「私」のための現代思想/高田明典/光文社新書

「人間はどうせ死ぬんだから、・・・」、「世界はどうせ滅びるんだから、・・・」っていう、 「ニヒリスティック」な装いの、実は健康そのものの議論にずっとうんざりしてきました。もちろんこれは「論」じゃない。「死」は、いわば「最終兵器」であって、それを「引き合い」に出せば、「勝ち負け」としてははっきりしている。しかし、必ず「勝つ」ことが決まっている議論は、それはもちろん、「論」ではない。
人間は「死」を観念することができないから、それを「漠然とした不安」として、取り込んだ、とキュルケゴールは言ったそうだが、生きている身体を根拠としている私たちの「想念」に、「死」が正しく位置づけられることはありえない。なのに、私たちはまたしても、自分にも「観念」できないはずの「死」をひきあいに、他人を「脅迫」しようとしている。

青空チェリー/豊島ミホ/新潮文庫

戦争を「語り継ぐ」必要なんて、ない。心配しなくても、戦争はいつでもそこに、あるから。「戦争を『忘れてしまった』から、人はまた戦争を始める」って、誰が決めた? 「忘れていない」からこそ、同じことを繰り返すんだって方が、ありそうな話しではないか?
ホロコーストの記憶がイスラエル国家を作り出した。イスラエル国家の成立が、ホロコーストにも比肩すべき虐殺を生み出した。
いや、「たとえ話」は止めよう。諸個人の苦痛に満ちた死は、絶対的だ。「諸」個人にとって絶対的な死が、他人にとっては「計数」上の問題にしかならないことが、戦争の「動因」なのだとしたら?
『ハニィ、空が灼けているよ』

世界の「ほころび」