「沖縄の人びとの歩み―戦世(いくさゆ)から占領下のくらしと抵抗」国場幸太郎(「『島ぐるみ闘争』はどう準備されたか」不二出版、所収)

(1)私が幼稚園に入園する前、一番上の姉は小学校五年生であった。母がその姉を質屋に使いにやったことがある。着物を質草に金を借りるためである。私も姉について行った。以前に何度も母の後について行き、その都度質屋の主人から水飴や菓子をもらうのが常だったから、そのときも喜んで姉の後について行った。 その帰りである。当時は那覇で唯一のデパートであった山形屋百貨店に立ち寄った。そこで姉は、私がねだったわけでもないのに、幼稚園生用の小さなランドセルを買ってくれた。本皮の製品だったからいい値がしたと思う。 家に帰って、姉は母にひどく叱られた。生計の足しにするために質屋から借りた金である。それを幼稚園に行かせるかどうかも決めていない弟の入園準備に使ったのだから、母が困惑したとしても無理はない。 しかし、両親も姉の弟に対する思いやりに心を動かされたのであろう。私を幼稚園に入れてくれた。その結末は先に見た通りである。この幼稚園の一件を姉はどう考えていたか、生前に聞く機会はなかった。姉は沖縄戦で戦死して、今は亡い。・・・
(2)小学校五年までの私の成績は「並」であったので、私もそのつもりでいた。ところが六年生になって、少しは落ち着いて勉強するようになったせいか、急に成績が良くなりだした。国語はそれまでの蓄積がないため、それほどでもなかったが、算数(数学)の成績はトップに躍り出た。それでも私は商業学校に行くことしか考えていなかった。 ・・・ そういう先生の話に反対する理由はなかった。両親は、むしろ、私の成績が良くなったことを直接先生から聞いて、内心喜んだと思う。私は沖縄県立第二中学校(現那覇高校)に進むことになった。
(3)当時、中学以上の学校と大学では基本的な軍事訓練である教練の授業が正課として義務付けられていた。各学校、大学には現役の陸軍将校が配属され、その下に二人ないし三人の退役将校や退役下士官がいて、教練の授業を分担していた。沖縄二中の場合、配属将校は決まって本土出身者(やまとぅー)で、補助役の退役将校と退役下士官は沖縄出身者だった。その中の一人に○○○先生という名物の退役将校がいた。一九〇四・五年の日露戦争に日本兵士として出征し、沖縄から徴兵された兵士としては初めて外国との戦争に参加した経歴の持ち主の一人だった。 沖縄に徴兵令が適用されて、沖縄の若者が日本の軍隊に入隊するようになったのは、日本内地より遅れること二五年、一八九八年からである。だから一八九四・五年の日清戦争に沖縄から徴兵の兵士として参戦した者はいない。 もっとも志願して日本の軍人になり、日清戦争に参加した例外はある。日清戦争より四年前の一八九〇年、沖縄から十人ほどの若者が日本陸軍の下士官養成機関である「陸軍教導団」に志願入団して、職業軍人になった。その動機は、沖縄に対する差別扱いから抜け出し、日本国民として認められるには、軍人になることが早道と考えてのことであった、と言われている。その中の屋部憲通(一八六六〜一九三七)は、日清・日露の両戦争に従軍し中尉にまで昇進して退役したが、私が子供の頃も「屋部軍曹」の名でよく知られていた。 日清戦争当時の沖縄の人たちは、親日派の開化党と親清国派の頑固党とに分かれて対立し、抗争に明け暮れていたほどであるから、日本の軍隊に志願入隊した屋部憲通らは異端者あつかいされ、轟々たる非難を浴びせられたという。 そのような環境で育った屋部憲通の息子屋部憲伝は職業軍人である父に反発して、キリスト教に入信した。そして徴兵適齢の二十歳のとき、神学研究の名目でハワイへ出国し、徴兵を拒否した。その後アメリカ本国へ渡って、社会主義思想に近づき、後にゾルゲ事件に連座して獄死した沖縄出身の画家宮城与徳らと社会問題研究会を組織するなど、左翼の社会運動に携わっていた。・・・
(4)教練と体育の教師に対する不信感は軍国主義教育と皇民化教育に対する反発と嫌悪を呼び起こし、これから自分たちの将来はどうなるだろうかという不安や疑念が胸の中で広がった。それを解きほぐしたい気持ちもあってのことだと思うが、私は日本と沖縄の歴史書を好んで読むようになった。それと同時に、石川啄木の短歌(三行詩)と若山牧水の短歌や紀行文に心の慰めを求めて、親しんだ。 余談になるが、啄木が一九一二年四月十三日に息を引き取ったのは、親友金田一京助が席を外して帰宅した直後で、病床の枕元で最後を看取ったのは牧水だけだったという。このことを、私は中学卒業後十数年たったころに知った。そのとき、啄木と牧水とには内面で互いに共鳴し合うものがあったにちがいない、と考え、またその想いが多感な少年の頃の思い出と綾を織り成して、一種不思議な感に打たれた記憶がある。
(5)話を元に戻して、その頃は当初、進学も高等学校(旧制)の文科にしようかとひそかに考えていた。それを理科にしたのは、文科系学生の徴兵猶予がその年(一九四三年)九月からできなくなったからである。戦争末期で、いわゆる「学徒出陣」が始まったのである。理工学系の学生は、軍需工場の技術者など戦争遂行に必要な人材を養成、確保する必要から、軍隊への入営が延期できた。徴兵適齢も、この年十二月、一年引き下げられて十九歳になった。その適齢を目の前にして、軍隊に入りたくないと思っていた私は理科に進学することにしたのである。 ・・・ 翌一九四四年四月に私は熊本にある第五高等学校(五高)理科に入学したが、○○先生のおかげで、入学当初から月五十円の日本育英会奨学資金の貸与を受けることができた。授業料と寮費を払っても、半分は本代や小遣いに残る金額である。私は余裕のある学生生活をスタートさせることができた。しかしそれは、長くは続かなかった。戦火が身近に迫っていたのである。
(6)それから間もなく沖縄から九州各地への集団疎開が始まり、この年(一九四四年)の七月、私の家族も宮崎県に疎開して来た。両親と姉二人、弟三人合わせて七人である。一番上の姉は、夫が軍隊に応召され、台湾の守備軍に配属されていたが、嫁ぎ先の義父が疎開に強く反対したために、婚家の家族と一緒に沖縄に残ることになった。それが姉の運命の分かれ目になった。 ・・・ 戦争が終わって一年ほどたったころ、宮崎県に疎開している私の家族のもとに、姉が戦死した模様だ、と沖縄から知らせが届いた。その姉は洋裁店を営んでいたが、看護婦の資格を持っており、熊本陸軍病院に勤めた経歴もあって、ひめゆり部隊と一緒に従軍したという。 母は「離縁させてでも一緒に連れて来るのだった」と、何日も何日も思い出しては嘆き悲しんでいた。
(7)姉の嫁ぎ先の義父とは対照的に、私の父は日本の戦争政策に批判的で、むしろ否定的であった。一九四一年十二月に太平洋戦争が始まってしばらく、日本軍の華々しい戦果が毎日のように報道されていた頃、父はよくこんなことをつぶやいていた。 「アメリカぬ飛行機が蜻蛉(あーけーじゅ)ぬ如く(ぐとう)群(む)りちゅうねー、日本や如何(ちゃー)んならんさ」 (アメリカの飛行機がトンボのように群がって来たら、日本はどうすることもできないよ) これに対して、中学三年生だった私が 「あん言いねー、非国民でいち、憲兵隊んかいかちみらりんどー」 (そんなことを言うと、非国民だと言われて、憲兵隊に捕まるよ) と言うと 「いったー童(わらび)が何(ぬー)分(わ)かいが」 (お前たち子どもに何がわかるか) と相手にしなかった。
(8)父たちの世代は、おおむね十九世紀の末、一八九〇年前後から二十世紀の六、七〇年代にかけて、年号で言えば明治の後半から昭和の後半にかけて生きていた人たちである。この世代は、青年時代に第一次大戦(一九一四年〜十七年)、ロシア革命(一九一七年)とそれに続く大正デモクラシーを経験し、壮年期に昭和大恐慌とそれに続く日中戦争、第二次大戦を経験している。言ってみれば、二十世紀の戦争と革命の時代を青年期、壮年期に生きた世代である。この世代の人々が世界情勢の激動と世界史の進展から大きな知的刺激や思想的影響を受けたであろうことは、たやすく想像できる。 沖縄ではこの世代の中から、天皇制ファシズムに抗して革命運動に身を投じた人たちが少なからず生まれている。一九二二年に日本共産党が結成されたときの中心メンバーの一人で、戦後は同党の書記長であった徳田球一(一八九四年〜一九五三年)はその代表的存在と言える。もっとも同世代の大部分の人たち、特に一般知識層の大部分は、小さな沖縄におおいかぶさった強大な国家権力をどうすることもできないものと考え、皇民化教育と標準語教育を二本柱とする日本政府の同化政策を受け入れて、国の政策に協力的であった。 私の父はというと、そのどちらでもない、市井の日和見な一市民であったが、内外の情勢については客観的に見ていたようである。『改造』や『中央公論』など月刊雑誌も読んでいた。世界一の工業力を持つようになったアメリカが、第一次大戦後はイギリスに代わって世界の覇権国になりつつある姿も、ありのままに見ていた。だから、そのアメリカと戦争したら日本は負ける、とはっきり見ていた。
(9)今ではよく知られていることだが、一九四五年二月十四日、天皇の重臣の一人近衛文麿が、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と、戦争を終わらせる必要がることを天皇に対して述べている。アメリカ軍が沖縄本島に上陸する一ヶ月半前のことである。この時点で戦争を終結させていたならば、沖縄を悲惨極まる地上戦の災禍から救うことができたし、広島、長崎の原爆被爆とソ連の対日参戦も避けることができた。ところが天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、戦争の継続に期待をつないだ。その真意は、戦争を引き延ばす間に戦果を挙げて、天皇制の「国体護持」を連合国側との和平交渉で認めさせることであった。つまり、天皇制を存続させる有利な交渉条件を作るには、アメリカ軍の攻撃目標になっている沖縄でアメリカ軍を迎え撃ち、そこで戦果を挙げる必要があるというのである。 囲碁では、有利な局面を作るために、わざと相手に取らせる石を打つ手法がある。その石を「捨て石」といい、その石は死ぬ運命にある。沖縄戦はまさしくそのような「捨て石」作戦として戦われた。日本軍に勝ち目がないことは始めから分かっていた。作戦のねらいはただ一つ、連合国側との和平交渉で「国体護持」が容れられるまで、戦争を長引かせることであった。
