5回目の春 1・2
- 1995年8月15日
敗戦50周年に寄せて。
お盆のさなかの大阪の市街地、車の流れもありません。西区区民センター、物々しい機動隊の警備、それ以上に物々しい覆面、サングラスの「集会防衛隊」。真夏の昼下がりの路上での、両者の小競り合いは、懐かしい光景ではありますが、今日この場に集まった数百名を含め、各地で行なわれたであろう同趣旨の集会に結集した人数は、しかし「玉音放送」の時刻にあわせて「英霊」に「黙祷」をささげる「靖国」に集った人々に比べ、吹けば飛ぶような人数に過ぎないことを思うと、少しうそ寒い気がします。
いまは亡き「総評」であれ、「社会党」であれ、「原水禁」であれ、戦後50年にまさかこんな状態になっているとは、10年前、20年前に想像できたでしょうか。
今日私が参加した、「反戦」と「戦後賠償要求」、とりわけ軍隊「慰安婦」に対する「民間基金」構想に反対する趣旨の集会は、中核派系のものですが、集会呼びかけ人の中には、必ずしも同派の系列とは思えない人々も名を連ねています。それだけ、旧来の非代々木系左翼の結集軸が少なくなっているのも確かですが、危機的な状況の中で、それなりの「統一戦線」の気運が生まれているとも言えます。
呼びかけ人の一人の救援弁護士が述べていたことですが、どちらを向いても絶望的な状況ではあるが、50年をへてとにもかくにも侵略戦争の放棄を明言した憲法が、改正されずにきたのは、大多数が自民党支持者で構成されるこの国の国民が、たとえ消極的ではあれこの憲法に対して支持を与えてきたからではないのか、この事実は積極的に評価すべきなのではないか、と、私も思います。
「物言わぬ大衆」に仮託して発言するのは、つねにほとんど「ファシズム」と紙一重です。「目に一丁字を持たぬ常民」の立場から知識人の「さかしら」を攻撃するのが、右翼のやりくちだったし、80年代以降の「戦後総決算」という大政治的バックラッシュもまた、「戦後民主主義」という「たてまえ」に対する「当たり前の国」という「ほんね」からの反攻、クーデターでした。「たてまえ」に「ほんね」を闘わせるのは、そもそも「闘い」ではないと思います。「ほんね」が勝つにきまっているのですから。
しかし、同時に「たてまえ」に過ぎない「平和憲法」が防衛されてきたというなら、それは別に、「党」や「運動」やひとにぎりの「意識的な人々」の手柄でもなかったのです。
50年前、見渡す限りの焼け跡と瓦礫の原で、疲弊しきっていたであろうこの国の国民がなした再建への決意と希望に、私はいまになって初めて、思いを駆せることが出来るような気がしています。ベルリンの焼け跡についてだったと思うが、ワルター・ベンヤミンが、すべてを失うことは絶望的なことであるけれども、それによって人ははじめて回りを見渡すことが出来るようになる、それは希望にほかならない、といった意味のことをいっていたように記憶します。
ピレネー山中で、ヴッシー対独協力政権の秘密警察に包囲され、絶望の中で自殺を遂げたこの人の言葉を思い出させてくれたのは、いうまでもなく50年後の今、そろそろ夏草のはえはじめた神戸の「更地」です。
今度の地震であっても、戦争であっても、人々が一様に「すべてを失った」わけではありません。失い方にも、苦痛にも、困難にも、それぞれの固有の程度と態様があり、人々はそれぞれそれを根拠として、固有の「希望」への権利を持つのだと思います。一様な「悲惨」への同情ではなく、必要なのは具体的な困難への、従って、具体的な「希望」への想像力なのだと思います。「平和」もまたそのようなものなのではないでしょうか。
敗戦後50年の年に、神戸で地震が発生したことは偶然に過ぎません。そこになんらかの象徴的な意味付けを与えることは拒否したいと思います。しかし、魚崎中学のフリー・マケットでずぼん一着さえ手にすることが出来なかったかもしれない身体の弱そうな初老の労働者とささやかな言葉を交わしたこと、鷹取駅前で労働相談所のビラをほとんど半泣きになりながら食入るように見つめていた建設労働者、家が全壊したので浜松の現場をやめて鷹取中学に避難しているというこの人の質問に何一つまともに答えられなかったこと、それらは、私にとってまぎれもなく「戦争体験」でした。
無力であるのは今に始まったことではない。また「力」を持つことが問題なのでもない。ただ、「平和」と「希望」について、今までよりは少しだけ具体的な想像力を持って、残された半生を生きていきたいと、ささやかに決意しております。
- 9月27日
昨日火曜日、「恋人たちの食卓」を観にいってきた。場所は三宮アサヒシネマ3、いつか**とサンパルのところで待合わせて3人で映画をみにいったことがある。あれは何の映画だったろう?
