南の島だより 1 2

7月22日
 ルーシーとカルロスが、急遽帰国することになってしまった。あと2日ほど、わたしが車を出してナリコに通訳してもらって名護を案内して、できれば東海岸の住民運動の当事者たちとゆっくり時間をかけて話をする機会を持ちたいと思っていたから、残念ではあるけどこればかりは仕方がない。ルーシーの足の調子もよくないみたいだし、何より彼らが少しナーバスになっていて気持ちに余裕がないことは、そばにいるから手に取るように分かった。航空チケットの予約から宿泊のことから、誤解とトラブルずくめだったから当然だろう。Eメールでその折衝にあたったのは私なのだから、私の責任ではあるのだが、そして私はおりこうさんだから愚痴は言わないけど、それでも少しだけは言わせてもらうね。
 814億円をかけたサミットというとんでもなく時代錯誤な「メガロマニアック」なショービジネスとちょうどパラレルに、とにかく「海外の代表を呼べ」ばいいんだろ、みたいな安易さがNGOの側になかったとはいえまい。プエルト・リコがどこにあるのか、ビエケスでこの一年間何が起こっていたか、招請している当の団体の人たちもほとんど何も勉強していなかったじゃないか?とにかく基地に反対しているんだから私たちは仲間だ、みたいに話が進むのなら何も問題はない。だけど、ピートの言葉に従えば、「闘争」というものにはそれぞれの固有の「コンテクスト」があり、そのコンテクストを育む固有の「文化」がある。カルロスの演説はとても感動的だったが、実のところ賛否両論でもあったと思う。今すぐ基地の中に入り込むことが唯一の市民的不服従の行動だ、みたいな性急な提案に対して、沖縄の反基地闘争のそうそうたる面々が「私たちも過去にそれを実践したことがある」とか「日本とは法制度が違う」みたいな半ばいい訳めいた返答をしてしまっているのを見るに付け、私もまた違和感を禁じ得なかった。ビエケスの運動が、ハワイのカホラヴェの運動から多くを学んできたことを聞いた。でもそれは単にスタイルを移植することではありえなかっただろう。私たちはもっと時間をかけるべきだった。私たちがビエケスのことを何も知らないのと同じくらいに、彼らは沖縄のことを何も知らない。だけどそれは彼らのせいじゃない。と同時に、もう一つ言わせてもらえば私のせいでもない。私のような「ぽっと出のナイチャー」にプエルト・リコとの折衝を任せるならば、小間使いのように使うのではなく、すべての情報を明らかにして十分な時間をかけさせてほしかった。今回彼らの渡航にかけられた50万円近い日本円の金銭は、人口の半数以上が貧困ラインを下回っているビエケスの状況に照らして、まことに札束でほっぺたをなでてみせるかのごとき暴力に映ったかもしれない。美しく絵になるスローガンを唱和してみせるより、私たちにはすべきことがあったはずだ。彼らが沖縄での短い滞在を不快なものとして記憶しないことを望む。なぜって私は、超気難しいカルロスも、涙もろくて少しシニカルだが実は普通のおばさんのルーシーも、ときとしてそのノリのよさが空回りする「ラテンな」シェイラも、そしてまだお会いしたことはないが、私の下手な英語のメールに根気よく付き合ってくれたマリアも、大好きだからだ。異なる環境とコンテクストの中にある私たちがそれでも「協働」をつむぎだす前提である「理解」への道程に、私たちはまだ歩み始めたばかりだ、と思いたい。

 というわけで22日の朝、ピートとタケイチさんを乗せて早朝名護を出発、空港に向かう。車は昨日「ピースウェーブ」につかった時のまま、ステッカーがべたべたにはってある。高速は恐いくらいにすいていたね。すれ違う車の9割以上が警察の車両だった。「サミット期間中のマイカー自粛」に沖縄県民があまりにも従順だったみたいにあとから言われもしたけど、こんな状況で外出したいと思わないのが人情だとも思うよ。空港の駐車場まで何とか無事に辿り着いた、まだ一時間ほどあまってるよ、と安心したのもつかの間、やっぱり駐車場の入り口で見咎めた警官がよってきた。
