『天安門/THE GATE OF HEAVENLY PEACE』
まもなく10年目の6月4日が来る。
昼頃のテレビのニュースだっただろうか。戦車、火炎ビンの炎、断続的な銃声、悲鳴。今でもはっきりと覚えている。2、3日前だったと思うが、北京郊外に駐屯している人民解放軍の一部隊の司令官の「人民解放軍は人民に属する、従ってそれは人民に発砲することはできない」なる声明を伝える新聞記事に、最後の希望を託していたのだったが。
当初、死者の数は数百万とまで報道された。いったい数日間で数百万の人間を殺傷することができるだろうか?「西側」のマスコミも明らかに錯乱していた、でなければある種「はしゃぎ」過ぎていた。
10年後の現在、ほぼ確認されている事実はおそらくこうだ。あの夜とその後の数日間で数百ないし数千の人々が殺された。ほとんどの死者は、広場に向かって長安街を進軍する部隊を阻止しようとした労働者、露天商、市民だった。広場に座り込んでいた学生たちは、軍隊に包囲され、自主的に退去した。
死者の数が3桁ほど小さいからといって、「西側」の悪意から中国共産党を防衛しようといっているのではない。学生の犠牲が少なかったといって、この運動を切り縮めようというのでもない。ただ、あまりにも長い間この「事件」はさまざまな色合いの誇張と悪意に彩られすぎてきたのではなかったか?
『天安門/THE GATE OF HEAVENLY PEACE』(リチャード・ゴードン/カーマ・ヒントン、1995年、189分、「UPLINK」製作2本組ビデオでレンタルショップでも入手可能)
このほとんど全編が当事者とのインタヴューと、ニュース映像で構成される長大なフィルムが、では「真実」を伝えているのか?という問いには答えることはできない。むしろ、この映画に対して、元学生指導者のいくつかの党派、人権諸団体等から投げつけられた悪罵を見れば、事態はそれほど単純ではなく、憎悪は少しも癒えていないことがわかる。
この映画を初めて観たのは97年だったと思う。その2年前私は初めて北京を訪れ、天安門広場の毛沢東像をみ、長安街をバスから望み、北京大学のキャンパスも歩いた。言葉も分からない初めての旅行者でもあるし、事件の痕跡を感じさせるものなど何一つ読み取ることはできなかった。
でも、当たり前のことなんだけど、町の匂いをかいだり音を聞いたりすることで、何か私は「中国」に対する、この「事件」に対するあまり根拠があるわけでもない「こだわり」や「構え」を解除することができたような気がしている。
インタヴューの対象となるのは、いくつかの「党派」を代表する学生指導者達、広場の運動に関与しようとした知識人達(「文革」期に若き紅衛兵であった人たち、あるいはもっと年配の「大躍進」や「反右派闘争」期からの党員など)、広場の運動に触発されて独立労働組合を結成した労働者、高校生の息子を4日未明の銃撃で失った母親などからなる。
数ヶ月におよぶ広場の運動を報道する膨大なニュース映像を、製作者たちは北京気象台の気象データと照合することで日時を特定し、再構成した。
かかる「事実」への探求の冷静さと謙虚さこそが、この映画の、そしてこの「運動」の『希望』を構成する。
誰でも知っていることだが、「運動」はいつでも清潔で英雄的であるとは限らない。際限ない中傷と派閥の権力争い、卑屈さと怠惰と傲慢。それらの耐え難い醜悪さの中を運動は蛇行し、ときにほんの一瞬の輝きを発する。軍隊の動向を広場に伝令する露天商達のバイクの爆音。学生の宣伝バスから撒かれるビラに群がる人々。対峙した人民解放軍と市民が共に革命歌(「三項規律八項注意」)を歌い、ついには軍が撤退するシーン。
毛沢東の肖像に「民主の女神」を対置させ、五星紅旗を掲げ「インターナショナル」を歌いながら広場を撤退したこの運動は、ほかのすべての運動がそうであるように、矛盾に満ちている。
矛盾のただなかを生き、運動自身の速度と力に揺さぶられ、矛盾そのものででしかありえないような人々の中に自分を置いてみること。つまり、あの日あの場所、あの街に、私がいたとして、どんな行動を選び取れただろうか?そんな事を初めて考えてみた。
製作・監督の一人で作中で主にインタヴューを行っているカーマ・ヒントンは、(確か『翻身』という書名だったと思う)ドキュメントの著者であり、終生中国革命と共産党に対する信頼、といって悪ければ「礼賛」を失わず、中国にとどまり続けたアメリカ人、ウィリアム・ヒントンの娘。彼女の母語は中国語であり、かつては若き紅衛兵であり、彼女もまた「我愛北京天安門」を唄ったはずだ。
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