南の島だより 1 2

7月15日
 ハワイからやって来ているピートと3時にNGO国際環境フォーラムの行われている沖縄大学で待ち合わせ。何度もメールのやり取りはあったが会うのは4月以来。ちょっと緊張するね。
 こちらに住み着いて半年以上になるが、例の「沖縄タイム」というのにはまったく同化できなくて、やっぱり約束の時間の30分ぐらい前についてしまった。ハーフオキナワンのピートも結構几帳面でほぼ時間通りに現れたから助かったけど。
 今からいっしょに宜野湾の集会場に向かう。レッドカード・ムーブメントのヒロエさんが集会が始まる前にテレビの取材があるので来てほしいということだったんで、「絵になる」だろうしピートも連れて行くことにしたわけだ。
 今日の集会は「連合」や社民党・共産党とかの主催でそうそうたるお偉方たちが壇上に並んで延々としゃべるタイプの、申し訳ないが、退屈な種類の集会だろうだが、それ以上に、またしても米軍兵士の性暴力事件を「引き合いに」して、「運動」が盛り上がったりしてしまうことに、ナイーブなんだろうけど居心地の悪さを感じてしまう。わたしが沖縄にはじめてきたのは97年、お決まりの「平和ツアー」系なんだけど、その頃も「あの、95年の少女暴行事件以来、県民の怒りは・・・」風が「運動」系のマクラコトバになってしまっていて、言ってる方は悪気ないんだろうけど、意地悪く裏返してみれば、「もう一度『事件』がおこれば運動はもっと盛り上がるのに・・・」ていう仮定法になってんじゃないの、って思ってた。ほかのところでも書いたけど、他人の具体的な苦痛はなにがしかの「普遍的・抽象的」な観念に昇華されなければ、そもそも伝達さえできないのは当り前なんだけど、苦痛の原因を除去することが目的だったはずの「運動」が、「運動」そのものの継続のために具体的な苦痛がふたたび発生することを「待ち望んで」しまうような「不道徳」をどうしても生み出してしまうんだとしたら、やっぱり「運動」などというものは一日も早くなくなった方がいいとおもう。
 集会場の入口で、ピートにも手伝ってもらって「ジュゴン・シンポジウム」のチラシなどをまいた。ヒロエさんが新聞記者に紹介してくれたおかげで 「なご平和電脳組」のことも今朝の新聞に載ったらしく、「新聞で見ましたよ」みたいに声をかけてくれる人もいて、狭い島のしかも狭い「業界」だからなんだけど、なんか有名人になったみたいで、ちょっとうれしかったかも。