来る度に三宮も急速に様変わりしていく。ビブレ21のチケット「ぴあ」に立ち寄ったのだが、ここも全テナントが入れ替わって「リニューアル・オープン」、6階には「タワー・レコード」も開店した。「ヴァージン・メガストア」に次いで大規模レコード店の来襲である。三宮から元町にかけての地域は京阪神でも有数の優れた中古レコード屋の集中する地帯だが、だんだん商売も苦しくなってしまうだろう。
サンプラザ、センタープラザもオープンした。屋上はまだ撤去作業が続いているはずだし、内部でも所々、壁に埋め込まれた鏡に割れ目が走っていたりするままだ。
ここの3階に京阪神で最大のフロア面積を誇る「シンシン堂」が開店した。かつてブテイックが混在していたフロアを全部利用して、しかももとのテナントの一区画一区画がそれぞれ、「文庫」だの「社会科学」だのの独立したコーナーになっていて、従って各コーナー間の通路はきわめて広くゆったりとしている。震災前から計画されていたこの「京都資本」の殴り込みに対しては、震災を耐え抜いた「地元」・「ジュンク堂」に肩入れしたい気持ちはやまやまだが、残念ながらこれは勝ち目がなさそうだ。
文字どおり復興の槌音かまびすしいなかで、神戸の経済の「空洞化」が指摘されている。確かに鉄道、道路などの「インフラ・ストラクチャー」の再建はめざましかった。
なかば被災者を切り捨てた上での強力なインフラ整備で、県外・海外からの投資によって「復興」しようと言うのが、結局少しも「反省」しなかった神戸株式会社のやり口のようだ。復興関連の建設業などを除けば、雇用は激しく落込んでいるのではないだろうか。膨大な数の中小企業や自営業者が「再建」できずにいるのではないか。
いまでも、街角のあちこちに見える「がんばろう神戸」のスローガン、「・月・日、再開します!」などの看板は、やはり胸を熱くするものがあるが、一方で、もはやどうしようもないほどの大きな亀裂が生じはじめていることも認めざるをえない。
災難を被ることが、差別を産み出し、また既に存在していた差別を再編成する。
小学校低学年の頃だったと思うが、阪神香櫨園駅近くの43号線(まだ阪神高速神戸線のできる前)の歩道橋の橋脚にLPG輸送車が激突、爆発して、一帯が火災となり多数の死者を出したことがあった。深夜、ものすごい爆音に目を覚まし、窓を開けると北西の空が真っ赤だったのを覚えている。
その事故の後もしばらくの間、香櫨園小学校の体育館には、火災で家を失った多くの被災者が住んでいた。事故の衝撃、非日常の緊張に彩られた、初期の「慈愛」と「同情」に満ちた日々が過ぎ、何がきっかけと言うわけでもないが、ある臨界点を過ぎると、はっきりと「風向きが変った」のが子供心にもわかったように記憶する。「まだ、いるの?」「怠惰」「家賃がタダだから、」「働く気がない」「いつまでも、甘えて、」「迷惑」おそらく、今の神戸の避難所に対してと同じ様な言葉が、ささやかれていたのであろう。
**から聞いた話だが、「・・さんのお嬢さんが、夜、会社からの帰り道、近くのテント村のあたりで、ひっぱりこまれて、うんぬん」といった話もちらほら出てきているようだ。説明するまでもないが、これは、そのような事実が現に存在するか否かの問題とは別に、人々が、自らも一度は共有したはずの過去の困難を直視することに恐怖を感じ、その恐怖もろとも「一部の」人々に負の刻印を負わせて、それらを辺境に追いやることによって、既に回復された(!)日常を、断固として防衛するという、確固たる決意、欲望を現しているに過ぎない。これこそが、差別が生産され、再生産される場所なのだ。
- 10月7日
さる木曜日、「クレオ大阪西」(大阪の女性センターです)にて、「教えられなかった戦争・フィリピン編・侵略、開発、抵抗」なる映画を見てきました。「映像文化協会」という横浜の市民グループが、フィリピンNGOの協力(撮影後、既に3人がテロ、おそらくは撮影協力に対する報復、にあって命を失っているそうです)によって制作されたもの。
