A HAPPY NEW YEAR/2006


南西諸島のとある島の、ナハという町の2006年1月1日の空模様は、こんな感じです。

沖縄の冬はさえなくて、いつもどんよりしているか、雨が降っている。大して寒いわけでもないんだけど、外に出ると風が結構きついから、何を着ていけばいいのか、毎日判断に迷うし、そして毎日、間違える。

年齢のせいかもしれないが、今年は結構寒かったと思うよ。

一番の寒波が押し寄せた夜、ベランダに住み着いてた黒猫一族の最後の子猫たちが、死んだ。左トラベイビー、右クロベイビー。もともとは4匹いたんだ、トラ2黒2。最盛期はすごかった。この子の母親と、おそらくは父親、そして前回の出産で生まれた子猫たち、すべて黒!が、一族郎党総勢10頭くらいが、私が出かけようとしようものなら、食事を要求して、集まってくるのだ。
そう、こんな感じで。ご飯を出してあげることくらい何の問題もない。「人間としての人生」はすでに「終わっている」私だから、「アル中・ウツ・ひきこもり」の大してお金のかからない生活の割には、そこそこの給料いただいてるから、いくらでも出してあげるわよ!ただ、うんこには参ったな。

ペットを飼うとか、動物と暮らすとか、往々にして、「いい話」になりすぎるのだけど、現実にこの徹底的に近代化した人間社会のシステムの只中に「どうぶつ」を受け入れるというのは、1にも10にも徹頭徹尾、糞尿の世話を引き受けることなのね。
おそらくは人間の子供を飼う、あ、ごめん、間違えた、のも同じ。こんなこといったらもちろん怒るやろけどな、

「子育てをしたこともない人間に何がわかるの!」風の不当に自信に満ちた言論と、こっそりと「闘ってきた」つもりでいたけど、一つ大事なことを見逃していたかもしれない。「おしめを換える」ことは、人間が人間と直面する最初にして最も重要な行為かもしれないのね。私はそれをもう決してすることはないから、「人間」についてわかったような顔はしないけど・・・
ペットショップに行ってごらん。「におわない猫砂」「すっきり吸収シート」「1週間取替え不要」「さらさら・・・」、飼い主がこれほどまでに動物を愛しながら、なおかつその排泄物を、これほどまでに嫌悪しているのならば・・・。
「愛する」ということは、そのうんこやしっこやげろや鼻水や耳くそまで、そして、さらに重要なことだが、その「死体」も含めて、引き受ける、受け入れる、ことではないのかしら?
「近代」はその全過程を通じて、「死体」と「糞尿」を生活領域から排除することに努力を傾けてきた。こうして私たちはいまや、決して死ぬこともなく、ましてやうんこなどするわけはない存在として、町を闊歩することができる。

クロベイビーとトラベイビーは、屋上に通じる階段のプランターで眠っている。お兄ちゃんたちはその上に平気でうんこをする。
動物はいとも簡単に死んでしまう。特に子猫は。身体が小さいから、雨に濡れたりすると、体温が維持できないからなんだろう。ついさっきまで生暖かかった毛の塊が、見る見る冷たくなっていく。

さっきも言ったが、動物を飼うというのはその「死」を引き受けることなんだろう。本当は人間と関わりを持つことだってそうなんだろうけれど、人は自分の「死」を原理的にうまく想像できないし、さしあたりその可能性を除外することで大過なく日々を送ることができる。人は「死の恐怖」に対して、それを「馴致」することで漠然とした「不安」として取り込んだ、とキルケゴールは言ったという。

私はキルケゴールを3ページくらいしか読んだことはない。竹田青嗣の「(自分を知るための)哲学入門」(ちくま学芸文庫)を最近読んで、とても「腑に落ちる」ことができた。

こうして私は、ほぼ一年に一冊くらい、「腑に落ちる」書物に出会うことができる。幸せなことだ。もう少し、若いころは、もっとやみくもに「読まなければならない」とせきたてられていた。「死ぬまでに読まなければならないはずの書物」と「死ぬまでに残されている時間」の競争だった。死ぬまでに残されている時間が、推定でほぼ半分を切ったとき、つまり40歳くらいになったとき、この勝負「降りよう」と、唐突に思った。

