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マクア、母なる大地と父なる空の出会うところ

マクア渓谷の文化略史
マリオン・ケリー、ナンシー・アレック
アメリカの友奉仕委員会・ハワイ地域プログラム
1997年12月


マクア軍保留地入口


南太平洋からポリネシア人がカヌーを操って最初にこの島に到着したのは2千年ほど前だった。彼らは「カ・パエ・アイナ」と呼ばれるこのハワイ諸島に、彼らの祖先が何世紀にもわたって太平洋上のさまざまな小島で生き延びることで身につけてきた知恵をもたらした。最初のカナカ・マオリ(ハワイ人、字義通りの意味は「真の人間」)たちはすでに天然資源を保存するためのルールを知っていた。彼らのまわりの限られた土地と限られた海から、必要なものをすべて作り出すすべを知っていたのだ。彼らはまた島の環境の繊細さについての理解をもたらした。彼らの文化、日常生活、信仰システムには、島の資源を自分たちと子孫のために残す必要性に対する彼らの認識が反映されている。
カナカ・マオリの文化は、土地と海、そして土地と海にあるものすべては人々がそれを利用し、享受するために神によって作られたものだという信仰に根差している。カナカ・マオリはその神々から与えられた資源を、慈しみ、それらが生産的な状態になるような条件を整えることによって、受入れているのだ。彼らは、彼らと神々、そして環境とに調和を保つことに自らの生活をささげている。
カナカ・マオリの農民や漁民は日常生活のあらゆる局面において、関心と警戒を怠らない。自らの環境に対する精緻な観察を行いながら、彼らは自らが見たものを、行為の規範として組み立てていくのだ。
それは、将来の世代のために、自然を破壊せずに生き延びるために必要な規範なのだ。
降雨や新鮮な水源が比較的乏しいマクアの様な渓谷にあっては、うまく成功した方法についての知識を保存することは不可欠である。「ヘイアウ」と呼ばれる寺院や「コーア」と呼ばれる漁民の神殿が残されていることからも、これらの行動に深い関心が払われていたことがうかがわれる。
1700年代に市場経済が西洋の貿易商人によってハワイにもたらされ、1800年代の中頃に土地制度が変更されたことによって、商業的な価値観がカナカ・マオリ社会の価値体系の中にも入り込んできた。
ハワイ人の基本的な行為は、土地や海を利用してすべての住民がその必要を充たすということを根幹としてきた。それが土地の天然資源を、土地所有者が可能な限り多くの利益を上げるように使用するというものにとって代わられてきたのだ。
一世紀後、軍事利用および占領がマクアに更なる打撃を与えた。それは自然環境を破壊し、土地をその本来の居住者から更に疎外した。

