ペイ・ガム理論と「関数論」
コインを入れるとガムが出てくる、「自動販売機」の一番初歩的な形が「ペイ・ガム」です。人間は「コインを入れる」という形で、この「機械」に「入力(input)」を行い、「機械」から、転がり出てくるガムという「出力(output)」を受け取る。中学校で習った「関数」の定義、覚えてますか?xに1つの値を与えると、それに対応して1つのyの値が定まるとき、yはxの「関数」である。1つの「入力」に対して、1つの「出力」、ですから、「ペイ・ガム・ベンダー・マシン」は「関数」のモデルとして機能します。
自然科学でも社会科学でも、あるひとつの「システム」が、どんな「機能」を持っているのかはっきりしないとき、何をやっているかわからない「箱」だから、ということで、これを「ブラックボックス」と呼んだりもしますが、まずはそこへの「入力」と「出力」を観測し、これを「記述」します。「記述」する、とは、とりあえず「意味」もわからず、「列挙」してみる。ということです。この作業を通じて、「入力」と「出力」の間に、何らかの「法則性」が見出されたなら、それは、この「システム」、「ブラックボックス」の内部構造を解明するための有力な資料となります。
ここまでは、何の問題もありません。たぶん。問題なのは、この「ペイ・ガム」モデルから、「コインを投入したら、ガムが出てきた」という「事実」をもって、「ガムが出てきた」という「結果」を生じさせた「原因」は「コインを投入した」ことにあるという「因果論」が、きわめてしばしば、発生してしまうことにあります。
「機械」の仕掛けを知っているなら誰にでもわかるように、「コインを入れる」ことは、「ガムが出てくる」ことの、少なくとも「単一」の原因ではありません。コインを入れるとしかるべきメカニズムが作動して、ガムを貯蔵している箱の底が少しだけ移動し、ちょうどガムが1個分通れるようになって、これが滑り落ちて、出口に現れる。ガムの供給業者が、機械のメンテナンスを行い、常に十分な量のガムが機械の中にあり、かつコインを入れればガムが滑り落ちるように機械を調整し、などなど、さまざまな「原因」が、複合して、「ガムが出てきた」という「結果」を生じさせている、当然ながら、これが、自然なあり方なのに、人間は、特に窮地に陥ると、「結果」に対する「単一」の原因を性急に求めてしまう性向があるようです。
もう一度、「関数」の定義を思い出してください。ひとつのxに対して、ひとつのyが対応することが、「関数」である条件なのであって、逆にひとつのyに対して、ひとつのxが対応するかどうかについては、この定義が沈黙を守っているということは、きわめて示唆的です。
y=3x+2
という1次関数は、上の定義に照らして疑いなく「関数」です。ここで
y=5
に対応するxは1しかないから、
y=5
という「結果」を生じさせた「原因」はxに1を入力したことだ、と断定しても差し支えありません。
でも、システムが
y=3x2+2
これも明らかに「関数」ですが、という2次関数であったとしたら、
y=5
に対応するxは1または-1なのであって、「xに1を入力したこと」をもって
「y=5」
という結果を生じさせた単一の「原因」と断定したなら、誤りを犯したことになります。
「○○なのは△△だったからだ」という「因果論」が成立する根拠は、すべてのペイ・ガム機械、すべてのブラックボックス、すべての「関数」が、「1対1対応」の関係にあるという「誤解」に存します。
「私が不幸なのは、家が貧乏だからだ」、
「うまくいかないのは、風水がよくないからだ」、
「私の性格がゆがんでいるのは、幼少期に父親の虐待を受けたからだ」、
「子供が非行に走るのは、テレビゲームをやりすぎて対人関係の作り方がわからないからだ」、
・・・・
「風水」や「幼少期トラウマ論」やテレビゲームの功罪に関する論が、くだらない、といっているのではない。それが「単一」の原因であるという主張が「イデオロギー」だ、と言っている。「イデオロギー」は通常「事物に関する虚偽の表象」などとわけのわからん定義が与えられているが、ようするにウソなんだけど、一つの集団内部で、ウソでもいいからそう解釈することで、ほかの解釈をするよりも心的ストレスが軽減されるがゆえに、集団の多数の構成員の間で共通に採用された解釈手法、とでも言おうか。
「この国がうまくいかないのは、○○人のせいだ」と言うイデオロギーが、爆発的な暴力性を発揮した例は、枚挙にいとまがない。
「因果論」が、しばしば強力なイデオロギー性を発揮するのは、私たちがいやおうなく組み込まれている「近代」と言うシステムの成り立ちと関係があるはずだ。
「近代」は、ヨーロッパという一辺境で生まれた、「産業革命」と「資本主義」に端を発する。資本主義の黎明期の担い手はカルバン派と呼ばれる「敬虔な」新教徒だった。しかし、「金をもうけて、財産を増やすこと」が「キリスト教」の理念にかなうわけがない。「高利貸し」を「賎業」とみなして、それに従事するユダヤ教徒との「差別」を自らのアイデンティティーとしてきたのだから。そこで彼らは、信仰の内容を作り変え、「努力して、お金をもうけることは、神の恩寵である」というイデオロギーを作り上げた。
「努力したから、金持ちになった」という命題が「偽」であることは、楽々証明できる。「すべての○○は××である」という「全称命題」を覆すには、ただひとつの「反例」を挙げることで十分である。ここに、努力しても金持ちになれなかった人がいる、と。
同様に、この命題の逆、「金持ちになったのは、努力したからだ」も「偽」である。努力していないのに、金持ちになった人がいるから。
それでも「努力したから金持ちになった/金持ちになったのは努力したからだ」がイデオロギーとして機能するのは、おそらく詐欺恐喝同然の方法で他人の土地を奪い、土地を失って都市に流入した人口を低賃金で酷使することで富の蓄積を果たしたはずの、彼ら資本家の「罪悪感」に伴う心的ストレスを、解除することができたからだ。「やつらは努力しなかったから金持ちになれなかった/金持ちになれなかったのは努力しなかったからだ」・・・。
こんな粗雑な議論を真似して得意になって吹聴しないでね。でも、あなたがもし、「お前の成績が上がらないのは、お前が努力していないからだ、○○君の成績が上がっているのは彼または彼女が努力しているからだ」などという、同じくらい粗雑な「イデオロギー」によって脅迫を受けているのならば、
「ふっ、そんなものは愚直な資本主義のイデオロギーの、陳腐な焼き直しに過ぎない」
などとつぶやいて見せて、相手をぎゃふんといわせるために、ぜひ使ってみてください。
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