日本占領中の大量虐殺の証言。60年代から始まった日本の商社による伐採、今後100年経っても回復しないだろうといわれる丸裸の山々。熱帯雨林が失われたことで、土地の保水力が低下し、頻発する水害。洪水で農地は痩せ、海に流れ込んだ泥はマングローブを壊滅し、沿岸漁業を破壊する。そして、いま日本のODAによってすすめられる「日本向け」まぐろの漁業基地建設のために、軍によって住居を爆破され退去を強制される住民の映像に到るまで、過去から現在にかけてフィリピン人民に加えられてきたあらゆる苦痛の中で、三井・三菱・住友・日商等々、日本資本の関与していないものは一つもありません。
これまでも、「経済侵略」といった言葉でこれらの事実を分かっているつもりでいましたが、この映像は想像をはるかに越えるものでした。
「映画の出来」といったものについて、意見がありえないわけではありません。 でも、スクリーンの向こう側に映し出される「人間」とこちら側の「人間」との絶望的な距離を、どうしたらいいのでしょう。
「フクバラハップ」の創設メンバーのひとりという93才の老人は、いまなおスラムの中で住民達に語りかけ、「社会正義のために」人々を立ちあがらせようと活動している。映画の末尾は、この老人の、労働者と社会主義への信頼に満ちた言葉と、あまりに温厚な笑顔で飾られています。
いったい、これらの人々との間に「同じ人間としての連帯」などというものがありうるのでしょうか。こんな言葉を連ねてみることも、むなしく思えます。
ただ一つはっきりしているのは、我々には「絶望」する権利はないということでしょう。
映画の話をもう一つします。「暗恋桃花源」の監督はスタン・ライ、チラシを見るまで気がつかなかったが、昨年の京都映画祭参加の「飛侠阿達」がこの人の2作目なのだそうだ。そういえば、2作を並べてみると像を結ぶものがあるようなきがします。
チラシを同封しますので、チラシではオミットされている部分について若干解説を試みます。冒頭にわざわざ説明されていたように、「古代の戦乱」を避けて落ち延びてきた貴族達が、世界から隔絶された山中に築いた楽園「桃花源」は、そのまま、台湾の現代史。
怠惰な漁師が妻の浮気に絶望して家出する。川の濁流に巻き込まれて、気がつくとそこは桃花源。ときを忘れて平和に暮らし、すっかり心をいれかえて再び故郷に戻ると・・・。
その喜劇と交錯するのは、「暗恋」という芝居。48年の上海、正月まえ、しばしの別れを告げる男女。その後、二人が再会するのは、80年代後半、男の病床でだった。お互いが相手がまだ大陸にいると信じながら、台北の町に40年間暮らしていたというのだ。
「ときを忘れる」ことの苦悩が、2つの喜悲劇に引き裂かれながら語られているようです。
「飛侠阿達」もそうですが、ぜひもう一度ていねいに見てみたい作品です。
そんなところです。映画の話をかこうと思って、どうしてもうまく書けず、手紙が延ばし延ばしになっていました。
- 10月12日
火曜日(10日)にみた映画の話からしよう。
インドネシア映画「青空がぼくの家」。
理解への希望、とはいうものの、やはり納得できない、やりきれない印象の残る作品であった。祝日だったせいか、十三第七芸術劇場もかなりの人出で、目を真っ赤に泣きはらしている観客がいたりしたから、なおさらだ。
「岩波ホール」配給、ということもあって、ある種警戒はしていたのだが、これは単に「うまくない」映画とかいうものではなくて、(1)「悲惨な現実」といったものを開示しているようにみせながら、実は「解釈」を与えることで隠蔽している点で、(2)圧倒的な不平等を目撃しながら、なおかつ被差別者に「よい資質」を要求し、「明るい」被差別者の「惜しみない愛」によって差別者が救済されるという相も変わらぬ「アンクル・トム」的イデオロギーにおいて、文字どおり反動的である。