(10)戦争がいつ終わるとも知れないまま日本が破局に向かって進んでいる情勢の中で、一九四五年四月、五高二年に進級したばかりの私たちは、各クラスとも半々に分けられて、長崎の造船所と熊本の飛行機工場との二ヶ所に学徒動員された。私は長崎組に入れられた。作業場所は三菱造船所の船体組み立て工場であった。当てがわれた仕事はべニア合板で造った体当たり用の魚雷艇を乗せる台を鉄骨で組み立てる作業であった。 沖縄では、アメリカ軍が四月一日に上陸して、激しい地上戦を展開していた。造船所で造っている木製の魚雷艇は、沖縄戦が終わった後に押し寄せてくると予想されるアメリカ軍を、日本本土の水際で迎え撃つためのものとされていた。 ・・・ 六月下旬、日本軍の壊滅で沖縄戦は終わった。そして八月六日、広島に原子爆弾が投下された。長崎では「広島に新型爆弾投下」と報じられた。三日後の八月九日、工場に出勤して間もなく空襲警報のサイレンが鳴り響いて、工場の全員が防空壕に避難した。しかし、空襲はなく、二時間ほどして空襲警報は解除になり、全員が工場に戻って作業に就いた。それから一時間くらい経った作業中の昼前、大きな稲光のような閃光が走った。光の来る方を振り向いてみると、橙色の雲がもくもくと上がっている。とっさに「新型爆弾」の恐怖が胸をよぎった。爆心地から四キロメートルほどの距離にある私たちの職場に爆風が来たのはその数秒後である。舞い上がったゴミで工場内は視界が数メートルの暗さになった。その中を無我夢中で通り抜けて全員が防空壕に避難した。数時間後、夕方になってから壕を出てみると、港の対岸の市街地全域に巨大な火の柱が立っていて、上には厚い黒雲がかぶさっていた。 長崎の被爆の惨状については、広島の被爆の惨状と共に広く知られている。ここで私が書く必要はあるまい。被爆後一週間くらい、日本の敗戦から数日後まで、私たち学生は、爆心地附近の焼けて崩れ落ちた工場跡地の片付け作業に動員された。動員を解除されて帰宅したのは八月末頃であったように憶えている。
(11)秋には学校が再開されて、私は熊本での学生生活に戻った。しかし沖縄はアメリカに軍事占領され、家族は宮崎県に疎開し、長崎では原子爆弾と日本の敗戦に遭遇した。この現実の中で、私は理工系の学業を続ける意欲がなくなり、社会科学系のコースへ進路変更した方がよいのではないか、迷っていた。最終学年の一年が休学して考え、その挙句、高等学校理科は一応卒業して、大学は経済学部に進むことにした。
(12)私は五高理科を卒業して最初の東大受験は失敗し、一年間は家族が疎開している宮崎県で中学教師をして、一九四九年四月に東大経済学部に入学した。 しかし入学後二年間は、生活費と学費を稼ぐためのアルバイトに追われて、講義に出席することもままならなかった。日本育英会奨学金の貸与も、大学進学が一年遅れたために、中断されていた。もっとも、日本育英会奨学資金は、戦後の猛烈なインフレの進行に増額が追いつかず、生活費の一部を補う程度の額になっていた。物価が敗戦前の二百倍以上に跳ね上がっているのに対して、育英会資金は三五倍ほどの増額にとどまっていた。二食付きの下宿や間借りをしている学生の場合、学費を含む生活費は月平均九千円から一万円前後であったが、育英会資金の最高額は月二千百円にとどまっていた。 だから、親元から仕送りのない学生は、育英会資金の貸与があったとしても、困窮していた。郷土が日本から切り離された沖縄出身の学生は大部分がそうだった。そういう学生を援助して学業を続けさせるために、沖縄出身有志によって財団法人沖縄県学徒援護会が設立され、東京では、その管理下で南灯寮という学生寮が設立されていた。私は大学に入学した四九年の夏休み前に、その南灯寮に入寮した。 ・・・ 南灯寮は、小田急線の喜多見駅から徒歩で二、三分のところにある。・・・ 場所が成城の住宅地に近いこともあって、南灯寮の近くにはもともと文化人が多く住んでいた。また小田急沿線の祖師谷に当方と新東宝の映画撮影所があった関係から、映画関係者も多く住んでいた。共産党系の映画人もかなりいた。そのような人々の影響もあって共産党員になった寮生がかなりいて、ほどなく南灯寮には、共産党の細胞(現在の支部)ができた。南灯寮細胞は寮内で活動するだけでなく、寮のある狛江村(現在は市)細胞と協力して狛江地域でも活動していた。 一九四八年四月から一〇月までつづいた東宝映画会社の労働争議の際は、武装警察だけでなく、アメリカ軍の騎兵師団と戦車までが出動して労働組合を弾圧したが、南灯寮の寮生の多くが争議団の支援活動に参加した。そういう活動を通じて寮生の政治意識は高揚し、共産党の入党者も増えた。・・・ 敗戦直後、日本共産党はGHQの日本民主化政策を歓迎し、アメリカ占領軍を解放軍と考えて、両者は親密な関係にあった。しかし、両者の蜜月時代は冷戦の進展に伴って、まもなく終わりを告げた。前の章で触れたように、一九四八年、アメリカの対日占領政策が逆コースへ転換して以後、GHQは共産主義勢力に対する抑圧政策をとるようになった。一九四九年になると、吉田内閣とGHQは、財政健全化のための行政整理を機会に、政府と公企業に勤務している共産党員とその同調者を解雇するレッド・パージを強行した。中でも十万人近い人員整理が言い渡された国鉄(JRの前身)では、それに反対する労働組合の激しい闘争が燃え上がった。そのさなかの七月から八月にかけては、国鉄に関係がある奇怪な事件が相次いで起こった。七月六日には、下山国鉄総裁が常磐線北千住・綾瀬間線路上で轢死体になって発見された。七月十五日には、中央線三鷹駅で無人電車が暴走して六人が死亡、八月十七日には、東北線松川・金谷川間で列車が転覆して三人が死亡した。物情騒然たる世情の中で、吉田内閣とGHQはこれら原因不明の事件を共産党の策謀によるものと捏造、宣伝して国鉄労組の人員整理反対闘争を弾圧、労働運動における共産党の影響力は大きく後退させられた。こういう世情に対して、南灯寮細胞のメンバーの中には、党活動の方向を見失い、酒で鬱憤を晴らすものも出てきたのであろう。 ・・・ それから間もなく、年が明けて五〇年の新年早々、コミンフォルム批判をめぐって日本共産党は分裂、南灯寮の党員も主流派(所感派)と反主流派(国際派)に分かれた。それ以後、当然の結果として南灯寮細胞の活動は混迷と衰退にむかった。もともと私は、大学に入学する前から、マルクス主義に大きな関心を持ち、共産党にも期待を寄せていた。しかし、当時の共産党の分裂、混乱状態を目の当たりにしては、党活動を共にする気になれなかった。 そのころ、私は、アルバイトをしながら、後述する沖縄学生会の副委員長をしていたが、南灯寮の破綻に瀕した財政の立て直しや、破損個所の修理にために、沖縄県学徒援護会や沖縄財団等と交渉するのが精一杯で、それ以上の学生運動をする余裕もなかった。 ・・・ 一九四九年から五〇年にかけて私が南灯寮の修理や財政立て直しに精出していた頃は、○○氏の話とは異なり、私も○○○○君も共産党員ではなく、二人が党員になったのは一九五二年中頃である。・・・
(13)私が契約学生になった一九五一年は対日講和条約が締結された年である。この年の一月、沖縄では大衆的な日本復帰運動が始まっていた。日本在住の沖縄出身者にとっても、沖縄の帰属問題は一大関心事であり、それにどう対処するかは、避けて通れない課題であった。沖縄出身の学生たちは故郷がアメリカの軍事植民地になることに反対して、日本復帰運動に立ち上がった。と言っても、学生達は敗戦後の当初から日本復帰を主張していたわけではない。私も例外ではなかった。沖縄現地の住民と日本在住の沖縄出身者が日本復帰を主張するまでには、それなりの経緯がある。沖縄問題を理解するにはその経緯を知っておく必要がある。それを先ず見ておこう。 戦後、日本から分断されたままアメリカの直接軍事占領支配下にあった琉球諸島は奄美、沖縄、宮古、八重山の四つの群島に分割され、住民は各群島毎に設けられた米軍政府のもとで無権利の捕虜同様に管理されていた。そういう状況の中で一九四七年には各群島毎に政党が結成され、自治権を求めて政治活動が始まった。 沖縄本島では沖縄民主同盟、沖縄人民党、社会党(後の日本社会党系とは別)の三つの政党が相次いで結成され、三党三様の政治的主張をしていた。そして、それらの首長はいずれも、沖縄を戦争の惨禍に陥れた天皇中心の国家主義と軍国主義を否定する立場に立ち、沖縄の日本からの分離と自立を前提にしていた。民主同盟は言論の自由等の民主的諸権利を強く要求していたが、対日講和条約の締結が日程にのぼる一九五〇年には琉球独立を主張するようになる。人民党は人民自治政府の樹立、憲法議会の制定、日本政府に対する賠償要求を綱領に掲げ、自治共和政体の樹立を知翁していた。社会党は指導者の個人的政党色が強かったが、将来沖縄の帰属について、アメリカを施政権者とする国連の信託統治を望んでいた。 凄惨な地上戦と敗戦を体験して虚脱状態にあった沖縄住民の間では、天皇中心の国家主義によって上から注入された「日本国民としての民族意識」が崩壊し、日本を祖国と考える国家観念が喪失していた。