「勉強」の「チ・カ・ラ」
「行為」を「目的」に従属させるのを、やめましょう。未来における「目的」の達成度から、現在の「行為」が評価されるのだとしたら、私たちは、身動きが取れなくなってしまいます。こうゆうのを「時間」の「絶対的不遡及性」といいます。
私たちは、常に「現時点」で、ある行為を行うことが「正しい」か「正しくない」かを判断し、その判断に基づいて行為を「選び取って」いるはずです。もしその判断が、どんなに短くてもいい冲秒後の「未来」における、その行為の「結果」を見た上での「正しかった・正しくなかった」判断にゆだねられるのだとしたら、私たちは「現時点」においては「正しさ」の判断について何もなしえないことになります。これは、冲という「時間」の微小区間について、先に述べた「無限後退」マシーンを作動させてみた結果なのですが、数学における「微分」の観念に酷似していることにお気づきでしょうか?
ある関数がxにおいて、「増加」しているか「減少」しているかは、xにおける「微分係数」、すなわち「導関数」が決定しますが、以下の定義に見るように、
xにおける導関数の「瞬間値」を見るためにも、実はこっそり、(x+dx)における関数値を参照していることがわかります。つまり、ほかならぬ「今」増加しているか減少しているかの判断が、どんなに微小であっても決して今ではない、dt秒後の状態を参照することでしか決定し得ないことを表しているのです。簡単に言えば、「なぜ、増加しているといえるのか?それは、増加したからだ。なぜ、減少しているといえるのか?それは、減少したからだ」、こうゆうのを「同義反復・トートロジー」といいます。
たぶん、私たちは「死」を思念から追放したのと引き換えに、この時間に関する絶望的な「トートロジー」の牢獄に閉じ込められてしまったのでしょう。
- 私たちは、「現在」における「正しい/正しくない」の判断を、「未来」における「正しかった/正しくなかった」の判断を参照することなく、行うことができない。
- だとすれば、私たちの、「現在」における「正しい/正しくない」の判断は、何の「根拠」もなく、何の「理由」もなく、なんらの「証明」も要せず、すなわち「超越確実性言明」として存在せざるを得ない。
「行為」を「目的」に従属させるのを、やめましょう。ヨリ、正確に言うのならば、「行為」を「目的」に従属させること自体が、不可能なんです。
「大学に合格するために勉強する」という「トートロジーの牢獄」から、ドロップアウトするという魅力的なオプションもあります。ただ、あなたにそんな派手な演出をする勇気がないのならば、この愚直なシステムに信頼を寄せているかのような振りをしていればよろしい。
「勉強」には、いかなる「目的」も「根拠」も「理由」もありません。「有用性」すらありません。2次関数の最小値が、しかるべき定義域の中でどこで発生するかなどという問題が、実生活上であれ、科学技術上であれ、何かの「役に立つ」可能性を、私は想像することができません。
もう十何年も前になるから、それがレバノンだったのかボスニアだったのかすら思い出せないんだけど、難民キャンプの子供たちが、爆破されたビルの石組の上で、空爆の合間に「宿題」をしているという写真を見たことがある。
「平和の願い」とか「人類のおろかさ」とか「子供たちの純粋さ」とか、いくらでもタイトルはつけられるのだけど、その写真が、何か気がかりなものとして、記憶に残っていたのはたぶんこういうことだと思う。「この子達に比べたらあんたたちは幸せなんだから・・・」などという愚鈍な説話を述べるために引用しているのではもちろんない。
この子はとっても怖かったんだ。「お母さん、怖いよ!」「大丈夫、お母さんがついてるから!それより、あんた、宿題あるんでしょ!」
明日の空爆で、家が吹き飛ばされるかもしれない。この子自身が死んでしまうかもしれない。お母さんが死んでしまうかもしれない。学校が吹き飛ばされてしまうかもしれない。
それでもこの子が「宿題」に取り組むことができたのだとしたら、それは、掛け算や足し算や方程式や、つづり字の練習といった「勉強」が、なんらの「目的」にも「有用性」にも拘束されない行為だったからだ。「勉強」の「無理由性」が、この子につかの間の救済を与え、この子が生き延びるための「力」となった。
これが「勉強」の「力」なんだ、と、唐突に思ったんだ。
で、結論は?結論は、ない、もしくは、はじめから出ている。
Q.E.D(かくして、命題は、証明された)
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