1995年1月17日
 1995年1月17日、その朝も私は酔っ払っていて、母親からのただならぬ調子の電話 にも目が覚めていなかった。ようやく8時ぐらいになってテレビをつけると、阪神電車の石屋川車庫が写っていて車両がすべて横倒しになっている。初めて事の重大さを知った。
 それからの数日、私はつながらない電話をかけ続け、かからない電話を待ちつづけ、テレビの画面の、ただ増え続ける、決して減ることのない死者の数を見つめつづけた。
 画面に映る「被災地」のすべては私が慣れ親しんだ、そう、そこの角を曲がればどんなお家やお店があるかも知っている、「故郷」だった。
 人々が「活断層」とやらについて得意げに語り始めた頃、私は国道171号線の歩道橋の上から、「神戸」と書かれた標識の向こうに沈む夕日を眺め、号泣した。
 あの街に行こう。何もできなくてもいい、6000人あまりの人が死んだあの街で、「まだ死んでいない」人々のかたわらに、ひっそりと立とう、と思った。
 ボランティアといったって、たいしたことをしたわけじゃない。週に一度か二度、振り替え輸送のバスに揺られ、あるいは自転車を走らせ、焼け跡とがれきの街を見つめつづけた。
 京都に帰ってくると、ほんの数十キロ先で人が本当に飢えたり凍えたりしているのに、変わらぬ街の賑わいがとげとげしく思えた。何より、建物や電柱が、まっすぐ立っていることに違和感を感じさえした。
 長田区大橋中学のテントに住んでいたYさん、北野のクラブのママさんだ。細田町の アパートも、北野のお店も全壊だった。ピースボートのボランティアで引越しの手伝いをした。引越しといっても、取り壊されてしまう前に、少しでも金目のものを引き上げておくってことなんだけど。北野のお店ではコンクリートの固まりが天井からぶら下がって、床一面にブランデーの割れた瓶が散らばってる。かろうじて無傷だったカミュやレミーマルタンを運び出す。お土産までもらってしまった。
 その後も何度か大橋中学のテントに遊びにいった。とても明るいおばさんなんだけど、たき火に背をかがめている後ろ姿はとても淋しそうだった。私の住所を書き留めておいてくれていて、一度葉書をもらった。返事を書いたけど、宛先は全壊したアパートのものだったから、届いたかどうかはわからない。それっきり音信不通。
 今でも休みの日には神戸にいく。細田町のアパートの跡地は、きれいに整地されて駐車場になっている。北野界隈は4年目の冬を迎えてもはや何事もなかったかのようににぎわっているけれど、Yさんのお店があった場所には、別の建物が建っている。「お店が再開したら、必ず呼んでくださいね」って約束してたんだけど……

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