 「何か基地反対か何かの運動をやられてるんですか?ちょっとトランク見せていただけますか?」今日は首里城でG8のVIP達が晩餐会。那覇市内と空港近辺を警護しているのはわが同郷の百戦錬磨の兵庫県警と大阪府警。トランクにはいろんなチラシが山のように入っていたが、それには何も触れず「申し訳ありませんが免許証の確認を…」、免許証の確認なら昨日ブセナで警視庁の方に徹底的に調べていただきましたけど、それでも私は従順だからさしだしましたよ。しばらく無線で調べている「ふり」をしていたのか、「この名前での免許証の登録がない」と言い出す始末。もっともらしく懐中電灯で私の免許証を透かしてみたりしている。今から思えば見え透いた時間稼ぎなのかな、そうこうするうちにいかにも目付きの悪い私服のお兄さんたちがよってきた。「ついでに」みたいな感じで同乗者のID確認が始まる。ともすればいきり立ってしまいそうな全共闘世代のタケイチさんのひざをなでてなだめておとなしく免許証を出してもらう。なんとピートはパスポートをおじさんの家に置いたままにしている。万事休す。彼は一年半沖縄に住んでいたのだけど、周りの人は「なくすといけないから」といってパスポートを持ち歩かないことを勧めていたんだって。わかるけどね。日本国の出入国管理および外国人登録法令により外国人にはパスポート常時携帯義務のあるべきことを十分に理解させていなかった私の非をわびて、ハワイ大学の学生証やら国際免許証やらありとあらゆるIDを示して勘弁してもらった。「外国人」を見つけてにわかに色めき立っている彼らの様子を見てさすがに不安になってきたので、私はこっそりナリコにケイタイで電話して、もしもの時のために弁護士さんにスタンバイしてもらった。こうゆうときって、やっぱりケイタイは便利だね!
 弁護士の先生の到着を待つまでもなく、いつものことだけど、私たちは唐突に「放免」された。それにしても一言言っておこうね。昨日のブセナの警視庁の警官も、今日このあと普天間で近寄ってきた埼玉県警の警官も、とっても礼儀正しかったのに比して、あんたはちょっといけてなかったよ!大阪府警のフクオカさん!同じ関西人として恥ずかしいわよ!ここは「守礼の邦」なのよ!
 チケットカウンターにつくとすでにルーシーとカルロス、お見送りの「平和市民連絡会」の面々も既に到着していた。私は真っ先にルーシーのところに駆け寄り、車に「アメリカ合衆国海軍はビエケスから撤収せよ!」ってステッカーを貼ってたら警察に捜索を受けて遅くなったんだよ!って報告した。「GRANDMA」に善行をほめてほしい孫みたいだった。それはとても「Good Spirit」だってもちろんルーシーはほめてくれたけどね。実のところルーシーと私は年は8才くらいしか離れてないんだけどね。それから北谷の「Habu Box」の、迷彩色の軍服を来た匍匐前進するトイ・ソルジャーたちの隙間がちょうど沖縄本島の形をしているというデザインの「Peace of A Piece」っていうとってもオシャレなTシャツがあるんだけど、それを二人へのお土産に渡した。それからカルロスに借りっぱなしになっていた英語の本「もう一発の爆弾もいらない!」、リサ・ミュレノーっていうワシントン・ポストとかに書いている記者のビエケスについての最新の貴重な資料、を返すことができた。今朝慌ててファミリー・マートでコピーを取っておいたから、この日本語訳を作ってWEBで公開するのが、コーディネーターとしてはあまり役にも立てなかった私のせめてもの恩返し。
 集まったカンパを米ドルに換金するにはどうするかとか、機内持ち込み手荷物の制限がどうだとか、朝ご飯は食べたか、コーヒーを飲むなら2階と4階とどっちがいいかとか「平和市民」のおじさまたちはそれぞれてんでバラバラにいろんな事を言い出す。私はややこしいことの通訳はできないからナリコが来るまで待ってくれって言ってるのに、それぞれにカートを引っ張っていったり歩き出したり。もちろん悪い人たちではないのだけど、それにしてもこんなパワフルなおじさま方を、切れもせずいつも上手に御しているのだからあらためてナリコを尊敬してしまった。
 やっとナリコが到着してチェックインをすます。「ビエケスにも来てね」とルーシーが私たちに言った。でもナリコは「NO」って答えるの。「私はこの島を離れない」って!