前植民地期のマクア

ワイアナエ地方のモーオレオと呼ばれる口承歴史によると、ケアアウからカエナを経てカワイハパイに至る海岸線はワヒ・パナと呼ばれる聖地であった。カナカ・マオリがアイナ(土地)から作られたのはここであった。精霊がポーと呼ばれる精霊の領域へと「レイナ・ア・カウハネ(魂の跳躍)」によって帰ってゆくのもここにおいてであった。マクアとは両親を意味する。「パパ(母なる大地)」と「ワケア(空なる父)」の出会うところである。
カネアナ洞窟には鮫男が住んでいた。彼の愛人が美しい女性に変身出来る「モー(守護たるとかげ)」である。二人はせせらぎが海へと流れ込むところ、洞窟の麓にある岩(ポハク・クライライ)で出会った。
洞窟と、いつしかせせらぎも、「カプ」と呼ばれる聖地ないしは禁断の場所となった。おそらくヘイアウとコーアが近くにあるのだろう。
多くの神話がマクアと結びついているが、古い時代のことははっきりとはわからない。多くのコーアが林立する(そのうちの一つは1930年代まで健在だった)マクア・ビーチは、漁民の村だったかもしれない。
マクア・ビーチの沖合の海はかつてはたくさんの種類の魚、貝、リムと呼ばれる海藻が豊かに取れる海であった。浜辺はワイアナエとワイアルアの間の旅行者がカヌーを上陸させる重要な場所であった。
一時は渓谷の中に少なくとも5個所の湧き水があった。渓谷の麓の地域では農業が行われていた。少なくとも3個所の大きなヘイアウ(寺院)が知られている。農業に関わる大きなヘイアウ、ムアクオピオ、そして埋葬の儀式の際に用いられたカーヒリ、ウカニポである。古代において渓谷はまた、ルアと呼ばれるハワイ式武道に優れた人々が多くいたことでも知られていた。
宣教師たちの手になる古い統計によれば、ワイアナエ地域全体でたった一桁の数の人しか住んでいなかった。これは二つの分水嶺に挟まれた、山頂から海に至る地域を表すアフアプアという伝統的な土地区分を基準としているものとは異なる。マクア地域の人口は、植民地期以前にはおそらく300ないし400であったとおもわれる。
(牧師のジョン・エマーソンの息子の)エマーソンの記したワイアナエは海岸の埃っぽい道路から見た渓谷の情景である。別の角度から見ると、そこは深く広い緑の渓谷である。かつて「カロ(タロイモ)」と「ウアラ(サツマイモ)」を産出した無限に広がる段丘である。1820年代から1830年代にかけて、外国人が新たな病気を持ち込んだ。その結果カナカ・マオリの人口は急激に減少し、段丘地帯はもはや耕作 されなくなった。
植物学者達は20世紀を通じてマクア渓谷の上部はオアフ島全体でも最も多くの絶滅に瀕した植物種に恵まれた地域であると考えてきた。マクアは「マイレ・ラウリ」で知られている。海岸に沿って歩くだけで、その小さな葉の「マイレ」の香りを感じることができると言われていた。
1848年のマヘレ(カメハメハ3世治下の土地改革か?)ではカナカ・マオリは「オハナ」と呼ばれる家族的単位の土地所有のためには請求を行わなければならないことになった。マクアにおいては最終的におよそ200エーカーがハワイ人の土地としてみとめられた。マクア渓谷はよく開墾されていたとおもわれる。なぜならクレアナと呼ばれる土地所有の請求者はその要件として、当該土地が家族全体を養うに足る作物を産出することが求められたからだ。
マクア渓谷は1848年のカメハメハ3世のマヘレによって、国有地とされた。そして1850年代にはマクア渓谷全体で16のクレアナが認められた。残りは国有地のままで、政府によってカナカ・マオリでない牧場経営者に賃貸された。

マクアの民間による占領の時代

1860年代以降、マクアでの牧場経営に関与していた2つのよく知られた西洋人の家族がある。サミュエル・アンドリュースは判事ローリン・アンドリュースの息子である。父の後を継いで宣教師になる代わりに、サミュエル・アンドリュースは牧場経営者になる道を選んだ。彼はカナカ・マオリの人達と一緒に住んだり働いたりすることが居心地が良かったようだ。アンドリュースはハワイ島のワイメア出身の妻マラエア・ナイウィとともに家族を持った。彼のほとんどの子供達は母の姓を名乗った。アンドリュースはナイウィが無くなる1897年までマクアに住んだ。そのすぐあと、アンドリュースはその借地権を、マクア渓谷で彼が取得したクレアナとしての権利も含めて、リンカーン・マカンドレスに売却した。マカンドレスはオアフ全島のみならずマクア渓谷おいても大地主となったのだ。「コマーシャル・アドバタイザー」紙 (1908/10/20)は彼のことを「土地をつなぐ貴族」と呼び、先住民からクレアナを取得することを得意としていることを指摘としている。
渓谷に残っていたカナカ・マオリの家族にとって、牧場に囲まれながらここで暮らしていくことはますます困難になってきた。やむなく彼らは、海岸地帯に移住する。もともとサツマイモが基本的な産品であって、「カロ」は新鮮な泉のそばで栽培されていた。1975年のインタヴューで人々は、渓谷の麓の一帯ではキュウリ、スイカ、カボチャ、サツマイモ、メン、タバコ、トウモロコシなどが収穫されたことを記憶していた。
降雨は少なかったが、風車でくみ上げられる井戸が少し塩気のある水を供給してくれた。塩水の池は年間を通じて存在しており、住民に若干の食用の魚を提供した。