そういう歴史的現実を反映して、三つの政党は沖縄の日本からの分離を所与の条件と受け止め、日本のどの政党からも影響を受けることなく、独自の道を歩いていた。 このような沖縄の政情は一九四九年から五〇年にかけて一大転換を迎える。それは、アメリカ政府が沖縄に恒久的な軍事基地を築いて、琉球諸島を対日講和条約締結後もアメリカの統治下におく方針を策定し、実行に着手したことによって訪れた。この方針は四九年五月の国家安全保障会議NSC13/3(5)で確定し、それを受けて、四九年七月に始まるアメリカ政府一九五〇年度予算には沖縄軍事施設建設費として五千八百万ドルが計上され、沖縄では大々的な基地建設工事が始まった。 それと並行して、アメリカ占領軍は琉球諸島の統治機構を整備し、住民の生活を戦前の水準に引き上げる経済政策を策定した。その一方、国務省は琉球に対するアメリカの統治が国際的に承認される統治方式を考案することになる。 翌五〇年十一月二四日、アメリカ政府は「対日平和条約に関する七原則」を発表して、その中で領土については、「日本は(a)朝鮮の独立を承認し、(b)合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意し、(c)台湾、澎湖諸島、樺太および千島列島の地位に関する、英国、ソ連、カナダ、合衆国の将来の決定を受諾しなければならない」と明示した。 ここに至って、沖縄の住民は、沖縄がアメリカの軍事基地として対日講和後も日本から分断されたままアメリカの信託統治下に置かれる事態を容認するかどうか、沖縄の帰属問題にどのように対処するか、あらためて問われることになった。ところが一九四九年に結成された三つの既成政党はいずれもこの政治課題に正しく応えることができなかった。 このような政治状況の中で、一九五〇年九月の沖縄群島知事選挙は住民が帰属問題に決着を着ける機会となった。この選挙は対日講和後もアメリカが琉球諸島を統治するための統治機構を整備する一環として行われた。当初、アメリカ占領軍が考えていた統治機構は、四つの群島毎に群島政府と群島議会を設け、その上に立法、司法、行政の三機関を持つ中央政府を置いて、四群島を統括するというものであった。それは連邦共和国を模したもので、群島政府知事と群島議会議員および中央政府である琉球政府の行政主席と立法院議員は住民の公選で選ばれる予定になっていた。 沖縄群島知事選っ虚にあたって、民主同盟と社会党はいち早く親米派の巨頭と目されていた松岡政保氏を共同で候補に推し、一時は沖縄全島を一人舞台で席巻するほどの勢いを示した。その帰属問題についての主張は、沖縄がアメリカの信託統治になることを認めて、行く行くは独立を図る、というものであった。それに対して、人民党公認の瀬長亀次郎氏は党綱領の「人民自治政府の樹立、憲法議会の制定」を掲げて立候補したが、沖縄の帰属問題につしては態度を明確にしなかった。 その一方では、既成政党の状態に飽き足らないで日本復帰を志向する人々、特に若い知識層の間で新党を結成する動きが活発になっていた。そして、これらの人々は官公庁職員、学校教師、ジャーナリスト、弁護士等の一般知識人と合流し、農連会長平良辰雄氏を候補に擁立して知事選挙に臨んだ。 ・・・ 平良候補を擁して圧倒的勝利をおさめた人々は、選挙直後の一〇月三一日、平良氏を委員長として沖縄社会大衆党(社大党)を結成した。人民党の結党に参加した初代委員長浦崎康華氏、二代目委員長兼次佐一氏、『うるま新報』社長池宮城秀意氏ほか左翼社会民主主義者の多くも社大党に加わった。 ・・・ 年が明けて一九五一年に入ってから、社大党は「琉球諸島日本復帰期成会」の提唱団体になり、日本復帰運動の中心勢力の一つになったが、それは、結党のいきさつからして、当然の成り行きであった。 人民党は、知事選挙期間中から、民主同盟・社会党共同推薦の松岡候補に対抗したが、沖縄の帰属問題については、一九五一年一月二八日の同党拡大中央委員会でも「琉球の帰属は琉球人民の意志によるべきであるとの基本的態度を決定」したに止まっていた。それが同年二月一三日の拡大中央委員会では「帰属問題の具体的な態度として日本復帰を決定し」超党派でこの問題に取り組む方針を確立した。それは知事選挙以来の経緯から見て、社大党に代表される一般知識層に導かれた民衆の動向と世論から学び取ったものであろう。・・・
(14)日本在住の沖縄出身者の場合はどうであったか。敗戦直後の日本には戦前からの移住者約十万人、戦時中の疎開者四万人余、海外からの引揚者、復員兵約五万人など、およそ二十万人の沖縄出身者がいて、一九四六年二月には沖縄人連盟(四八年に沖縄連盟と改称)という全国組織が生まれた。初代会長は「沖縄学の父」と仰がれている伊波普猷(一八七六〜一九四七)であったが、実質的には総本部長の永岡智太郎氏(社会運動家、一八九一〜一九六〇)が組織全体を取り仕切っていた。結成当初のメンバーは革新的な人が多く、沖縄の帰属問題では日本共産党、日本社会党の見解に同調していた。 その見解を要約すると、「近世以降の日本で少数民族として抑圧されてきた沖縄は、第二次大戦の結果、連合軍によって天皇制帝国主義の支配から解放された。日本がポツダム宣言を受諾した国際関係から見て、沖縄がアメリカ軍の戦略的信託統治になることは避けられない。そこで将来どうするか、何れの国と結合するかという帰属問題は、民族自決権により住民自身が自主的に決定しなければならない。その際、沖縄は民族的自治共和国にならなければならない」というものであった。そういう見解から、沖縄の日本復帰を主張するのはポツダム宣言違反であり、沖縄を再び天皇制国家主義の支配下に置くになると批判されていた。 沖縄人連盟としては、沖縄現地の問題はGHQにおいて一切の介入が禁止されているので、活動の主要な目標を、戦時中の沖縄からの疎開者、戦後の海外からの引揚者、復員兵等、生活が困窮している沖縄県出身者の生活救済と、沖縄への帰還の促進及び沖縄との通信連絡、往来の許可においた。沖縄の日本からの分離は所与の条件として容認していた。 学生はどうであったか。沖縄出身の学生は全国で四、五百人いたが、東京在住の学生は一九四六年一月に相互の親睦扶助を主な目的として「沖縄学生会」を組織した。学生会は翌四七年二月に「沖縄学生同盟」と改称、同年五月にできた学生寮「南灯寮」を本拠として活動することになる。沖縄の帰属問題については、沖縄人連盟と同じ立場にあった。四八年十月施行の沖縄学生同盟規約は、目的として、沖縄出身学生の生活権確保、相互錬磨による資質の向上、民主沖縄の建設を掲げるに止まり、帰属問題への言及はない。 もっとも、この頃、沖縄の日本復帰運動が全く無かったわけではない。ジャーナリストで首里市長であった仲吉良光氏(一八八七〜一九七四)を中心に、東京在住の高嶺明達氏(元商工省官僚、一八九八〜一九六六)、神山政良氏(元大蔵省官僚、一八八二〜一九七八)、漢那憲和氏(一八七七〜一九五〇)、伊江朝助氏(元貴族院議員、一八八一〜一九五七)ら在京の沖縄出身知名士十二人からなる「沖縄諸島日本復帰期成会」が一九四六年十月に結成され、GHQや日米両政府など関係筋に陳情運動をしていた。その主張は、日本と琉球は同じ祖先から分かれたという日琉同祖論を拠り所にして、日本と沖縄との民族的・文化的同一性を説き、沖縄の日本国家への再結合、沖縄人の日本国民との再統合を求めるナショナリズム(民族主義)の考え方に基づくものであった。・・・ 対日講和条約の締結が具体的な日程に上ってきた一九五〇年ともなると、日本では単独講和か全面講和かをめぐる講和論議が盛んになり、それと関連して沖縄出身者の間でも沖縄の日本復帰を望む声が大きくなった。この年十一月に沖縄連盟は沖縄の日本復帰を要望することを組織として確認し、沖縄返還運動の在り方を模索し始めた。この頃、仲吉良光氏らは日米両政府筋に「アメリカが沖縄を軍事基地化せんとする御方針に我らは断じて反対しませんし、進んでアメリカ軍に協力する決心であります」と軍事基地化容認の日本復帰を要望する陳情活動をしていた。それに対し、沖縄連盟の中には「沖縄軍事基地化反対」の立場に立って沖縄の日本復帰を要求し、そのための大衆運動への組織的な取り組みを提唱する動きがあった。・・・ 沖縄の日本復帰を要求する大衆運動が日本で姿を現したのは、対日講和条約締結の年、一九五一年以後のことである。先に見たように、この年沖縄では、四月二十九日に結成された日本復帰期成会の下で日本復帰の大衆署名運動が全島で繰り広げられた。日本でそれにいち早く反応し、呼応したのが、沖縄学生会と琉球契約学生会所属の学生達であった。二つの学生会は共同して、すべての沖縄出身者を保守と革新の別なく結集し、それを核にして、沖縄の日本への返還を要求する国民運動を組織する方針を立てた。 ・・・沖縄学生会と琉球契約学生会は全琉学生連絡協議会(五三年六月に沖縄県学生会に改組)をつくり、沖縄の「軍事基地撤廃と完全日本復帰の実現に向かって平和を愛する凡ての人びとと相携えて進む」ことを決議した。・・・ 当時は東西冷戦が始まって間もない頃で、日本国内の政治勢力も、自由主義陣営を支持する保守陣営と社会主義陣営を支持する革新陣営とに大きく二分されている上に、革新陣営内部では社会党と共産党とが対立し、さらに社会党は左派と右派とに分裂していた。そういう政治勢力を、沖縄の日本への返還を目指して一つに束ねることは極めて困難な情勢にあった。沖縄出身者を一つに束ねることさえ、並々ならぬことであった。