7月16日
 連日の快晴、エアコンのない「10区の会」の事務所は昼間は使い物にならないね。インクジェットのプリンターだと、片っ端から汗が滴り落ちてインクが流れてしまう。あした到着予定のプエルト・リコ、ビエケスからのお客人の来訪に備えて「ビエケス資料集」を印刷。
 3時からだったかな、久志支所ホールで「ジュゴン・シンポジウム」。ぎりぎりまでパネラーが決まらなくって、だから宣伝も行き届いていなくて、環境ネットワークとの共催のチラシの原稿はタクマ君が取り出せないもんだから「10区の会」のコンピュータの添付ファイルのなかで昨日まで眠っていたし、でもその割には人の集まりはとてもよかった。5月のシンポジウムもそうだったけど、やっぱりジュゴンはかなり人気者なんだ。
 夕方からは瀬嵩の浜で「満月まつり」。沖縄に引っ越してきて2ヶ月ばかりの去年の暮れ、同じ「満月まつり」の会場でおそるおそる「一万人ハガキ」キャンペーンっていうチラシを配ったのが、わたしの「反対運動」系デビューだったのだから、感慨もひとしおですな。あの時は誰もまだ知り合いがいなかった。タクマ君に初めて会ったのもここだったな。知らない人に声をかけて、自己紹介したり名刺交換したりするのは今でも得意でもないし、趣味でもない。あれから半年ちょっとくらいかな、「運動」のおかげでずいぶん友達も増えて、この会場にいてもあちこちから声をかけられる。「人々の海」のなかを泳いでるみたいで気持ちがいいけれど、そして「運動」がなかったらこの人達とは出会えなかったのだけど、だからといって「運動」が、従って「ヘリ基地問題」が「あった方が」よいわけではない。あったりまえのことだけれど、これは何度でも確認しておく必要がある。
 ソウル・フラワー・ユニオンが来ていた。メンバーの一部だけだけど。このグループをはじめてみたのは1996年の1月21日、震災からちょうど一年めの神戸、長田神社の「つづら折りの宴」でだった。(そのときのことを書いた手紙を引っ張り出してきてアップロードしたから見てね。)去年の「満月まつり」のときから、もしこんな祭りがもう一度あるのならぜひこのグループに来てほしいと思ってた。あのときの神戸を駆け抜けたソウル・フラワーの、そして「ボランティア」と呼ばれた人々の「運動」の目も覚めるようなフットワークの軽さが、沖縄にも、名護にもあればいいのにとおもっていた。同じ事を考えた人がいたんだろう。とってもうれしかった。「満月の夕べ」も「ガンバロウ」も「インターナショナル」もやった。ピートもミヤコも気に入ってくれたから、ちょっと自慢だったね。でもステージの上の彼らはとても機嫌悪そう。まつりがはねた後、ミーハーに握手を求めに行ったりしたんだけど、その時もとってもナーバスそうだった。まぁ、いろいろあったんだろうね。しょうがないさ。

 長い夜だった。わたしは極度に上機嫌で、浴びるほどビールや泡盛をのみ、「寿」のステージが始まる頃には完全に出来上がっていて、友達を無理矢理ひっぱって、ステージにのぼって踊ったり、迷惑この上なかったとおもう。トリはお決まりの喜納昌吉で毎度毎度の「花」の大合唱に流れ込むわけだが、安直だろうがステレオタイプだろうが、真っ暗なビーチを埋め尽くした人々が歌にあわせてゆっくりと手を振るのをステージの上から見ちゃったりすると、それはひょっとしてこの「運動」は勝てるんじゃないのってうっかり錯覚してしまうほどのものではあった。

 まつりがはねてピートはナリコが那覇まで連れて帰ってくれた。シンポジウムの終わり頃に到着した京都のタケイチさんは関西連絡会の人達といっしょに「ひまわりハウス」に泊まることになっていたので、共同売店でビールを買ってお邪魔することにした。
 決して安くはない旅費を積み立て、多くはないはずの有給休暇を削って、年に一度か二度「沖縄との連帯」のためにここにやってくる人々。いささかのいやみもない。わたしもちょうどこのグループの人達のツアーに参加して2年前、はじめて名護の東海岸にやってきた。
 「まなざし」の対象と「まなざし」の主体との当然の距離、それをビルトインすることのできない言葉たちが際限のない誤解を生み出している。同じ物を同じ言葉で指し示しながら、少しも「理解」に近づかない。わたしが端的に沖縄に住んでしまおうとおもった理由は、部分的にはそうゆう事と関係があるんだけど、今こうしてこちらに一年住んでみても、「沖縄を理解している」と日々証明しなければならないと思い込んでいるみたいな「本土」の人々、「定住者」も「来訪者」も、そして当然にもそんな事を主張する必要のない「沖縄の」人々と、今のところそのどれにも居場所を見つけることに失敗し続けている。
 これ以上ここにいても、なんか余計ないやみなことを言って、これらの疑いもなく善意な労働組合系の人達を不快な気持ちにさせてしまいそうだから、こっそり退散してふたたび瀬嵩のビーチに戻り、まだくだを巻いていた東京のオカザキ君、ブラッキーたちの宴に加わる。この人達には昨日会ったばかりだけど、20代後半という歳のわりには70年代アナクロ左翼的な耳学問が妙に発達しているので、話はとってもくどくなるんだけど、「本物」のアナクロ左翼とは違ってそれほど粘着質ではないから、この日も朝の4時くらいまで泡盛をストレートで飲みながら訳の分からない話をしたけど、不思議にそれほど疲労感はなかったね。