パニオロの日々

ハワイ人やその他の土地の若者達は十代の前半から、マカンドレスの牧場でカウボーイとして働きはじめた。マクアの森で牛にロープをかける仕事は高度の技術を要し、技能を獲得出来た者は限られていた。牛だけではなく、何百もの豚がマクア牧場では飼育されていた。いのししがしばしば牧場のかいば桶を襲い、カウボーイに捕まえられた。
今日でも、マクアの森では豚とやぎが荒らしまわった跡が歴然と残っている。地表を覆う草は食べ尽くされ、土壌の流出でいくつかの種が絶滅し、元来の植物は食べ尽くされたかまたは新来の植物に圧倒された。
1947年以前にマクアに住んでいた人々は、列車の往来や、今ではほとんどすべて取り払われてしまった信号機を生き生きと記憶している。50年近くにわたって鉄道はマクアの主要な交通手段であった。
新聞や日用品や人々を運んでくるのも、牛や剰余産物や魚をワイアナエやエウァ、ホノルルの市場に運んでいくのも鉄道であった。1900年代の初頭にマクア渓谷に住んでいた日本人のほとんどは、もともと鉄道建設の労働者としてやってきて、保線区の宿舎に住んでいた人達だ。一日一ドルの賃金で、彼らは線路を建設し補修した。
一年に少なくとも一度、ワイアルアやワイアナエの教会の人達がマクア教会の土曜の夜の演奏会や翌朝の礼拝のためにやってきた。
1860年に牧師が教区民の踊りについて不満を述べているものが、マクア教会に関する最初の記述である。彼はこれをやめさせたがったが、人々は抵抗した。マクア教会はハワイ・プロテスタント組合教会のメンバーであったが、他のほとんどの教会がユナイテッド・チャーチ・カウンシルに加盟した後も比較的独立性を維持していた。教会は第二次世界大戦の間に軍によって破壊されたが、教区は墓地を維持していたし、徐々に土地も取り戻していった。

マクアの軍事占領期

合衆国軍隊がマクア渓谷を使用しはじめるのは、榴弾砲陣地を渓谷の上部に建設するために3区画の土地を取得した1920年代にさかのぼる。土地収用の裁判手続き、接収の布告、または売却がはじまった。新聞に掲載された公告は、所有権を有するものはその権原を主張するために裁判所に出頭するよう要求している。接収された土地に対してL.L.マカンドレスをただ一人の例外として、だれ一人補償の支払を受けたものはいない。1930年代に軍は水陸両用車量の上陸訓練にマクアを初めて使用 した。

太平洋における戦争の時期

1941年のパール・ハーバー爆撃の後、合衆国陸軍はマクアからカエナ岬に至る全地域を警戒および演習の目的で接収した。この時期ワイアナエ海岸地域にはおよそ3000人が住んでいた。第二次世界大戦は渓谷の土地利用を一変してしまった。比較的平和な牧場地帯をあわただしい駐屯地に変えたのだ。残っていたクレアナをもつ住民や、鉄道労働者、マカンドレス牧場の人々は渓谷からの退去を命じられた。建物は射撃訓練によって破壊され、柵は引き倒され、水路は切断され、魚取りの入江は爆撃 され、飲み水用の井戸は廃油処分場にされた。
1943年までにマクアは主に榴弾砲基地と野営地として使用された。陸海軍合同の新式の軍事演習が行われた。海軍の航空機は渓谷を爆撃し、戦艦は海上から砲弾を撃ち込み、兵員は水陸両用車量で上陸した。家々や教会、教会のホールの屋根には白いペンキで十字が描かれ、それを目標に爆撃が行われた。マクア墓地の墓石までもが、実弾射撃演習で破壊された。オアフ駐留軍の兵員数は40万人に登り、その多くはマクア渓谷のテント村で生活していた。
1943年のハワイ準州の許可状によれば、軍による同地域の使用は、「現下の戦争(第二次世界大戦)の継続期間並びにその後の6ヶ月」に限られるとしている。この「取り消し可能な許可状200」はまた、軍当局は同地域の放棄後ただちに「すべての軍の所有物を撤去し、公有地委員の条件にしたがって不動産を返還する」ことに合意している。
1945年8月太平洋における第二次世界大戦は終結した。同年11月にはすでにハワイ準州の知事ステインバックはマクアの返還を求めている。「これらの土地が公衆にふたたび利用出来るようになり、恒久的にその自由使用が妨げられる事態とならないように強く願う」と彼は合衆国戦争省にあてた書状で述べている。彼の要求は拒絶された。陸軍は今日に至るまでマクアを恒久的な演習場として確保しようと考えている。
1959年の「州地位認可法」は軍事目的のための土地の留保を、連邦政府に認めている。1964年のジョンソン大統領の行政命令によりマクア渓谷の内陸部が「マクア軍事保留地」とされたのも、渓谷の低地が陸軍に65年期限で賃貸されたのも、この法律が根拠となっている。ちなみにこの賃貸借契約で陸軍の支払う賃料は1ドルである。海岸地域は州の公的委託地として連邦政府から州に対して、演習によって危険が存在しない限り、公衆の立ち入り及び利用が認められた。