(15)こんなエピソードがある。一九五二年中頃、映画『ひめゆりの塔』の製作開始に当たって、学生たちは沖縄出身者のすべての団体による後援を呼びかけた。言うまでもなく、この映画を通して沖縄問題をアピールするためである。ところが、沖縄出身者の団体役員の中には、それに反対の人たちもいた。理由は、今井正監督、伊藤武郎プロデューサーをはじめ映画製作の中心メンバーが共産党員だから、というのである。・・・当時は、共産党と関係を持つことを避けようとする空気が社会全般に広がりつつあった。その主な原因の一つはGHQと吉田内閣の共産党に対する弾圧にあったが、共産党自身にも問題があった。 日本の敗戦後間もなく、GHQによって獄中から釈放された徳田球一ら戦前からの共産党員を中心に結成された日本共産党は、当初、アメリカとも協調して、平和革命路線を採っていた。それが一九四八年、アメリカが対日講和を棚上げして、対日占領政策を反共・逆コースの方向へ転換するに至り、日本共産党中央委員会は、ポツダム宣言の趣旨に従って日本の民主化を推進し、日本の完全独立と連合国軍の日本からの撤退を実現する公正な全面講和を促進する方針を明示した。この方針は、アメリカ軍の占領が長引いている現状に、苛立ちや反発を感じ始めていた国民の間で、共感と支持を広げていく。そして、一九四九年一月の衆議院総選挙で、共産党は有効投票総数の九・八%を得票して、三十五人の当選者を出すまでに政治的影響力を伸ばした。前回四七年の総選挙での共産党の得票率三・七%、当選者四人に比べて、大躍進である。その共産党に対してGHQと吉田内閣がレッド・パージで大弾圧を加えたことは先に見たとおりである。 共産党はそれで大きな打撃をこうむったが、さらに大きな痛手になる事件が次々と起こった。その端緒は、一九五〇年一月、コミンフォルム(冷戦時ソ連・東欧共産党の国際的な情報機関)が、アメリカの占領支配下にある日本で平和的に革命を達成できると考えるのは誤りである、と日本共産党幹部野坂参三の平和革命論を激しく批判、武力革命方式の採用を示唆したことにある。徳田球一書記長らの主流派(所感派)が、コミンフォルムの見解は日本共産党の立場を十分に考慮していないという所感を発表して、批判の受け入れを渋ったのに対して、コミンフォルムの批判を受け入れるべきだとする志賀義雄、宮本顕治らの反主流派(国際派)が対立した。その後、中国共産党の忠告的な論評もあって、主流派もコミンフォルム批判を受け入れたが、党内分裂の溝は深まるばかりであった。 そこへ、六月、朝鮮戦争勃発の直後に、GHQは日本共産党中央委員二十四人を公職から追放する指令を発し、直後に党機関紙『アカハタ』の発行停止を命じた。それに続いて、GHQは、共産党系労働組合活動家の解雇(レッド・パージ)を指令し、解雇者は一万数千人に及んだ。そのために、共産党系活動家の多い産業別労働組合会議(産別)は無力化されて解体した。それから、共産党の指導に反対する組合活動家によって産別民主化同盟(民同)が作られ、さらにその幹部たちによって日本労働組合総評議会(総評)が組織されることになる。 一方、GHQマッカーサー司令官は、かねがね反対していた日本の再軍備容認に踏み切り、七万五千人の警察予備隊(自衛隊の前身)創設を日本政府に命じた。沖縄ではアメリカの恒久的軍事基地建設が大々的に始まっていた。 この様に内外の情勢が風雲急を告げる中で、共産党主流派幹部は地下に潜行して、臨時指導部の下での合法の公然活動と非合法の武装闘争とを統一して指導する地下指導部を作った。この指導体制の下で、一九五一年二月、共産党は武装闘争方針を提起し、十月には全国協議会(五全協)で民族解放民主革命を目標にした「日本共産党の当面の要求―新しい綱領―」(五一年綱領)を決定、発表した。 そこで採用された武装闘争方針は中国の人民民主革命における軍事方針を模倣したもので、山村に武力で解放区を作り、そこを根拠にしたパルチザン武装闘争で都市地域にも革命を広げていくというものである。この方針を実行するために、若い活動家たちが「山村工作隊」として山村に送り込まれ、都市では「中核自衛隊」「独立遊撃隊」に参加させられた。武器には「火炎瓶」が使用された。中国の革命で勝利した戦略・戦術を、条件が全く異なる日本の現実に機械的に適用したのである。それが成功するはずはなかった。 党内が分裂している上に、武装闘争戦術を採る日本共産党は、国民の間で急速に支持を失い、大衆から遊離、孤立していった。そういうせいっじ情勢の流れは、共産党系幹部の多い沖縄人連盟と沖縄学生同盟の組織運営にも影響を及ぼした。 沖縄人連盟では、一九四八年以降、共産党系役員を排除する空気が強まり、名称も、共産党系の団体とみられるのを嫌って「人」の一文字を抜き、沖縄連盟と改めた。それでも「一般に評判が悪い」と言うので、一九五一年には沖縄連盟を解散し、沖縄出身者の団体として新たに沖縄協会が設立された。
(16)さて、映画『ひめゆりの塔』が製作された一九五二年は、以上で見たように、共産党の孤立化が急速に進み、十月の衆議院総選挙で共産党の議席がゼロに転落した年である。沖縄出身者の中に、この映画の後援に二の足を踏む人がいても、無理からぬ面があった。今井正監督は、山本薩夫、亀井文夫両氏とともに東宝映画をレッド・パージされた監督として、よく知られていたからである。そこで、学生会は『ひめゆりの塔』のシナリオ(台本)をもらってきて、沖縄出身者の団体幹部に配って読んでもらったり、集会があれば出かけて行って映画の説明をしたりして、後援に加わるように説いてまわった。 映画の撮影は順調に進んで、完成を二、三か月後に控えた頃の九月二十一日、新宿文化会館で那覇出身者の懇親会である「那覇人会」が開催された。その会場で伊藤武郎プロデューサーに『ひめゆりの塔』の後援を依頼する挨拶をさせて欲しい、と学生会は事前に申し入れた。すると「那覇人会」の役員はその申し出を即座に拒否したばかりか、会場で私が学生会を代表して発言を求めると、待機している数人の役員が寄ってたかって、有無を言わせず私を会場の外に押し出した。事情を知らない会場の人たちは、何事かと怪訝そうに見ているだけである。 居合わせた学生たちは、そのまま黙って引き下がるわけにはいかないと考え、小型のガリ版謄写印刷機を持って来て、ことの成り行きを説明したビラを作り、琉球舞踊などの出しものを鑑賞している会場の一人ひとりに配って読んでもらった。その効果はてき面で、さすがの役員たちも伊藤武郎プロデューサーの挨拶を許さないわけにはいかなくなった。その挨拶が終わったとき、広いござ敷の会場の後ろの方から、 「青年は美しい!」 と学生を励ます声が上がった。そこには詩人の山之口獏氏、画家の南風原朝光氏ら数人が車座になって談笑していた。 那覇人会の役員とは対照的に、沖縄出身者全員の団体である沖縄協会の会長神山政良氏は、『ひめゆりの塔』のシナリオを読んで、「これはいい映画ではないか。是非成功させよう」と学生会の呼びかけに快く応えて、沖縄協会が映画の後援団体になった。その影響下にある沖縄婦人会も後援に加わった。・・・
(17)その間の一九四九年末頃から大学を卒業する五三年三月まで、私は学生会の中心メンバーの一人として活動していたが、先にも触れたように、一九五二年中頃、日本共産党入党した。アメリカの軍事占領支配下にあって軍事基地化されつつある沖縄を解放するには、アメリカの世界戦略に対抗する国際的な連帯の力が必要であると考えたからである。共産党は世界の革命勢力・平和勢力の連帯を目指す党というイメージがあった。 動機がそういうことであったから、私は南灯寮細胞に所属して活動も沖縄問題に集中し、大学での党活動に関係したことはない。学生会の活動を通じて共産党員になった沖縄出身の学生はかなりの数に上るが、多くが私と同じ動機で入党し、同じ立場で活動していた。 私の他にかなりの数の沖縄出身学生が入党したのには、日本共産党指導部の戦術転換も一つの好条件になっている。一九五一年十月の日本共産党第五回全国協議会は、沖縄・奄美・小笠原諸島の「諸君とともに断固として闘う決意を新たに」する声明を発表し、これら諸島の日本復帰運動を支持する態度を明確にした。そしてまた一九五二年七月四日付の徳田球一書記長の論文『日本共産党三十周年にさいして』は、「党の幹部たちがストライキ、デモンストレーション等の実力行動のみに精力を集中して、国会や地方議会の選挙等のごとき問題を軽視する傾向」をいましめ、「公然活動と非公然活動との統一に習熟」しなければならないと説いた。それを受けて、共産党指導部は武装闘争の軍事方針を事実上中止し、現在はその実行の段階ではなく、準備の段階である、と戦術を転換した。それで、沖縄出身の学生活動家が入党して、合法的で公然たる沖縄の日本復帰運動をするのに都合がよい環境になっていた。