7月17日
 さすがにサミット警備のさなかに西海岸まで運転して帰れる状態ではなかったから、瀬嵩の給油所の前に車を停めて仮眠する。すっかり日が昇って暑さに目を覚ます。カバンがない。昨日久志支所ホールに置き忘れたんだ。やっぱり相当ぼけてる。支所に行ってみるが預かっていないとのこと。万事休す。免許証と携帯電話が痛い。これからの一週間、ビエケスからの客人の案内や嘉手納包囲など車で全島を走り回らなければならないのに、無免許というわけにはいかないだろう。電話番号もほとんどが携帯のメモリーに入ってるから、これがなければ誰にも連絡が取れない。
 ひまわりハウスに泊まっているタケイチさんをたたき起こして、西海岸まで走ってもらう。反対協が「ピース・プラザ」っていう情報センターみたいなのをサミット期間中に開いていたんだけど、そこの開設準備に行っていたタクマを探しに行くのだ。「あぁ、黒いカバンでしょ、ぼくの車にあるよ、家の前に止めてある、鍵はかかってないから」って!
 去年わたしがここにやってきて、インターネットのホームページとかいうわけのわからないものをこしらえはじめてこの田舎の青年をケムに巻いたとき、彼はわたしのことをニライカナイからやってきた「神」と思ったに違いない。でもこの時わたしにはタクマが「神」にみえた。ジュゴンの住む海だけではなく、タクマの住むこの土地を守るためにこそ、ヘリ基地は止めなければならない、と正直思った。

 タケイチさんを乗せて高速で那覇まで。彼の以前からの知り合いの障害者のグループで、例えば足の指で使えるキーボードなどバリアフリーのコンピュータシステムの開発をしている人達が、那覇の寄宮で「コミット」っていうショップ兼パソコン教室を開いているんだけど、そこにはじめてお邪魔をした。とっても気さくな人達で、しばしほっこりとした時間を過ごした。

 「平和市民連絡会」の事務所でちょっと時間をつぶしてから空港へ。いよいよルーシーとカルロス、ビエケスからの代表団のお迎えだ。
 いいかげんなスペイン語でプラカードまで用意したんだが、飛行機は定刻に到着、二人も簡単に見つけられた。いっしょに歓迎のお食事会でも、という予定だったんだが、長旅でかなりつかれているみたいだし、ルーシーは出発直前にお孫さんの相手をしていて足の指を怪我したらしく、用意した市内の安いホテルでとりあえず早々に休んでもらうことになった。明日はまずルーシーを病院に連れて行って、それから基地見学ツアーに向かうことになる。

7月18日
 朝一番にルーシーをホテルにお迎え、ルーシーを沖縄県立病院に連れて行く。本日は整形外科が休診、救急病棟の整形外科に案内されるも、ここから一般外来の外科にまわされ、血圧と身長・体重測定、充分待たされた後数分間の問診を受けて、X線撮影、現像が出来上がるのを待ってふたたび外科の問診。公立病院にはよくあることだし、それぞれの担当のお医者さんや看護婦さんに悪気があるわけではないけれど、たらいまわしの印象はぬぐいがたく、ルーシーも少しナーバスになっているみたい。気の効いたことを言って気持ちを和ませてあげればいいのだが、わたしの語学力では無理だし、ただ根気よくそばに座っているだけだった。外科の若いお医者さんはとても親切で、彼も英語はできなかったから一生懸命身振り手まねや絵まで描いてくれて説明してくれた。心配された通り骨折しているみたいで、あまり無理はできないのだが、ギブスをするほどでもないので湿布薬と鎮痛剤でなんとか乗り切りましょうということになった。料金精算と、調剤でまたたっぷりと待たされて、病院を出たのはお昼近かった。
 ルーシーはビエケスのお土産の革のポーチをわたしにくれた。今でも毎日使っている、これはわたしの宝物。


