それは、ともかく、桜の花も咲き始めました。
阪急電車の車内広告は、地震直後の、「神戸線の不通によりたいへんご迷惑をおかけいたしております。復旧に向け、全社一丸となって・・・」といった、電車が止まったのは別に阪急のせいでもあるまいし、どうしてこんなに謝るんだろうという卑屈な論調に代わって、こんなのがかかっています。
「ご迷惑をおかけしています。
神戸・南京街からなつかしい声が聞こえてきました。
街角から元気な顔が生まれています。
決して忘れられない体験です。
それでも、前を見つめて歩きはじめる皆様に、
私たちも勇気づけられています。
私たちも頑張ります。
花が、咲きはじめました。」
高槻からの帰り道、通勤特急の中で、こんなあまっちょろいメッセージにさえ、涙を流してしまうほど、今の私は、あまっちょろいのです。
4月1日、JR東海道線は全線開通しました。阪神・阪急を出し抜いて、功を焦る拙速とも思えます。でも、暗闇の中から、近づいて来る一番電車のライトが見えたとき、子供のように胸が高鳴ったという、六甲道駅長の談話に、偽りはないでしょう。
4月にみる桜の花が、かくも美しいのは、3月までの別れが余りにも悲しいからではないでしょうか。
「故郷」の負った苦しみを、分け持たなかったやましさから、神戸の焼け跡を「オロオロ歩き」回りました。もっとも、私は、宮沢賢治が充分に有能な農業技術者であったほどには、有能な引っ越し職人やプレハブ建築技師ではありませんでしたが。
* * *
やみくもに神戸を歩き回った2か月の後、北京を訪れることができたのは、偶然とはいえ、「幸い」ではなかったかと思います。マグニチュード7・2の後にさえ、人々が、断固として生き続け、あまつさえ、訪れるものに勇気を与え得るという事実は、「都市」というものに対する、私の感覚を、根底から変革せずにはいませんでした。
* * *
圧倒的な苦痛の経験を共有することを通じて、人々が「連帯」を取り戻した都市を見ました。でも、こんなことが、いつまでも続くわけではありません。まもなく、人々は、「正当」な悪意と憎悪を取り戻すでしょう。それに、困難を与えられなければ人々は連帯せず、変革もしないのだという議論に組したいとは思いません。5、000人をこえる人々は、やはり死なない方が良かったに決まっているのですから。
そして、隙あらば盗み、ふっかけ、だまし、値切る、まことに「正当」にして健全な悪意に満ちた都市を見ました。
ユートピアと「現実」なるものを、「対比」するつもりなど、毛頭ありません。むしろ、私は、ふたつの都市にはっきりと通底するものを確認できたと感じています。
* * *
いま、カセットプレーヤーから聞こえてくる、中国のポップスたちは、どれもどこかで聞いたことのあるような、なつかしいサウンドを持っています。
いかなるオリジナリティーにも、「正統」性にも依拠せず、ありあわせの材料で、「未来」を創り出す、いいたければ「第三世界」的なブリコラージュの力強さを、感じています。
私たちもまた、ありあわせの材料で、ありあわせの「未来」をつくるでしょう。
* * *
ともあれ、花が、咲き始めました。
今年こそは、アスファルトにひび割れの走った夙川の桜並木を見に行こうと思っています。
4月11日、私は、およそ2週間ぶりに、神戸に向かいました。1月29日、「まだ死んでいない人の傍らに立とう」と、初めて被災地に出かけることを決意して以来、こんなに長く間をあけたのは初めてです。正直言って気持ちは進みませんでした。ピースボートをはじめとするボランティア団体の撤退後、それらの動きと軌を一にして、「収拾」に向かう動きに対して、そうではないといういわばアリバイのためだけだったふしもあります。
すでに神戸まで開通したJRの車窓から、西宮の町がみえはじめたとき、それでもしらずしらずのうちに、1月17日の出来事が、そして、その後の様々の出来事が、もはや過去のものであるかのように、自分の中で「整理」されたもののように感じていた自分を、深く恥じました。
震災直後、30万人と言われた避難所生活者は、今では、数万に減ったといわれています。しかし、強調すべきは、「減った」ことではなく、いまなお芦屋市の全人口にも匹敵する人々が、「まだ」避難所にいる、しかも現在まで残ったこれらの人々は、本当に他に行くところのない人々なのだということです。
確かに、倒壊した建物の多くは解体され、整地された場所もめだちます。だが、それ故に、ここかしこのテントがかえってめだちます。
朝9時の長楽公園、今日は、第13次の雇用保険の集団申請に、元町にある職業安定所にここから出発することになっています。ちょうど、2月22日に初めて長田に来たときと同様、たまたま土曜日にオルグにやってきたSさんにお願いして、集団申請を「見学」させてもらうことにしたわけです。
長田に於ける「労働相談所」の「権威」は既に、不動のものであって、毎日避難所等で噂を聞きつけて、相談にやってくる人は、通常の雇用形態の労働者であるよりは、扶養控除のため一様に月8万、年96万で税金の申告をしている、「家内」営業であったり、水商売関係、これまた、税金関係で、過小申告をしているケミカル・シューズ関係の下請けなどがめだち始めています。よくない言い方だが、行政側も、雇用保険の給付の枠をかなり広げて、申請にあたっても、組合の集団申請用に特別に会議室を用意したりして、このような通常の雇用保険の枠からはみ出るケースにも、かなり給付を認めるようになってきていることから、申請者の方にも、2月頃にみられたような緊張感はすでになく、組合が、あたかも申請代行「業者」のごとき感を呈していることも、否めません。
しかし、これほどの数の、「未組織労働者」に出会い、その要求に直面するのは、まだまだ、地味な「労働運動」にはずぶの素人に過ぎない、「親左翼」労働運動にとっては、貴重な経験なのだといった趣旨のことを、今日私の面倒を見てくれる活動家は、言っていました。
40年間、パチンコ屋で釘師をやっていたという人のものわかりの悪い要求や、20年ばかり焼肉屋でパートをしていたおばあさんの、要領を得ない話に、少しいらいらしながらも、根気よくつきあっていた彼は、春日野道に住んでいたそうで、職安から、長田区役所前の新しい「相談所」に向かう道すがら、1月17日の経験について、私が尋ねたわけでもないのに、詳しく話してくれました。
火災現場にたたずむ人々の放心、2日ぐらいたった後の灘の町では、本当に近くのビルから死臭が漂ったこと、そこに人が埋まっていることが分かっていながら、どうすることもできなかった無念さ、そして、実際に明日の水や食料を得るために助け合わずには生きて行けない人々の間に生まれた「連帯感」について、少し恥ずかしそうに「プロレタリア独裁」なる言葉も交えて。
長田区役所前のテントで始められた、新たな「労働相談所」では、この人とSさんを含めて4人の相談員が、対応に当たります。り災証明や、健康保険料の減額措置等、区役所には、ひっきりなしに人が訪れます。そのせいで、今はここの相談所がいちばんにぎわっているようです。
2時間ばかり、区役所の正面で、一人でビラまきをしました。相変わらず、ヒラのはけは信じられないくらいにいい。私の感覚では、95パーセントという感じです。自分に直接関係なくても、「ありがとう」といってビラをとる人が多い、こんなことは、77年の京大でも、78年の千葉でも経験したことがありません。
その後は、じゃまを承知で、労働相談のお手伝いをします。今日のクライアントは、圧倒的に水商売、店がつぶれ、または営業できなくなって、仕事がなくなったアルバイト・ホステスが多い。三宮の高級スナックの時給3、000円から、長田の「地元」スナックの時給1、500円まで、いろいろ。論点は、過去12か月内に14日以上働いた月が6か月以上あるかどうか。直近一年の年収が90万を越えているかどうか、「時々しか行ってなかったから」といった人の場合、多少のごまかしは必要、問題は、雇用者たるママさんが、その書類にはんこをくれるかどうか。
あと、ケミカルの下請け関係で、主婦がいわば内職のような形でやっているミシン工、実際は、年収が1千万ほどあるにも関わらず、税金の関係で、過小申告している人々。職安での申請が、税務署に行かないかどうかが、心配の種。
むろんこんな話を、私自身が処理した訳ではありません。横に座って、合いの手を入れたりしているだけなのですが。
駒栄南公園から、ベトナム人の被災者もやってきました。御蔵通りで「茶館」を経営していたという80年入国の定住難民、同国人の友達を2人、従業員として雇っていたので、失業保険をもらえないかと、その友達をともなってやってきたのですが、姫路にあるインドシナ難民定住センターに電話で通訳を依頼したところ、その人たちを知っているが、「雇用」の事実は疑わしいとのこと。労働許可の点では、定住難民であるから問題はないが、ここでうかつに、雇用保険の申請をして、「虚偽申告」「不正受給」となれば、強制送還も有り得る。ちょっと、労働相談所の手には負えないのではないか。「入管」の壁が立ちはだかる。
私自身は、そんなデリケートな話は分からないから、ともかく、日本語が少しは分かるが、漢字は書けないという彼女らに頼まれて、「サニーちゃん基金」(あるNGOが被災外国人のために行なっている低金利貸付)の申し込み書の代書などをしました。生まれて初めて、「外国人登録証」と言うものを実際にみせてもらったりしながら。
思えば、ベトナム人の被災者が、避難所の中学校を「追い出され」、駒栄南公園に集まっているという新聞記事を読み、車で実家に行った帰り、真っ暗なガスタンクのそびえ立つ横に広がるその公園に、恐る恐る、初めて降り立った2月16日の夜、私は、どんな方法でもいい、ともかく長田に来ることを決意したのでした。
神戸が私を必要としているかどうかは、分かりません。少なくとも、私は「まだ」神戸を必要としています。
相談所は、5時までですが、今日は最後のお客さんが帰ったのは5時半。もう日はずいぶん長くなってきたので、まだ明るいですが、片付けを少し手伝い、私もおいとまです。
「これからの長田を考える会」と看板をつけ換えた元ピースボート本部の横を過ぎ、大橋中学のグランドの脇を通ります。グランドのテントの数も減ってきました。Yさんのテントは見あたりません。仮設が当たったのだろうか、それともどこか引っ越せる場所が見つかったのだろうか。前にもらった葉書には、ポケベルの番号が書いてあったが、まだかけてみていません。
新長田駅の線路脇には、何事もなかったかのように桜が咲き誇っています。あっという間に葉桜になりそうな勢い。この調子では、夙川の桜も、今朝電車の窓からちらりと見た限りになってしまいそう。
大丸新長田店の地下食料品街はとてもにぎわっていました。てんぷら盛り合わせ、さわらのたたき、筑前煮、サッポロビールの新製品「生粋」2本など。
何度も神戸に来ていながら、三宮から加納町の通り、フラワー・ロード(?)、を歩くのは震災後初めてです。解体中のビルや、もう既に更地になってしまったビルなど、激しく様変わりはしているけれど、やはり懐かしいなじみの町であることには変わりありません。通りのここかしこには、歩道にテントを張って、焼鳥、中華料理などの店が出ています。文字どおりの「屋台村」です。
こんなところが、4月11日の報告です。
神戸の様子を、見てもらいたいと、前から思っていました。別に壊れた家や、傾いた電柱や、焼け跡を見て欲しかったわけではありません。ビルの窓に張り出された「全員無事」の横断幕や、線路脇の家のブルー・シートに「がんばれ神戸」とガムテープでかかれたメッセージなど、立ち上がりつつある人々の証を見て欲しいとおもっていました。でも、他人の苦痛の場所に、個人的な目的でカメラを持ち込むことはどうしてもできませんでした。