(18)一九五三年三月、大学を卒業した私は契約学生の義務を果たすために、沖縄に帰ることになっていた。ところが当時、「(日本共産)党内には日本の完全解放なしには、琉球の日本復帰はあり得ないという思想が、相当根強く浸透していた」(「琉球対策を強化せよ」『平和と独立のために』一九五四年四月一日付)。この考え方から、沖縄出身の学生党員は帰郷せずに日本に留まって、党活動をすべきであるとされていた。私もその意見に従い、帰郷を見合わせることにして、しばらくはアルバイトで食いつないでいた。 そこへ共産党三多摩地区委員会から指示があって、私は南灯寮細胞から非合法地区委員会の機関紙部に所属替えされた。私に与えられた任務は、党の非合法機関紙『平和と独立のために』(以下『平独』と略)を作成する作業の一部で、タブロイド版の孔版謄写印刷をするための原板作製であった。対日講和条約発効と同時に合法機関紙『アカハタ』が既に復刊されていたが、非合法機関紙『平独』も依然として発行されていた。それは官憲の手入れがある場合に備えて、印刷工場で一括印刷するのではなく、地方、地区毎に分散して印刷していた。 その原版を作るには、まず熱して溶解したニカワの液に感光剤を混ぜて薄い平板にし、乾燥させる。その上に、半透明の和紙に印刷した『平独』紙面の原紙をのせて、感光させる。そのニカワの板を水で洗い流すと、感光しない文字の部分だけが水に溶けて穴になる。それを再び乾燥させると、孔版謄写印刷用の原板になる。 この作業を、党員や支持者の住宅の風呂場にこもって、自分一人だけでするのだが、何度試みてもうまくいかない。ほとほと閉口して、潰れそうになっているところへ、契約学生として沖縄に帰郷せよ、という党本部の指示が伝えられた。沖縄に共産党ができたから、沖縄に帰って党活動せよ、というのである。私は、陸に打ち揚げられた魚が水に返される思いで、喜んで帰郷の準備に取り掛かった。 先に述べたように、敗戦後日本から分離された琉球諸島では、当初、四つの群島毎に地域政党が結成されたが、共産党はなかった。共産党が結成されたのは、奄美大島からの呼びかけによる。 奄美大島では、沖縄と事情が異なり、一九四七年に、中村安太郎氏ら戦前・戦中に日本共産党員であった人たち八名によって、非合法の奄美共産党が結成された。奄美共産党は、結成の当初から東京の日本共産党本部と連絡をとり、その出版物なども取り寄せるなどしていた。ところが間もなく、その活動は米軍の軍政府に探知され、中村安太郎氏は日本共産党機関紙『アカハタ』等を密かに取り寄せた廉で逮捕され、軍事裁判で重労働一年の刑を科された。それと前後して、共産党の影響下にある奄美青年同盟の結成許可申請も却下された。その後、刑期を終えて出獄した中村安太郎氏は、一九五〇年に合法政党として結成された奄美社会民主党の中で合法活動をすることになる。 先にも触れたように、一九五二年四月の対日講和条約発効にあわせて、アメリカ占領軍は奄美、沖縄、宮古、八重山の四群島を統括支配する琉球列島米国民政府(通称USCAR(ユースカー)。民政府と言っても実質は軍政府であり、以下米軍政府(ユースカー)と呼ぶことにする)を新設し、その代行機関として琉球政府を発足させた。この新たな情勢の展開に対応できるように、沖縄人民党と奄美社会民主党は統合して、琉球人民党になった。その際、社会民主乙を合法部隊として活用していた非合法の奄美共産党は沖縄にも活動の場を広げ、沖縄に渡って来ている奄美出身党員数名よりなる沖縄細胞を組織した。細胞長(キャップ)には林義巳氏が選ばれた。 沖縄細胞のメンバーは、人民党の合法活動と米軍基地工事に従事する奄美出身労働者の組織活動に力を注ぐ一方で、人民党の沖縄側幹部に非合法共産党の結成を呼びかけた。その非合法共産党のことを奄美の党員は「基本党」と呼んでいた。 奄美からの呼びかけに対し、人民党の沖縄側では、上地栄氏、中里誠吉氏ら若手幹部の中に賛成の人もあったが、書記長の瀬長亀次郎氏は反対した。反対の主な理由は、沖縄で人民党とは別組織の非合法共産党を結成すると、党の中に党をつくること(党中党)になって、人民党の組織を壊す惧れがある、と懸念されたからである。それは、瀬長氏の過去の共産党員としての経験と無関係ではない、と思われる。 瀬長氏は、鹿児島にあった第七高等学校理科在学中の一九二八年十一月、九大学生の共産党員をかくまったという犯人隠避の疑いで逮捕され、二十日間拘留されて不起訴になったが、それが理由で七高を放校になった。それから一旦沖縄に帰郷し、熊本の野砲連隊で兵役を終えた後、神奈川県に移り住んで、労働運動に身を投じた。その間の一九三一年十一月に日本共産党に入党し、翌一九三二年五月、丹那トンネル工事の労働争議の指導中に逮捕され、治安維持法違反で懲役三年の刑を科された。非転向で刑期を終え、出獄したのが一九三五年四月である。 この経歴を見ると、瀬長氏が労働運動に身を投じてから出獄するまでの期間は、一九二九年四月十六日の全国一斉の共産党員検挙(四・一六事件)によって壊滅的な打撃を受けた非合法共産党と、合法政党として同年十一月に設立された大山郁夫を委員長とする新労農党との対立・確執で、両党とも勢力不振に陥り、一方では右翼社会民主主義者がファシズムと妥協して、反ファシズム統一戦線が挫折した時代と重なっている。 瀬長氏は、この時期の苦い経験から、一方では日本共産党の秘密結社的でセクト主義的な非合法活動に批判的になり、他方では右翼社会民主主義者に強い不信感を抱くようになったと思われる。・・・ ちなみに、瀬長氏が右翼社会民主主義者に対して抱いていた不信感は、沖縄社会大衆党の第二・第三代委員長であった安里積千代氏を「沖縄におけるファシストの中核をなしている裏切り分子、右翼社会民主主義者」(『世界』岩波書店、一九五八年十月号)と論難するほど強烈であった。 さて、その瀬長氏が非合法共産党の結成に同意を表明したのは、後述の日本道路社(清水建設の下請け)のストライキが勝利した一九五二年六月二六日、瀬長氏と親しい小さな食堂の二階座敷で林義巳氏と二人だけで話しあった席上であったという。・・・ 日本道路社の葬儀は奄美共産党沖縄細胞が奴隷的な労働条件下にある奄美出身の出稼ぎ労働者を組織し、世論と立法院議会を揺り動かして勝利に導いた。この歴史的な事件は、アメリカ軍に占領されて軍政下にある沖縄では、非合法共産党の非公然の地下活動で労働者の闘争を呼び起こし、それを人民党の公然、合法の政治活動に結びつけることの重要性を実証したといえる。それを予見できなかったことについて、瀬長氏は「誤った」と自己批判したのであろう。それに当時は、米軍政府の人民党非合法化の意図が露骨になり、それに対して、一方で人民党を合法の革新政党として防衛しながら、他方では、人民党が非合法化された場合でも、大衆闘争を組織し、推進する力量を持つ地下組織を整備しておく必要がある、と痛感されていた。そういう事情が重なって、瀬長氏も非合法共産党の結成に同意したと思われる。 それからほぼ一年経って一九五三年七月、沖縄側人民党幹部と奄美共産党幹部は那覇市で合同の会議を持ち、琉球列島全域を活動範囲とする非合法共産党を結成し、東京の日本共産党本部に勤務している沖縄・奄美出身の党員を介して、「日本共産党琉球地方委員会」としての承認を党中央委員会(以下、党中央と略す)に要請した。 それを受けて党中央は、南西諸島を対象とする対策委員会を新設し、沖縄・奄美現地の党を指導する体制作りに着手する。対策委員会の実務は、それまで党本部の市民対策部にいて、沖縄出身党員グループの指導も任されていた沖縄出身の高安重正氏が担当することになった。そこで打ち出された党中央の方針が、沖縄出身の学生は、日本に残って党活動すべきであるという従来の方針を転換して、卒業後は沖縄に帰って党活動をしなければならない、としたことである。党本部の私に対する帰郷の指令は、この転換した新方針の適用第一号であったわけである。
(19)ところで、帰郷となると、パスポートの問題があった。もともと契約学生の場合、契約学生の身分証明書で沖縄・日本間の往来は自由にできた。それが一九五三年四月以降は、契約学生も沖縄・日本間の出入には一般のパスポートが要ることになった。私が身辺を片付けて帰郷の途に就いたのは、この年の九月である。パスポートの発給を申請した方がよいかどうか、迷ったが、契約学生の身分証明書で渡航できなければ、あらためてパスポートの発給を申請すればよいと考えて、私は鹿児島港から出航する船に乗ることにした。そして、東海道線、山陽線、日豊線と列車の旅をし、宮崎県に疎開してきた家族のもとに寄ってから、鹿児島に向かった。 鹿児島港では、案の定、乗船前の手続きで私の身分証明書が問題になった。・・・ ・・・幸いなことに、係官は・・・〇〇君で、・・・そういうよしみもあって、彼は、 「沖縄に着いてからどうなるか、責任は持てないけど」 と断ったうえで、私の出国を認めてくれた。・・・ ・・・九月二十六日、那覇の港に着くと直ちに、横付けになった船に出入国管理部の係官が数人乗って来て、船上で入域手続きを始めた。・・・ここでもまた、私の身分証明書が問題となり、私は下船を差し止められた。旅客全員が船を降り、私だけが残っているところへ琉球政府警察局の出入国管理部長がやってきて、「あなたの入域については、米軍政府(ユースカー)に問い合わせるので、そのまま船で待っているように」と言い残して船を降りていった。最悪の場合でも鹿児島に送還されるだけだ、と思い巡らしながら待っていたら、案外早く、一時間ほどして出入国管理部長は船に戻って来た。そして船を降りてよいと告げ、無表情で事務的に入域手続きをすませてくれた。 それから、旅装を解くいとまもなく、就職先として琉球政府から指定されていた那覇商業高等学校に着任の挨拶に伺った。ところがである。校長は、・・・○○先生で、私と顔を合わせて挨拶を受けるなり 「君の就職内定は取り消された」 と言い渡したまま、黙示て語ろうとしない。取り消しの理由を聞いても 「それは琉球政府の文教局に行って聞いてくれ」 と答えるだけで、何の説明もない。何やら私と話すことさえはばかられるといった様子である。仕方がないので、取って返す足で琉球政府文教局を訪ねることにした。 ・・・局長は・・・○○先生で、育英会会長は・・・○○先生であった。局長は、私が内定取り消しの理由を尋ねたのに対して、「そういうことになった」と答えるだけで、ここでも満足な説明は得られなかった。私と向き合った局長の顔には、人目をはばかって私との対話を避けようとする困惑の色がありありと浮かんでいた。 私は、取り付く島もない思いで文教局を辞し、政府庁舎の外に出た。その時である。局長と私との対面を黙って見守っていた○○先生が席を立って、私の後を追って来た。先生は私を政府庁舎の裏に連れて行き、周りにひとけがないのを確かめてから、声を落として話して下さった。 後に他の方面からも聞いた話を総合して分かったことだが、契約学生卒業予定者の就職先を内定する際、米軍当局はいち早く琉球大学や琉球銀行等に対して、私の採用を禁ずる指令を出していたらしい。