ルーシーとカルロス



7月19日
 昨日は一日ピートをほっぽりだしていたけど、適当に時間をつぶしていてくれただろうか。親戚がたくさん居るから大丈夫だろうけどね。午後3時に崇元寺の門前でピートを拾って古島の教育福祉会館に向かう。夕方から平和市民連絡会主催の共同記者会見。準備でてんやわんやだろうから、早目に来て手伝ってねと言われていた。ピートを紹介するいい機会だし、英文のプログラムを作ったりするはずだから役に立つだろうし彼も連れて行くことにしたのだ。
 ルーシーとカルロスはすでに南部の戦跡巡りから帰ってきていた。少し疲れているようだ。そりゃそうだろう、地球の裏側からやってきたんだ。まだ旅の疲れも残っているはずだ。
 確かに「てんやわんや」の状態のまま記者会見は始まる。やっぱり準備不足は否めなくて、肝心の海外のメディア関係者の姿は見えない。20団体くらいのアピールを日本語と英語で行うという趣向なのだが、どうしても時間が押してしまって中途半端なものになってしまう。通訳の人達とも、打ち合わせが十分にできたとはいえないだろう、そんな理由でもあるんだろうが、ルーシーとカルロスの通訳の仕事がわたしに回ってきた。わたしは英語のヒアリングはまったくできないんだけど、多分この会場にいる誰よりもビエケスの状況については理解しているはずだっていう自負もちょっとはあったから、実はうれしかった。二人の発言は6割ぐらいしか聞き取れなかったけど、拾った言葉を適当につなげてそれでも8割ぐらいの正確な(!)通訳はできたとおもってるよ。
 ピートは多分今日夕方から、沖縄在住時代のガールフレンドと会う予定だったはずだ。半分思い付きみたいにピートの発言をプログラムに盛り込んでもらうよう主催者にお願いしていたんだけど、なんせ時間が押しているからできるかどうか危ぶまれてきた。とっても根がまじめで几帳面なピートは、デートをキャンセルしてまで残ってくれたばかりか、一生懸命発言の下書きを用意したりしている。「ピート、ごめん、ほとんど時間がないみたい。大事なことは、君がここにいること、ハワイからきたこと、それだけ!」せっかくの下書きをあきらめてもらって、1分間くらいのあいさつの時間はかろうじてとることができた。
 共同記者会見が終わる頃には、明日の嘉手納包囲に参加するために本土からやってきた人達も会場に現れて、たいそうな賑わいになってきた。関西の知り合いの顔もちらほら。集会は、琉球舞踊や歌・三線、ビールと料理が振る舞われて立食パーティーの様相を呈してきた。これが「オキナワン・ウェイ」なのだろうから、文句はないけれど、訳のわからない喧騒の中に取り残されているお酒をまったく飲まないルーシーとカルロスを見ていると、彼らの居心地の悪さがひしひしと伝わってきてわたしも全然落ち着けなかった。名護のNGOセンターのIDカード申請のための写真を撮るという口実で集会場を抜け出し、浦添の旧アメリカ領事館の「ピザハウス」で食事。明日の嘉手納町文化センターでカルロスとルーシーの通訳を担当することになっているダグラス・ラミスさんを交えて。
 11時ごろだったかな。2人をホテルまで送って、それから名護に向かって車を走らす。明朝はNGOセンターに行かなければならない。そして、午後は嘉手納基地包囲。誰もが疲れていた。わたしも、この日が限界だったと思う。