牧田清「フォト・ドキュメント/街が消えた」という本を、別にサンジョルディの日というわけでもありませんが、お送りしたいと思います。各新聞社が競って出版している「永久保存版」、何を「保存」しようと言うのか、応接間に飾っておけとでもいうのか、「阪神大震災写真集」とは違って、この本には、「災害」の「記録」ではなく、人々の闘いの「記憶」が記されていると思います。
私にとっても、すでになじみ深いものとなった長田の街角街角が、ここには写されています。もっとも、私が行くよりもう少し前のものが多いですが。
4月18日、久しぶりに映画を見ました。本当に、久しぶりです。
いつも持ち歩くかばんの中に、映画にチラシを入れておくファイルが入っているのですが、これは、昨年10月の京都映画祭以来とりつかれたように映画を見まくって(!)いた頃からの習慣なのですが、そこには、ホクテンザの「哀恋花火」1月14日からロードショー!、というチラシ以来、1枚のチラシも増えていません。きっと、1月18日の水曜日あたり、「何平」監督のこの最新作を見て、12月頃の腰痛や何やかに基づくふさぎの虫、年末から年始にかけての仕事のストレス等々をおっぱらって、再び映画ざんまいを始めようと考えていたのでしょう。
遠い昔のことに思えます。とても映画を見る気にはなれませんでした。「ぴあ」などの情報誌にも、「神戸・阪神地区の映画館は、地震により休館中です」というそっけない案内を見るのがつらくて、遠ざかっていました。
思えば、ちょうど3か月です。別に「喪があけた」というわけではないのですが、なにげなく「ぴあ」を買ってみました。神戸の映画館やライブハウスなども、再開しているところがたくさんあります。ちょっと信じられないくらいです。震災救援チャリティー・コンサートなどの記事も見えます。
もっとも、阪急三宮駅上の「阪急文化」など3館は、依然として休館中です。だって、建物自体がなくなってしまったんだから。
あれは、もう5年も前になるのか、「サラフィナの歌声」を見たことを手紙にかいたのを覚えているかしら。南アフリカのソウェトほう起の後、アメリカ合衆国に亡命した高校生たちが、ミュージカル「サラフィナ」の練習に打ち込む様を描いたドキュメンタリーです。あの映画を観たのが、「阪急文化」でした。三宮駅に電車が着く度、轟音が響く音響最悪、画面もぶよぶよの、暗くて古い名画座でした。好きな映画館の一つでした。
「山形国際ドキュメンタリーフィルム・フェスティバル」の近年の参加作品が、十三の「第七芸術劇場」(旧「アップル・シアター」)で一挙上映されています。
「ORI」という作品、これは89年の作品ですが、私は既に90年頃僕は西部講堂で一度観ています。70年代から80年代にかけてのブラジルに於ける「黒人意識運動」をテーマにしたこの作品はとても難解で、よく理解できなかったのですが、とても印象深く、ぜひもう一度観てみたいと思っていながら、なかなか上映されなかったのです。「ベアトリス・ナシメント」という、おそらく「黒人意識運動」に重要な位置を占める女性活動家・知識人の独白を中心に進められるこの映画について行くには、おうおうにしてシンボリックな映像を追いつつ、ポルトガル語の語りから何とかキーワードを拾いつつ、かつ字幕を真剣に読まねばならないというかなりの集中を要求されます。不十分を承知しつつ説明を試みます。
フランスやイギリスの、もっと遅れてドイツの帝国主義者たちが、アフリカを「分割」し始めるずっと以前、「大航海時代」から、ポルトガルはアンゴラを領有し(言うまでもなくアンゴラは、モザンビーク、ギニア・ビサウ、カボ・ベルデとともに、1974年のポルトガル革命まで、ポルトガルの植民地支配を受けていました)、同じくポルトガルの植民地であったブラジルとの間に、活発な交易を行なっていました。もちろん現在のブラジルのアフリカ系人口は、その「奴隷貿易」の所産なのですが、少し危険を承知で憶断を述べれば、この作品ではアフリカ人の存在をその「被害者性」からとらえるよりは、当時アフリカ人の強大な王国を持っていたアンゴラの文化との、「回帰」といって悪ければ、「再結合」をとおして、ブラジルのアフリカ系住民の同一性を再獲得することを目指しているように思われます。
「キロンボ」という難解な概念をめぐって語りは続きます。おそらくはポルトガル植民者に追われてでしょう、アンゴラの奥地へと「退却」を繰り返し、そこに「領土」を獲得する、といったニュアンスだと思われます。現在のブラジル社会の中に、シンボリックな意味で「領土」獲得を目指す運動を、そこになぞらえているようにも思われます。例えば、「バイ・バイ」と呼ばれるアフリカのリズムを、サンバの中に回復すること。各地のカーニバルで活躍する「サンバ・スクール」は、おそらく教育や職業の面で著しい差別を受けているアフリカ系住民にとって「退却地」を形成していることが語られます。「捕虜」の身ぶりを身体から振り落とさない限り、アフリカは解放されない、と。
「熱狂的な」(ステレオタイプな表現ですみません)カーニバルの映像と、大学の集会での激しい討論の映像が交錯します。作品の末尾は78年(79年だったかも知れない)サン・パウロで開催された「第3回アメリカ・アフリカ文化会議(Afirican Cultural Conference in America )」の模様です。南北アメリカ大陸とカリブ海地域のアフリカ系人民の連帯を目指すこの会議の映像に重ねられるのは、人民帽をかぶったジミー・クリフ(ジャマイカのレゲエ・スター)とジルベルト・ジル(ブラジルのアフリカ系歌手)の競演するコンサート、曲は "If you really want, you really get" 、私もよく知っているジミー・クリフの曲です。
集会には、「英語圏で初めての黒人革命」を達成したばかりのグレナダの代表から、熱烈なアピールがおくられます。立ち上がって拳を突き上げ、連帯を表明する聴衆。第4回会議はグレナダで開催することが決議される。しかし、この映像は、85年のアメリカ合衆国のグレナダ侵略を報じるテレビニュースによって切断されます。このもっとも悲痛な部分を、私は以前この作品を観たときにも、はっきりと記憶にとどめていました。
しかし、この集会で南アフリカの代表からの報告が行なわれるとき、バックに流れる曲が、ボブ・マーレーの「ジンバブエ」であったこと(!)は、今回の新しい発見です。アフリカとアメリカ、カリブを貫通する躍動を、何よりも雄弁に指し示すこの選曲に、あらためて圧倒されました。
2作目は、「アフリカ、お前をむしりとる」。カメルーンの作家によってつくられたこの作品の出品国は、しかし、「旧宗主国」フランス。
カメルーン人民同盟(UPC)の困難に満ちた闘いによって独立をかち取った(60年)にもかかわらず、その後のあいつぐクーデター、独裁政権という「アフリカの苦悩」を負ったこの国の現政権との関係で、この作品がどの様につくられたのかは、分かりません。政府の言論抑圧に抗して立ち上がる新聞人のデモの光景から始まるこの作品は、しかし、1910年代にさかのぼるヨーロッパ「列強」の、文字と言葉を剥奪すること通して貫徹された、植民地主義の文化支配の根深さに、出版界の現状を描くことによって、焦点を移します。
入口にド・ゴールの写真を飾る「フランス文化センター」、シェークスピア全集の並ぶ「ブリティシュ・カウンシル」、そして「ゲーテ・インスティテュート」も同様に(これらは、1910年代から30年代にかけて、「部族抗争」というフィクションを作り上げつつ、この国の国土を蹂躙し、争奪戦を演じたヨーロッパの3つの帝国主義に対応します)、国内有数の蔵書数を誇るにも関わらず、アフリカ人作家のコーナーは貧弱です。「ブリティシュ・カウンシル」の視聴覚室では、テレビの前の子供たちに、イギリスの幼児番組が、「スプリング、サマー、オータム、ウインター」と復唱させます。この国には、ふたつの季節、雨期と乾期、しかないにもかかわらず。
国内で3、000部の本をつくっても、完売するのに3年かかる、これでは出版社の経営が成り立つわけがない、フランスからの書籍の輸入にかけられる年間40億フランの、せめて10分の1でも、国内出版業の助成に充てられれば、現状が変えられるのに、と出版人は語ります。
広場の地面に、ただ本を並べただけの露天の本屋さん、まんまと万引に成功した絵本に熱中する子供、今世紀初頭の「開明君主」が、5百数十の絵文字から、70個余りの表音文字を開発した歴史をたどる大学の講義風景、そして、語り手の少年時代を示すモノクロで描かれたシーンでは、ライオンの背中に乗って「悪い土人」を懲らしめるターザンの漫画を読みふける子供。
レポーター役に扮する女性の、ユーモラスな仕草(ある種、「フランス的」)に助けられてか、しかしこの作品には、少しも「絶望」が感じられません。
これらふたつの作品は、1995年という困難な年における、私の、映画への復帰を画するにまさにふさわしい、すばらしい作品でした。
「第三世界・民族解放社会主義革命」路線は、「解放」を達成した「社会主義」諸政権が、「マルクス主義」の「理念」とは似ても似つかぬ抑圧的な体制を作り上げてしまったとき(ヴェトナム、カンボジア、そして中国文化大革命、そして「アフリカ社会主義」)、よるべを失い、急速に生彩をなくしました。「破産」すべきものは「破産」すればよろしい。何も問題はありません。しかし、そもそも「理念」に「似た」体制などというものがありえたのだろうか。革命はいつも不意打で、手近にあったありあわせの武器で人々は立ち上がらねばなりません。自由であれ、民主主義であれ、基本的人権であれ、さらに、マルクス主義であれ、社会主義であれ、西欧「ユダヤ・キリスト教世界」の「一偏見」に過ぎないこれらの思想を武器に、「第三世界」が闘いを挑むとき、それがその「本来」の「理念」とかけ離れているからといって、断罪する権利が、誰にあるか。中古の部品で組み立てた機械の性能が悪かろうが、少なくとも元の所有者にけちをつけられるいわれはないのですね。
76年ソウェトほう起は、「英語」教育を求めて闘われました。アフリカ諸国の解放は、「英語」「フランス語」「ポルトガル語」によって呼びかけられました。そして、6年前の6月、マルクス・レーニン主義を公的にかかげる体制に、人々は「自由の女神」を対置したのです。
いまだかつて、人々が、借り物でない思想で武装したことがあっただろうか、思想だけではない、世界中にばらまかれたソ連製AK47と、アメリカ製M16で、人々は戦争をしているのです。
現状の追認を求めているわけでも、「遅れた人々を暖かく見守る」事を求めているわけでも、もちろんありません。「第三世界」は海のむこうにあるのではない、それは「ここ」にあり、およそどこにでもあり、これからもありつづけるでしょう。私たちもまた、「捕虜」の身ぶりを振りほどかない限り、解放されないのです。
ありもしなかったものが、やっぱりなかったことがわかったからといって、それは「絶望」とは呼びません。あり合わせのものでやって行けることが分かったなら、それは「希望」と言うべきでしょう。
というわけで、私はとても元気です。これも、またしても「神戸」と「北京」のおかげです。
5月になりました。5月1日は、激しい雨でした。まるで、夏の終わりにやってくるような、雷まじりの大雨でした。もう、夏がくるのでしょうか。
