ENGLISH

プエルト・リコ

「楽園の抵抗:カリブ海と太平洋における100年にわたる合衆国の関与について再考する」より
ジョニー・イリサリ、マリア・ミルス・トレス、マルタ・モレノ・ベガ、アニタ・リベラ
アメリカの友奉仕委員会

プエルト・リコはカリブ海に浮かぶ山地性の熱帯島嶼で、その面積は3,423平方マイルに及ぶ。西はドミニカ共和国とハイチ(この二つの国は一つの島を分け持っている)、キューバ、ジャマイカ、東は合衆国ヴァージン諸島と小アンティール諸島、南は南アメリカ大陸、そして北は合衆国本土と隣り合っている。
プエルト・リコには大きな近代的な都市と小さな田舎町が共存している。人口が集中しているのはプエルト・リコ本島と二つの離島、クレブラとビエケスである。プエルト・リコの現在の人口は350万人を超える。合衆国本土には270万人のプエルト・リコ人が住んでいる。プエルト・リコ人は合衆国におけるラテン系人口の中で2番目に大きなグループをなしている。この島で用いられる言語はスペイン語であり、英語は第二の言語として学校で教えられている。
プエルト・リコの人々は、この島の人口を構成する多様なグループ、すなわち先住民、おもにスペインからのヨーロッパ植民者、アフリカ系人口のそれぞれの身体的、文化的伝統を表現している。ありとあらゆる肌の色が存在する。プエルト・リコ人が経験してきたものはわれわれ合衆国の人間が常識としている人種というものの理解と少し異なっているだろう。

先住民とスペインによる植民地化

先住民のタイノ・アラワク人はこの島を「ボリケン:勇敢な人々の土地」と名付けた。タイノ人は高度な政治的、社会的、宗教的、文化的な意識と実践を持っていた農耕民でその祖先は紀元前4千年までさかのぼる。
1493年にクリストファー・コロンブスはボリンケンの領有権をスペインのイザベラ女王とフェルディナンド王の名において主張した。彼は当初このタイノ人の島をサン・フアン・バウティスタと名付けた。その後島の名前は「豊かな港」を意味するプエルト・リコに変えられた。60年間の間にタイノ人の人口は、スペイン人侵入者との戦争、金鉱山とプランテーションでの奴隷制度、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病により、壊滅的な打撃を受けた。
スペイン人と侵入が始まるや否やタイノ人は植民下に対して抵抗をはじめた。「カキケス」と呼ばれる首長がスペイン人侵入者に対する抵抗を指導した。スペイン人自身による有名な伝説、歴私文書によればウラヨアン、アゲイバナ2世などの有名な「カキケス」に導かれた抵抗の物語が見られる。スペイン人の征服者がやってくる以前からウラヨアンは来るべき破壊について人民に警告を発していたという。伝説によれば、彼は動物(馬)にまたがった白い肌の男たちがやってきて彼の人民に甚大な破壊をもたらす様を幻視したという。彼は自らの臣民に対して反乱を呼びかけ、他の首長に対してもスペインによる植民地化に対する抵抗を呼びかけた最初の「カキケス」であった。
多くのタイノ人がスペイン人の圧政を逃れてカリブの他の島へ移った。そこで彼らは(小アンティール諸島の先住民である)カリブたちと共にスペインの植民地支配と戦った。タイノ人の人口の大半はこうして消滅させられてしまったが、彼らの影響は今日のプエルト・リコ人の生活の中になお持続的な物質的、文化的要素として残されている。たとえば、多くのアラワク・タイノ語の単語がスペイン語の中に(さらには英語の中にも)継承されている。「フラカン」(ハリケーン)、「ハマカ」(ハンモック)など。
マラカスや「ギロ」(ひょうたんで作られた楽器)などのタイノの楽器はプエルト・リコ音楽のスタイルの中に重要な位置を占めつづけている。
タイノ人の人口の大部分が消滅されられると、スペイン人達は労働力の不足を補うためにアフリカ人の奴隷化をはじめた。アフリカ人の奴隷制度は1508年から1873年3月22日についに廃止されるまで、プエルト・リコ経済の支柱であった。