7月20日
 嘉手納には、南からは宜野湾コンベンションセンター駐車場、北からは読谷村役場駐車場からそれぞれチャーターバスが出る。名護からも反対協がバスを出す。基地周辺は相当な渋滞になるし駐車違反の取り締まりも厳しいだろうから、車ではいかない方がいいといわれていた。でも、プエルト・リコのお客さんや、今日現場で会うことになっているドイツからのお客さんとか、アメリカからやってくるタカギさんとか、いろんな人を運ばなければならないかもしれないから、車で行くべきかどうか最後まで悩んだ。結局タクマにも無理を言って壊れかかった車を出してもらって、読谷まで行くことにした。
 ゆうべの約束通り朝9時には宮里公民館のNGOセンターに行って、カルロスとルーシー、そしてわたしたちのIDカードの申請をした。申し込み用紙がファックスの孫コピーみたいなのでものすごく汚くて、大丈夫かなって不安だったんだけど、あっさり受理されたのでむしろ拍子抜けだった。
 名護のお友達のおうちに泊まっていたピートを迎えに行き、読谷に向かって出発。睡眠時間は短かったけど、天気もいいし、何とか乗り切れそう。渋滞とか検問とか不安だったので早目に出たんだけど、これまた拍子抜けするくらいあっさり到着した。時間が余ったので、ピートを「やちむんの里」、チビチリガマ、民宿「何我舎」に案内した。ピートは今回の沖縄ツアーのことを記事にして地元のフリーペーパーに載せるんだそうだから、読谷の重要スポットを短時間で回れて、ちょうど良かった。
 読谷村役場の駐車場でタクマと合流。読谷補助飛行場滑走路あとの道路には何十台という貸し切りバスが待機している。連合や共産党みたいな大組織の組織動員で数だけそろえて、なんて醒めた見方をしていなくもなかったんだけど、これを見たときはさすがにちょっと目頭が熱くなったね。

 最近では案内板もできて、ほとんど観光スポットの一つとなっている感のある「安保の丘」から屋良小学校までの区間が、「無所属」系市民団体の割り当てということになっている。これは嘉手納飛行場の周囲全体の5分の一程度にあたる。あとの8割は共産党系の「統一連」、自治労を主力とするのだろう「連合沖縄」の組織動員が占めているのだ。悪口はいくらでも言えるが、とりあえずは、すごいことだと思う、ということにしておこう。
 安保の丘の近くでは「レッドカード」のヒロエさんがさっそくテレビの取材を受けている。確かにこの「運動」は短時間でものすごい広がりをみせた。本土からの「動員」系の人達も赤いリボンや赤いタオルを手にしている人達が圧倒的に多い。もちろんこれはある種の「誤解」なのだ。「赤色」が共産主義者や労働組合のシンボルであることが自明であった時代にヒロエさんは属していないし、「今回は赤でいきましょう」みたいな「決定」に参加者全員が従ってしまうような運動のスタイルはそもそも「レッドカード」の「趣旨」に反してもいるのだが、それらのあらゆる「誤解」に満ちた伝達が、主に電子メディアの恐るべき速度を通して行われたことが、どれほど強調しても強調しすぎることはない「新しさ」を構成している。
 「安保の丘」にはテントが設営されていて主催団体が各現場と大量の携帯電話を使って連絡を取るコミュニケーションセンターになっていたようだ。その近くでは「ジュビリー2000」の人達がプラカードを掲げてデモンストレーションをしている。
ピートを連れて近くを歩きまわってみる。たくさんの「平和のハンカチ」がひるがえる「二見以北10区の会」がいて、宜野湾の「かまどぅぐぁー」の人達がいて、「ヘリ基地反対協」の場所があって、とにかくやたらめったらいろんな人と握手した。やっぱり狭い島なのだ。
 ピートみたいな「外国人」が一緒だと目立つのだろう、新聞の取材も受けた。沖縄タイムスは私達がレッドカードを差し出している写真入りの記事を翌日掲載してくれた。 
 本土からの動員のセクト系もこのあたりに混在していて、中核派系の「100万人署名」のところには関西の知り合いの顔とかもあったりして、とりあえずはごあいさつ。戦旗派(日向)改め「BUND」も若い人達を結構集めていたね。サングラスしちゃったりしてるからやはりお里が知れるけど、それなりのソフトイメージを醸し出してはいたよ。解放派が青ヘルメットに覆面で登場したのには仰天したけど、ピートに「これがアナクロニスティックな日本のイクストリーム・レフトだ」って説明したら面白がって写真取ったりしてるからちょっと不安になった。
 やがてナリコ達とともにカルロス、ルーシー、シェイラが到着、ちょうど一回目の「人間の鎖」のときには"Bieke Si! Marina No!"(ビエケスに「イエス」、海軍に「ノー」)とスペイン語のスローガンを声に出して手をつないだ。もと沖縄駐留海兵隊員だった平和運動家のアレン・ネルソンさんや、同じく海兵隊で沖縄駐留の経験を持つダグラス・ラミスさん、韓国やフィリピンからの人達も近くにやってきて、「国際色ゆたか」になってきたもんだから、メディアの人達も集まってきた。
 ミヤコたち喜如嘉のお友達は、大宜味村職労のバスで来ているらしい。自治労の割り当て部分の嘉手納ロータリーのあたりまで歩いてみる。結構遠かったね。ようやく3回目の「人間の鎖」に間に合った。ミヤコ宅に泊めてもらっているアメリカ・ネバダからのお客人タカギさんと対面。この一年足らずの間に「メル友」とご対面するというちょっとどきどきするような経験を何度もしたけれど、何せ地球の裏側からだからね、感動もひとしお。
 結局読谷行きのバスに乗り遅れてしまった私達、タクマと私とタカギさんが、半ばやけくそでヒッチハイクの真似事をしていたら本土から来ていた某党派系の新聞の記者の人がレンタカーに同乗させてくれた。ありがたいことだ。無事、嘉手納町文化センターに到着。
 夕方から開始された「平和市民連絡会」主催の集会を、私はほとんど見ていない。別に大した用事があったわけではないが、なんとなく右往左往していただけだ。これまた転送メールでホームスティ先を探す依頼を受けていたドイツ人一行5人とはホールの入口で合流できた。野菜の配達の合間を縫ってコザあたりで基地包囲に参加していたカタオカ君がここまで彼らを迎えに来てくれることになっている。一行を案内しているのはTさんっていう東京の若い学生さんなんだけど、通訳だけのはずがいつのまにかツアコンみたいなこともさせられちゃって、しかもちょっと古臭い感じのインテリ「平和運動家」然としたおじさまおばさまをもてあまし気味みたいで、かわいそうだったかな。
 集会は大入り満員のようだ。このドイツ人の代表も、ピートもプログラムにねじ込んでもらって発言の時間をつくってもらった。昨日は少ししか時間がなくて不満だったろうカルロスたちも今日はかなり時間を延長して発言した。
 カルロスたちの名護での宿泊場所が全然見付からなくて、結局彼らは那覇に帰ることになる。タクマには迷惑をかけてしまった。ピートとタケイチさん、タカギさんを車にのせて、エンジンがいつ止まるかわからない危ない車に乗っているタクマと並走しながら名護まで戻った。