5月2日は、うって変わって午後から快晴、25度にもなっただろうか、「真夏日」です。火曜日は、別に約束しているわけではないのですが、神戸に行く日にしています。
3月に「ピースボート」に行っていたときは、2日続きの休みのうち、後の方を神戸行きに当てていたので、それほどでもなかったのですが、今年度のスケジュールは、1日おきに仕事なので、前日夜半に帰ってきて、翌日朝から出かけるのは、結構つらいです。(昔は、11時12時まで残業しても、翌日6時起きで定時出勤していたこともあったのにね。)それに、3月頃に比べて、「情熱」というか、「根性」というかが、なくなってきていることも、正直、確かです。明日は神戸に行かなければならない、今日は神戸に行く日だ、ということが、負担に感じられることもしばしばです。
口内炎はいくつもできるし、歯茎は熱っぽく浮いているし、別に寝不足なはずはないのだが、体調は最悪でした。それでも、のろのろ起き出したあげく、10時過ぎには家をでました。熱があるとわかったのは、大阪を過ぎてから、今更引き返すわけには行きません。
それでも、やっぱり私は「神戸っ子」、といえば生粋の「神戸人」に鼻で笑われそうなので、「阪神間の子」といっておきますが、なのですね、電車が武庫川を渡り、六甲山が見えてくると、そして、テントや、屋根にかけられたブルーシートや、すっかり片づけられ、整地された倒壊現場が見えてくると、たまらなく切ない思いにとらわれ、目頭が熱くなってきます。いやだいやだと思っていたが、やっぱり来てよかった。僕は、いつでも、これからも、ここにくるべきなんだ、そんな風に元気がでてくるのです。
これまで、1週間ないし2週間ごとにここに来ていますが、来る度に、景色が変わってゆきます。あったはずの建物がなくなり、瓦礫の山はとりのけられ、何もなかった場所にプレハブの建物が現われます。数十万の人々の思い出の固着した、物や、建物が、「瓦礫」として「処分」されるのです。「復興」や「再建」が、これ程までに、過去との切断という悲しみに彩られていることを、考えもしなかった、私自身の鈍感さを呪います。
そして、車窓から見渡す限りの、「解体」「撤去」「仮設」「建設」現場の全てにおいて、「労働」という人間的実践と、「雇用」という人間関係が、日々発生し、成長しているのです。当り前のことですが、こんなにも高速度で、変容する都市を、私はかつて見たことがありません。
長田区役所前の「労働相談所」に着いたのは、かれこれ2時近く、雨上がりの地面を太陽が照りつけて、うだるような暑さです。Sさんともう一人、Uさん、別に約束をしていたわけでもないし、また、手伝いにきたといって、役にたつわけでもないのだが、それでもそこそこ愛想よく迎えてくれます。
ここの相談所は、本日を持って撤収するのだそうです。めっきり相談件数も減ってきたし、今後は水笠通りのプレハブ組合事務所に一本化するようです。
今日相談に訪れたのは、4人ばかり、もっと忙しかったら、今度こそは実際に「相談員」としてお手伝いしようと、少し緊張して覚悟していたのですが、当てがはずれました。内心ほっとしてもいますが。結局、ここでもたいしたことはできなかったんだという、無力感におそわれなくもありません。
5時に片付けをして、ビールを買いに行き、ささやかな打ち上げの宴がもようされます。長田までビールを飲みにきたようなものです。福島から支援にやってきた女性が一人、この人もじっと座ってただけですが、あとUさんとSさん。話し好きそうなUさんがもっぱらしゃべります。部外者が一人混じっているにもかかわらず、結構気さくに、「党」の悪口なども交えて。
ここで「常駐」している活動家は、Sさんも含めてみんな、「獄中」歴のある人たちのようです。物騒な話しも飛び交います。49年生まれ、69年に全逓に入ったというUさん、70年代と80年代の激しい日々を、とりわけ「内戦」時代(・・派との党派闘争をここではこう呼びます)をどの様に、生きられたのでしょうか。20年に及ぶ「内戦」についても、その後の「労働運動路線」と呼ばれる転換についても、私にはどう評価していいのか分かりません。「党」の中で生きる人たちを、かいまみるのは私にとって初めての経験です。
これで、私の神戸とのささやかなかかわりも、いよいよおしまいになるのかも知れません。たぶんそうなるでしょう。
次の日曜日にもようされる「長田マダン」の準備もあるのでしょう、すっかりテントも減った大橋中学のグランド脇を歩きながら、そう思いました。悲しくもあり、さびしくもあるが、ほっとしているのも事実です。
171号線高槻の歩道橋の上から「神戸・西宮」の標識をながめて「慟哭」したあの日から、魚崎中学の校庭で何も仕事がなく呆然と立ちつくしたあの日から、駒栄南公園に車からおそるおそる降り立ったあの日から、結局一歩も進んではいないのでした。結局何もたいしたことはできなかったし、依然として私は、この街の部外者に過ぎません。
もっと何か「芸」があれば、もっとはやい時期から動いていれば、もっと身軽に飛び込んでいけていたら。悔いはいくらでも残ります。自分が、本当にいざというときに何もできない無能な人間にも思えます。
できなかったことをあれこれ思い悩んでも仕方ありません。「決意」だけではなんの役にもたたないことも改めて、思い知らされました。遅きに失したかも知れない、鈍重すぎたかも知れない、でも、動かなければならないときに、とりあえず動き出すことだけはできた自分を、ほめてやるしかないのでしょう。
1月の末からずっと、神戸のことばかり書いてきました。一人で舞い上がったり、落ち込んだり、センチメンタルになったり、こんな手紙ばかりにつきあわせて、本当に申し訳なく思っています。多分これが最後になるはずです。
京都にいれば、人々の口に神戸の話題がのぼることも、もうほとんどありません。私にしても、3月のはじめの経験さえ、今では何か、いがらっぽいものとして、心の底に沈澱しているように思えます。神戸の町並みも、よそよそしさを取り戻しつつあります。曖昧な善意などもはや必要としないほど、力強く立ち直っているのでしょう。
自分の身勝手な「感動」のために、他人の「非日常」がいつまでも続くことを望むなんて、とんでもない勘違いです。私も、あまりぱっとしない「日常」に戻らなければいけません。
電車の窓から、神戸に、別れを告げました。
同じ日の午後7時、大阪梅田、泉の広場の近く、「洞」の隣の、あのスノッブきわまりなかった映画館「シネマ・ヴェリテ」は、新たに上本町ACTの系列館となってオープンしました。オープン記念の特別番組が、ドゥーシャン・マガベイエフ特集です。「モンテネグロ」などの、ユーゴスラビアの監督です。
最新作は「ゴリラは、真昼に入浴す」、「統一」後の東ベルリンに取り残されたソ連兵士が主人公。相変わらず奇怪な筋立てですが、差し挟まれる映像は、レーニン像の取り壊しのセレモニー、「どうぞ卵なり、火炎ビンなり投げつけて下さい」と叫ぶ主催者、「彼も所詮、外国人(アウスランダー)だったのです」。「統一戦線の歌」(ブレヒト)を歌って取り壊しに反対する「強行派」の老人たち。
そして、「アウスランダー・アウス」(外国人は出て行け、ネオナチのスローガン)の声。
作品の末尾は、ロシア語と英語しか話せなかったはずの主人公が、流暢なドイツ語でこう叫びます。この世にあってはならないもの、例えば、川にかかる高い橋、夜と昼の間の時間、そして、冬、これらの絶望が人々を、戦争と殺戮に駆り立てる。
難解な作品です。今では「国」を「失った」セルビア人のこの監督は、依然として「共産主義」について、語り続けているように思います。
a man without uniform, naked like a fish,
without past, with no future
「みなみ会館」の中国映画祭は、5月3日に終わりました。「紅粉」(李少紅監督の最新作)は都合がつけられず、見逃しました。
張芸謀「ハイジャック・台湾海峡緊急指令」は、とても楽しくみることができました。ハイジャック犯の首領を演じているのは、あの「再見のあとで」の男優ですね。
「哀憐花火」(何平監督)は、張芸謀の「菊豆」「紅夢」に似た路線、可もなく不可もなかったですが、まずまず楽しめましたのは、チャオ・チーピンの音楽のせいかもしれません。
「青春の約束」をもう一度見ました。長安街や、地下鉄復興門駅など、見たことのある場所が出て来るので、いっそう親しみがわきました。エグチヨウスケ風の髪の長いロッカーが、ことさらにやくざにふるまってみせるところなどは、余りの「青春映画」ぶりに、気恥ずかしくなることもありますが、やはり、いい映画だと思います。
5月4日、つまり今日、蹴上の国際交流会館、「アジア女性映画祭」。
李少紅の「血祭りの朝」を初めて見ました。緊張感に満ちた、優れた映画だと思います。殺害者の妹役の女優が、「青春の約束」の主人公と同じなので、びっくりしました。
もう一本は、香港の許鞍華「客途秋恨」。日本人の母親と馴染めず、広州生まれの祖父母に育てられた娘が、母とともに日本を訪れ、和解するといったストーリー。確かに、日本でのシーンは、言葉遣いや服装など、おかしなところがあって気になるのですが、「実際の日本と違うなどというところにかかずらわず、中国人の日本への理解の姿勢を見て欲しい」などと、くどくどと前置きをした主催者佐藤忠男の話にはうんざりしました。この人の説明は、いつも映画を平板なものにしてしまいます。
あまりよくわからなかった映画であることは確かです。73年文革のさなか、故郷の広州に帰ったものの、「紅衛兵にこずき回されて」病に倒れた祖父に会いに行くシーンで、祖父が言った「中国に絶望しないで欲しい」という言葉が、印象に残りました。
映画の話も、この辺にしておきましょう。映画をたくさん見ることで、何かが「理解」できるようになるのだろうか。むしろ、わからないことが増えて行きます。確信に満ちた言葉を、どんどん失って行くようにも思えます。わからないことどもが、澱のように沈澱し、やがて干涸びて行くのか、それともある日、結晶を結ぶのか、それも、よくわかりません。
連休の京都なんて、ちっともいいことはありません。どこもかしこも人だらけ、車だらけ。お金がおろせないので、明日は一日、仕事にいく以外は、じっとしていなければなりません。米の蓄えも底をついたというのに、何を食べよう。
長々と、しかも、さえない手紙でごめんなさいね、この辺にしておきます。
1月17日以来、まったく本を読む気にならない状態が続いていました。電車の中でも、部屋でも、ぼーっとしている時間が多くなっていました。ようやく本が読めるようになったのは、4月になってからでした。
ほっぽりだしてあった、E・W・サイード「パレスチナ問題(The Question of Palestine )」。アカデミズムの業界で、この人の評価がどうなのかは、知りませんが、私の印象では、それほど明晰な理論家、という感じはしません。むろん、当り前のことを、当り前に主張する、という点で明晰きわまりないのですが。歴史の中で、不公正な扱いを受けた者は、何年たっても、どれだけ既成事実が積み上げられても、必ず、異議申し立てせずにはいない、という当り前の事実を確認するために、この書物は、たとえ「パレスチナ問題」に関心を持たない人々によっても、ぜひ、読まれるべきものと思います。
****さんの家での、*****氏との議論を思い出します。
「LPO(フランス語圏ではPLOをこう呼ぶのかな)は、ユダヤ人を海に突き落とそうとしている」、そういう見解がヨーロッパにあり得ることを、聞いてはいたが、やはり、耳を疑いました。