プエルト・リコに生きるアフリカ系の遺産

学者たちの中には、アメリカ大陸には15世紀終盤のスペイン人の来訪に先立ってアフリカ人がやってきていた形跡があると主張するものもいる。考古学的な研究によれば、ヨーロッパ人の到来に少なくとも2千年以上先立って、アフリカ人のものと思しき人工物や人骨が、メキシコ、中央アメリカとカリブで発見されているという。例えば、紀元前1450年から800年にかけてメキシコの大オルメック文明とアフリカのヌビア・ケメティック文明との間には交易があった証拠がメキシコのラ・ベンタやパレンケで発見されている。紀元1310年と1491年の間にアフリカのマンディンゴの商人たちがカリブと中央および南アメリカを回る50回以上の探検旅行を行ったとも言われる。
加えて、スペイン人自身も深くアフリカ文化に影響を受けた。北アフリカのムーア人はおよそ800年間にわたるそのスペイン占領を通じてスペインの歴史、芸術、文化に決定的な影響を残した。リベルトと呼ばれるアフリカ人自由民は元来スペイン人の征服者と共にアメリカ大陸にやってきたのだ。リベルトとはスペインからプエルト・リコに移住して北アフリカ系の住民のことである。二つの例を挙げよう。
●フアン・ガリド、彼は(スペイン王室から任命された初代のプエルト・リコ知事の)フアン・ポンセ・デ・レオンと共に1506年にフロリダの海岸の探検を行った。ガリドは小麦などの新しい植物の種をアメリカに最初に持ち込んだことでも知られる。
●フランシスコ・ガジェゴ、プエルト・リコにおけるアフリカ系スペイン人の最初の実業家。
奴隷化されたアフリカ人は、中央アフリカから西アフリカにかけての海岸の港で奴隷交易に従事していたポルトガル人商人から、スペイン人に売り渡された。アフリカ人奴隷はまずカリブの島々に連れてこられ、その後アメリカ大陸各地に運ばれた。カリブと北・中央・南アメリカを含む西半球全体が、中央および西アフリカに発する共通のアフリカ系の祖先を共有しているのだ。歴史家の推定によると1千500万から5千万に上るアフリカ人が1482年から1888年の間にアフリカから連れ出された。大西洋を横切る間に、食糧不足と著しい身体的な虐待からしばしば3分の一に上るアフリカ人が死亡した。
早くも1514年には奴隷化されたタイノ人とアフリカ人は奴隷制度に対する闘いを手を携えて開始している。1848年までに20回以上の反乱が起こされた。シマロネス(逃亡奴隷)たちは個人的な逃亡もしくは集団的な反乱を企てたのだ。多くのシマロネスたちは島の奥地の山岳地帯に、中には他のカリブの島、中央アメリカや南アメリカまでも逃げ延び、そこに自由なコミュニティーを形成した。彼らの子孫の一部は、今日も中央および南アメリカの大西洋岸に住み着いている。他の多くの者達は自由を獲得するための英雄的なこころみの中途で倒れた。
プエルト・リコの365年間にわたる奴隷制度の全過程で、アフリカ系の血をひくプエルト・リコ自由民の大きなグループが存在する。反乱や逃亡だけではなく、奴隷たちは彼らや家族の自由を買い取るために交渉を行うこともできたのだ。アフリカ系のプエルト・リコ自由民はムラートやメスティーソ(混血)と同様にさまざまな職業についていた。農業、家内労働、職人、商人、船大工など。これらの人の多くは奴隷制度と人種主義に対する戦いを継続し、奴隷廃止派や解放戦士となった。プエルト・リコの歴史と社会的、知的、芸術的、文化的発展にとって、アフリカ系住民は突出した貢献をなしてきた。
アフリカ系の影響は、アフリカ語起源でスペイン語(ないしは英語)の中に取り入れられて言った言葉によっても読み取れる。マンゴー(マンゴー)、カンドゥンゴ(壷)、モフォンゴ(バナナ料理)、モンドンゴ(シチュー)、ギネオ(バナナ)、シェベレ(よし!)など。ラ・クラーベ(「2本のバチ」という意味でパル・デ・パロスとも呼ばれる)などのプエルト・リコ楽器、ボンゴやコンガなどの動物の皮を伸ばして作った太鼓、ラ・ボンバやラ・プレナなどのプエルト・リコの歌と踊りの形態も同様にアフリカ起源である。プエルト・リコ料理にも強力なアフリカの影響が残されている。