マクアにおける戦争

マクアにおける軍事行動は、今日まで続いている。ワイアナエ海岸地域の人口は4万人に増大している。陸軍はマクア渓谷のおよそ4、200エーカーの土地を占有し、75%の時間にわたってそこを使用している。演習行動には、地上訓練、水陸両用上陸訓練、艦船および航空機からの爆撃、迫撃砲・大砲発射、マスタード・ガスおよびナパームの使用が含まれる。さらにオアフ全島の未使用弾薬その他廃棄物のの屋外における焼却および爆発(OBOD)も含まれている。爆撃や実弾演習による火災により文化財は破壊され、森林は焼かれ、この渓谷にしか生息しない希少な動植物に危害が加えられた。鉛などのさまざまなガン誘引性の毒物が大気や土壌、水脈に混入された。
1955年に陸軍は、マクア渓谷は汚染がひどすぎるために、返還は現実的ではないと述べた。しかし、軍は環境を破壊し続けることを止めたわけではない。1977年にふたたび軍は、マクアの不発弾処理にいかに費用がかかるかを指摘した。ワイアナエ・ハワイ伝統文化センターのピーター・アポ氏はこれに答えてこう述べている。「マクア渓谷の環境を取り戻すのにたとえ100年かかろうとも、爆撃を継続するよりも今すぐに回復に取りかかることの方がよほど理にかなっている。」しかし、陸軍は固執した。1988年に彼らは「マクア軍事保留地の不発弾処理は、時間的にも経済的にも実効不可能である」と記している。
1992年11月、使用済み弾薬の屋外における焼却および爆発(OBOD)を恒久的に行う許可を環境保護庁(EPA)に申請した。大衆的な抗議の末、その要求は取り下げられた。しかし、マクアにおいて実施されるOBODの95%は、「演習」に分類され従ってEPAの規制の適用除外となっている。この種の「演習」は今日に至るまで継続され、公的な規制の対象となっていない。
射爆場はすべての爆発物が処理されてから返還されるというのが、国防省の方針である。演習および焼却が継続すれば、最終的にはマクア渓谷はもはやだれ一人その土地を安全に使用出来ない場所となってしまい、浄化は不可能なものとなるだろう。これはワイカネ渓谷で実際に起こったことなのだ。軍はそこでカマカの家族から土地を賃借し実弾射撃演習場を作った。使い尽くしたところで海兵隊は契約上の規定に反して浄化作業を一切行わなかった。その代わりに海兵隊は、カマカの土地はもはや人間の使用には危険すぎ、浄化には費用がかかりすぎると主張したのだ。接収された土地はカマカの家族を含むすべての公衆に対して、永久に立ち入り禁止とされたのだ!