ジャカルタの会社社長、大ブルジョワの邸宅の一日が始まる。仕事一本で家庭を省みない父親。車を乗り回し遊び回る姉。母の死後、善良な召使達に(!)甘やかされて育った子供。毎日学校の送り迎えはベンツ。
農村から移住してきた家族。町外れのスクウォッター・キャンプで故紙回収で生計を立てている。村の学校をやめなければならなかった子供、故紙集めの途中ブルジョワ学校の窓から教室を覗き見る。泥棒と間違えられ、職員室に連行される。はやし立てるブルジョワの子供達。
と、いつのまにかさきの社長の息子は「くずひろい」の子供の「無二の親友」になっている(!)。姉が購読する高級ファッション雑誌を次々に持ち出し、仕事に協力(!)する、「召使」のつくった弁当を振舞う、「召使」の運転するベンツに乗せて旅に出る、父親からだまし取った金で故郷につれていく。まさに傍若無人としか言いようがないのだが、「善良」きわまりない貧民の子はその「友情」に涙し、「貧民」出身の「召使」達も、無理解な(!)父親や姉に対して「おぼっちゃま」を防衛する。どうして貧富の差があるのか、という子どもの問に対しては、「運命」「努力」という答が、「召使」の口から発せられるよう、用意されている。
「おぼっちゃま」の家出を機に、ブルジョワ家族の反省が始まり・・・・云々。
いかにスハルト政権の検閲がきびしいものであっても、それを理由にこの作品を防衛すべきではない。にもかかわらず、なおこの作品を見る価値があるとすれば、毎年「独立記念日がくる度に」警察によってスクウォッター・キャンプが焼討ちされる様を描いた映像が検閲を通過している事実の方ではないか。世界には2種類の人間、すなわち、「役に立つ」人間と「役に立たない」人間が、存在するということが、公然と承認されている事実に、我が「戦後民主主義」は戦慄しなければならない。
作品のタイトルは、スクウォッター・キャンプの「吟遊詩人」の言葉に由来する。青空を屋根とする「大きなおうち」のブルジョワ家庭に対するモラル上の優位性。観客は、「岩波」と、この作品を絶賛してみせた「朝日新聞」とともに、この言葉に安堵する。
- 10月26日
ながらく京都と高槻の往復ばかりの日々だったが、今日のOFFは久しぶりに大阪へ向かう。朝の中国語講座のおかげで、毎朝8時に起きるのは結構なのだが、結局その後新聞を読み、体操をし、朝御飯を作って食べると、ちょうど、10時ごろ猛烈に眠くなってくる。結局昼過ぎまで長々と昼寝をしてしまってあわてて仕事に向かうということになりかねない。今日も、家を出たのはようやく3時すぎだった。
心斎橋パラダイスシネマはアメリカ村のまん中にある。いつか**君と「お米ギャラリー」とかにいったときにも通りがかったWAVEなんかが入っているBIGSTEPとかいうあほみたいなビルの4階だ。チケットには最終回はこみますので早めにおこしくださいなどと書いてある、「恋する惑星」のテアトル梅田における異様なこみかたを思いだし(ここも同じ西武系だ)、早めに来たけれど客はポツリポツリ。やっぱり若いにいちゃんねえちゃん達はたまに香港映画見て結構ポップやんとかなんとかあほみたいなこということはあっても、台湾映画なんかにはあまり興味はないのだ、と少し安心する。
今日の目的は「多桑」(tosan)侯孝賢製作、呉念真監督脚本。
台北郊外の山村、金鉱の村。NHKの日本語放送(ラジオジャパン)のニュースが響く。岸首相とアイゼンハワー米大統領との会談、安保条約の改定問題云々、時代が50年代であることが日本語を解する観客にはわかるようになっている。坑夫として働く「とうさん」、語り手は息子、「とうさん」は「昭和4年」に生まれた。おかげで「僕」は昭和に14を加えると民国、25を加えると西暦の下二桁になることを覚えてしまった。ぴかぴかにみがいた靴、髪をきれいになでつけて「とうさん」は「僕」を連れて台北まで映画を見に行く。映画は「君の名は」。でも映画は口実に過ぎない。本当は映画の後仲間と飲み屋に遊びにいくのだ。「僕」は不機嫌な「かあさん」に下手な嘘をつかねばならない。