そのために私の就職先はなかなか決まらず、しばらくは空白になっていたという。それが那覇商業高校に内定したのは、そこに勤めていた私の友人たちが「いい機会だから、チャンスを逃さないで採用するに限る」と、校長に私の採用を焚き付けた結果であったそうである。校長も文教局長も、当初は、それで問題はないと考えていたらしい。しかし、米軍当局は見逃さなかった。私が那覇の港に上陸し、赴任する段になって、その情報を知らされた米軍政府(ユースカー)民間情報教育部長ディフェンダーファーは、直々に琉球政府文教局長室に怒鳴り込んできて、私の採用取消を命じたというのが事の次第である。その際、ディフェンダーファーが波照間島を持ち出したというのは興味深い。 日本列島最南端の太平洋上に浮かぶ孤島波照間島について、新川明氏(詩人、元沖縄タイムス社社長、会長)は、著書『新南島風土記』(大和書房、一九七八年)の中で、次のように述べている。 「今日でも首里あたりのお年寄りが、小さい孫たちが悪さをすると、いうことをきかないと波照間島へやってしまうぞ、とおどしているのを見かける。これはかつてこの島が、琉球王府の流刑地だったことの名残りである。」「八重山地方はとくに重罪人の流刑の地とされ、わけても波照間島は断罪となるべきところを死一等減じられた終身刑の受刑者を送り込んだという。」「シマの人たちの説くところによると、この様に重罪人の流刑地ではあっても、いわゆる殺人・強盗といった種類の凶悪犯ではなく、政治犯の流されてくるところだった点を強調する。」 ディフェンダーファーは、私を波照間島へ流すならよい、それができないなら一切の公職から追放せよ、と琉球政府に命じたわけである。 これは私の想像だが、文教局長の○○先生や商業高校の校長○○先生には米軍当局から相当な圧力、それも生活の道が閉ざされかねないほどの脅迫的な圧力が加えられたに違いない。そうでなければ、教え子である私との会話をはばかったり、避けたりすることなど、あろうはずがない。アメリカの軍政は師弟の間さえ引き裂く苛酷なものだった。そういう情況の中にあって、○○先生は事の顛末を話して下さったばかりでなく、私の進退についても親身になって心配して下さった。私は先生の心づくしに感謝しながら、冗談を交えて答えた。 「私は琉球育英奨学性として郷土の復興に尽くす義務を負っています。その義務を果たすために帰って来たのですから、ここに残ります。ここは私の郷土ですから」 「そう」と軽く頷かれた先生の顔には初めて微笑みが浮かんだ。・・・
(20)さて、以上のような次第で公職に就けなくなった私は、しばらく瀬長亀次郎氏宅に居候をさせてもらい、その間に共産党中央からの連絡事項を琉球地方委員会に伝えた。その時は奄美諸島の日本復帰直前であった。それで、私が参加した琉球地方委員会は、沖縄と奄美が別々に党を建設することを取り決めて、解散することになった。その際、奄美出身で人民党の常任委員であった林義巳氏と全沖縄労働組合協議会書記長であった畠義基氏は沖縄に残ることになった。 沖縄の党は、名称を日本共産党沖縄県委員会(以後「沖縄の党」と括弧付で書くことにする)とし、委員長は瀬長亀次郎氏で、書記局の実務は私が担当することにした。奄美の党は日本共産党鹿児島県委員会に所属する奄美地区委員会とすることにした。
(21)アメリカ軍は、土地収用令の公布(引用者注:一九五三年四月三日)直後に、真和志村(現那覇市)安謝、銘苅両区の住民に接収予定地の作物撤去を通告し、数日後の四月十一日には、いきなりブルドーザーを農地に乗り入れて整地作業にとりかかった。問答無用の一方的な農地の強制接収である。 ついでアメリカ軍は小禄村(現那覇市)具志区民に接収予定地の作物撤去を五週間前に通告してきた。具志区民は安謝、銘苅両区の経験を踏まえて対策を協議し、アメリカ軍が土地接収の作業に来たら、早鐘を打ち鳴らして区民全員が作業現場に集まり、作業を阻止することを申し合わせた。 ・・・その日の夕方、私は瀬長氏宅にいた。そこへ具志から使いの人が駆けつけて来て、瀬長氏に米軍の武力土地接収の模様を手短に報告した。それを聞いた瀬長氏は、具志の人たちと相談に行く時間と場所を決めて、使いの人に皆への連絡を依頼した。夕食後、私は瀬長氏の供をして、具志区の会合に出席した。 ・・・この話し合いに出席して、具志区民がブルドーザーの前に座り込む闘争に立ち上がるまでには、このような話し合いが積み重ねられていたことを、私は初めて知った。具志区民の土地取り上げ反対闘争はよく言われるような「住民の自然発生的な抵抗」ではなく、人民党の組織的活動に支えられていたのである。住民の抵抗を共産主義者の扇動によるものとして弾圧する口実をアメリカ軍に与えないために、人民党はできるだけ表立たないように心がけ、民衆に密着して民衆の自発性を高め、発揮させていたのである。
(22)私個人にとって、この選挙(引用者注:一九五四年三月十四日立法議員選挙)は帰郷後最初に取り組んだ政治闘争である。当時、私は那覇市に隣接している真和志氏(現那覇市)にある小さな土建会社で事務職につき、その近くに住んでいた。先に述べたように公職から追放された私は、その後、就職の件で新聞社にも当たってみたが、私を採用すると米軍から紙の配給を停止されるという理由で断られた。そして、瀬長氏の紹介でやっと、従業員が数十人規模の小さな土建会社に勤めることになった。私は住居のある真和志の人民党支部に所属する一方で、非合法共産党の建設にも着手していた。そこで迎えた立法院選挙である。 ・・・そんな中、日本共産党本部の高安重正氏から、来る五月十日から三日間、党中央の方針を伝える会議を奄美の名瀬市で持つから、「沖縄の党」の代表を寄越せ、と連絡がきた。 半年前に日本に復帰した奄美の名瀬市へ誰かが行くとなれば、渡航が拒否されるのことは分かっているから、密航する以外に方法がない。となると、名前と顔がよく知られている人民党幹部が行くわけにもいかず、会社を辞めて党専従になっていた私が行くことになった。 私はメーデーの直前、勤めていた土建会社の社長から「君を会社に勤めさせていたら、米軍基地工事に入札させない、と言ってきているので、身を引いてくれないか」と言われ、それを機に、会社勤めを辞めて党活動に専念することにしたばかりだった。そこへ党中央から奄美への代表派遣を要請してきて、私が行くことになったのである。 私は那覇から出航するぽんぽん蒸気船に、洋上での途中乗船をあらかじめ頼んでおき、沖縄本島北部本部半島沖の海上でエンジン付きのサバニ(クリ舟)から乗り移って、まず与論島に渡り、それから島伝いに名瀬市に行った。 名瀬市では、中村安太郎氏宅で、奄美代表の中村氏とともに高安氏と会い、「琉球対策を強化せよ」と題する文書と「当面する闘いの方向」と題する文書を渡され、その説明を受けた。前者は一九五四年四月一日付『平独』紙に掲載された無署名論文で、日本全国向けに琉球対策を示したものである。後者は沖縄現地の党向けに出された方針書で、日本の民族解放民主革命を達成する力である民族解放民主統一戦線の運動を、沖縄では反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の運動として具体化し、発展させることを、当面する闘いの方向として示したものである。この二つの文書は日本共産党中央委員会が沖縄に関して戦後最初に出した政治方針を記述したもので、五一年綱領を沖縄に適用したものである。 二つの方針を読み終えて、説明した後、高安氏は 「日本の民族解放民主勢力が奄美を前進拠点にして、アメリカ帝国主義の完全軍事占領下にある沖縄を解放するのが党中央の方針である。沖縄もそれに呼応できるように、そろそろ武装闘争の準備をしなければならない」 と口頭で指示した。 一九五三年当時の日本共産党が、現在は武装闘争の実行段階ではなく、その準備段階である、と軍事方針を修正したことについては先に触れた。その修正した軍事方針を沖縄に対しても指令したわけである。先に触れた党中央の方針書にある「いまもっとも必要なことは全琉球を統一的に指導する党の指導機関の確立である」というのも、実は、奄美を前進拠点にして沖縄を解放する軍事方針に沿って観念的に考え出されたものである。 ・・・私は、沖縄代表としてはもちろん、個人としても意見を述べるのを差し控え、中央の方針を持ち帰って、沖縄県委員会の討議にかけることにした。 私が名瀬市から沖縄に帰ってすぐに開かれた拡大県委員会の会議で、「当面する闘いの方向」として示された「反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線」のスローガンは全員に受け入れられた。アメリカの軍事占領支配に反対して祖国復帰を要求し、軍用地接収に反対して土地を守ることは、すでに、沖縄住民の統一要求になっていたからである。しかし、「武装闘争の準備」指令については、瀬長委員長が 「そんなことを沖縄で実行できるわけがない」 と最初に反対意見を述べ、他の委員も全員が同調した。 そこで沖縄県委員会は、党中央の武装闘争の方針は黙殺して、沖縄の現状に適した政治方針と活動方針を探りながら党建設を進めることにした。つまり、沖縄では、日本共産党の五一年綱領に基づく武装闘争方針はシャットアウトされていたのである。 この会議が終わってすぐの雑談で、瀬長氏は冷笑とも苦笑ともとれる微笑を浮かべた顔を近くの席にいる私に向けて、 「高安はこういう文章を書くのはうまいからね」 と同意を求めるように話しかけてきた。党中央の沖縄対策の方針書は高安氏の手になるものと瀬長氏は見ていたのである。瀬長氏と高安氏は一九三〇年前後に非合法下の日本共産党員として京浜地区で活動し、日本労働組合全国協議会(全協)の活動を共にした旧知の仲である。 以上の経過から次のように言うことができる。非合法共産党の建設に当初は頑なに反対していた瀬長氏が後に賛同したのは、武力革命方式をとっている日本共産党五一年綱領を承認したからではなく、また、党中央の指導を要請するのに熱心だった奄美共産党の方針に同調したからでもない。・・・