 「サミット歓迎」とか何とか派手なデコレーションのロビーで記念撮影。いよいよお別れの時だ。ルーシーの目は少しうるうるしてたね。もちろん私もだけど。

 さすがに検問でもう一度同じことをするのは勘弁してほしいから、まずはピートの叔父さん宅にパスポートを取りにいく。コバルト荘の前でタケイチさんとお別れ、彼はもう一日那覇に滞在するという。年上なのに、京都ではいろいろお世話になったのに、今回はほとんどアゴでこき使ってしまった。運転してもらったり、愚痴を聞いてもらったり、お酒に付き合ってもらったり、助かったよ。
 ピートを乗せて330号を北上、普天間第2ゲートへ。「かまどぅぐぁー」の人たちが集まりを持つことになっている。時間が早過ぎたので、まだ人は集まっていなくて、一昨日嘉手納で声をかけて下さって私とピートに発言の機会を与えて下さったKさんや、Mさんがビニールシートを広げてお弁当を囲んでくつろいでいた。Kさんは20日の嘉手納の集会でのカルロスの発言にとっても感銘を受けたとおっしゃって、しばらくビエケスの話をした。基地を取り囲んで手をつなぐ経験はとても素敵だけど、お祭り騒ぎが終わってしまうとなんとなく基地と共存する日常にのめり込んでしまうんだからね、この島は、みたいな話だったかな。ゲート前の美しい芝生の上で、しばしくつろいだ。
 車に近寄ってきた埼玉県警の若い警官、「もう十分調べてもらったからかんべんしてね」って言ったら、「ほんとに申し訳ありませんね」って恐縮しているの。いい奴なんだよ、きっと。
 北中城から高速に入って伊芸のSAで給油と食事。ピートはビーフカレーで私はうどん定食。前から思ってたけどここのレストランは結構いけてるんだよ。新聞を読みながら。沖縄には基本的に2紙しかないんだけど、サミット期間はアサヒイブニングとかが特別エディションを作ったりしている。それにしても21日の紙面と22日の紙面の落差は注目に値する。21日は嘉手納包囲一色、22日はうってかわってサミット歓迎一色。別に非難している訳じゃない。新聞記者の人たちもたいへんなんだ。私たちはこんな訳のわからない熱狂という「文脈」の中に否応なく置かれているんだって、少しは醒めて眺めてみなくてはね。

 許田のインターからヒロエさんに電話したらもう二見に向かってるって。3時から、国道329号と331号の交差点二見三叉路で、ヤンバル・ピース・ウェーブの集まりが普天間とシンクロして行われる。東海岸の地元の人たちと、あとは本土からの「労組系市民運動系・動員系」の人たちが多かったみたいだけど、アクセスの難しい場所にしてはたくさん集まっていた。名護高の生徒たちだそうだが、自前の振り付けでヒップホップみたいなのをやっていて、活動家系のおじさまおばさまが乗りの悪い手拍子で応えているのがほほえましくもあり、それなりになごやかで絵になっていたね。ヒロエさんのレッドカードにせよ、「若い」ということが自明のこととして価値があるとは思わないけど、戦後50年あるいはそれ以上、幸か不幸か(7割3割くらいで不幸の方が大きいと思うけど)続いてきてしまった左翼「運動」系の文体のどうしようもないおりこうさんな息苦しさに、少しだけ風通しのよい空間が広がりはじめているみたいな気がして、私としてはそんな場所に立ち会えることが、とてもうれしい。