同じ鉱山住宅に住む「秋子」の駆け落ち騒動、相手は「とうさん」の弟なのだが、連れ戻されてしまう。「秋子」がその後同じ鉱山の別の男と結婚すると、「僕」に優しかったそのおじさんは鉱山で「自爆」して死んでしまう。「秋子」の泣き声と、それを責める夫の罵声が響き渡る鉱山住宅。
「とうさん」の末の弟が徴兵された。おりしも金門島をめぐって北京政府との軍事的緊張が高まっている頃だ。「とうさん」はいっちょうらの背広を着て、近所の仲間から借りた腕時計をはめて、南の故郷へ出かける。チラシやポスターの写真はこの時のもの。(英語版のタイトル「A BORROWED LIFE」に注目されたい。)
年月は流れる。ラジオジャパンのニュースはケネデイーの(ベトナム)北爆停止宣言を報道している。金鉱は疲弊しはじめる。閉山が相次ぎ一人また一人と村を離れる人々。「とうさん」もまた失業。質屋がよいと博打の日々。
「僕」は台北の夜学に通うため下宿する。ある晩、「とうさん」が訪ねてくる。黙々とラーメンをすする2人。「僕」の部屋で「僕」が買ったアメリカ製のエロ雑誌をじっと眺める「とうさん」。「でかいな、でも下品だ。日本の方がいい。」
金鉱から炭鉱に移って35年間務めあげ、55才で退職。1984年という計算になるだろうか。まもなく「じん肺」が発病。粉塵の微粒子が肺に沈殿し、肺胞を次々に冒してゆく病気、鉱山労働者の職業病だ。点滴と酸素マスク。入院と退院を繰り返す「とうさん」は、病気が一段落したら「日本」に行きたい、皇居と富士山をみたいという。でも、日本行を約束しあった仲間も、「じん肺」ですでに死んでしまった。
すでに結婚して台北に居を構え、自家用車もあるそこそこ裕福なサラリーマンの「僕」。「とうさん」は孫の話す北京語が聞き取れない。そういえば、弟の徴兵で故郷に帰ったとき「とうさん」の母親(義母)が「とうさん」の若い頃のエピソードを語っていた。「228事件」でこの村でも沢山の人が殺された。誰もが恐がって弔いもしないとき「とうさん」だけは、紙銭を燃やし続けたと。
5年後「とうさん」は糖尿病を併発、集中治療室に入院。危篤の報に集まった家族。ベッドサイドの「僕」に途切れ途切れの息で、ほんの少しでも眠れたらいいんだが、窓を開けてくれ、楽になるような気がする、という。家族が帰りかけた後、「とうさん」は窓から足を踏み外して転落、帰らぬ人となる。
小さな遺骨箱、「僕」は日本に出張することになった。
真っ暗な画面の中央に、こんな字幕が出る。
1991年正月12日
とうさんはついに皇居と富士山を目にする。
この日、東京は初雪
とうさんは無言だった。
そして、音楽が流れ、タイトル。幕。
私は、チラシをみててっきり「とうさん」が東京に行くんだと思っていた。だから集中治療室に入ってしまってからも、これはきっと回復してハッピーエンドになるんだと思い続けていたのだ。だから、この最後の字幕には泣かされてしまった。
他の人がこの映画をどんな風に見るのかは知らない。映画のチラシなんていつだってろくに見てない人が書いているのだろうから、別にめくじらを立てることもないのだろう。ただ、「国境を越えてシンクロするノスタルジックな風景」や「日本人には嬉しい衝撃」などという恐るべき無神経に改めて愕然とするだけだ。
「暗恋桃花源」を見たときにも感じたのだが、今の多くの台湾映画は、「時間をとり戻す」ことを問題にしているように思う。1895から1945までの日本植民地時代、1949から1986までの戒厳令の時代。なかったことにされてしまいかねない時間。
例えば今、私は映画の中に出てきた「228事件」なるものを調べようとして「チャート式世界史」をあるいは「イミダス」を繰る。「中華民国」という、APECにおいては「チャイニーズタイペイ」と呼ばれるこの「国」では、49年から86年までの間に国連からの追放というただ一つの事件しか生じなかったかのごとくである。