「フランスは、かつて植民地主義だったが、今はそれを捨てた。」
戦後50年、「戦後処理」が未だ解決していない問題であること自体の認識に於いては、右も左も、共通しており、ただ、それを今になって一気に「清算」するか否かの側面で、攻防が行なわれている日本の文脈に置いてみた時、この発言は、むしろ新鮮です。(むろん、確かに、フランスは南京大虐殺もしなかったし、「従軍慰安婦」ももちいなかったが。)
国会不戦決議をめぐる議論の中で、新生党だか新進党だかの、ニュースキャスター上がりの議員(ニュースキャスターが議員になることに異議を唱えているわけではありません)などが、「自分が始めたのではない戦争に責任をとることはできない」と当然のことを言っています。その通りです。1958年に生まれた私は、例えば、1931年の中国への戦争挑発に対して、なんらの法的、政治的責任を問われ得ないのは、当り前のことです。これが議論のすりかえだといきまいてみても、勝てない議論になっているかも知れません。左翼であれ、リベラルであれ、戦争責任の清算を許さないと考えるなら、国家と民族について、歴史に於ける「遡及的」責任について、あくまで明晰な解答を準備しなければなりません。それなしに、アジアとの「再会」もあり得ません。
"Red Azalea"(Anchee Min)が今回の試験の直前に読んだ書物です。非常に読みやすい英語だったので、すぐに読み終わってしまいましたが。
上海出身の「知識分子」の娘、小学生にして紅衛兵の「模範的」メンバーとなり、教師達の糾弾を行なう。農村への「下放」、上海撮影所のオーディションに選ばれたものの、ライバルの中傷により下働きを余儀なくされる。しかし、江青派のディレクターにみそめられ一躍 "RED AZALEA" の主役に抜擢。だが、おりしも76年、四人組の追放とともに、再び失脚。80年代後半に、USAに移住。
「よくある文革苦労話」なのかどうなのかの判断は留保する。又、英語版の書評にあるような、「エロチックな描写のヴィヴィッドさ」に賞賛を送ることも差し控えたい。
文化大革命という運動が、毛沢東の個人的な権力衝動なり、江青の個人的な「うらみ」なりに基づいていたという「理解」は、それが疑いもなく正しい場合でも、なんの力も持たない。それだけでは、「運動」を説明することができないからだ。反対に、「運動のダイナミズム」なるもので全てを「説明」することができたとしても、それは、前提として、「理解」への欲望を欠いている。
一方で、徹底的な被害者性に貫かれた「よくある文革苦労話」、他方で、「それでも、一つの青春」といった限りなく自己弁護に近い「懺悔」、いずれの立場も現実に存在し得た立場なのだから、利害関係のない読者が、「つまらん」と退けたりはできないはずです。ただ、この書物はその意味でも、決して「つまらない」ものではありませんでした。筆者の、いや、一人称で描かれる主人公の、ふたつに引き裂かれる(何と何に?、愛と革命?、性と政治?、欲望と義務?)様が、いたるところ目撃できました。引き裂かれるからこそ、「災難」でも「青春」でもなく、この人にとって「革命」だったのでしょう。
いま読んでいるのは、 "Mexican Anarchism after Revolution" 。大文字で始まる「革命」はメキシコでは、1910年のエミリアノ・サパタとパンチョ・ビジャに率いられた革命を指します。(今日に到るまで政権を独占し続けている政党がPRI(Institutional Revolutionary Party) を名乗っていることからも分かるように、この国の階級闘争は、この「革命」の正当な後継者たる地位の纂奪と回復をめぐる闘いとして現象するのです。)「土地と自由」を掲げたこの革命に源流を発し、たびかさなる農民反乱、土地占拠闘争、60年代後半の学生反乱を経て、今日に到るまで連綿と続く革命の歴史を、「アナルコ・コミュニズム」の系譜としてたどろうとするものです。メキシコと言えば、ジョン・リードのルポルタージュ、フリーダ・カーロ、ディエゴ・リベラとトロツキー、そして、68年オリンピック開催の陰で行なわれた大弾圧、など断片的な知識しかなかった私が、このような書物に手を出したのは、いやそもそもこのような書物が出版されたのも、94年1月1日のチアパス州に於けるEZLN(サパティスタ民族解放軍)の蜂起の衝撃によるものです。当初、世界のマスメディアは、この蜂起を、「マヤ・インディアン」の「時代錯誤」的な決起として報道しました。先住民の農民が主体となっていることは事実です。また、第二次世界大戦ごろの銃器で武装していることも事実です。しかし、大方の予想に反して軍の大量投入にも関わらず現在に到るまで、決して「鎮圧」されず、それどころか中央政府を停戦交渉の場に引きずり出し得ているのは、この蜂起が決して「偶発的」でも「時代錯誤」でもなく、まさに周到に用意されものであり、メキシコ国内は言うに及ばず、遠くUSA、カナダに到るまで、それもコンピュータ・ネットワークという、最新鋭の「武器」を駆使して支援体制を構築していたという事実が、次第に明らかになってきています。
もっとも、ロシア革命が実現することに失敗し、「西洋」が、そして日本がなし得なかった「あるべき革命」の姿を「第三世界」に求めようとする、「左翼」版オリエンタリズムは、厳に戒められねばなりません。「世界革命根拠地」なる不当な責任を相手に押しつけ、今度は一転しておおげさに「幻滅」、「絶望」してみせたりするあやまちを、私たちは、中国やヴェトナムに対して犯してきたからです。
5月7日、「長田マダン」。大橋中学の校庭にはずらりと屋台が並び、どれも100円(!)。被災者救援の趣旨だろうから、部外者の私がこの値段でばかばか食べるべきではないのだろうが、結局、焼肉、きむち、いか焼き等々ばかばか食べて、ビールも3本も飲んでしまった。もちろん、最後にカンパはしたよ。
お送りした牧田清氏の本にでてきた李相泰(イ・サンテ)氏が司会をしている。牧田清氏も最前列でカメラを抱えている。3月に若松公園の「民衆マダン」で涙ながらに遺族代表の挨拶をした方の姿も見える。
労働相談所の人もたくさん来ている。ちょっとだけ挨拶する。
ピース・ボート本部で何度かみかけた顔も見える。別に挨拶はしない。
さらに、驚いたことに、同学会の頃の顔見知りも何人か来ている。京都「東九条マダン」も今日は来ているから、その関係なのだろう。こちらとも、ちょっと挨拶できなかった。少し、複雑な気持ち。
私自身の、神戸との、さらに「運動」との関わりの曖昧さに基づく、若干の憂鬱さをよそに、公称5000人の参加と発表された「長田マダン」はものすごい盛り上がりを見せた。
クライマックスはフィナーレ、疲れを知らず踊りながら太鼓をたたき続ける長田マダンの「農楽隊」の輪に、観衆が一人また一人とまじりあい、校庭全体をおおう巨大な渦になる。そこに、満を持してスタンバイしていた、東九条の「農楽隊」が突入する。アンコールにつぐアンコール、およそ30分も続いたろうか。ビールを片手に見学していた私は、ただ圧倒されるばかり。
最後に、先の遺族代表の人が、息を切らせてマイクをつかむ。みなさん、がんばりましょう、なくなった方のことを、心に刻みつつ、がんばりましょう。
地下鉄で長田から三宮まで、三宮から御影まで阪急電車、御影岡本間は阪急の代替バス、岡本から夙川まで再び阪急電車、最後に、夙川から甲陽園まで阪急電車、JRと阪神バスを使えば難なく行けるのだが、寸断された阪急電車に忠誠を尽くすつもりで、こうやって実家まで帰ってきた。夙川駅のホームから東を望むと、まだ線路はないとは言え、高架橋ははるか西宮北口まで完成しているのが見える。やはり、うれしい。「故郷」だもの。
阪急全線開通は6月下旬、阪神は少し遅れて7月上旬の予定という。
実家に帰るのは、2月末以来。しばらく寝込んでいたという母もなんとか元気そう。父の職場の大手前女子大は、四階建ての旧館が倒壊し、新学期の開始が遅れていたが、ようやく連休明けには再開するそうだ。ワーカホリックの父にとっては、今回の地震は、多少の休暇になったかも知れない。父と母が一緒にいる時間も増えて、「夫婦円満」に多少は寄与したかも知れない。
困難を共有する中で、人々が連帯を取り戻す、今となっては、口に出すのも多少恥ずかしいそんな感動が、私の「神戸」への出発点だった。
岡本駅前で買い求めたかしわもち、そして、はるばる北京からやってきたロイヤルゼリー錠をみやげに置いて、早々に辞す。
帰りは、今度は、阪神バスで新甲陽から西宮、西宮から阪神電車で梅田まで、と、阪神に「忠誠を尽くして」、帰ってきた。西宮駅前の商店街のアーケードにも灯が見える。やはり、うれしい。
連休以来、激しく降り続いた雨、電車の中からみる桂川も淀川も、河川敷が見えないほどの大雨、神戸では新たにビルが倒れたそうです、昨年来の水不足も一気に解消かといわれるほどの集中豪雨も、一段落、この二日ほど、見事な晴天が続きました。
映画の方は、梅田ACTシネマ・ヴェリテの「マカヴェイエフ特集」が終わってしまった今、情報誌をながめてもここ一月ほどなんら見たいものがないという、不毛の時代にさしかかるもよう。お金がかからなくて、結構なことだ。読書や、気候もよくなってきたから、「小旅行」など、それからもちろん勉強もね、でもして暇をつぶそうかな。
マカヴェイエフ特集では、今回、少なくとも関西では、初めて公開された、初期の3作品、ユーゴスラヴイア時代の60年代後半のもの、を見ることができ、ほぼこの国で可能な全ての作品を見ることができました。
「マニュフェスト」や「コカコーラ・キッド」など、以前一度見たものも、もう一度改めてみてみました。
少しだけ、紹介させてもらいます。「マニュフェスト」、第一次大戦後のワルトハイム、1919年の失敗に終わった「革命」後のドイツを舞台にしながら、「中央ヨーロッパの架空の国における、行場を失った革命家達の物語」と題されるこの作品は、ワルトハイムに向かう列車の一等車の車内、ある革命組織の密命を受けて、国王射殺のためのピストルをストッキングの中に隠し持つブルジョワ令嬢と、国王警護に派遣される弁護士、あるいは検察官だろうか、との出会いから始まります。
その令嬢と、「召使」や「馬丁」とのセックス、検察官と、アイスクリーム売りの孤児の少女とのセックスとか、ウイルヘルム・ライヒの信奉者をもって任じるこの監督ならではの、「喜ばしき」セックスは、いたるところバンバンおこなわれますが、それはさておき、国王到着とともに予防拘禁される小学校教師が収容される「サナトリウム」を支配しているのが、ロンブローゾ教授。ロンブローゾとは、法律を少しでもかじったことのあるものなら誰もが知っている、イタリア・ファシスト刑法の、精神「障害者」への「保安処分」に基礎を与えた、「近代派」刑法学の始祖のひとりの名であります。
はつかねずみの篭によくあるような、走っても走っても前に進まない巨大な車輪の中に閉じこめられたこの小学校教師は、見学にきた国王の前で、
Onward, Onward, Down with your Arts, Down with your Regime!
(前進、前進、おまえ達の芸術を、おまえ達の体制を、打倒する!)
と、叫びながら走り続けます。にやりと笑ったロンブローゾは、スイッチを切り替える。まろびながらも、今度は、反対むきに走りながら、なおも、
Avanti! Avanti!(前進!、イタリア共産主義者の歌「進め人民」か?)
と、走り続ける。マルクス主義進歩史観の戯画?
