「無限後退」と「超越確実性言明」

数学の諸定理は、「証明」の連鎖によって成り立っています。ある命題が「真」であることを証明するためには、別のある命題が「真」であることが「すでに」証明されていなければなりません。さらにその命題が「真」であることが証明されるためには、・・・こうして「無限後退」が生じます。
線分ABと線分PQの長さが等しいのは、△ABCと△PQRが合同であるからであって、△ABCと△PQRが合同であるのは、BC=QR、CA=RP、∠BCA=∠QRP(2辺挟角相等)であるからであって、2辺挟角相等ならば2個の三角形が合同であるといえるのは、・・・・。
こうして「ユークリッド幾何学」は、「後退」の無限連鎖を断ち切るために、「もうこれ以上後退できない地点」として、有限個の「定義・公理・公準」を定めたのです。
これらの「定義・公理・公準」は証明なしに用いることができます。つまり、そこには、なんらの「根拠」がないのです。

「お空は何で青いの?」とか何とか、子供の「無邪気な」好奇心につられて、おかあさんは次々と「無限後退」する質問につき合わされます。でも忙しいお母さんは、どこかでキレてしまう。「うるさいわね!青いものは青いのよ!」
こうして「無限後退」の末にたどり着いた、「証明されえぬもの」、「無根拠」、「無理由的」に存在するもののことを、ヴィトゲンシュタインは「超越確実性言明」と呼びました。私はヴィトゲンシュタインを3ページも読んでいませんから、これは聞き書きです。
「私が私であるのはなぜか?」という問いはいくら考えても答えが出ません。そこには「根拠」も「理由」もないからです。私たちは、「根拠」も「理由」をなく、ただそこに放り出されたように生きているのです。

私たちはしばしば「目的」ということを問題にします。「よい大学に入るために勉強する」、「成績が上がるために勉強する」、「楽な人生を送るために、よい大学に入る」などなど。
では、この「目的」ということを、上と同じ「無限後退」マシーンにかけてみると、不思議なことが起こりませんか?
私たちの人生は人によってさまざまに違うのだけど、ただひとつ誰にでもはっきりしている最終的な「結果」は誰でも一度は?「死ぬ」ということです。
あらゆる生命体の染色体の末端には「テロメア」と呼ばれる情報的には無意味な部分がぶら下がっていて、細胞分裂のたびにこれが振り切れて少しずつ短くなっていくんだそうです。そしてテロメアがなくなってしまうと細胞は分裂をやめる。つまり細胞分裂の「回数券」なんです。細胞分裂が終了すると、その組織なり生命体なりは新陳代謝をやめ、「死」を迎えます。私たちの身体は、ちゃんと「死」をプログラムしたシステムなんです。

では私たちは「死ぬために生きているのか?」はたまた「死なないように生きているのか?」この問いにも答えることができません。生きている私たち、生きている身体を根拠としている私たちの「意識」が、原理的に「死」の意味を知ることができないからです。人間は、「死」を観念することができないから、それを「漠然とした不安」として取り込んだ、とキュルケゴールは言ったそうです。私はキュルケゴールも5ページぐらいしか読んでないけれど、これはおそらく倫理の教科書にでも載っている有名な言葉だと思います。

たとえば私が、死んだ子猫の背中をいつまでもなでていなければ不安で不安でしょうがないのは、いつまでなでていても、子猫の背中は「死」の意味を教えてくれないからなんだ、と、これはもちろんキュルケゴールじゃない、何かの本で読みました。
いつまでたっても「死」の意味がわからない私たちは、それをとりあえず思念から追放し、代わりに「不安」を取り込んだ、というわけです。
「死」を追放することで初めて、、私たちは、「死なない」私たちは、「人生の目的」を大威張りで語り始めることができたんです。 どこまでも成長する身体、どこまでも幸せになる私、どこまでも増え続ける賃金、どこまでも成長する経済、これらの「単調増加関数」のような陳腐な成長モデルを生み出したのも「資本主義」イデオロギーなんだってことは、もう言わなくてもいいですね。
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