 リレートークの最初にピートが指名された。「10区の会」のトミさんとウラシマさんをハワイに招待してくれた当地にゆかりのある貴重な「海外使節」なのだから当然か。ピートの言いたいことは大体わかるから、通訳といいつつ適当に言葉を拾っていいかげんにアレンジして私もマイクでしゃべらせてもらった。ハワイからのメッセージの書かれた「平和の樹」のハンカチを紹介しながら、この中にはカリフォルニアのピートのお母さんのものも含まれている。「暴力の文化ではなく、平和の文化を」、平和という言葉はなまくらで、すでにときとしていかがわしい手垢がこびりついてもいるけれど、合衆国の陸軍にいたこともあるという彼のこの言葉が、私は好きだ。「革命というものは暴力によって達成されるものではなく、『心』によって達成されるものなのです」、彼が珍しく「リボルーション」なんて言葉をつかって、観衆の中には「革命党派」系の人たちもいただろうから、通訳するのにちょっとどぎまぎしてしまったけどね。
 ハワイ報告会の時も記事を書いて下さった沖縄タイムスのIさんがこのあと取材をして下さった。嘉手納でバスに乗り遅れた私たちを親切に送って下さった某党派系の新聞の記者の方も。ピートはやっぱりどこでも人気者、私が自慢する筋合いはないが、やっぱり嬉しい。
 夕方から辺野古で始まる「ニライカナイ祭り」に向かう人たちも途中で足を止めてくれているみたいでだんだん人が増えてきた。ミヤコやフサエさんやダイちゃん、私の喜如嘉のお友達の姿も見える。沖縄島というのは決してせまい島だとは思わないけど、こうして一週間のうちに何度もいろんな場所で同じ人たちに会えるのが不思議、これだからやめられないんだよね。アメリカ・ネバダのタカギさんも来てくれた。彼女は今夜の飛行機で帰るんだけど、首里城「晩餐会」の高速の交通規制は大丈夫かな?ミヤコが名護バスターミナルまで送ってくれる。タカギさんほんとにありがとう。太平洋のむこうで私の日本語のWEBサイトを見てコンタクトしてくれた、そしてはるばる沖縄までやってきてくれた、そんな希有な縁を大切にしたいと思います。そしてもちろん、彼女の宿が全然見つからなくって、苦しまぎれにお願いしたホームスティを快く引き受けてくれたミヤコにもお礼を言います。同じくメールで依頼されたドイツ人一行のホームスティ、しかも5人も!文句一つ言わず、ていうか結構楽しみながら一週間にわたって泊めてくれた今帰仁の「ハルサー(農民)」、カタオカ君といい、私はほんとにすばらしい友人に囲まれていると思う。
 この国が「神の国」かどうかは知らない、この島が「神の住む島」なのかどうかも。でもこの人たちはきっと「神のめでる子供たち」だよ。いまだ唯物論の徒である私が言うんだからまちがいない。

 リレートークの終わりごろに少しだけ時間をもらって、「なご平和電脳組」の宣伝と、プエルト・リコのアピールをさせてもらった。ほんとうはカルロスとルーシーに来てもらう予定だったんだけど、せんえつながらわたくしがこの一年間くらいのビエケスの動きの概略を説明して、連帯を呼びかけた。カルロスとルーシー、そしてシェィラとマリアへの、これがせめてもの私からのお礼の気持ち。「なご平和電脳組」編集のビエケス資料集は「飛ぶように」売れた。代金はもはやプエルト・リコには行かず、私のビール代になるんだけど、それは大目に見てね。
 ハンカチを連ねた新たな「平和の樹」が三叉路に立てられて、集会は終わる。このあと参加者は三々五々、キャンプ・シュワブのフェンスにハンカチをくくりつけながら辺野古のニライカナイ祭りに向かう。