「世界史」から抹消された時間を取り戻す作業はまだ始まったばかりだろう。その中で、改めて「日本」との関係が、「国民党」との関係が、そして「中国」メインランドとの関係が、問いなおされるだろう。まだ少しも傷は癒されていない。台湾のとある鉱山の町に、皇居と富士山を見ることを楽しみに、ひっそりと息を引き取った人間が存在し得た事実を、「嬉しい」と表現できるほど、残念ながら我々は「円熟」していない。
午後9時の西心斎橋、「アメリカ村」なるつくりものの「若者の」街は相変わらずわざとらしいにぎわいを見せている。この街がいつにもまして寒々と感じられるのは、もちろん8日前の戎橋での「事件」のせいである。「APEC警備」のおかげで、街角の至るところ無線機を持った警察官の姿が確認できる。この圧倒的な警察のプレゼンスのもとで、あの野宿労働者の殺害は実行されたのだ。
「HEARTY WELCOME、やめよう路上駐車、やめよう不法就労」などといううそ寒いスローガンが「執行」されたのだ。
戎橋では、その中央にひっそりと花束や供え物が置かれているほかは、すっかり平常のにぎわいを取戻し、ここが「殺人現場」であったなどと言うことは、すっかり忘れられてしまったよう。初七日にあたる水曜日、西成区民センターで追悼集会が持たれたとの新聞記事を読んだ。
- 11月4日
最近見た2本の映画について話そうか。
大阪ミナミ、千日会館、若松孝二監督、町田町蔵主演、「エンドレス、ワルツ」。70年代に実在した「フリージャズ」の「天才」阿部薫と、もと女優、「エッセイスト」の鈴木某(どうしてこんなに名前が覚えられないんだろう、悔しい)との「駆け抜ける」愛憎と青春を描く。
誰にでもお勧めできる映画ではない。現に平日の昼間、閑散としたこの映画館に訪れた観客の大勢を占める「黒装束」の女性達と、この映画について共有すべき何物もない。ただ、私としては、スクリーンの両端にそれぞれ男女用の御手洗いがしつらえられている、古くさいこの映画館共々、この映画を愛する。
町田町蔵はすばらしい。私より4才若いこの「パンクロッカー」が70年代を「知っている」訳がない。古尾谷雅人を相手に、今から考えたらおよそ噴飯物の「70年代的」デイスクールで「議論」をする場面。この場面で会場から失笑が起こらなかった点について、私は千日会館の客に敬意を表する。これが「みなみ会館」だったらどうか。
私の観測する限り、若松孝二は大真面目である。「クスリ」で死んだ阿部薫の「伝記」を80年代「レトロ」ブームに出版社から要請され、「まだ、何も終わってはいないんです。経験として書くことなんて出来ません」と断った後、パンストで首を吊って死んだ鈴木某。
阿部薫の一見もっともらしい、しかし支離滅裂な議論、それは70年代の一つの「どうしようもなさ」を表現している。しかし若松孝二、かつて赤軍派に公然たる共感を表明したこの映画監督は、現在に於てもなお、あの時代に起こった全てのことどもを、「終わってしまったこと」として解釈することを拒否しているように思われる。
町田町蔵はすばらしい。「ロビンソンの庭」とは違って、わざとらしい「標準語」が一層この時代の「生硬さ」をきわだたせる。古尾谷雅人は、「ヒポクラテスたち」以来、70年代後期の「閉塞」の「生き証人」のように思え、親しみを感じる。
鈴木某を演じるのは、広田某(?)という新人女優。この鈴木某のかつての恋人、学生闘士を演じるのが「またしても」佐野史朗なのが笑える。「あふれる熱い涙」(ルビーモレノのデビユー作)でも、「東南アジアへの経済侵略を告発して組織から狙われる良心的な新進経済学者(?)」を演じて、その恋人役の戸川純(!)とともに、映画をブチコワシにしていたが、世間から見た「青白い、脆弱な」左翼のイメージはこんなものなのだろうか。まあ、若松孝二のやることだからいいけど。