 「基地を手をつないで囲む」というシンボリズムは、やっぱり趣味ではない。渦中にいてしまうと「ともかくやるだけのことはやった」みたいな満足感に酔いしれてしまいがちだけど、こんなことを何度も繰り返してきつつ、沖縄の基地の現状が何一つ変わってこなかったんじゃないの!とも思っていた。
 一方で、錯覚かもしれないけど、きっと錯覚なんだけど、「勝てるかもしれない」って思ってしまった。
 ダグラス・ラミスさんがこの日、「勝てる市民運動に参加できるほど幸福なことはない」って言ってたって、誰かから聞いた。同じ「錯覚」を持てた人達がいたことがうれしい。名護のお友達のエツコさんはあとからこんなメールをくれた。「新しいエネルギーを感じました。何と言うのか・・・。10年ほど前だったらたぶんもっと好戦的な感じだったのではないでしょうか。今、世界規模でいろいろなことが起こっているけど、それに反応して『先に気づいてしまった人々』がより愛に近い形であるべき姿を構築して行こうとしている姿があるように感じます。」

 職場の予備校の教室を勝手に使ってピートとタケイチさんと泡盛残波を飲む。私達は例によって酔っ払いながら、「平和」を主張する人々が「暴力」の「文化」を持ってしまうことについて、「文脈」と「文化」の「差異」を、「多様性」を「尊重」する「文化」について語った。