文化をめぐる戦争


マクア・ビーチ


希少な絶滅に瀕した動植物がマクアの中で懸命に生き延びようとしている。同様に人間も。土地との結合こそがハワイ文化の基幹をなす。しかし、マクアへの立ち入りは制限され、軍による厳しい規制の下に置かれている。マクアの恵みと美しさに引かれて多くのハワイ人が、シンプルだが伝統的な生活様式を求めてここに集まってくる。渓谷の上部で継続される実弾射撃演習にもかかわらず、マクア・ビーチに安らぎの場所を見出す人は絶えない。カナカ・マオリは魚を捕り、塩を集め、子どもたちに伝統文化を伝えるためにマクアを訪れる。これらの行為は、「オハナ」(家族・共同社会)のために何千年にもわたって培われてきたカナカ・マオリの文化的・宗教的な生活のあり方の表現なのだ。今日、政府はそのような家族を「不法占拠者」と名づける。20年以上にわたって、これらの人々は退去を強要され続けてきた。
1965年にある映画会社が「ハワイ」という映画の撮影のために、マクア・ビーチでの撮影の許可を得た。映画会社の便宜のために州は「不法占拠者」を除去するよう警察に要請した。
さらに、1969年には州公園課はマクア渓谷、マクア・ケアウ、モクレイア、クア・オカラ森林保留地、ピーコック湿地保護地区を含む地域に、マクア・カエナ岬州立公園を作る計画に着手した。陸軍はまたしてもマクアの土地を手放すことを承認しなかった。
本報告の原形となった1977年の調査の時期には、マクアの海岸に52の住居があった。その年、最初の抗議行動が行われた。カナカ・マオリと支援者200人が、マクアを人民に返還することを求めて、鍵のかけられた陸軍のゲートに旗を掲げた。
1982年のハリケーン・イウァでマクア・ビーチのおよそ40人の住居が壊れてしまったとき、州は警察と警察犬、工作機械を導入して、これらの人々が住居を再建するのを妨害した。「コクア・マクア・オハナ」が結成され、1983年の1月には6人の人が「政府行為を妨害した」かどで逮捕された。彼ら「マクアの6人」は、土地はハワイ民族の所有に帰するものであり従って彼らは自らの生存と文化と宗教に関わる伝統的及び慣習的行為を実践する権利を有することを主張した。マクア住民を支持して数百人が集まった。
1995年秋には300人ほどの人々がマクア・ビーチに住んでいた。その中には何年にもわたって住み続けている人もいる。ほとんどの人はそこに癒しの場所、「ア・プーホヌア」を見出したのだ。1996年6月18日、州当局はマクア・ビーチの家族を強制退去させ、16人が逮捕された。ブルドーザーで住居は撤去された。報道機関は立ち入れず、撤去の報道は禁止された。1983年以来3回目の撤去であった。
マクアにおける伝統的行為の実践を禁圧しようとするたびかさなる試みにもかかわらず、カナカ・マオリは彼らの文化的権利の行使を継続した。1997年7月12日、マクア・ビーチには一万人近くの人々がシンガー・ソングライターのイスラエル・カマカウィウォーレを追悼し、彼の灰を海に撒くために集まった。
2日後海兵隊は700人近いカリフォルニア所属の兵員を、その同じ海から海岸を横切りマクア渓谷での演習に参加させるために上陸させる計画を発表した。地域の強力な反対でこの9月の演習は中止されたが、海兵隊は依然として、年2回水陸両用上陸演習をマクアで実施する意思を表明している。
50年以上にわたる実戦演習において、しかしマクアの伝統的生活習慣に対する戦争行為は、決して「演習」ではありえなかった。合衆国軍隊が本物の戦争を遂行している世界各地では、軍は戦闘行為が終結した後は土地を人民に返還し、その回復を助けているというのに、ここ「ハワイ人の土地」においては、それは行われたことがない。
マクア渓谷の軍事占領、海岸の使用、聖地と希少種の生息域の破壊、マクア・ビーチからの人々の退去強制、これらすべては「アイナ」(土地、およびそれと結合した人民)を傷つけ、ゆっくりと文化を絞殺している。これは文化的ジェノサイドの一形態である。文化を実践する方途が否定されれば、文化自体が死滅するのだから。
1997年8月、カナカ・マオリの2つの文化的建造物がマクアにおいて回復された。「パパ・ホヌア(大地の礎)」と命名されたパエパエ(礎石)とカナロア(海の神)にささげるクアフ(祭壇)のためにポハク(石)が集められた。ポハクの忍耐力、建設にこめられた「アロハ」の心が、そしてこれらの場所をめでる地域の持続するマラマが、土地に生きるたましいと、その解放への欲望を表現している。
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