 私たちはといえば、タクマが「ジュゴン保護基金」の英文チラシをプレス・センターに撒きにいくって言うから、そして彼の車は2台とも示し合わせたようにサミットを前にして故障していたから、西海岸まで付き合うことにした。ピートは韓国からやってきている「グリーン・コリア」の人たちと話が弾んでいたので彼女たちと一緒に辺野古に向かってもらった。タクマたちが原稿の手直しをしたり、チラシを撒きにいっている間、ナリコがそば屋に連れてってくれた。沖縄に住んで一年近くになるが私は一般の「沖縄病患者」と違って、いまだに「沖縄そば文化」になじめないでいる。でもここ「八重そば」はとてもおいしかった。持ち込んだ缶ビールを飲みながら、四方山話をした。この一月間、「平和市民連絡会」のお手伝いをさせてもらった私の仕事の中心はプエルト・リコの代表団の招請の準備だったのだから、ちょうど一サイクルが閉じた感じ。予定を変更して早々に帰国してしまったんだから、悔いも残るし不満もあるけど、能力以上のことを望んでもしょうがない。
 ナリコがそば屋のおばさんと、いつもと違うとってもナチュラルな沖縄方言でしゃべるのを聞いて、あらためて私は「外国にいるんだな、私はここでは外国人なんだな」って思った。

 辺野古のニライカナイ祭りの会場についたのはもうずいぶん遅くなっていた。あとから聞いたけど、東本願寺や西本願寺、その他もろもろの宗派の坊さんたちの、「各宗和合」のための読経が延々と続いて、みんなちょっとびっくりしてたみたいだけど、私たちが着いたのはちょうどそれが終わった頃だった。一本400円、ちょっと高いんじゃないのっていう感じのバドワイザーを片手に、暗いビーチを歩き回って知り合いを探すのがこの手のお祭りの醍醐味だね。チバナショウイチさんやゴトウさんがいて、ピートやジュリアさん達がいて、喜如嘉のみんながいて、ウラシマさん達がいて、そしてニライカナイ祭りスタッフのヤマグチさんやハルナさん、「客の入りはどうですか?」、「さっきまでは高校生たちがもっとたくさんいたんだけど…」、「あと一日だね。がんばろうね!」
 トリの喜納昌吉の直前は石見神楽(いわみかぐら)、昨年の第一回満月祭りにも来られていたけど、今回は違う人たちみたい。ハルナさんの御自慢のポスターにも出ていたけど、ヤマタノオロチのど派手なコスチュームだ。ヤマタノオロチがG8を表象しているのかどうか、あとからピートに問われて答えに窮したけど、多分そうなのだろう。最後に喜納昌吉が出てきて、8頭の大蛇をばっさばっさとなぎ倒していく演出には、賛否両論ていうか否の方が多かったようだが、一つだけ付け加えておくと前回の満月祭りの時に神道の奉納芸能である石見神楽について、「天皇制を賛美するものではないか」みたいなありそうなクレームが「左翼」の人たちからついたいきさつがあって、多分そのせいだと思うんだけど、今回は神道研究者のコメントが事前に加えられるという配慮がされていた。「すべての武器を楽器へ」という臆面もなく美しいスローガンにも、さまざまな紆余曲折が伴う。でも、何でもアリのお祭りでいいんじゃないの?滅菌処理された限りなく「正しい」人たちしか生き延びることが許されなかった「極左対決主義」の70年代をやり過ごしてきたわたし的には、いい時代になってきてるんじゃないのと思っている。
 「ハイサイおじさん」から「花」の大合唱へ、会場総立ちのもはやお決まりのエンディング、一週間前の瀬嵩の満月祭りほどにはのれなかったのは単に疲れのせいだろう。あまりにもたくさんのことがあり過ぎた。ここはまことに「龍宮城」かもしれない。10年分くらいを一週間で生きてしまったような気がする。
 みんなとお別れの挨拶をして、ピートを部屋に連れて帰って、また少しだけビールを飲んでお話をして、昏倒する。明日もまた朝から那覇に行かなければ。

7月23日