「空港建設反対」の大断幕の傍でアジる佐野史朗の衣装は、白ヘルメットに赤字で「反帝」、えんじ色のウインドブレーカー。どうでもいい時代考証を付け加えておくと、白ヘルに黒字なら中核、赤ヘルに白字で「反帝」ならブント諸派の反帝戦線、えんじ色のウインドブレーカーなら開港阻止決戦(78、3、26)のときの第4インター。
映画のチラシなどでは、日本版「シドアンドナンシー」といった説明も見受けられる。たしかに時代も近いし、駆け抜ける「速度」がここでも問題になってはいた。でも、違うんだよなあ、と言いたい。およそユニバーサルな青春などと言うものが存在するのだろうか。青春が問題なんじゃないよ。私は70年代が懐かしいんじゃないよ。何も答えられてない、何も受け取ってない、何も解決してないから、終わらせるわけにはいかないんだ。
もう一本の映画は「イッツオールトウルー」、80年代になって発掘されたオーソンウエルズの40年代の未完成フィルムを編集し、インタビュー等を付け加えたもの。パールハーバー直後、米国政府の戦時文化政策の意をうけてハリウッドは「市民ケーン」で鳴り物いりのデビューを果たしたオーソンウエルズをラテンアメリカに派遣する。とりわけブラジルのバルガス軍事政権は親ナチ傾向が強く、映画によって「アメリカ」の「一体性」をプロパガンダしようとしたのだろう。
しかし、そこでオーソンウエルズはとんでもない映画を作ってしまった。カーニバルの映像を「観光資源」として撮ることを期待されていたにもかかわらず、次第にサンバというものの起源をなす黒人運動ないしは宗教(ブードウーとあるが今日から言えば正確ではないのではないかとも思う)へ関心を移しはじめる。オムニバス形式のうちの一作「サンバ」の無声のラッシュを見たハリウッドのプロデユーサーは「なんだ、黒人が飛び跳ねてるだけじゃないか!」と言ったという。
さらにもう一つの作品「いかだの4人」が決定的だった。ブラジル北部の漁村の漁師達が、船主の搾取に耐えかね漁民組合を結成した。その総意を受けて4人が、年金制度確立等の要求を大統領に直訴すべく、6本の丸太をつらねた筏で、リオデジャネイロまで2、000キロを61日間をかけて航海するという事件が当時のブラジル社会を賑わせていた。4人は英雄扱いで、大統領にも「あたたかく」迎えられたが、口約束は果たされず、状況は変わらない。オーソンウエルズは、その漁村に向かう。長期間にわたって生活を共にし、村民の全面的な協力を得て61日間の英雄的な航海を再現する映画を撮影しはじめた。
ブラジル政府も観光振興につながらない映画の撮影に難色を示しはじめる。USA政府も、ハリウッドも同様。4人の漁民は「コミュニスト」、オーソンウエルズも「コミュニスト」といったお決りのキャンペーンが始まり、RKO社は正式に撮影中止を通告する。すでに4人のうちの一人の漁師を撮影中の不慮の事故で失うという痛ましい犠牲を払っていた。後に引くわけには行かない。手元に残されたわずかのフィルムと機材で、創意工夫に満ちた、感動的な作品が生まれた。「俳優」はほとんどが素人の漁民。極端なクローズアップと仰角撮影、「市民ケーン」以来のさまざまな斬新な方法も駆使されている。
モノクロ、無声のこの作品が、今回のドキュメンタリー作品の後半部分にそっくりはめ込まれている。
「我々漁民には何の遺産もない、我々の遺産はこの映画だけだ、この映画で、世界が変わる」、「4人」の子孫達は父親の生前の言葉を伝えている。
まことに不覚にも、睡眠不足のせいか、少し眠ってしまった。ぜひもう一度見ておきたいと思う。
祝日、何の祝日だっけ、「文化(?)の日」、しかも連休初日の梅田など出かけるものではない。
EST1の近く、ヤンマーのビルの前辺りで、一人の初老の男が自転車のかごにメガホンを置いてなにやらアジっている。後ろの荷台にはベニヤ板で看板がしつらえてあり、模造紙にびっしりと「私は田中角栄に殺されかけた、竹下の手先に轢き殺されかけた、広島刑務所にいる間云々」と書き込まれている。