1898年以降のプエルト・リコ

19世紀までにプエルト・リコ人は、スペインの支配から独立し自らの国家を確立しようとする明確なグループとして形成されてきた。1868年9月23日、独立派の戦士たちは「グリート・デ・ラレス」に立てこもり民主共和国の建国を宣言した。この反乱は長続きはしなかったが、スペインからの順次的な独立手続を含むいくつかの妥協を引き出すことはできた。1898年7月17日、プエルト・リコに独立政府が正式に設立された。しかしその1週間後、島には合衆国軍隊が侵入する。400年にわたるスペインの支配の後、この島は今度は合衆国の管理下におかれることとなった。
米西戦争時までに、プエルト・リコの先住民、スペイン系、アフリカ系のルーツは互いに混交し独特な政治的、社会的、宗教的、文化的生活が出来上がっていた。今日われわれがプエルト・リコ文化として認識するものは19世紀の末までに形作られたものなのだ。プエルト・リコの芸術的、文化的伝統は文学、音楽、映像文化の領域で国際的な評価を受けており、ラテン・アメリカ、合衆国のラテン系住民に対して、そして国際的にも突出した貢献を行っているといえる。
宗教、特にカトリック教会はプエルト・リコの歴史、とりわけ政治的、社会的、文化的伝統の中で、大きな役割を果たしてきた。西半球全体の中で、教会の影響というものはきわめて複雑である。征服者にとってはキリスト教への強制的改宗は、タイノ人およびアフリカ人の奴隷化の正当化であった。しかし何世紀かを経ることによって、プエルト・リコ人は宗教を自らの文化的表現の中心的な形態として形作ることになる。
1898年以降、プエルト・リコ人は新たな植民地時代を経験しはじめることになる。プエルト・リコは今や合衆国の所有物として支配されることになったのだ。住民と新たな支配者との間の軋轢は、まず言語の領域で現れた。当時識字率は極めて低く、85%の人口が読み書きができない状態だった。合衆国はこの状態で英語のみの法律をこの島に施行するに際して何の抵抗も受けないであろうと考えていたようだ。プエルト・リコの知識階級と「インデペンディスタ」(独立派)はスペイン語を英語に置き換えることに抵抗した。1898年から「コモンウェルス(自治領)・プエルト・リコ」が形成される1952年まで、合衆国の知事は英語のみの法を維持しつづけた。1952年に再びスペイン語が公用語となったが、教育、行政、司法部門では以前として英語の使用が要求された。
1917年ウッドロー・ウィルソン大統領はジョーンズ法に署名、プエルト・リコ人は合衆国市民となった。合衆国市民権を拒絶するものは自らの故郷の中で亡命者とならねばならなかった。合衆国の支配を拒否して島を出るものもいた。第一次世界大戦のさなかに、プエルト・リコ人の兵役義務と共に、合衆国市民権は拡大された。この時以来、何十万というプエルト・リコ人が、島に住むものも本土に住むものも含めて、合衆国軍の兵役に服した。最初は徴兵制のもとで、そして今は志願兵として。多くの場合、軍の中でプエルト・リコ人はその人口比から不釣り合いに多くの部分を占めている。そして、人種的、民族的、言語的な差別のみならず、不釣り合いに多くの死傷者を出しているのだ。
1952年7月25日、1898年の合衆国によるプエルト・リコ侵略を記念して、プエルト・リコ憲法が採択され、「コモンウェルス(自治領)・プエルト・リコ」が生まれた。合衆国議会は1950年にプエルト・リコに「コモンウェルス(自治領)」の地位を与え、今やそれがプエルト・リコの法に正式に盛り込まれたのだ。州としての地位を求める運動が高揚して知事の地位を獲得する1968年に至るまで人民民主党が政権の座に就く。
今日に至るまでプエルト・リコの領土は合衆国の領有のもとにある。プエルト・リコは司法的および法的制度上合衆国に服属し、合衆国の連邦機関が連邦法および計画をプエルト・リコに対して執行する。
市民権を持っているにもかかわらず、プエルト・リコ人の法的地位は変則的である。つまり、全面的に独立してもいなければ、全面的に合衆国の一部でもない。例えば、島にいるプエルト・リコ人は合衆国大統領選挙に投票することができないが、合衆国本土に在住するプエルト・リコ人はできる。島のプエルト・リコ人は連邦の税を免除されるが、合衆国本土ときわめて似通った地方税の制度がある。投票権のない「住民委員」が合衆国下院においてプエルト・リコを代表する。(これに加えて、現在のところプエルト・リコ系の議員がニューヨークとシカゴで3人選出されている。)