 今日はシェィラのお見送り。2日続けて同じことを繰りかえす訳には行かない。車のステッカーをすべてはがして、トランクのチラシ類も全部片づけた。レッドカードの赤いリボンだけは残しておいたけどね。ピートには「パスポート、持ってるか」って確認して早朝那覇にむけて出発。G8のVIPたちは昨夜は那覇だから北部の警備はすでに緩くなっているようだ。空港でナリコと待ち合わせ。台湾経由の国際線だということがわかるのに時間がかかってしまって、すでにチケットカウンターに入ってしまっているシェィラを捕まえられたのは出発の一時間前を切っていた。彼女は半月以上沖縄に滞在していて日本語も少しできるから、何の心配もないけれど、旅立ちにはやっぱりたくさん人がいた方がいい。間に合ってよかった。シェィラが余った日本円の小銭で朝食をご馳走してくれた。
 シェィラはとっても若くてしかも有能な弁護士さん、でもとっても明るくて満月祭りでものりまくってたよね。ビエケスの闘いはこれから困難を極めることになるだろう。同様に私たちの名護の闘いも。地球の裏側で同様の苦境に直面している仲間がいること、そしてその仲間たちの顔と名前を思い浮かべることができること、それはきっと力になるに違いない。至らないところはたくさんあったけれど、この出会いは必ず、もはや後戻りできない一歩を記すことになる。

 11時ごろから名護で「サミット反対実」系のデモがあるらしくて、ヒロエさんはこれにも参加してビラ播きするから付き合ってくれって言われてたんだけど、空港からの帰り道に電話すると、「すいません、寝過ごしてしまいました」って!そうそう、それでいいんだよ。無理をしちゃいけない。私たち「個人営業」はときに寝過ごしたって誰も文句は言わないのさ。
 という訳で、急遽計画変更、ヒロエさんとヒロエ・ママがピートと私に昼食をご馳走して下さるというありがたい申し出をいただいた。首里の都ホテル最上階展望レストラン。ゆっくりと那覇市内を一望しながら優雅にランチバイキングを食べ、この嵐のような一月あまりを振り返ろうというのだ、いいじゃないか。ピートが「ワン・エクストリーム・トゥー・アナザー(一つの極端からもう一つの極端へ)」と耳打ちする。そう、この一週間というもの、コンビニの弁当とファーストフードしか食べてなかったからね。
 あれはもう一月以上前になるかな、私が反対協のサイト作りの依頼を受けて対抗サミット・イベントのタイムテーブルを作ろうと思って勢い込んでいろんな人にメールを出しまくったのに、ほとんど何のリアクションもなくて、それは私がなめられていたのか警戒されていたのか、それとも彼らが忙しかったのかほんとうに何の準備もできていなかったのかあるいは単に怠惰なのか、おそらくどれも正解なのだが、ともかく空回りの毎日で沖縄の運動のフットワークの悪さに辟易していた頃だった。もっとも私はここ20年ばかり「運動」などといいうものをやったっことはなかったのだから、即座に「沖縄の」と決め付けてしまったのは私の偏見ではある。そんなこんなで沖縄にも運動にもうんざりして半ば逃げるように10日あまり関西に帰ってしまう直前だったかな。ヒロエさんの「居座りつづける米軍基地にレッドカードを!レッドカード・ムーブメントはじめます」っていうメールが転送されてきたのは。正直言ってあんまり何をしたい運動なのか読めなかったけど、例によって深く考えず私はそれを勝手に加工して「なご平和電脳組」のサイトに掲示して事後承諾を求めるメールを出しておいた。当時まだウェッブサイトを持っていなかったヒロエさんはこれをとっても喜んでくれて、何度かメールをもらって一度お会いしましょってことで梅雨明け直後のカンカン照りの那覇、国際通り松尾のマクドナルドで昼休み、初めてお会いした。疑いもなく沖縄系のファミリーネームなんだけど人生の大半を海外で暮らした彼女とは、話は実は結局沖縄の悪口に終始したりして、私としてはとても楽しかった。なにより、彼女もまた一人称複数を用いてはいるけれど実はたった一人で動きはじめたんだってことがわかって心強かった。今や沖縄的にはマスコミの寵児って感のあるヒロエさんで、彼女がいろんなところで宣伝してくれたおかげで私のサイトのヒット数もうなぎ上り。共に沖縄「ニューカマー」が妙な運動はじめてるってことで地元の新聞記事にもしてもらった。
