さようなら、リンリン
10月下旬になって、亜熱帯の島もやっと「秋らしく」なってきた。明け方には少し肌寒く、毛布が必要。リンリンのそばに布団を運んで眠った。
月曜の朝、リンリンはまだ生きている。起き上がることはできなさそうだが、心拍も呼吸も落ち着いている。2回目の点滴、50ミリリットルほど、抗生剤入りミルク、5ミリリットルくらい。おしっこで濡れてしまった古着を取り替え、電気ポットでお湯を沸かして、ペットボトルを入れ替える。
新しい週が始まってしまった。いつまでも酔っ払ってるわけにいかず、また普通の人間の「振り」をして働かなければならない。猫トイレのうんこを拾い、トイレの新聞紙を取り替え(23匹もいるとね、砂トイレが使えないのがいるのだ・・)、飲み水を替え、抜け毛だらけの床を掃除し、ベランダに出て犬の水を替え、トイレ用新聞紙を替え、待ちかねていた野良猫たちに餌を出し、家の前の路地に野良猫がうんこを放置していないかをチェックし、犬のぺぺちゃんの散歩、公園の猫ちゃんに餌、おっと、ぺぺともう一匹名前はまだないが結局うちに居座ってしまうことになりそうな子犬に餌・・・、犬と猫のうんこを水洗トイレに流す、その際、水を無駄遣いしないように亀の「かめお」の水槽の水を取り替えてこれを用いる・・・、「かめお」に餌、ジェリーの点滴と抗生剤とコバルジン、
と、こんなところが私の毎日のルーチンワークだ。「愚か」であることはわかっているから、改めて指摘しなくてもいいからね、ただ、鼻で笑ってくれればいい。私はこの世界で生きていることの意味が、ぜんぜん、わからない。でも、私をこの「世界」につなぎとめているのが、このおおよそ2時間ばかりの「ルーチンワーク」なのだ。これだけのことをなし終えて、例えば公園のおじさんや近所のおばさんと挨拶を交わして、やっと、私「も」この世界に「帰属」して「も」いい、って思えてくる。「生きなくてもいい」人間が、同様に「生きなくてもいい」動物たちを生かせるためにだけ、働いている。
生き延びることが自明の価値であると確信している、もしくは、疑ってみたこともない、かも知れないお子様たちに、「化学」や「物理」の授業をさせていただく、などという高飛車な立場に立たせていただくまでに、私としては毎日、これだけのウォーミング・アップをしているのだ。
リンリンが「死にかけている」ということは、なるべく考えないようにした。この子は、もう少し生き延びてくれるかもしれない。手を触れれば生暖かく、呼吸に合わせて被毛がゆっくりと波うち、顔を近づければ少し魚くさい息をする、それが「生きている」ってことだ。でも、ほんの数日前みたいに私のおなかの上で眠り、頭をなでると「あ〜ぁ」って情けないか細い声を出して顔をこすり付けてくる、というところまで「回復」することは決してない、それが「死にかけている」、「死」に向かって「不遡及的に」近づいていく、ということだ。
人間は「死」の意味を原理的に決して知ることはできないから、それを「漠然とした不安」として「取り込んだ」と、キュルケゴールは言った、そうだ。
今日は2時から「会議」、3時40分から授業、終わるのは7時くらいだろう、およそ5時間くらい家を空けることになる。その間にリンリンは、ほぼ間違いなく息を引き取るだろう。できれば仕事を全部キャンセルして傍にいたい、でもそれをやると、今度は私がこの「世界」に帰ってこれなくなってしまう。働かなければ猫の餌が買えない、という意味だけではなく、そう、「労働」のみが「世界」と関与する唯一の契機なのだ。あれっ、それって「プロレタリアート」ってこと?
「○○校では、授業のはじめ30分を使ってプチテストを実施し、徹底的に問題を『解かせる』訓練をしている。その結果10月の模試では、ほぼ全員成績がアップしている。いやもちろん、これだけが原因とは言いませんけどね、でも、何かやって見なければ、始まらない・・・」
「会議」では、こんな言葉たちが飛び交っているのだが、私はそれらがどこの星の言葉で書かれているのかすらわからない。ただ、早く帰りたかった。もう二度と触れることができないかもしれないリンリンの生暖かい皮膚に、もう一度触れたかった。
前・戻る・つづく