令嬢の持ち込んだ銃は、同志のパン屋によって、サナトリウムの食事に出されるパンの中に埋め込まれ、小学校教師の手に届きます。しかし、日和見主義に捕らわれた彼は、国王との対面という絶好のチャンスにも、発砲することを拒否し、檻の中にとどまることを選びます。
おりしも、サナトリウムの火事、炎に包まれた檻、まさに「火の車」の中を、インターナショナルを歌いながら、なお走り続ける男。
一方、検察官とアイスクリーム売りの少女とのセックス現場を告発した科で、同じくサナトリウムに収監されていた保母は、男からピストルを奪い取り、単身国王の乗った汽車の屋根に乗り込む。
ブルジョワ令嬢と検察官の、濃厚なキス、そのとき、車窓をたたくノックの音、真っ黒い衣装に真っ赤なスカーフ、すすだらけになりながら、高だかとピストルを掲げ、もちろん、屋根の上からだから、逆さまだ、 "Let's go!"
こうして映画は終わります。こんなはちゃめちゃなストーリーを説明しても無駄とは思います。USAで制作されたこの映画が、「何をいいたかったのか」も説明しかねます。
東欧の「革命」と「反革命」、「解放」と「自由化」の全歴史を、「なかった方がよかった歴史」として清算することをがえんぜ得ないものにとって、ここに革命への「希望」を読みとるのは、早計に過ぎるにせよ、有り得ない見方ではないと考えています。
「コカコーラ・キッド」、USAのコカコーラ本社からオーストラリアに派遣されてきた「トラブルシューター」が主人公。販売実績を示す地図の中に、空白部分を見つける。そこでは、マクダウエルなる清涼飲料が、時代遅れなやり方で生産され、コカコーラの侵入を拒んでいる。その頑固者の社長の娘が、実は「コカコーラ・キッド」の秘書で、あのてこの手を使って、買収工作を失敗させようとするのだが、ついには社長自ら工場に火を放ち、買収を拒んだことを知ったとき、クレジットカードも何もかも捨て去って、「コカコーラ・キッド」は、その娘のもとに向かう。一見穏やかなハッピー・エンドに、「その年の4月、日本では桜が咲き乱れる頃、第三次世界大戦が勃発した」なる不気味なテロップで締めくくられるこの映画は、80年代初頭、オーストラリアを席巻した「自治」を目指す政治運動、パンク・ムーヴメント、アボリジナル・ライツ、ゲイ・リブ、シングル・マザーと子供、等々、「辺境」を目指す運動への、暖かなオマージュにあふれていると思います。
例えば、「モンテネグロ」が、スウェーデンのユーゴスラヴィア移民のコミュニティに焦点を合わせていたように、この監督の作品は、いつでも「遍在する」「辺境」と「第三世界」を問題にしていたように思います。
「保護なき純潔」なる作品(1968)は、監督が尊敬してやまないといわれる、あるアクロバット役者をフィーチャーしたものです。「インターナショナル」をバックに、自転車で綱渡りをするこの役者の映像の背後には、ウスタシア(クロアチアのナチかいらい政権)支配下のベオグラード、瓦礫の中から死体を掘り起こす市民の姿が映し出されます。
1995年の神戸において、同じ経験を共有し得たであろうこの国民は、しかし、それをオウム捜索劇と同様に、テレビの上のこととしてしか見ることができなかった限り、およそ「どこにでも存在する第三世界」に、一歩たりとも近づくことができなかったはずです。
ことのついでに、またしても、地震の話にスライドさせてもらいますが、95・01・17の経験が神戸・淡路・阪神地区の住民のみならず、同じ搖れを経験した私たちを含め、何を残したか。
個人的なつまらない体験に過ぎませんが、先日日本橋の小さなパーツ屋の窓のないエレベーターに一人で乗ったおり、今ここで地震が起こって、この空間に閉じこめられたら。想像するだに恐ろしく、エレベーターがつくまでのわずか数十秒間が、激しく待ち遠しかったのを記憶します。
コンクリートの隙間に閉じこめられて救援を待った人々、そして、救援をまちながらもあるいは息絶え、あるいは生きながら火に焼かれた人々。すべての建物が、新神戸オリエンタルホテルのように立派なものならば、「安全」だったのでしょう、しかし、そんなことが無理な相談であることは、誰でも知っています。
「安全」ならざる都市に生きる人々が、それでも、生きる希望をつないだものと、「今、あなたのそばにいる、不可解な男、または女が、いつサリンをばらまくかも知れない」として、すべてのごみ箱に「ふた」をする「予防」とは、およそ、対極にあるものです。5、000人の犠牲によってかち取られた、貴重きわまりない神戸の経験に、冷水を浴びせ、減殺するだけのために、オウム/サリンの「報道」と「警戒」は、演じられたのでしょうか。もちろん、サリンの数十名の犠牲が、神戸地域の5、000人に較べ、価値が低いなどといっているわけではありません。
ことのついでに、また、神戸の話をさせてもらいます。
今日、5月21日、また、神戸にいってきました。なんの義務も任務もない、全くの「観光」です。
きのうまでの快晴とはうって変わって、またしても雨。晴れたなら、実家においてある自転車で、あちこちを見て回ろうと思っていたのだが。
阪神西宮で降りて、私が小学校から高校にかけてなじんだ、西宮駅前の商店街から見学することにしました。長田の大正筋などと同様、ここは焼けてこそいないが、アーケードの枠だけ残して、回りの店舗はすべて倒壊し、今では完全に整地されプレハブの仮店舗などがめだちます。もちろん、火事がでるとでないでは、大きな違いですが。
昔よく知っていたお店が、どんな風だったかも思い出せません。こんな風に、思い出が壊されてしまうのは、とてもつらいけれど、そこに住んでいた人はもっとつらかったのだろうし、仮店舗の再出発に、精いっぱいの声援を送りたいと思います。
地域の復興に貢献する、というわけでもないが、おなかも空いていたので、辛うじて倒壊を免れた店舗に、プラスチックの波板をつぎたして営業している大衆食堂で、きつねうどんをたべました。日曜日のせいか、あるいは他に飲み屋がないせいか、あさ十時というのに、お酒を飲んでいるおじさん達がたくさんいます。店のテレビでは、長田の真野地区の自治会の復興計画につてのドキュメントをやっています。ここ阪神地区では、オウムにも関わらず、ちゃんと震災復興についてのテレビ番組が存在しているのです。
西宮から、香櫨園、打出を経て芦屋まで、雨の中を歩きました。小学校の同級生だった人たちの家などを、おぼろに思い出したりしながら。このあたりにくるのは1月29日以来です。プレハブや、ビニールシートの中で、新しい日常が既に始まっているのが、はっきりと分かります。
これだけの距離を歩いただけでも、地域による被害の違い、復興の速度の違いが感じられます。香櫨園から夙川にかけては、ほとんどの家が倒れ、しかし解体も速く、すっかり更地になったところがめだちます。阪神沿線に関する限り打出の被害は比較的軽微と思われます。芦屋駅に近づくと、まだ、倒壊したままの家屋、傾いたままの電柱などが、目につきはじめます。
芦屋駅の西側に、芦屋市青少年センターというのがあって、ここの自習室で、高校の頃、よく勉強、と言うよりは荷物をおいて遊びに行くことの方が多かったが、ともかく、よく通った場所です。地震の直後にテレビで、ここが遺体安置所になっているということを聞いたとき、ショックを受けました。できれば、隠しておきたい感情の動きなのですが、大事なことなので、記憶にとどめておくべきと思います。つまり、思い出が、「死」によって「汚されている」と感じたのではないでしょうか。
芦屋市役所前の掲示板には、今日、「津知テント村」のお別れパーティーが催される旨のビラが張ってありました。津知町は古い文化住宅が多く、芦屋でも最も被害の大きかったところのひとつです。また、全国のボランティアの結集地点としても、注目を集めました。
芦屋から御影まで阪神、御影から阪神の代替バスで西灘。この駅の南側には、巨大なテント村が広がっています。最近の大雨と暑さで、テント生活は、限界に近い、といわれていますが。
西灘から新開地までの阪神線の輸送を行なっている車両は、しかし、ほとんどが山陽電鉄の車両、1月17日の夜、阪神の車両は住吉車庫で眠ったのに、この路線に取り残されたのは、大石駅や新開地駅に留置された山陽電鉄の車両ばかりだったのでしょうか。山陽電鉄は、遥か遠く西代より向こうが、途切れ途切れに開通している状態です。それにこの車両はひどく汚れている、車庫にもはいれず、一月以来洗ってもらっていないのでしょう。
日曜日の三宮センター街は、まるで「ふだんのような」賑わい、アーケードがなくなってしまったのと、南側の一角がシートにおおわれているのを除けば、昔のままともいえます。星電社が、南館(もともとコンピュータ専門店だったところ)で、営業再開しました。4階のPCコーナーで2万9千円のプリンターを見つけ、自分がどこにいるかも忘れ、思わず没頭してしまいました。ダイエーのジーンズショップ、「JOINT」も、4月末からオープン、これも「神戸」のなせるわざ、セカンドクラスのジージャンを、衝動買いしてしまいました。
元町商店街と南京町では、「神戸5月祭」が行なわれていました。長田の「民衆マダン」でみたことのある、南京町の「神戸華僑総会竜舞隊」の人たちも見かけました。あいにくの雨、元町商店街を練り歩く「サンバ隊」の、「水着?」をつけた女性達も寒そうでした。
それでも、元町通りは、すごい活気です。老詳記にもいつになく長い列ができています。倒壊した建物の跡地で、ジャズのコンサート、ペルーやインド料理の屋台、KDDの割引サービスの「屋台」などがでています。私も浮かれて、東栄商行で、ビーフンなどを買いました。
神戸駅からJRで新長田、水笠公園へ。ここでは「長田復活祭」、これはもとピースボートの「長田を考える会」とおそらく西神戸YMCAのボランティアがやっているので、一応見ておこうと思ったのですが、折しも激しい雨、早々に退散。長田からバスで、神戸駅まで。買物客でにぎわうハーバーランドで、空腹に耐えかね、ワッフルとホットコーヒー。
ハーバーランド・スペースシアターでは、在日韓国商工会議所主催の、キム・ヨンジャ等韓国有名スター来演の震災チャリティーコンサートが行なわれていました。入場無料なのでしばらく見物。司会をおおせつかったのは、FMなどでよくDJをしている神戸在住の日本人ですが、なかなかいいことを言っています。震災以降、「神戸」を根拠にものを言う人たちが、立場や見解の相違はあれ、それなりにしっかりした発言をすると思えるのは、ひいきのひきたおしとは言え、私には、うれしい発見ではあります。有名なキム・ヨンジャのステージを見てみたかったが、もう時間も遅い、そろそろ帰ることにする。
また、長々と、神戸の話をしてしまいましたね。
もはや、ボランティアや「支援」といった手がかりを失ってしまったとは言え、そこに焼け跡や、テントや、プレハブがある限り、依然として私はこの町に出かけてきて、それを見る必要があるのだと思います。
きのうは、庄内の豊中市立幸町図書館というところで、映画会があり、エドワード・ヤンの「恐怖分子」が上映されたので、いってきました。映画会といっても、レーザー・ディスクをプロジェクターでかけるだけのものです。入口の非常灯が明るすぎて、画面が暗くなると何がなんだか分かりません。無料だから文句はいいませんが。
映画はともかく、久しぶりに庄内の町を歩き回りました。大阪府の中ではほぼ唯一、地震の被害を受けたのが、この庄内地区だといわれていました。ビニールシートをかけた家や、ときに倒壊しているアパートも見かけました。しかし、商店街は、相変わらずの活気を呈しています。
なつかしい商店街が、焼け跡や、更地になってしまうところをたくさん見ました。だから、誰が買うのか分からないような洋品店や帽子屋さん、参考書とエロ本しか置いてないような本屋さん、あげたてのコロッケを売る肉屋さん、等々が、商店街特有の間抜けな音楽とともに、健在であるだけで、感動できるのです。