 フィリピンや合衆国の暮らしが長かったヒロエさんは「自分にはナショナル・アイデンティティーみたいなものがない」って言ってた。そんなものかもしれない。わたしも現在たまたま沖縄に住んではいるものの、この土地に何の利害関係もないし、いつでも逃げ出していける人間だ。だったらなんで「運動」なんかに口をはさむんだって、非難されたこともあるけれど、必ずしも「・・・として」という自己規定から説き起こさなければならないこともない、もう少しユニバーサルな「正義」ってものが、あってもいいんじゃない?と考えている。
 ハーフ・オキナワンでカリフォルニア育ちのピート、ヒロエさん、生っ粋の京都人のヒロエ・ママ、そして京都から「流れ着いた」わたし、こんなことでもなければ決して出会うはずもない4人が那覇のホテルで会食している。これもまたサイバー・スペースが取り結んだ縁なのだ。一人一人が対等な"node"(結び目)であるような「ネットワーク的」な人的結合、いい年をして「新しい」なんて言いたくないけど、そんなものができはじめているのだとしたら、少しだけ自慢だ。

 今夜は、今度は瀬嵩で10区の会の人達がピートを歓迎する「晩餐会(!)」を催してくれる。いくつかのイベントも残ってはいるが、わたしたちとしてはほぼ全日程が無事終了。それにしても何が「無事」なのか、何が「終了」なのか、好き好んで「歓迎」したわけでもないサミットに、しかし「対抗」側もすっぽりとはまり込んでしまったわね。他のサミットに類例を見ない814億円という大金の大半を警備に使わなければ、国際会議一つ開けないというのなら、それはサミットなどというものがこの島の「身の丈」にあっていないことを意味する。そしてそれは1千億円とも言われる「地域振興予算」とリンクした名護の新基地建設がやはり沖縄の「身の丈」とあっていないという事実の戯画にすぎない。
 「サミットの経済効果」などというものが何一つなかったばかりか、ハイシーズンの観光客の激減で土産物店やレストラン、農家などに深刻な損害が生じているという話も聞く。外務省は「NGOセンター」なるものを作ってファサードを飾って見せたけど、実のところ海外のメディアから基地反対運動や環境運動を隔離するためのものにすぎないんじゃないのという批判も多い。
 いったい何だったんだろうね?ともかくわたしはピートを乗せて、本当に何週間かぶりに国道58号線を北上して名護に帰った。恩納村のラマダ・ルネッサンスから名護のブセナ・テラス・リゾートまで、VIPの宿泊する高級ホテルとサミット会場の近辺は20kmぐらいにわたって8個所の検問所が設営されていたから、渋滞はするし気も滅入るから、ずっと高速を使っていたのだ。お金もずいぶんかかったよ。
 今や、各都道府県の警察の人達は検問所を片づけて撤収の準備をはじめている。打ち上げでもするんだろうか?私服に着替えてコンビニでビールを買っている警官も見かけた。正直うれしかったね。大げさな言い方だけど、占領軍が撤退して町が解放されるっていうのは、こんな感じかな?と思った。おりしも何日かぶりの激しい夕立。わたしたちが東海岸に着いた頃にはちょうどキャンプ・シュワブ沖から瀬嵩に向かって、大きな虹がかかった。いわれなき困難を課せられたこの町の「解放」をことほいでいるみたいだった。ピートも、これは「グッド・サイン」だよと言っていたね。

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