(23)伊佐浜が土地接収を承諾させられたという知らせ(引用者注:一九五五年一月十八日)は、その日のうちに、人民党本部に届いた。そこに居合わせた私は、すぐにバスに乗って、伊佐浜に駆けつけた。私はそれまでに何度も伊佐浜を訪れていて区民の皆さんとは遠慮なく話し合える間柄になっていた。 ところが、その日、男たちは話すのが辛いのか、伏し目がちに顔をそむけて、話に応じてくれない。対照的に婦人たちは、心配な気持をそのまま訴えるように話していた。水田の傍を流れるせせらぎで洗い物をしている年老いた農婦は、私を見上げる目に涙を浮かべて 「この田んぼが取られるくらいなら、私も一緒に埋めて欲しい」 と嘆き悲しんでいた。また、赤ん坊を胸に抱きしめた農婦が、庭の木陰に立ち尽くしたまま 「土地接収を承諾してから、男たちは酒を飲んで、あっぱんがらー(やけくそ)になっています。男はそれですまされるかもしれません。しかし、産し子(なしぐゎ)産し(なし)出じゃちゃる女(いなぐ)や、あねーならぬ(子供を産み育てる女は、そんなにはしておれない)」 と、母親としての気持を切々と語っていた。そういう婦人たちの声を聞いて、私は何とかしなければならないと思い、伊佐浜の幹部の人たちと粘り強く話し合った。そこで、土地委員長の沢岻氏は、無念な気持を抑えながら、次のように語った。 「行政主席も村長も、アメリカ軍の言うとおりの補償条件を私たちに押し付けるばかりで、反対したら、後は責任が持てない、と言っている。立法院も行政主席に任せて、手を引いてしまった。それに土地接収を承諾した区の人たちは、伊佐浜があくまで反対して補償がもらえなくなったら、伊佐浜が責任を持つか、と私たちを責め立てている。もう、私たち伊佐浜だけではどうにもならない」 この話を聞いて、私は、人民党をはじめ労働組合や教職員会等に対するアメリカ占領軍の反共主義の弾圧と伊佐浜区民に対する脅迫と分裂工作とが、伊佐浜の人たちをどんなに深い孤立感に陥れているか、痛切に実感させられた。そこで私は沢岻氏に対して次のように提案した。 「沖縄には皆さんを支援する気持ちを持った人が沢山います。ただ、何をすればよいか分からないので、黙っているだけです。立法院も、皆さんが働きかければ、親身になって動くはずです。試みに、私が人民党の大湾議員のほかに社大党の議員も連れてきますから、座談会を開いて、皆さんの気持ちを率直に話して聞いてもらってはどうでしょうか」 沢岻氏は、それまで行政主席や立法院に陳情してきた経験からいぶかしげだったが、立法院議員が来てくれるなら、座談会を持ってもいいということになった。 翌日の早朝、私は社大党所属の立法院議員西銘順治氏を自宅に訪ね、ことの次第を話して、座談会への出席を要請し、承諾を得た。それから伊佐浜とも連絡をとって、一月二十八日に座談会を持つ段取りをつけた。 ところが当日、伊佐浜に行ってみると、約束の時間になっても議員の姿がなく、伊佐浜の人たちの顔には失望の色がありありと浮かんでいた。私は那覇に取って返して、立法院に行き、個室でためらっている西銘氏の言い訳を聞くのもそこそこにして、西銘氏を説得し、西銘、大湾両議員と一緒に立法院の公用車で伊佐浜に駆けつけた。 立法院議員が来てくれたというので、伊佐浜の人たちは大変喜び、男性も女性もほとんど全員が座談会に集まった。そして、伊佐浜の人たちの訴えを聞いて心を動かされた西銘氏は、社大党も全党挙げて伊佐浜の土地闘争を支援するよう党内に呼びかけるほか、立法院でも支援決議するように働きかけることを約束した。・・・ 西銘、大湾両議員の言葉に元気づけられた伊佐浜の人たちは、両議員が退席して後、土地を守る闘いを今一度立て直す相談を始めた。私も席をはずして、話し合いの結論が出るまで、外で待機していた。部落の方針を決める話し合いでは、外部の者は誰であろうと一切参加させないで、自分たちだけで主体的にとりきめるのが伊佐浜部落の慣習になっていた。そういうう部落の話し合いの結果、男は土地接収を一旦承諾したけど、女は反対だということで、闘いを再構築することになった。ここまで話が進むと、「女(いなぐ)や戦の(いくさぬ)先駆け(さちばい)」(いざとなると女は闘いの先頭に立つほど強い)などと冗談も飛び出して、みんな生き生きとなった、と外に出てきた幹部の一人は明るい笑顔で私に話した。 三日後の一月三十一日、伊佐浜の婦人たち二十数名が行政府に押しかけて、行政主席に面会し、土地接収に反対の意思を伝えた。同じ日、西銘氏ら社大党の立法院議員団は伊佐浜を訪れて、実情を聴取し、社大党は伊佐浜の土地接収反対闘争に全党を挙げて取り組むことになった。翌二月一日には婦人たち四十名がアメリカ琉球軍司令部に出かけて行って、土地取り上げを止めるよう直に訴えた。 しかし、アメリカ軍当局は婦人たちの訴えに耳をかそうともせず、二月三日十一時頃、ダンプカーを使って、水田を砂で埋める作業を始めた。伊佐浜では早鐘が打ち鳴らされ、住民が作業現場に集まってきて、作業を中止させ、ダンプカーを追い返した。 こうして再建された伊佐浜の土地闘争は新聞でも事実が報道されるようになり、広く世論の支持を呼びおこした。そして、一旦は伊佐浜の土地問題から手を引いていた立法院土地特別委員会も、改めて二月五日、大勢の傍聴人が見守る中で伊佐浜の土地接収に反対の嘆願書を採択した。婦人を先頭にした伊佐浜の闘いは、ついに、立法院を揺り動かしたのである。・・・
(24)行政主席ら代表団がアメリカ下院軍事委員会で陳述した直後の六月十四日、米軍民政府(ユースカー) 主席民政官は「立法院が土地問題に没頭して予算編成を遅らせるなら米軍民政府補助金を取り消し、議会解散を行う」と脅迫めいた警告をして、土地接収の強硬姿勢に変わりがないことを明らかにした。 そのおよそ四週間後には、伊佐浜に対して「七月十七日までに土地を明け渡せ」と一週間前に期限を切って、最後通告をした。その期限が切れる前日の七月十六日、藁にも縋りつく思いで琉球政府を訪れた伊佐浜の農民たちに、行政副主席は「接収は一日も延期できない。通告通り十八日には強制収用を断行する」とアメリカ軍の意向を伝えた。・・・ ・・・琉球政府も全く当てにならないと分かった農民たちは、部落に帰って総会を開き、最後の対策を協議した。土地を明け渡すか、最後の抵抗を示すか、道は何れかである。前にも触れたように、部落の方針を決める総会には外部の者は参加させない。どういう結論がでたか聞くために、私は総会場の外で待機していた。その私に、会議を終えて外に出てきた人々は総会の模様を次のように話してくれた。 話し合いが始まってしばらくは、みんな沈痛な面持ちで黙り込んでいたそうである。やがて、重苦しい空気が漂うなか、長老の一人が静かな口調で口を開いた。 接収に反対するか、応ずるか、どの道を選んでも、自分たちには土地も残らないし、移動先もない。それを自分で土地を明け渡したとあっては、アメリカ軍の野蛮な土地取り上げを自分たちが認めたことになる。それでは自分たちをこれまで支援してくれた沖縄中の人々や、遠くから激励の手紙を送ってくれた皆さんにも申し訳がたたない。私たちには、もはや、子孫に残す財産もすべて無くなろうとしている。この上は最後まで土地取り上げに反対して闘い抜き、せめて、歴史の上に伊佐浜の名を残そうではないか。 爽やかな風が吹き抜けたように、重く沈んでいた空気はこの一言で一掃されたという。みんなの顔は晴れ晴れとなり、総会はアメリカ軍の土地接収に最後まで反対して闘う意思を固めた。
(25)いよいよ七月十八日、強制接収が予定された日になると、伊佐浜には朝早くから幾百幾千という支援の人々が沖縄中から駆けつけてきて、部落を埋め尽くした。そのために、その日はアメリカ軍も手出しをしなかった。そして、強制接収は、支援の人たちの多くが家に帰って、地元の住民の他は泊まり込んでいる人も少なくなった深夜に始まった。 午前三時ごろ、アメリカ軍のキャンプ(兵舎)のある北東の方向から重車両の動く音が聞こえてくる。しかし、真っ暗で姿は見えない。聞き耳を立てていると、水田地帯のすぐそばを通っている軍用道路の彼方からも轟々という不気味な音が聞こえてくる。音がだんだん近づいてきたところをよく見ると、武装兵を満載したトラックとこれまた武装兵を両脇に乗せたブルドーザーが、ライトを点けずに何台も徐行して来るではないか。そして、空がうっすらと白見かける頃には、十三万坪の水田地帯はすっかり武装兵に包囲され、ブルドーザーが三十二戸の住居がある部落に突入していた。 海の方ではドレッジャー(浚ちょう船)が汽笛を鳴らしながら伊佐浜の海岸に近づいて、海水と一緒に砂を流し込むパイプを水田地帯に向けてつないでいく。それは戦争さながらの陸海両面作戦で、琉球軍副司令官ジョンソン准将が陣頭に立って指揮をとっていた。 夜が明けたときには、水田地帯の周りに有刺鉄線が張り巡らされ、大勢の作業員が水田の畔を次々と切り崩していた。支援に駆けつけた人たちは武装兵に阻まれて近づくことができず、怒りに震えながらアメリカ軍の仕打ちを見守っているばかりである。 伊佐浜の人たちもこうなっては手の施しようがなく、金網の中に入った三十二戸の家屋に座り込み、最後の抵抗を示した。それをアメリカ兵たちは銃剣やピストルを突きつけて追い出した後、家屋の取り壊しにかかった。 まず、部落の入り口にあるマチャグァー(日用雑貨の小売店)のトタン屋根にツルハシが打ち込まれる。剥き出しになった梁にロープがかけられ、それをブルドーザーが引っ張って、家は引き倒された。倒れた家の木材等は家財道具もろともブルドーザーで寄せ集めてダンプカーに積み込み、近くの浜辺に捨てに行く。このようにして三十二戸の家屋は次々と取り壊された。 ・・・ 数日後、ドレッジャーが海底から吸い上げた砂を海水と一緒に水田に流し込み、水田はみるみるうちに砂で埋められていった。 家を取り壊され、強制立ち退きさせられた三十二世帯の人々は、しばらく近くの小学校に収容された後、十数キロ離れた高台に移された。しかし、そこは農業ができない不毛の地で、結局二年後には、大部分の人たちが生計を立てる道を失い、一部の人たちは南米ブラジルへ移民として移住した。
