不完全性定理/野崎昭弘/ちくま学芸文庫


《男1》唐突に話し始める。カメラは《男1》の正面。
《男1》 数学の論理の体系というものは、証明の「連鎖」によって成り立っています。 ある命題が「正しいか」、「正しくないか」の判断は、これまでにすでに「正しい」ことが証明されている命題、これを「定理」と呼びますが、それらのみに基づいて行われなければなりません。すでに証明済みの命題のみから、新たな命題が「正しい」ことが証明されたなら、この新たな命題も「定理」として、システムの中に組み入れられ、次の新たな命題の証明に用いることが可能になります。
だったら、この証明の「連鎖」を、逆にたどってみるとどういうことになるだろうか?ある命題が「正しい」といえるためには、それを「正しい」と導いた別の命題が「正しく」 なければならない、その命題が「正しい」ことを示すためには、また別の・・・・、こうして、「無限後退」が生じます。

《男1》黒板に「無限後退」と書く。

《男1》 でも、有限の時間と有限の資源しか持っていない人間は、本当に「無限後退」することはできない。必ずどこかに「果て」があります。「行き止まり」があります。つまり、もうそこから先は、「証明」することもできないまま、ただ「正しい」といわなければならない「場所」に到達してしまいます。
「お空はなぜ青いの?」と、無邪気な子供がお母さんに問いかけます。「それはね、青い色のほうが屈折率が大きいからよ」、そんなことを答えるお母さんはめったにいないだろうが、「じゃあ、どうして青い色の屈折率は高いの?」子供の質問は続くでしょう。どこかで必ず、「答えられない」地点にたどり着きます。
「うるさいわね、『青いものは青い』のよ!」と、お母さんが「切れて」しまう地点、もはや、ほかの何かによって「証明」されることもなく、ただ「無理由的」に「正しい」といわざるを得ないもの、それをヴィトゲンシュタインという哲学者は「超越確実性言明」と、呼びました。

《男1》黒板に「超越確実性言明」と書く。カメラ、少し引きながら右にパン。画面の右端に《男2》が入ったところでとまる。
《男2》右手でカウントを取って、「1,2,3,4・・・」、歌い始める。《男2》の視線は正面、カメラは見ない。
《男1》は、歌とは何の関係もなく、話し続ける。

《男1》 「私が私であること」、そこには何の「理由」も「根拠」もありません。私たちは、何の理由も根拠もなく、唐突に、この世界に放り出されるようにして、存在しているのです。
紀元前3世紀ごろのエジプト、「幾何学原論」のユークリッドは、例えば、「点とは、大きさのない位置のことである」というように、ほかの言葉でもはや言い換えて説明することが不可能な言葉を「定義」、また例えば、「同じものに等しいものは、あい等しい」などという、もはや他の事実によって「証明」することができない命題を、「公理」としてさだめ、これらの、ごく限られた数の「定義・公理」のみから出発して、そこから始る証明の「連鎖」のみから、幾何学の体系を組み立てようとしました。
有限個の「公理」から出発して、証明の「連鎖」によって「体系」を組み立てる、というこの方法は、とても客観的で堅固なものに思われました。だからこそユークリッドの 幾何学体系は、ヨーロッパ近代にいたるまで、論理的な思考方法の、「モデル」として機能したのです。
ところが、20世紀になって、このシステムに「ほころび」があることが、わかってしまったんです。
ゲーデルという学者が、「不完全性定理」というものを発表し、有限個の矛盾のない「公理」のシステムの中に、それらの公理によっては決して証明できない命題が、「必然的に」含まれてしまうことを、「証明」してしまったんだそうです。
私たちは、その始まりにおいて、「無理由」、「無根拠」に存在し、その反対の果てには、「ほころび」を持った世界に生きているのです。これが「ポストモダン」と呼ばれる時代の、世界のありようなのだと思います。
「近代」を終わらせてしまった、この「ほころび」の「変奏」を、いろんなところに見つけることができます。同じく20世紀の初頭、「量子力学」が誕生し、光は「波」としても振舞うし、「粒子」としても振舞う、などと言い出しました。
私は、ゲーデルの「不完全性定理」にせよ、量子力学にせよ、何度読んでも、ちっとも「理解」できた気がしません。それは、私が頭が悪いからなのかもしれないが、私たちの持っている「言語」が、「ほころび」に「対応」していないからなのでは?、と考えて、安心することにしています。「ほころび」を記述できる言語、などというのが存在するのかどうか、想像もできません。
「ほころび」のある世界、どこかが「壊れてしまっている」世界、に私たちは生きています。そして、その「壊れ方」をうまく説明する「言葉」を、私たちは持っていません。「ゆるぎないもの」を確信できていた「時代」があったとして、それはそれで「幸せ」であっただろうが、「ゆるぎないもの」の一角がすでにどうしようもなく壊れてしまっていることを、知ってしまったこの時代も、それほど「不幸」ではないのでは、と思っています。
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《男2》は歌い終えたところで、初めてカメラの方を向く。《男2》に向かってカメラアップ、《男1》を画面から追い出す。
《男1》は、延々としゃべり続けそうであるが、映像は、ここで唐突に中断する。

人類の至宝?