世間は、神戸のことを忘れたのと同じ速度で、オウムも忘れつつあるようです。結構なことです。私も、過剰報道という名の検閲への「対抗」として自らに課していた検閲を解き、そろそろテレビでも見ようかとも思っています。およそ2ヵ月ばかり、テレビのない生活でしたが、慣れてしまったのか、あまり見たいとも思わない、今のところは。
新聞などにしゃしゃり出ていた「識者」達は、「はしゃぎすぎたあとは、しらけちまう」のが恥かしいのか、「一部の悪い指導者」を除き、「何も知らなかった、一般の信者」に対する、寛大な「恕し」の大合唱を始めているようです。
「大量殺人」の「実行」や「企画」が国家によって処罰されることが国民によって合意されることに、なんの異を唱えるわけでもない。だが、「大量殺人」を是とする個人や集団が社会の中に存在することが、そんなに不思議だろうか。たとえ仮に、無差別殺人を肯定する考えを誰か個人なり集団なりが持っていたとして、「利害関係」のない、つまり、地下鉄で殺されかかったわけでもない、家族や親しい人をその本人の意に反して「拉致」「監禁」によって奪われたわけでもない他人から、「恕される」いわれはない程度には、「自由」だと言わなければ、「思想の自由」など無内容なのではないか?などと考えている私は、やはり偏向しているのだろうか。
臆面もない「公共の福祉」と「寛大」なパターナリズムは同根です。日頃「リベラル」で鳴らしてきたような批評家達が、「捜査に多少に行き過ぎがあったにせよ」程度のことしか言えないのを見るにつけ、この国のジャーナリズムの検閲=自主規制の深さを感じます。ホテルの宿帳に偽名を記入したために「私文書偽造」で「勾留」されるような暴虐が行なわれたときにですよ。
もともと新左翼系の救援弁護士で、田中角英の弁護をかってでたり、暴力団規制法のときには山口組の弁護をしたりして何かと話題の多い遠藤誠氏は、今回オウムの顧問弁護士アオヤマ氏の弁護を引き受けています。このアオヤマ氏も、名誉棄損罪で勾留されています。一応法律上の問題を指摘しておきますと、逮捕後の勾留には「罪証隠滅または逃亡の恐れ」が要求される建前になっています。この人の起訴事実は、カミクイシキの農薬工場主を、毒ガスを散布したとして告訴したことでありますから、裁判所自身が証拠を持っているのであって、「罪証隠滅」は考えにくい、また弁護士会に登録されている弁護士に「逃亡の恐れ」も通常はあり得ません。別に弁護士だから勾留されないという法の建前が正しいとも思えませんが、ともかく幹部大量逮捕前に予めオウムの弁護団をつぶしておくための別件逮捕であることは明らかです。
「真のリベラル」などと言うべきかどうかは分かりませんが、この遠藤弁護士も、アサハラ氏の弁護依頼に対しては、「被疑者の無罪を150パーセント確信できない限り弁護はできない」と拒否したと伝えられています。依頼を断わる際のせりふとして、このような被疑者の有罪を匂わせる発言が弁護士の職業上のモラルとして妥当かどうかは疑問無しとしませんが。
京大在学中に司法試験に合格し、秀才の誉れ高かったアオヤマ氏の実家が大阪の洋服屋だと伝えられるや否や、「洋服の青山」は「うちとは無関係」との広告を出しました。京大をはじめとする「有名国立大学」に幹部が多かったことから、京大も脚光を浴びました。塾の掃除をお願いしている主婦のアルバイトの方からも、「京大も大変ですねぇ、やっぱり賢い人は違うわ」などと声をかけられる始末。どこかで聞いた「セイム・オールド・ソング」ですね。私たちが、中学生ぐらいの頃は、京大に落ちた人には近所の人が「京大入っても赤軍派になったらしゃぁないからねぇ」となぐさめたものです。
****さんによれば、最近親が「妙にやさしい」らしい。「オウムにならなかっただけでも、」と言うことらしい。試験の翌日だったかしら、「あんまり早く受かっても、アオヤマ氏みたいになったらしょうがないですからねぇ、」「そうそう、人生何が幸せかわからんからねぇ」と、******君と3人で大笑いをしたものです。その*****さんは、アサハラ逮捕以降、「なんか拍子抜けしちゃった」とのことです。結構でしょう。一時期の「オウムおたく」ぶりは、ちょっとやりきれなかったから。
わらうべきことなんです。やがて、この「加熱ぶり」を椰揄したり「危惧」したりする論調が、まるで、自分が「加熱」していなかったような顔をして臆面もなく現われるでしょう。
またしても神戸を引き合いに出して申し訳ないが、いま長田で映画をとっているある監督のインタビューを「映画新聞」で読みましたが、震災後の報道について、戦後50年にわたって成長してきた日本のマスメディアは、いま初めて、文字どおり「未曾有」の出来事に遭遇し、自分の持ち合わせているパターンに対象をはめ込むのではない、報道者自らの驚きと恐怖を通じて対象を伝えるという、少なくとも可能性があったにもかかわらず、やはりほとんどの報道は、その可能性を実現できなかったのではないかと語られています。例えば、鷹取教会の焼け残ったキリスト像の前で、神父に「キリスト様が火を止めてくれたのですね」とあくまで言わせようとしたインタビュアー。神父さんは、「いや、火を止めたのは、地域の人々です」と、断固として抵抗する。
ちなみに、この神父さんは神田さんといい、駒栄南公園のベトナム人被災者の支援活動をしている人で、私もある集会で話を聞いたことがありますが、そこでは例の「ベトナム人が避難所から追い出されている」と言うのが、マスコミのつくったデマだったことを報告されていました。ベトナム人は自主的にテントに移った、日本人との間に軋轢が起こったのはその後、マスコミで「追い出されたベトナム人」が報道され、全国から救援物資が、「駒栄南のベトナム人宛」に集中し始めてからだったそうです。
「神戸」から2カ月後の「オウム/サリン」、見事なステレオタイプの「熱狂」を作り上げてくれたものです。
ある雑誌で見かけた中沢新一の、80年代オカルティズムの流行に自ら責任の一端を負うものとしての悲痛な反省とも読めなくはない一文だけが、この間、この件に関する発言として唯一読むに耐えるものでした。
明日、日曜日、天気がよければまた神戸に「遊びにいく」つもり。では、また。
日曜日(5月28日)の未明、サハリンでマグニチュード7.5とも7.2ともいわれる地震が発生しました。今日現在、未だに2、000人以上が、倒壊建物の下にとじ込められているといわれています。半年近く前の神戸の光景と、ほとんど同じものを見るにつけ、やり切れない気持ちです。自分の近くで同じことが起こらない限り、他人の恐怖や苦痛に対して想像が及ばないというのは、恥ずかしいことではありますが。
神戸の人達も、きっと恐怖と悲しみを新たにしたことでしょう。
AMDA(Association of Medical Doctors of Asia、外国人労働者の医療支援グループ、神戸にも3月末まで常駐していた)の先遣隊は既に月曜日、抗生物質など緊急医療品100キロとともに、北海道女満別からチャーター便でユズノサハリンスクまで、そこからロシア軍の軍用ヘリコプターでさらに北に700キロ離れた現地入りをしたと伝えられています。神戸のNGO協議会も、AMDAのルートを使って緊急物資を送る手筈をととのえたそうです。兵庫県庁も、ロシア国大阪総領事館に弔意を伝えるとともに、外務省を通じて毛布300枚を送る準備をしていると言います。1月18日だったろうか、新潟市の水道局前に集結した給水車が神戸に向かって出発するのをテレビで見て涙を流したこと、2月半ばの魚崎中学のフリーマッケットで、韓国産のチョコレートや、イギリス製の生理用ナプキンを見たときの感動をまざまざと思いだします。
1月17日の朝、前夜の二日酔いのため、震度5にも関わらず起き出すことができず、本棚から飛び散った本を片付けることもせぬまま眠りこけ、ようやく8時ごろスイッチを入れたテレビで、住吉駅構内で横転している阪神電車の車両の、ヘリコプターからの映像を見て事態の深刻さを思い知ったという、おそらく一生消えることのない恥の記憶をもつ私は、今回もまた、ようやく火曜日になって、たまっていた新聞を読んでこの地震の発生を知ったという有様。
何よりも、人々の反応の早さに驚きます。1月17日の場合にも、私がようやくテレビのスイッチをひねった頃には、既に有り合わせの物資をリュックに詰めて、神戸を目指して自転車やミニバイクで出発した、決して少なくはない人達がいたのですから。
誰に頼まれたわけでもないのにコンピュータにのめり込んだりして寝不足が続いていた私は、火曜日も体調が最悪で、ようやく昼ごろ起き出して新聞でサハリンの地震の記事を発見したとき、たまたま京都では京都府南部を震源とする震度2程度の地震が発生しました。地面が揺れるのは本当にたまらなく不安です。本格的な太平洋プレートの移動が始まっているのかも知れません。「地震予知連絡会議」はサハリン地震を機に、新たな警告を発したそうです。しかし、必要とされているのは、「一般的な」恐怖をかもしだすことではなく、ましてやオウムとからめて「世紀末」を得意げに語ったりすることではなく、「具体的な」人々の恐怖と苦痛に心を寄せることなのだと思います。
朝日放送、午前一時ごろ、「瓦礫の街から」。震災後の神戸を伝えるほぼ唯一のこの番組については、****さんから聞いてはいたのだが、見るのは今日が初めて。
山陽電鉄の駐車場用地にテントで暮らす在日の一家。
保育園の保父になるのが夢で、「ゴム屋(ケミカルシューズ関連産業の一つ)になるのはいやや、朝鮮人やからそれしかなれへんと思われるのはいややし、ほんまにゴムやりたいやつが、朝鮮人やからゴム屋になったんやて思われたらかわいそうやし」と語る19才の少年。彼は、震災後両親のゴム工場が営業縮小に追込まれる中で、専門学校にいくため新聞配達の奨学生に申込もうと電話をするが、「国籍」条項により、断られてしまう。再開した工場で、両親を手伝い始める彼。
50年前、結婚間もない夫を日本軍にとられ、遺骨さえ受け取っていないというおばあさん。震災後、倒れた家から真っ先にとりだしたのは、夫の写真だった。70才も過ぎてから、日本語の読み書きを憶えようと通い始めた夜間中学で、先生やクラスメートと無事を祝いあう。校舎がすっかり倒壊し平な更地になってしまったこの中学は、3月9日に私が、番町集会所のおばあさんの指輪を求めてはいった倒壊家屋の隣にある丸山中学西野分校ではないか。
地方参政権すら奪われた在日が、行政の復興計画に対するオールタナティブを提出しようと、「アジアン・タウン」構想を熱っぽく議論する人々。4月末の大阪での、RINK(すべての外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク)主催の被災外国人の救援活動の報告集会で、私も、この構想の報告を聞いたが、コリアン・タウン、チャイナ・タウン、アジアン・タウン、ジャパン・タウンが中央広場を囲んで展開するというこの壮大な計画は、10年20年かかるかも知れないし、また土地取得の面で、行政や日本人住民や、さらに在日内部でも、深刻な亀裂をもたらすかもしれない面は含んでいるだろう。でも、本当になにか未曾有のことが始まりつつあるのだと、深く感動したのを憶えている。
長田の街を歩き回ったからといって、そこに、ほんのわずかばかりの労働の痕跡を残したからといって、なにかこの街のことがよくわかるようになったなどと、奢った気持ちは持ちたくないと思う。でも、この街の映像は、地震直後に茫然と眺めるしかなかったあのときのテレビのなかのそれよりも、もっとちかしく、それゆえに胸詰るものがある。私にとって、神戸の経験は、それほどまでに、決定的だったのだ。
私が育った家(小学校に入る前に引っ越して来たから、ほとんど生家と言ってもいいでしょう)を見ました。ブロック塀は完全に倒れて庭が丸見えです。今はどなたが住んでいるのか知らないが、見覚えのあるバナナの樹がまだありました。家の前の坂がこんなに小さく、通りがこんなにも狭かったなんて。子供の頃と較べたら、街の様子はずいぶん変っているはずです。増して地震の爪痕はさらに深く私の記憶を引き裂いてしまいました。でも、自転車の上という「視線の高さ」のなせるわざ、夙川や香櫨園浜の堤防沿いを走ると、まるで同じ道を走った少年の頃が昨日の様に思い出されます。