20世紀の民族主義運動

1898年から1947年の間、合衆国政府はプエルト・リコに軍政および民政行政府をおいた。1948年になって初めて合衆国政府はプエルト・リコ人が自らの知事を選出することを認めた。ルイス・ムニョス・マリン(1898−1980)が選ばれた。ムニョス・マリンは1965年まで知事を務めたが、元来は独立派であった。後に彼は人民民主党(1938年創立)を指導し、プエルト・リコを「自由連合州」とする運動に携わった。この党は「パーバ」(麦わら帽子)をまとったプエルト・リコの「ヒバロ」(農民)の横顔をエンブレムとして採用している。そのエンブレムの下には「パンと土地と自由」なるスローガンが書かれている。
ムニョス・マリンは、ペドロ・アルビス・カンポス(1891−1965)らの民族主義運動からは敵意を買った。1922年創立の国民党はプエルト・リコの合衆国からの独立を要求している。1950年代を通じて国民党はプエルト・リコ独立の闘争を継続した。1937年にポンセの町でプエルト・リコ警察は、国民党の平和的なデモ行進に発砲した。「ポンセの虐殺」と呼ばれるこの事件で、18人が殺され200人が怪我をした。独立を支持する新たなグループも現れてきている。1946年にはプエルトリコ独立党も創立された。後に「独立運動」(MPI)も結成されたが、このグループは1971年にプエルト・リコ社会党と改名した。
1950年にはまた新たな民族主義者の反乱が行われた。、何千人という独立支持者が投獄され、30人以上が殺された。ルイス・ムニョス・マリン知事暗殺を試みた5人の民族主義者が殺された。その直後、2人の民族主義者が、改修中のホワイト・ハウスから同じワシントンDCのブレア・ハウスに移っていたハリー・トゥルーマン大統領の住居を襲撃した。これによってプエルト・リコ独立の問題は世界的な注目を集めることとなった。1954年3月1日、ロリータ・ヘブロンと他の3人の民族主義者は、プエルト・リコの独立を要求して合衆国下院に発砲した。この襲撃で5人の合衆国議員が負傷し、民族主義者たちは懲役56年の刑の宣告を受けた。ロリータ・ヘブロンらは1979年に大統領ジミー・カーターの恩赦により釈放された。彼らはプエルト・リコ系住民が多く居住する合衆国の都市を回るツアーを行い、ボリクアス(ボリンケン、すなわちプエルト・リコの人民)が熱狂して待ち受けるプエルト・リコに帰還した。
1980年代後期にプエルト・リコでの警察の諜報活動に関する大きなスキャンダルが持ち上がった。プエルト・リコと合衆国の公安当局が共同で、1930年代以降7万5千人にも及ぶプエルト・リコおよび合衆国本土のプエルト・リコの活動家のファイルを維持していたことが発覚した。この調査は「インデペンデンティスタ(独立派)」だけでなく、労働組合、教会、文化サークル、女性グループなどの活動家もその対象としていた。多くの活動家はブラックリストに載せられ、さまざまな嫌がらせを受けた。
1980年代を通じて、プエルト・リコ独立を掲げる武装闘争は継続された。今日に至るまで、14人の独立派活動家が、爆破、銃器の所持などの「扇動」罪で合衆国の監獄に収監されている。「民族解放武装勢力」と呼ばれるグループのこれらのメンバーはみずからを政治犯であると主張しており、彼らの支持者は国内国外を通じて彼らの釈放のために活動している。

