)
エリトリアの、宗教構成 エリトリアの、言語構成 TigrinyaとTigreは、相互に近い関係にある者の別の言語のようで、前者が、エチオピアのTigray地域のTigrayanと近く、後者は、もっぱらエリトリアを中心とするようである。
エチオピアの近現代史(wiki英語版記事)
エチオピアの言語に基づく人口構成を、上位4グループ、5パーセント以上のものを挙げると、 宗教に基づく人口構成は、
エチオピア各地域ごとの宗教構成

エチオピア各地域ごとの民族構成
それぞれ、一番上の表は、各地域ごとの百分率として記載されていた数値、各地域の総人口にそれを乗じて、得られた実数が真ん中の表、更に、国の全人口に占める百分率に直したのが、一番下の表 例えば、次のようなことが読みとれる、オロミア地域では、全国のオロモ人のほとんどが居住、これに次ぐ民族集団は、アムハラ人で、全国のアムハラ人の一割ばかりが居住する、宗教で見ると、全国的に約30%を占めるムスリムのうちの約三分の一がオロミアに居住、全国で約半数を占めるエチオピア正教会キリスト教徒の、約七分の一がオロミアに居住している、など。また、全人口の約7%を占めるティグレ人のほとんどは、ティグレ地域に居住、同地域でも圧倒的多数派を占める、このいわば「少数民族」が、長らく政権をほぼ独占してきたことが、政治的不安定の一つの原因をなしてきたのであろう。