7月21日
 反対協の対抗サミット企画「ヤンバル・ピース・ウェーブ」の目玉、「ピース・ウォーク」。大宮児童公園からプレス・センターをかすめるようにして58号線を南下、はるばる10数キロを歩いてブセナ岬まで向かおうというのだ。デモ申請はせず、歩道を歩く。警備当局とは事前にある程度の協議ができていて、横断幕や旗やノボリを用いないこと、おそろいのTシャツを着用することを条件に妨害を受けないようになっていたようだった。それ自体はとってもいいことだと思うけど、やっぱり私はユニフォームというのがどうしても嫌いなので、遠慮させてもらって、車でちょろちょろ走り回って雰囲気を盛り上げさせていただくことにした。
 みごとな快晴。歩く人には大変な暑さだけど、名護湾が美しく輝いて、とても気持ちがよい。
 交通規制で大変な渋滞になるだろうと予想してたんだが、何のことはない警察車両以外の車がほとんど走っていないから、道路はがらがらだった。さすがにブセナの手前では検問で止められた。トランクを開けさせられて、免許証を無線でチェック。数分間はかかったが、ほとんどルーチンワークという感じだね。

ブセナ近くで渋滞中。要人が出入りするたびに30分ほど通行止めされる。
向かいの空き地にとめてあるのはすべて警察車両。その向こう側の岬の先端がサミット会場になる。

 全行程を完走したみんながやがてブセナに到着する。ブセナを通り過ぎて、南側の「かりゆし・ビーチ・リゾート」に車を停めて歩いていこうと思ったら、また検問で止められた。タクマ達がクリントンと森への請願署名の取り次ぎを拒否した警備当局者に抗議を行っている肝心なときに、私は「かりゆし」の駐車場にいたんだ。ナリコの携帯に電話したら、彼女の声はしない代わりに受話器の向こうから「沖縄を返せ!」が聞こえてきた。ブセナの入口でみんなが歌っているのを「実況中継」してくれたんだ。
 復帰運動のアンセムだったこの歌を、今まで一度もいい歌だと思ったことはない。だけど、この時ばかりは、受話器を耳に当てたまま、泣いてしまったね。

ブセナ入口にて。クリントン氏及び森氏への請願署名の受け取り、取り次ぎを拒否した警視庁の警官にダンコたる抗議を申し入れるタクマ。
頭上のジュゴンが、あまりに温厚な顔なので妙におかしい。警官もよくふきださなかったものだ。

 結局背広を着た警視庁の担当者達との話しはらちがあかぬまま、解散。ピート、タカギさん、タクマ、ナリコとともに「かりゆし」の駐車場まで歩く。100メートル間隔で警官が立ち、歩行者の通行も禁じられた歩道のその向こう、夕陽が沈む海の上にはおびただしい数の警備の船舶が見えた。本当に、この国は何をやっているの?
 ロシアの大統領の車両が通過するので、歩行者も全員止まることを命じられた。警官の態度はとてもソフトだから、言われていることの異常さをうっかり忘れてしまいそう。白バイとパトカー、覆面パトに囲まれた黒塗りの高級車が通過するとき、ナリコはジュゴンのポスターを掲げて"Save Okinawa!"と叫んだんだ。

ブセナ岬の南側。ブセナと「かりゆし・ビーチ」の間の歩道のうち海側は歩行者も通行禁止になっている。
見えるだろうか?会場にはおよそ十数隻ばかりの海上保安庁の船舶が「警戒」にあたっている。
1945年4月に米軍が上陸した読谷や北谷の海はどんなだったろう?

 沖縄に住みはじめてから一年近く、「ヘリ基地反対運動」やら「サミット」やらの喧騒に、好き好んでとはいうものの巻き込まれてしまって、もともと好きでもない「運動」にはますますうんざりしていたし、沖縄そのものにもほとんど嫌気がさしていたかもしれない。だったら、帰れば!ってだけのことなんだけど。でも、この日のことは忘れないだろうな。もう後戻りできないほど、この島のことを好きになってしまっていたのね。またしても、錯覚かもしれないけど・・・。
つづく
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