沖縄に引っ越すことになったとき、スチールの本棚5個分くらいはあった本を、ほとんど全部処分した。時代遅れの「マルクス主義系」が多かったから、文字通り「二束三文」にしかならなかった。本当は処分費用をいただかなければならないんですけどね、みたいに、わざわざ部屋を訪れてくれた古本屋の親父さんに言われた。

結局そのときはダンボール3箱分くらいの本が残ったのだが、そういうときの「残すか捨てるか」の判断基準って、切羽詰ってるだけにあとからふり返ると面白いわね。「一度読んで、愛着を持っているから」残すのか、はたまた「まだ読んでないが、これから、それこそ死ぬまでに一度は読むかもしれない」から残すのか?こうして私はそれまで20年近く、何度も読み始めながらも挫折しつつそれでも捨てられなかった、大月書店のマルクス・エンゲルス選集「資本論」と別れを告げた。でも、どういうわけか北京で出版された英語版の「毛沢東選集」が残ってるの。たぶん「死ぬまで」読まないとは思う。いや、読むかも知れんか?

結局役に立っているのは、大学生のときはほぼ一度も開くことはなく、これからも当分は予備校の講師で食いつないでいくんだから、ひょっとしたら、と思って持ってきた教養課程の教科書、「微分積分学」とか、「力学」、「電磁気学」、そういったものだね。理工系の専門書というのはものすごく値段が高いんだ。残しておいたのはそれが理由なんだけど。

私は予備校で数学や物理、化学とかを教えていて、もう断続的に20年近くやっているから、そこそこ大事にもされているし、偉そうにしてもいるんだけど、本当は不安でしょうがない。大学で専門的にそういったことを「研究」したことも、そもそも大学の「授業」に出たことすらほとんどないんだから。だから全部「独学」といえば聞こえがよいが、全部「付け焼刃」だ。

教室で偉そうなことを口走ってしまって、あとから猛烈に不安になる。病気になるくらいの「心配性」なんだからしょうがない。そんな時私は、家に「ひきこも」って、「勉強」をする。ちゃんと仕事はしているんだから、「パートタイム・ヒキコモリ」とでも言うべきか?
私は今でも「勉強」が好きだ。数学の問題を解いたり、物理の「公式」を導いたりするのが、たとえようもなく、好きだ。でも、

みたいな、100年生きてたって絶対に実生活上で役に立つことはありえなさそうな、こんな公式がすらすらっと口から出てきてしまうとき、「私の人生って、何だったんだろう?人生にはもっと記憶にとどめるべき重要なことがあったはずじゃなかったのか?っとも思う。

履歴書の用紙に「得意科目」って欄があるでしょ?新卒の学生さんのためのものなんだろう、40過ぎた再就職に「得意科目」もあったものではない。業種柄、私はそこに平然として「数学・物理・化学・英語」と書く。「先生は何でもできるんだ!」みたいに生徒からきらきらした目で言われると、あほなお調子者だから悪い気はしないけど、ちょっと待ってくれ。「人生」にはもっとたくさんの「科目」があったんだ。

「明るい家庭を築くこと」、「円滑な人間関係」、「長続きする恋愛」、「親戚づきあい」、「人生設計」、「財産運用」、「安定した老後」、「次世代の育成」、「不動産取得」、・・・それら一切の、多くの人々が、「普通に」取得している「科目」がことごとく、すべて落第なのだ。

生命保険のコマーシャルをテレビで見る。「40代後半自営業のAさんは、遺族補償を厚めに、ガン保険をプラス・・」、私にはそれらの言葉が、どこの星の言葉で書かれているのかすら、わからない。だから、4科目くらい「得意科目」があったって、いいじゃない、大目にみてくれたまえ。