しばし懐かしさと切なさに、涙しました。
東灘区森南町。神戸市の復興計画に住民千数百名が署名を集め、NON!を突きつけたことで知られる場所です。見渡す限りの更地、すがすがしいほどに見通しがよくなっている。無論ここに住み慣れた人にとって、「すがすがしい」はずなどないのだろうが。
灘中央地区ボランテイアのテント村。張りめぐらされた万国旗が、不思議な印象を与える。80年代以降、着実に滅ぼされつつあった「自治」がこの街の至る所にしたたかに息をふきかえしつつあるのではないか、などと考えました。
灘浜では、巨大な「神戸市震災廃棄物処理基地」を見ました。数十万の人々の思い出の固着したものたちが、ここに集結されているのです。
自転車にのっていると、いろいろなことを考えます。でも、自転車のほどほどの速度のせいでしょうか、次々に忘れてしまうのがいいところです。
中央区や長田区はほどほどにして、今日はさらに西、須磨の方まで思い切って足を延ばしてみることにしました。晴れた昼間のせいかも知れません。多くの建物がすでに撤去されてしまったからかも知れません。2月初の夜間、車で訪れたときに感じた様なある種の「悲惨」さは、ふたたび見る月見山の街角には感じられませんでした。
いつかの夏、****の家に滞在した折、買物をしたコープ・コウベと、その隣の八百屋さんは、すっかり撤去されていました。自転車を下りて、記憶をたどり*****の家のあった路地に入ってみます。夜中にみんなでお酒を買いにいったデイリー・ストアは見つかりました。でも、どうしてもあの*****の住んでいたマンションは見つけられないのです。
やはり、あの更地がそうなのだろうか。
神戸の事にしつこくこだわりすぎていると感じられるかも知れません。でもやはり、こんな経験には、到底「慣れる」ことなんて、出来ないのです。
西宮から須磨まで、往復で50キロほどだろうか、さすがに足が棒になりました。すっかり日焼けもしました。こうしてセンチメンタル・ジャーニーを終え京都に帰りついたのは11時ごろ。神戸や芦屋、そして西宮の、今の風景を心に刻みつつ、「新たな出発」を期したいと思います。
本日阪急神戸線は、最後の不通区間西宮北口・夙川間の復旧が完了し、全線開通しました。いわば望郷の念に駆られて私も、昼ごろになってしまったが、神戸に向かって出発しました。通勤ラッシュの時間帯はとうに終わっているのに、十三駅の神戸線ホームは混みあっています。すべての案内板の「神戸方面」の文字にガムテープで覆いがかけられ人影もまばらなこのホームの風景に慣れすぎたせいか、震災以前の賑いが思い出せません。2月ごろのこのホームは、おそらく大阪に宿泊して西宮方面の復旧工事にむかうのであろう東京ガスや東海ガス、東京電力や中部電力の技術者であふれていましたが、4月のJR開通以降はすっかり客足も絶えていたのでした。夕べは徹夜の作業だったのでしょう、時刻表が一新され特急停車駅に「岡本」が加えられています。ホームの随所に、所々にガムテープの跡を残しながら「神戸」の文字が帰ってきました。
やがて余りに懐かしい「高速神戸」行きの特急電車が入ってきます。先頭車両に乗込みます。西宮北口で運転手が交代、前方で保線作業にあたっていた作業員が一斉に線路脇に退き、その中の一人が白い手袋をつけた手を大きく振り下ろし運転手に合図を送ります。信号が青にかわり、列車はゆっくりすべりだす。枕木の回りに敷き詰められた新しい砂利の白さがまぶしいほどです。「復旧」というよりは、完全に新設された高架橋に向かって次第に速度を増しつつ登りつめます。鉄道マニアには見えない中年男性が何人か運転席のすぐ後ろに陣取ってじっと前方を凝視しています。この車両の乗客のすべてが線路をみつめているようです。この5ヶ月間の昼夜をわかたぬ作業に投入されたすべての土木・建設関係の労働者、通信・保線関係の技術者の労働に対して私もまた、立ち上がって敬意を表したいと思います。
1月の末、まだ阪神電車が青木までしかつながっていなかった頃、列車が武庫川を渡って西宮市に入ると、車内の人々の会話が絶え、皆が一様に車外の光景にあるいは放心したようなあるいは悲しみに満ちた視線を送っていたのを思い出します。(一様にといいましたがあまり経験を美化してはいけません。そのときでさえ、スポーツ新聞のエロ記事を食い入るように読んでいる人もいて、そのふてぶてしさにある種感動したことも記憶しています。)あるいは4月ごろの通勤時間のJR新快速、高槻から乗ってきたサラリーマン風、列車が尼崎、西宮にさしかかるとそれまで熟読していたゴルフ雑誌から目を上げ窓の外を本当に苦しそうにみつめていたのを思い出します。サラリーマンらしからぬアシックスのリュックを持っていたから、あるいはこの人は長田のアシックス本社の社員だったかも知れません。
アッバス・キアロスタミの映画「そして人生は続く」のなかの、渋滞で立ち往生する車の窓から地震で倒壊した現場を無言でみつめるシーンを思い出します。たとえ他人の苦痛であれ、未曾有の苦痛の現場を無言でみつめる経験を、私たちは共有したのだと思います。そして、破壊が未曾有であったのと同じくらいに、「復興」もまた未曾有のものなのです。今日この列車の窓から、西宮北口から夙川まで一直線に伸びたまあたらしい高架橋を望むという経験に比すべき、参照すべき過去の経験を、おそらくは第二次大戦を経験した人達以外、私たちは一切持ち合せていません。
たくさんの保線作業員が線路脇に待機する高架橋を、列車は不安なくらいのハイスピードで駆け抜けます。この高架橋の下には「双葉筋」という商店街がありました。そこの本屋さんや文房具屋さん、レコード屋さんを、私は何度もおとづれたことがあります。中学高校時代のことゆえ、正確に思い出すことが出来ません。今となっては思い出す手掛かりさえ一切失われてしまいました。
やがて夙川の桜並木が前方に現れ、1月以来使われていなかった夙川駅西行きホームを通過します。岡本御影間の開通以降も夙川駅では、片側ホームだけでピストン輸送をしていたのです。この駅のホームを東から西に列車が通過するという、私が生まれて以来ずっと続いていたあたりまえの光景に加えられたわずか5ヶ月間の中断が、これほどまでに大きいとは。
三宮駅直前のJRとの併走区間、おりしも新快速が左手をならんで走っています。5ヶ月ぶりの神戸線特急、西宮北口の車庫に待機していたであろうこの車両も、どこか誇らしげに警笛を鳴らします。
三宮駅は昔ながらの混雑を取り戻していました。かつてはうんざりするほどのこの混雑も、今となっては懐かしいかぎり。御影までしか通じていなかった頃のこの駅は、仮設ホームに3人くらいしか人がいない淋しい場所でした。
阪急電車にのって神戸に来ることだけが目的でしたから、別に神戸に着いても用事があるわけではありません。漫然とセンター街を歩き元町へ向かいます。いたるところ、建設工事の機械の音であふれています。この5ヶ月間、神戸の街は様々な音に彩られてきました。2月ごろは救急車や消防車のサイレン、旋回するヘリコプターの爆音。やがてそれにかわって解体工事の大型工作機の音。そして建設工事の音に交じって商店街の音楽やアナウンス。2月の西元町商店街で、その頃初めて営業再開したパチンコ屋の音楽を耳にしたときの不思議な感動を思い出します。
トア・ロードの三宮一貫楼。プレハブ仮店舗の看板に「がんばれ神戸!!がんばれ豚まん!!日本一、三宮一貫楼」とある。イクスクラメーションマークの位置を間違えたのだろう。豚まんにどうがんばれというのか。でも神戸のために「がんばる豚まん」を思い浮べると、微笑ましい。
センター街を歩きながら、不思議な違和感を感じました。逆「時差ぼけ」のようなものです。これまで神戸に来るには、JR一本で来るにせよ、代替バスを乗り継ぐにせよ、それなりのふだんとは違う手続きがあり、それが、屋台やプレハブで物を売ったり、傾いたまま放置された建物があったりするこの街の非日常との距離を保証していたわけです。河原町の自動改札に切符を差込み、三宮で料金清算をするだけで、この街についてしまうのは、いわば、速すぎるのでした。
南京街の東栄商行で、きざみほししいたけとビーフン、キーマン紅茶を買いました。林商店の屋台では、そろそろ空腹にたえかねアゲパン2個200円を食べました。ここの店先でアゲパンや胡麻団子を売っている少し日本語のたどたどしい中年の女性は、ニューカマーかもしれません。
帰りは各駅停車。王子公園で大量の女子学生が乗込んできます。昔ながらの神戸線の光景です。曇空の神戸・西宮を後にして、高槻の仕事場に向かいます。
各駅に掲示されている阪急電車の「ごあいさつ」には、「公共交通の使命を肝に銘じ、私たちを育ててくれた阪神地区の完全復興に、微力ながら貢献させて頂きたく」とある。私もまた、この六甲山の懐に抱かれて育ったものの一人として、この街をこれからも、いつまでも、見守っていきたいものと思っています。
なによりも、1月20日留守番電話から****の声が聞こえてきたときの喜び、東京の****君におそるおそる電話をして家族の無事を聞いたときの喜び、西宮に住む大学時代の友達から電話をもらったときの喜び、そして、レンタカーのトランクに水を満載して実家にでかけた2月はじめ、瓦礫だらけの街の中を、すでに通学を始めた上が原中学や西宮北高校の生徒たちの列をみたときの感動を、ただ人が生きているという事実のみに基づく感動を、決して忘れないでおこうと考えています。
大げさに聞こえるかも知れませんが、神戸はすべてを変えました。あらゆる思想、信念が、神戸を参照基準として点検され、検証されました。これに耐えないものはすべて破棄されねばなりません。マグニチュード7に耐える思想を持ちたいなどとは思いません。マグニチュード7の苦痛の中でともに慟哭し、悲嘆にくれながらもなお希望をつむぎ出すような思想を持ちたいと思います。
今日は、とりあえず阪急全線開通の報告まで。三宮で買った神戸新聞の一面を同封します。
もはや「春眠あかつきを覚えず」という季節でもないはずなのに、この眠さは何だ。寝ても寝ても寝ても、なお眠い。ときどき所かまわず、矢のように睡魔が襲ってくる。それも一日に5回も6回も。そんなときは易々と屈伏して、ただ眠るしかない。「ゴールデン・スランバー」という曲があったが、まことに「黄金のまどろみ」である。老人は、猫と同じで、一日に何度も何度も小出しにして眠らないと疲れが回復しないのだといわれるが、私も年を取ったということだろうか。
先ほどから一階から木魚の音が聞こえている。法事なのだろう。管理人の****さんのおじいさんが亡くなってもう何年になるのだろう。銀閣寺に住み始めてから7年?、長居し過ぎたようにも思うが、今となっては生活のあかがこびり付いて、もはや動くことも出来ない。
このあたりの街も、何も変っていないようで少しずつは変ってきている。京銀ハイツの隣の、「京都ようかん」のビルは、一時期「住いのリフォーム」ショールームだったがこれも短命で、今は改めて工事が始まっている。白川通コンビニ戦争に勝利を収めたかに見えたローソンも一軒は廃業し「ビジョン・ネガネ」に変った。
この間久しぶりに別当町あたりまで歩いてみて発見したのだが、もと信用金庫かなにかの店舗だったところにあまりはやりそうもないフランス料理屋ができていたのだが、それが早くも様変わりして、「K’S」バーになっていた。京都でははやらない飲食店はことごとく「ザック・ファミリー」か「K’Sファミリー」に接収されてしまうのだろうか。
「K’S」バーといえば、私も「羽振りがよかった頃」はよく行ったものだ。「いちびった」あるいは「ハイソな」いやな店だが、午前3時までやっているそうだ。夜中にお酒を飲みに行くのに「ザック・バラン」と「CBGB」しか選択肢がない状態にいいかげん飽き飽きしていたから、ちょっとうれしい。
でも、誰と酒を飲みに行くと言うのだろう。これは絶対に錯覚だとは思うのだが、昔は人とお酒を飲むのがもっと楽しかった!!