プエルト・リコの中の合衆国

合衆国の支配下でプエルト・リコは世界で最も軍事化された領土となった。カリブ海におけるプエルト・リコの位置の戦略的重要性および、「国家安全保障」の必要性を理由として、合衆国はこの島中に基地を建設した。軍事化はプエルト・リコ人の生活に多大な影響を及ぼした。例えば、1940年代以降、ビエケス島はプエルト・リコ人と合衆国軍との間の論争の焦点となってきた。1940台の初頭、合衆国海軍は島の3分の2を軍事目的のために接収した。島の人口は1万人から7千人に減少した。今日ビエケンセス(ビエケス島民)は彼らの島の中央部にしか住めない。海軍が東部および西部を所有し使用しているから。
多くのビエケスおよびプエルト・リコ本島の住民は海軍による土地の接収に政治行動によって抵抗してきた。例えば1978年には漁民グループが40隻の小さな漁船を動員して、海軍の兵器試験場の只中に乗り入れるという抗議運動を行った。海軍の演習によって、地域の生活の糧である魚が死んでしまう。このような形態の抗議活動は1980年代にも継続された。多くのプエルト・リコ人がこのような抵抗運動の中で逮捕された。
1950年代からプエルト・リコと合衆国の両政府は、「ブートストラップ作戦(自力更生運動)」という開発プログラムを推進しはじめた。この運動はプエルト・リコを農業社会から工業社会へと転換させる計画である。プエルト・リコで操業を行う合衆国の上位500社のうち100社以上に税制優遇措置を行った。急速な工業かのおかげでプエルト・リコの農業は著しく弱体化され、この島は食糧自給が不可能になった。今日プエルト・リコで消費される食糧の85%が主に合衆国から輸入されている。
工業化は恩恵ももたらしたが、見返りも高くついた。劇的な工業部門の成長と石油化学プラントの流入により、島の環境汚染は進んだ。「ブートストラップ作戦」によって農村地帯から都市部への職を求める人口移動が加速された。膨大な合衆国本土への移民にもつながった。現在40%以上のプエルト・リコ人が合衆国本土で暮らしている。
プエルト・リコ人女性はまた、人口抑制策の対象とされた。工場で働くプエルト・リコ人女性が不妊手術を施される政策は1950年代に始まった。工場内にあるクリニックに予約をさせられ、診察を受けるには休暇が与えられた。予約の時間に出頭しなかった女性にはソーシャル・ワーカーが家まで押しかけた。1974年までに35%の出産適齢のプエルト・リコの女性(この数は20万人に上る)が永久的に不妊手術を施された。1980年までにプエルト・リコは人口一人当たりの不妊施術率が世界で最高となった。1950年代から1980年代にかけてプエルト・リコは開発中の避妊薬の実験場としても使用された。今日使用されているものの20倍も強力な薬物が、公的住宅政策のもとで暮らすプエルト・リコ女性に投薬された。