そんなわけで、今でも、「勉強」が好きだ。それしかすることがない、とも言う。きっと世界が明日滅亡すると知っても、私は数学の問題を解くかもしれない。ひょっとしたらそんな時、猫の腹でもなでながら、「毛沢東選集」を読みたくなるかもしれないから、もう少し、とっておく。
竹田青嗣の「哲学入門」に「腑に落ちた」談義をもう少し続けよう。人は解決可能な問題にしか直面することができない。というか、そもそも解決を必要とするとき、初めて、問題は問題として姿を現す。

彼は、「大学を卒業しても、どうせ在日朝鮮人だから就職はない」という状況の中で、おりしも時代は60年代後半の学生運動が退潮に向かうころ、「社会の変革」という疑いもなく大量の人々をひきつけた思想が、かくも無残に色あせていくのを目の当たりにして、「考える」以外になすすべがなかった、という。

そうして「現象学」と出会う。彼の明晰な説明によれば、「主観」の内側で生じた「認識」が、いかにして「客観的現実」に一致するか、がヨーロッパ近代哲学の根本問題だったが、フッサールはそれに対して、「客観的事実」なるものは存在せず、したがって「正しい」認識というものもありえない、ありうるのは、「妥当」な、相互的な「確信の一致」、「了解」、「納得」ということだけだ、と主張したという。
私は、フッサールやその他現象学に関する書物を、何冊も、何十回も、「読もうとした」ことがある。なんだそういうことだったのか、もっと早く言ってくれよ!という感じだが、「腑に落ちる」というのはまさにそういうことなのだ。

現に、解決しなければもはや一歩も先へ進むことのできない「問題」がそこに存在し、その問題に「直面」しているときにだけ、かつてそれと「同じ」ではないにせよ「同型」の問題に直面してつむぎだされた言葉たちが、その姿を現す。そうでないとき、それらはただ難解な用語の羅列だ。
時節柄「センターテスト対策数学TA」とかいう授業を一日5時間ほどもやったりするのだけど、たとえば未知の定数aを含む2次関数の「最大値・最小値」問題。「定番」中の「定番」だ。定数aの値が定まらない以上、そのグラフは左右に移動可能だから、しかるべき定義域内においていかなる場所で最大値または最小値を取るかを決定できない、決定できないからこそ、定まらないaを、いつまでも「定まらない」とは言ってられないから、無理やりにでも定め、いくつかのカテゴリーに分類し、「場合わけ」をして、答えに到達する以外方法がない。

「センターテスト」の問題は、たとえばこういう風に続く、「aが(アイウ)以下であるとき、x=(エオ)で最小値(カキク)をとり、aが(アイウ)より大きく(ケコ)以下であるとき・・・」。(アイウ)なり(ケコ)なりの数値が明らかになる以前に、少なくとも「場合わけ」をしなければ解答に到達できないんだ、という認識が先行しなければならないはずなんだ。「場合わけ」しなければならないことを、「発見」できなかった人にとっては、これらの数値は、単なる「脅迫」に過ぎない。








矛盾の上に咲く花・MESSAGE/MONGOL800
人は弱しうわべ装い 心は裸うわべは崩れる
もろい裸心はたやすく傷つき 救い求めうろたえる
頼れる物探ししがみつく それの繰り返しが人の歴史
小さすぎる世界観 大いなる自然にごめんなさい
誰のせいだとか関係ない 気にするヒマあれば笑いなさい
美しい空の青海の青 この島すでに悲しき日本色
この小さな島にあふれていた おばあの笑顔も涙で歪む
心からみんなで歌える国の歌なら楽しいかもね
平和願い叫ぶ前に これ以上自然を壊さないで

矛盾の上に咲く花は 根っこの奥から抜きましょう
同じ過ち繰り返さぬように 根っこの奥から抜きましょう
そして 新しい種まこう 誰もが忘れてた種まこう
そしたら野良犬も殺されない 自殺するまで追いつめられない
どこの国もやさしさで溢れ 戦争の二文字は消えていく
そして振り出しに戻し 今 素敵な世の中を作ろうか


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