ジェリーさん、ピンチ!

ジェリーさん、夜中に奇声上げるから、今までも時々あったんだけど、何か不満があるんだろうけど抱っこして寝かしつけようと運んできたら、・・・。

あれ、なんか変?ジェリーさん、顔でかくなった?いやいや、ほっぺたとか首の周りとかが腫れているんだ。そういえばここしばらく、心持ち食欲も落ちていたかもしれない。部屋の隅でじっとしていることが多かったかもしれない。

ジェリーさんは、猫エイズ(FIV)陽性で、去年の暮れ、慢性腎不全で入院、「余命、長くて一年」、の診断をもらって退院した。



それから一年、毎日自宅で点滴を入れ、薬を飲ませ、今週はもつかな?、あ、今週はもった、今月はもつかな?あ、今月ももった、ってはじめははらはらどきどきだったけど、最近はもう「生き延びる」のが当たり前になってしまっていた。

この一年間、「調子が悪くなったこと」が一度もなかった。食欲はつねに、ありすぎるほど、あった。飼い猫が「ご飯を食べてくれる」という単純な事実が、これほどありがたいことだとは、猫などを飼い始める前は、思いもよらなかったね。ともかく食べ続けてくれさえすれば、何とかなる。食べてくれないと、こちらは何の手の施しようもない、ただ衰弱していく姿を、見続けなければならない。



一年ぶりに病院に連れて行くことにした。ジェリーさんのすでに分厚いカルテの最後の一年間分のページには、私が週に一度の割合で購入してきた「乳酸リンゲル液」、「輸液セット」、「注射針」、「コバルジン」、「抗生剤」の分量が詳細に記載されているだろう。

ジェリーさんは車に乗るのが好きじゃない。かごに閉じ込めるとあたりかまわぬ哀れっぽい声でピーピー鳴く。洗濯ネットに入れた上、ショルダーバッグを斜めがけにして、押し込んだ。首だけ洗濯ネットから出すと、そう、カンガルーの親子だ!



↓待合室の「親子」。

ほっぺたに「むくみ」が出ている。腎不全の患者にはありがちで、動脈血と静脈血のバランスが悪いときに現れる可能性がある、という。考えられる原因は二つくらいあって、一つはアレルギー、もう一つは、点滴量が過多。

腫れをひかせる注射をしてもらって、点滴は当面二日に一回くらいに減らして、様子を見ましょう、ということになった。一年ぶりに、血液検査もしてもらった。一年間生きる「はず」ではなかった猫だ。「ひょっとして、よくなっているのでは?」と、先生も思われたらしい。でも、当然といえば当然、去年の退院時より悪化している。腎機能を示すBUNという指標は、正常値の上限の5倍を記録していた。4本の足で立っていることが不思議、ちょっとでも食欲があること自体ありえないくらいの数値だという。



生き物は、病気に「慣れる」ことができるのだ。「健康」と「病気」を両極とする「絶対的」な座標軸があるわけではなくて、病変によって壊れてしまったもの、失われてしまったものを、何か別の「リソース(資源)」によって補填し、代用し、全体としてのエネルギーレベルはずいぶん下がってしまっているけれど、それでもどこか0点を中心として「振動」し続けることができれば、生き続けることができる。

それは、同じく「病んでいる」私には、よく、わかる。「ジェリーに毎日点滴を入れる」ことこそが、この一年間、私そのものが「生きている」証しだったから、正直、拍子抜けだ。腫れはひいたけど、食欲は完全には戻らない。ジェリーは食べ物の好き嫌いがほとんどなくて、ドライフードで全然問題なかったんだけど、今は、いろんなおいしそうな缶詰買って来ては、ご機嫌とっている。



何度でも繰り返す。生きることに「意味」はない。私たちは「死」の「意味」を知ることができないから。でも、「生き延びること」、および、「他者を生き延びさせること」には、「技術」が必要なんであって、その限りで、「生きた」ことを「よかった」といい、「生きれなかった」ことを「残念だ」といわなければならない、その限りにおいて、私たちは生きる「意味」を知ってしまっている、といっても、別に、いい。


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