移民:合衆国の中のプエルト・リコ人

一世紀半以上前からプエルト・リコ人は合衆国に移住し始めた。プエルト・リコがスペインによって合衆国に委譲されて以降その数は増大した。第二次世界大戦後、合衆国本土への移民の大きな波は押し寄せることとなった。農業労働者が東海岸の農園に仕事を求めて流入し、東部及び中西部の都市部には工場での仕事を求める人が殺到した。多くの合衆国の農場や工場はプエルト・リコの労働者をときには遠くハワイで働かせるために直接募集した。
法律的に言えばプエルト・リコ人は合衆国市民であるから移民とはみなされない。しかし彼らが合衆国本土にやってくる動機は、やはり「アメリカン・ドリーム」、自分自身や家族のためによりよい社会的、経済的状況を求めるというものであって、この点では他の移民グループと似ている。1940年代から1960年代にかけてプエルト・リコ人の労働力供給の割合は合衆国のどのグループよりも高い。当時は合衆国でも工場労働者と、半熟練工の需要が大きかった。それにプエルト・リコ人は葉巻製造の技術で知られており、多くの人が合衆国のタバコ産業に従事した。
プエルト・リコ移民は社会的に、教育面、住宅面、雇用の面でも差別を受けた。言語の違いによる困難にも直面した。何千人ものプエルト・リコ人の労働者、とりわけ女性労働者は白人の労働者よりも安い賃金で働かされた。差別はいろんな方向からやってくる。労働組合も彼らを差別扱いしたし、排除さえした。
近年では、合衆国の産業構造が自動化によって構造改革され、雇用が世界の低賃金地域に移動し、もはや半熟練工の需要は、プエルト・リコ人が集住する都市部では完全に冷え切ってしまった。結果としてプエルト・リコ人社会は深刻な失業、半失業、そしてますます深化する貧困の問題に直面している。合衆国のラテン系人口の中でプエルト・リコ人の収入は中央値で見ると最低であり、貧困率は最高となっている。このような困難な状況の結果が、合衆国のプエルト・リコ人コミュニティーの中に、就学者の高いドロップ・アウトの率、シングル・ペアレント家庭の増大、薬物中毒、医療サービスからの疎外などのあらゆる社会的害悪となって現れてきている。
これらのコミュニティーは歴史的にこのような問題に対して、宗教的、慈善的、政治的な組織を含むコミュニティーを基盤とした支援組織を形成して対処してきた。数多くのプエルト・リコ人の団体が民主的な権利、社会サービスの適正な運用を求め、文化的、精神的、教育的、経済的な向上を目指して形成されてきている。
1960年代と1970年代に社会的正義を目指した闘いの中で生まれてきたプエルト・リコ人の政治的組織のうちで、最もよく知られているのは「ヤング・ローズ」であろう。シカゴとニューヨーク・イーストハーレムの「エル・バリオ」地域に住む若いプエルト・リコ人たちが地域の政治的リーダーとして登場してきた。彼らの運動のモデルとなったのは、ブラック・パンサー党やプエルト・リコの独立運動である。「ヤング・ローズ」は教会、病院を占拠したり、公共交通の自動車などを乗っ取るといった抗議行動を行った。それを通じて人権、市民的権利、医療サービスや社会福祉、児童福祉の適正運用への要求を際立たせたのだ。「ヤング・ローズ」はプエルト・リコ人の比率の高い他のシカゴ、フィラデルフィア、ハートフォード、コネチカットなどの都市にも形成された。彼らは合衆国内に住む彼らの生活に影響を及ぼす政治的、社会的問題や、プエルト・リコの政治的地位に関する問題に関して地域を組織した。後者の問題に関する彼らの関心は、古く1800年代後期のプエルト・リコ人亡命者の伝統に連なるものである。

未来へ

プエルト・リコの政治的地位の未来は、すべてのプエルト・リコ人にとって依然としてホットな問題である。3つのオプションとは、
1.自治領:1952年以来の現状。
2.州:合衆国の一州となること。
3.独立:プエルト・リコが自己決定権を有する主権国家となる。
プエルト・リコの地位に関する問題は複雑である。1946年以来、国連非植民地化委員会は合衆国に対し、プエルト・リコの政治的、社会的、経済的現況につき定期的に報告を行うことを求めてきた。しかし、1952年の「コモンウェルス(自治領)・プエルト・リコ」設立以後は国連はプエルト・リコはもはや新たな憲法的な地位を獲得したとして、もはやこのような報告を必要としないと決定した。1960年になってプエルト・リコ独立運動の持続的な圧力によって、国連は再びプエルト・リコの政治的地位に関する議論を再開した。
1967年、政治的地位に関する住民投票がプエルト・リコで実施された。自治領の継続を求めるものが多数を占めた。1993年に再び住民投票が行われ、このときは46.3パーセントが州としての編入を求め、48.6パーセントが自治領の継続を求めた。独立を主張したのは4.4パーセントであった。1994年、プエルト・リコ議会は合衆国議会に対して、プエルト・リコの将来の政治的地位を決定するのに必要なステップは何かを決定するようもとめた。これに答えてドン・ヤング下院議員(共和党・アラスカ選出)は下院に法案を提出し、プエルト・リコの将来の地位についての国民的な議論への門戸を開いた。
今日も多くの問題を抱えてはいるが、にもかかわらずプエルト・リコ人は合衆国の政府においても重要な役割を果たし続けているし、経済的、社会的、技術的、知的、芸術的及び文化的な側面でも合衆国社会に多くの富をもたらしている。