(26)七月十九日、伊佐浜の武力接収の現場で、『民独』作成の中心メンバーの一人がCICに拉致され、拷問されたのに続いて、私もまた八月に同じ経験をさせられた。発端はコザ市(現沖縄市)にある中央病院を私が訪れたことにある。病院には瀬長氏が入院していた。 瀬長氏は前年一九五四年一〇月の人民党弾圧事件で那覇にある沖縄刑務所に投獄されたが、直後の一一月七日の夜、受刑者の待遇最善を要求する暴動が起こり、瀬長氏らがいるだけでも受刑者が元気付くと考えた刑務所当局は、一九五五年一月、瀬長氏を宮古島の刑務所へ、又吉一郎氏を八重山の刑務所へ移した。その後、瀬長氏は宮古刑務所で十二指腸潰瘍、胃下垂症を発症、沖縄本島の病院で手術を受けることになり、七月二日には那覇の沖縄刑務所に移された。二〇日には中央病院に入院、月が変わって八月一一日に手術を終えたところだった。 手術後は輸血が必要と聞いていたので、たまたま瀬長氏と同じ血液型である私は、八月一三日正午前、同じ血液型の友人と二人で中央病院を訪れた。しかし、その日は予定している供血者の数が揃わないというので、三時間ほど待合室で過ごした後、採血をしないで帰ることにした。 玄関を出てバスの停留所へ向かっているとき、アロハシャツ姿の日系二世のアメリカ人らしい男が二人、私たちの後をつけてくる気配がする。那覇へ向かうバスに乗って、後ろの窓のガラス越しに外を見ると米軍ナンバーの乗用車が後をついてくる。乗っているのは先ほどの男二人である。CICに間違いない。とっさの判断で私は友人を次の停留所で降ろし、私はそのままバスに乗っていた。バスが停まっている間はCICの車も停まり、バスが動き出すとCICの車も動いて、後をつけてくる。 それから三つ、四つの停留所を過ぎた頃、米軍ナンバーの乗用車がもう一台バスの前に現れ、次の停留所でバスは乗用車二台に前後をはさまれた形で停まった。そして、前の車からは背の高い半袖シャツのアメリカ人が二人、後ろの車からは先ほどの日系二世が二人、路上に降り立って、バスの乗降口に歩み寄ってきた。そこで四人はひとかたまりになり、私を指さしたりしながら相談し終えると、背の高い白人のアメリカ人がバスに乗り込んできた。彼は後方の座席に座っている私のところに真っ直ぐにやってくるなり、背中を丸めて上からのぞき込み 「コクバさん、ちょっとおりてくれ」 と言いながらポケットから身分証明書を取り出して私の顔の前につきつけた。怪しいものは逮捕、尋問して取り調べる権限を持つ者であることを示すためである。 バスを降りたところで白人のアメリカ人と日系二世の四人に囲まれた私は、バスの前に停まっている車の方に押しやられ、後部座席に押し込まれた。隣には白人のアメリカ人が座った。バスの後ろに停まっていた二世たちの車は、一旦前に出た後、ユーターンして、いま来た道を引き返した。先にバスを降りた友人を探しに行ったのであろう。それから私を乗せた車も走り出した。 バスを降りた友人がCICに見つからず、無事であったことは、のちにCICに尋問されている中で、友人が誰であったか執拗に何度も聞かれたことから分かった。その友人の存在は、私がCICに連行されたことを知る人物が少なくとも一人はいることをCICに認識させるものになった。私は友人の名を黙秘し通した。 車の後部座席の隣に座っている白人のアメリカ人に、どこに行くのか尋ねても返事はなく、運転席の白人のアメリカ人も電話連絡をとる以外は無言で車を走らせた。午後四時過ぎ、着いた所は伊佐浜水田地帯の南隣にあるCIC本部である。当時のCIC本部は数棟の蒲鉾型兵舎(コンセット)からなり、私が連れ込まれた蒲鉾型兵舎の壁にはT4と書かれ、入り口にはTechnical Serviceという掛札があった。私はその入り口のある部屋の隣で、応接セットのある部屋に通された。 ・・・ 連れ込まれてから三日目、八月十五日の朝、大尉の組がめぐってきて、ライトを消し、私を応接室の椅子に座らせた。二世は水の入ったコップを持っていたが、私が取ろうとすると 「第三国人身上明細書を書くなら水をやる、睡眠もとらせる」 と言う。私はそれを拒否する一方で、今の状態を切り抜ける方法はないか、今のままでは鹿地亘事件のようになる恐れはないか、と思い巡らしていた。 その事件は、第二次大戦直後の占領下の日本で、左翼の文学者で作家の鹿地亘がアメリカ陸軍中佐キャノンの率いるCICの別動隊キャノン機関に拉致され、秘密裡に約一年間監禁されていた事件である。 鹿地亘事件のようにならないためには、私がCICの拉致状態にあることを外部に知らせなければならないが、それには私を軍事裁判に起訴させる以外に無い。そこで私は、軍事法廷で日本共産党員として公然と闘う腹を決め、身上明細書の記入は拒否したまま、その質問事項の家族、学歴、経歴など純粋に個人的な事項についてだけ、口頭で答え、その代わりにCICは私を軍事裁判に起訴するよう仕向けた。私をどう始末するか探っているに違いないCICに合法的な道を選ばせたのである。その際、私は東京に居たときに共産党員であることは公然化していたので、それを認め、それ以外の党関係、団体関係、友人関係は一切黙秘した。聞き取った内容は日系二世が英語で記入していた。 一応の聞き取りがすんだところで、私は睡眠を要求し、応接椅子のマットを床に並べて寝た。まるまる二昼夜、四十八時間ぶりである。たちまち深い眠りに落ちた。 大尉を含む四、五人のCIC達が私を囲んで起こしたとき、頭は重く、寝入りばなの感じであったが、数時間は寝たようである。大尉は 「これからあなたを起訴して予審にまわす。しかし、予審がすんでも公判まではここで調べる。これは勾留状だ」 と差し出して見せた。それは「国場の身柄を公判が開かれるまでの勾留する権限を第五二六CIC部隊責任者に与える」という意味の予審判事が出した英文勾留状だった。 しばらくして、那覇にある軍事法廷に行くことになり、大尉はパンツ一枚でいる私に服と帽子、時計、ペンなどの所持品を返すように部下に命じた。それから大尉の運転する車に乗せられて那覇に向かった。後部座席の私の左右には日系二世二人が乗っていた。 法廷前で車から降りたのは五時前だった。CIC三人に囲まれて、まず琉球政府の警察局長室に、ついで那覇警察署長室に連行され、そこで英文の起訴状を渡された。それには「KOKUBAは琉球政府の認可を得ていない新聞『民族の自由と独立のために』を不法に出版した責任者である」という意味のことが書かれていた。 軍事法廷に入ると、そこにはトーマスというアメリカ軍判事と通訳、それにCIC三人、警察署の司法係二人がいるだけで、新聞記者も傍聴人もいない。内密にことを運ぶつもりらしい。型どおりの予審が無造作に行われた後、その晩は那覇警察署の留置所で過ごした。 翌十六日午前十時頃、日系二世のCIC三人が迎えに来て、私は車でCIC本部に連行された。そこでは、もはや、大した質問もなく、昼食をとってから再び那覇警察署に移された。 しばらくして、軍事法廷に呼ばれ、那覇署の警官に連れられて行ったところ、法廷にはトーマス判事と通訳以外誰もいない。私が被告席に着くや否や、トーマス判事は口を開いた。 「只今CICのメージャー・ジョンソンと話しあったところ、CICではあなたを起訴する意思はないそうです。あなたは不起訴になりましたから、お帰り下さい」 「それだけか」 「それだけだ」 軍事裁判になったら、私はCICの拷問の実態を法廷で明るみに出し、沖縄住民の人権を蹂躙してやまないアメリカ軍の占領支配に対決して闘うつもりでいた。しかし不起訴になって、私は闘う場を失った。CICは軍事法廷での私との直接対決を避けたのである。 私が釈放された同じ日の八月一六日、アメリカ軍琉球軍司令部(ライカム)は「沖縄に日本共産党の沖縄県委員会が一九五四年初頭より存在し、活動している」と発表し、翌日の新聞『沖縄タイムス』と『琉球新報』にでかでかと掲載させた。その狙いは、私がCICの拷問を表沙汰にするのを牽制すると同時に、沖縄の党を挑発して前年の人民党事件のような弾圧の機会をつくることにあると思われた。沖縄の党は党だけの突出した抗議行動をひかえて、あくまでも人民大衆の力を結集してアメリカの軍事占領支配に総反撃する方針を堅持し、沈黙を守った。 ・・・ 事件の経過を私から聞いた党政治局では、私がとった態度について、何の誤りもないという意見と重大な誤りだという意見とがあった。私は二つの意見を汲み取った自己批判書を書いて党に提出したが、結果においては、ライカムが日本共産党沖縄県委員会の存在を公然化させたことになり、さらに共産党員だというだけでは逮捕も起訴もできないことを広く認知させることになった。 しばらくして、入院中の瀬長氏から病院に来るように連絡があり、面会に行ったところ、瀬長氏は「これからは、公然と活動することだ」と私を励ました。そして翌一九五六年三月の立法院選挙では、瀬長氏のすすめもあって、那覇市の選挙区から人民党公認で立候補した。結果は惨敗であったが、私にとっては公然たる政治活動に踏み出す第一歩となった。
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