「昔は、もっと」ついでに。一昨日の金曜日珍しく塾から早く帰ってこれた。「大国屋」で買物をし、料理をし(メニューは先日南京街で買ったビーフンのスープだ)、テレビのスイッチをひねると、「探偵ナイト・スクープ」だった。ここしばらくずっと金曜日が仕事だったから、見るのは一年半ぶりくらいだと思う。やはり、面白い。やはり、懐かしい。毎日あほみたいにテレビを見て、「TRETLITH」や「スペース・ジャンキー」をして、ビールばかり飲んでいた日々。懐かしい。でも、あまりに遠い記憶のようにも感じられる。
今日、手紙に書こうと思ったのは、もっと古い話。老人の繰りごとに過ぎないが、これも口承文化のひとつと思って我慢してきいてほしい。
本日6月18日が何の日か知っているだろうか。そう、京都大学の創立記念日である。18年前の今日、京都大学評議会は「反戦・自由の砦」の創立を記念すべきこの佳き日に、経済学部助手竹本信弘に対する「連絡不能」を理由とする「分限免職処分」の決定を賛成多数で可決した。早朝から時計台一階に座込んでいた我々は、既定方針通り、京都大学総長岡本道雄の要請に基づき時計台を包囲していた京都府警機動隊によって、一人ずつ「ゴボウ抜き」にされ、「平和的」に排除された。ジェラルミンの盾の列の間を両腕を抱えられて連行されながら、おめでたくも私、おそらく私たち、はまだ、採決による勝利を5分5分の可能性で読んでいた。採決の決定的瞬間に会議場の二階におらず、怒りをもって突入すべきときに機動隊の包囲の外側で時計台を茫然と遠まきにすると言う無残な結果をもたらしたこの早すぎる「武装解除」が、当局と「白樺」派との密約の内容であったことを知ったのはもっと後のことだ。私たちに楽観的な読みをさせたガセネタももちろん「白樺」の仕業だろう。
2年後、全学学生自治会同学会新政権はこの日の「敗北」に至るすべての事実を明らかにし、全面的に自己批判する文書を発表した。その頃完全に「ひよって」いた私は、その文書を強烈な違和感とともに手にしたのを憶えている。一握りの陰謀集団によって「踊らされていた」に過ぎない愚かな者たちとして自分たちが描かれることも不愉快だったが、あらゆる運動につきものの裏切りや陰謀にも関わらず、その運動にただ一人でも「大衆」が関与したかぎり、運動の生命は防衛されなければならないと思った。その年の4月に入学したばかりの私は、「組織者」であるよりは、より大きく「大衆」の一人であった。
もともと「赤軍派になる」つもりで大学に入ってきた私は、4月28日の時計台前全学集会に向けての熱狂の中に、否応なく、いや、すき好んで巻き込まれた。この集会の参加者は公称1、200、実際にも800はいただろう。東一条から百万遍まで敢行された「無届け」の「フランス・デモ」(道幅いっぱいに手をつないで広がるやつ)には警察も手だしができなかった。
6月中旬評議会決定の見込がうわさされる中で、6・14教養部代議員大会、スト権確立、評議会情勢に応じてストライキ突入という方針の下で、連日の「怒涛のような」「クラス入り」が開始された。朝7時、「尚賢館」結集、簡単なうち合せの後教養部正門前ビラまき。毎日新しい内容のビラを1、000部用意した。8時50分の一時限め開始とともに、あらかじめの分担に基づいてクラス入り。語学などのクラス授業に介入して、討論を組織し最終的には代議員3人を選出させる。「尚賢館」の壁には、大きな模造紙に各クラスの討論組織状況の一覧が張り出されていた。すでに4月17日の三里塚集会で「デビュー」をはたし、ものずきな一回生として「将来を嘱望」されていた私は、とりわけ政治意識が低いとされている工学部に所属していたせいもあって、20クラス以上もある一回生工学部クラスを中心に討論の組織を任されることになった。
教養部の半数が工学部である以上、代議員大会の成否は、工学部の組織化にかかっていることは誰もが認識していた。でも、民青すら手だし出来ない膨大なノンポリ層。はじめは全く無理とも思えたが、やがてここに一人あそこに一人と、話を聞いてくれる人が現れ始め、「尚賢館」の壁の一覧表にも代議員選出を示す赤旗マークがつきはじめた。
人間は変化することが出来る。働きかければ、必ず反応を引出すことが出来る。逆に、働きかけなければ、絶対に、反応を引出すことは出来ない。「しつこすぎると嫌われる」と言うのは、こと政治運動に関するかぎり、何もしないことの言い訳に過ぎないこともわかった。そして、より危険なことだが、人を否応ない変化に誘い込む、「権力の味」も知った。
6月14日、すでに選出代議員数は定足数を超えていたが、当日本当に出席してくれるかどうかは、前夜の徹底的な電話オルグにも関わらず、自信がもてなかった。議会制民主主義に大した敬意をもっていない我々は、当然のように出席数の水増し工作の準備をしていた。法経一番教室の入口でいわば二重帳簿を操作していた部隊と会場内との伝令をしていた私は、出席者の実数が「本当に」定足数を超えてしまったときの、文字どおりの「うれしい悲鳴」を今でも忘れることが出来ない。
代議員大会などと言うものは、成立さえさせてしまえば、必ず議案は通る、それどころか、最も「左の」路線に傾くものだ、といわれてはいた。しかし、会場の議論の行方は我々「組織者」の予想をはるかに超えた。無理やり頼み込んで来てもらった筈の「一般学生」の代議員たちが、次々に壇上に頼まれもせずに登り、あまつさえ「無期限スト」などの「極左路線」をぶちあげたりしている。
6月17日、評議会決定の前夜、同じく法経一番教室で開催された総長団交には教養ぶを中心に、500名以上が結集した。すれっからしの活動家の追及にはのらりくらりと返答をかわす技を身につけていた総長岡本も、かわるがわるマイクをつかんで立ち上がる「ノンポリ」教養部生の発言には明らかに動揺している。私たちは、少なくとも私は、勝利を確信していた。
運動と言うものは、勝つにせよ負けるにせよ、始めるよりも、終わることの方が難しい。「白樺」をめぐる混乱のなかで、もちろん当時の私にはその辺のことはよくわかっていなかったが、暫定的に出された「報復戦貫徹」の方針。処分賛成派の評議員の研究室に夜間、乱暴ロウゼキをはたらいたり、農学部グラウンドで早朝ゴルフの練習に現れた岡本にささやかな「テロ」を加えたりといった、「不毛な」闘いに対して活動家が一人減り、また一人減りする中で、あまりなにも考えていなかった私は、このささやかな「破壊活動」を結構楽しんでいたような気もする。だが、運動の高揚期には、えらそうに現れて「断固たる」決意を述べたりしながら、退潮期の「尻ぬぐい」が始まるとさっさと消えて行った人達への恨みはまだ消えていないかもしれない。
同学会OBたちは、次世代指導部形成のため教養部の主だった活動家を集めて「研究会」などを始めた。無内容な「単ゲバ」と思われたのだろう、私は誘われなかった。連日の「不毛な」「破壊活動」に疲れ切っていた私は、その「サロン・マルクス主義」を糾弾するつもりで、一人乗込んでみじめにも泣き出してしまったと言う、情けない記憶を持っている。そのとき、レーニンだかなんだかの読書会を主催していたのが、現在阪大か神戸大か忘れたが教授におさまっているI氏だ!
何だか、下品な暴露記事めいてきたからそろそろやめるけど、もう18年も前になるこんなささやかな記憶にいまだに私が「こだわって」いるのは、別にそれが「青春の記念碑」だか「墓碑銘」だかであるからではなく、また誰に恨みがあるわけでも、悔いが残っているからでもなく、あれは疑いもなく「勝利」の経験だったからだ。空間を支配する「権力」、「権力」の支配する空間。ストライキ中の教養部を満たしていた空気の「におい」、あれはミニチュアではあるが、「権力」そのものの「におい」だった。
やがて、そのミニチュア権力が包囲され、本来の権力に奪い返され「秩序」が取り戻される。その「潮目」の変化、「風向き」の変化に気がついたときは大抵、もう遅いのだ。別に自分の個人的経験を過大評価するわけではないが、その「潮目の変化」は、より大きな文脈のなかで、戦後の大きな歴史的転回と連動していた。おりしもその年の5月、三里塚では鉄塔が撤去され、一人の活動家が殺された。翌年の管制塔占拠はすばらしい勝利だったが、その後の官公労に対する徹底的なパージは、国鉄分割民営化のさきがけを成すものだったろう。同じ年の8月には、狭山裁判の上告棄却決定。思えば77年はとんでもない年だったのだが、忙しい闘争スケジュールをこなすだけの私たちには、おそらく、その後の「戦後政治の総決算」は全然予想できていなかった。
18年たった。今になってこんな昔話を蒸返すのは、別に自慢したいからでも懐かしいからでもない。やっとこの1サイクルが円環を閉じようとしているように思われるからだ。1995年1月17日以降、私はやっとのことで、新たな参照基準を手に入れることが出来たかもしれない。
ということは、ひょっとしたらこれからまた18年間、神戸の記憶だけをたよりに茫然と生きて行くことになるのかもしれないのだ。生涯にたった2つの記憶しかないとは、何と愚鈍な人生!
「6・18」18周年記念によせて。ながらくご静聴ありがとうございました。