表:政治的地位の3つのオプション

自治領 独立
1998年現在、プエルトリコは自治領の地位を有している。その特徴は:
  • プエルト・リコ人は合衆国市民であり、合衆国領内を自由に旅行できる。
  • プエルト・リコは独自の憲法を有する。プエルト・リコ政府は国内問題を処理する権能を有する。外交問題には決定権を有さない。合衆国がプエルト・リコと他国の関係について規制する。
  • プエルト・リコに在住するプエルト・リコ人は合衆国大統領選挙に投票できない。
  • 徴兵制が再び導入されれば、プエルト・リコ人は合衆国軍隊に徴兵され得る。
  • プエルト・リコは合衆国議会に投票権のない代表を送っている。
  • プエルト・リコの知事及びプエルト・リコ下院上院の議員は投票によって選ばれる。
  • 合衆国はプエルト・リコ国防部隊の使用に関し管理権を有する。
  • 合衆国環境法はプエルト・リコに適用される。しかし合衆国本土におけるほど厳格には適用されない。
  • 合衆国はプエルト・リコの郵便及び移民に関する規制を行う。
  • プエルト・リコ人は連邦税を支払わない。しかし自治領政府には納税する。
  • 合衆国がプエルト・リコの防衛を担当する。
  • 合衆国軍隊はプエルト・リコをカリブ海の基地として利用し、兵器の試験場として利用する。
プエルト・リコが合衆国の一州となれば、以下のような特徴を持つであろう:
  • すべてのプエルト・リコ人は合衆国市民であり、合衆国領域内を自由に旅することができる。
  • ほどなく、プエルト・リコ人は自分の国に対する意識を失うだろう。合衆国の旗と国歌のみが用いられるだろう。学校では今以上に合衆国の歴史と文化が教えられるだろう。
  • プエルト・リコ州に住む人民は合衆国大統領選挙も含め連邦選挙に投票できる。プエルト・リコ州は州憲法を持ち、州議会の代表が投票によって選ばれる。
  • 徴兵制が再び導入されたら、プエルト・リコ人は合衆国軍隊に徴兵され得る。
  • プエルト・リコ州は合衆国の両院に投票権を有する代表を送ることができる。
  • プエルト・リコ州は合衆国の他の州と同様に知事を持つ。
  • 他のどの州とも同様に、連邦政府がプエルト・リコ国防部隊の使用に関し管理権を有する。
  • プエルト・リコの州法と連邦環境法が環境を守る。
  • 連邦のすべての規制がプエルト・リコ州にも及ぶ。
  • プエルト・リコ人は連邦税を、収税・地方税と共に支払う。
  • 合衆国の他の州と同様、合衆国がプエルト・リコの防衛を提供する。
  • 合衆国軍隊はプエルト・リコをカリブ海の基地として利用し、兵器の試験場として利用する。
もしプエルト・リコが独立したら、それは主権国家であり、どの主権国家とも同様、自国のことについて決定できる。それは以下のような特徴を持つ:
  • プエルト・リコ市民も合衆国市民ももはや両国を行き来する権利を自動的には付与されない。両国の出入国管理法令の対象となる。
  • プエルト・リコは内国及び外交に関する権能を有する独自の憲法を持つ。たとえば、プエルト・リコは合衆国以外のいかなる国とも交易を行うことができる。
  • プエルト・リコに在住するプエルト・リコ人はもはや合衆国市民ではない。彼らは合衆国の選挙に投票できないが、自分自身の選挙に投票できる。
  • プエルト・リコは議会と、公選によって選ばれた役人から成る独自の政府を持つ。
  • プエルト・リコは現在の知事よりもはるかに強大な権力を有する大統領を選出できる。下院や上院または同種の機能を持つ議会は現在のプエルト・リコの両院より強力なものとなる。
  • プエルト・リコ国防部隊はもはや合衆国政府の管理を受けない。
  • プエルト・リコは自国の法を適用して環境保護を行うことができる。
  • プエルト・リコは独自の郵便及び移民規制を行い得る。
  • プエルト・リコ人は自国の政府に納税する。
  • プエルト・リコは独自の軍による国防を行う。
  • 合衆国軍隊はもはやプエルト・リコをカリブ海の軍事基地として、兵器試験場として、2国間の特別な合意が行われない限り、利用できない。