「難死する情景」

ミサイルが照準を定めたところ、爆弾の落下するところ、その先に住んでいる人々がまた自分たちと同じ「人間」なのだという理解をもつことは、実のところそれほど簡単なものではありません。
私たちは、その人たちについて、何を食べているか、どんな服を着ているか、どんな言葉をしゃべっているか、何にも知らないのだから、想像力が及ばなくたって無理はないのです。
かつてスロベニアの首都に滞在しながら、スロベニアとスロバキアの区別がつかなくて随行者の失笑を買ったことのあるジョージ・W・ブッシュという人も、自分が攻撃を命じているアフガニスタンという国がどんなところなのか、多分私たちと同じくらい、何も知りません。
自分が殺そうとしている者達が一体何者なのかについて、一番まともな想像力をもっているのは、あるいは兵士たちかもしれない。9月11日の事件以降の沖縄の基地周辺の歓楽街で米軍兵士達にインタビューをしていたある新聞記者の人から聞きました。
ベイルートに駐留したことのある兵士の一人は、あまりにもたくさんの死体を見過ぎた、もう戦地には行きたくない、ピンポイント攻撃なんかできるものか、必ず民間人が死ぬ、と語っていたといいます。

人を殺害へと駆り立てる憎悪を解除することができるのは、この期に及んでもなお、知性の作用しかないと思っています。
他者を理解するための努力、理解することができるかもしれないという希望、しかしその前提として、私たちは何も理解していないこと、理解する材料を何も持っていないことの確認から始めるべきなのだと思います。
ここに掲げる数々の文章は、ときに相互に矛盾し敵対するものを含んでいます。「アフガニスタン」やこの戦争に関する「理解」が深まる、という性質のものではないでしょう。確信に満ちた言葉がお望みなら、むしろ何も知ろうとしない方がいい。私たちにはむしろ、しどろもどろの、言いよどむ言葉たちが必要なのです。

それにしてもインターネットというのはすごいですね。先の湾岸戦争のときとは全然違います。それが具体的に戦争を回避するのに役に立つかどうかと、性急に問うのは止めましょう。世界中でこれほどにもたくさんの、個人や小グループを根拠にしたウェッブサイトたちが、この戦争について情報を伝え、見解を述べ、行動を呼びかけ、めまぐるしい速度でメールたちが飛び交っています。Equality(平等)とElectronics(電子技術)、ともにEで始まる言葉を対比して、民主主義への希望を語っているリンゼー・コールンの控えめな楽観に私も共感します。
世界は間違いなく、狭くなって、そうでないとしても少なくとも、もっと「あけすけ」になっていきます。憎悪が無知の作用ならば、希望があるというべきでしょう。
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