奥崎謙三を思わせるような風変りなレトリックだが、驚いたのはこの男性がマイクを通して話している言葉が、私の耳に間違いがなければ、中国語なのだ。
私服警官とおぼしき男に何事か耳打ちされ、彼はあっさりと演説を中断して自転車をこいでどこかへ立ち去った。「何事もない」雑踏が「取り戻され」る。
答えられていない問いは、問われ続ける。賠償(REDRESS)される前に表明(ADRESS)されねばならない。「戦後50年」の均質な空間は、これらの問いによって切り裂かれる。
- 11月24日
映画の話でもする。
水曜日にみたのが、大森一樹監督「緊急呼び出し(エマージェンシー・コール)」。芦屋のマンションに住む大森一樹が、半壊のマンションからすでに1月20頃にはフィリピンに旅立ち撮影した作品だ。
真田広之扮する「ドクター・原田」は、もと「三友商事(三菱商事あるいは三井物産+住友商事?)」のエリート社員としてフィリピン勤務。婚約者である「大学時代のヨット部(!)の後輩」の女性が同級生の病院長の息子(大江千里!!)と結婚してしまったことへの腹いせに、フィリピンで(!)医者になることを決意する。今はマニラ近郊の「東洋一のスラム」トンド地区で国立病院の医師をしている。トンドで育ち、マニラの歓楽街でダンサーをして働く16才のカティーと言う少女、トンド地区のクリニックの医師の娘ニッキー、いまは原田の同僚でもあるこの医師は、実はクリニックに置き去りにされた捨子だったことが明かされる、その二人の女性との「愛憎」を軸にスラムに生きる人々、そこで働く「物好きな」日本人、そしてスラム出身ではないフィリピン人の医師たち、を描いた作品と言うわけだ。
原田の「カティー」への思いは「純粋」なわけではない。ストリップの現場を抑えられ、警察にパクられたカティーを、原田は警察に賄賂を贈って釈放させる。法外な賄賂を要求する警官の腐敗をののしる原田の論理は完全に倒錯している。しかも、カティーを警察から連れだした帰り道、原田は彼女をモーテルに連れ込んでいるのだ。たまたまカティーが生理中だったので、肉体関係が生じることはなかった。その後カティーは子宮外妊娠になり、原田自らが執刀した手術にも関わらず死亡する。
カティーの死に泣き暮れる原田。一度カティーが案内してくれたトンドのスラムにもう一度行ってみる。そしてついに、アメリカ合衆国での医師資格取得のための試験を棒に振り、フィリピン・トンドで医師として生きることを決意。
試験場に向かう原田を乗せたタクシー(バイクの横に座席をつけたもの、モーターサイクル・リクショーと英語では呼ぶのかな)、鮮やかにUターン、トンド・ジェネラル・ホスピタルにとって返す。
「お父さんのクリニックで、働かせて欲しい、君を手伝いたいんだ、ニッキー」、「それって、ひょっとしてプロポーズのつもり?、うぬぼれるのもいい加減にしたら?、目を覚まさせてあげましょうか?」、そうして二人の長いキス。ニッキーを手術室に呼び出す「エマージェンシー・コール」。二人は離れない、「これが今のエマージェンシーよ」、カメラが引く。スモーキー・マウンテン(メトロポリタン・マニラの巨大なごみ捨て場、トンドの人たちはこの山から屑鉄やビニールなどを集め、売却して生活する)の上空を俯瞰するカメラ、そしてタイトル。
いくつかの疑問はある。この映画には、他のいくつかの企業に混じって英会話の「ノバ」が出資しており、「英語」のシナリオを、その監修のもとに発売している。確かに真田広之も含め、英語はとても聞き取り易い。「勉強」のはもってこいかも知れない。だが、他のフィリピン映画を観た経験から断言するが、トンドの住民のみならず、マニラですら、こんなに英語が通じるわけがない。
スモーキー・マウンテンは、日本において一つの「はやりもの」である。テレビにもしばしば登場するのだろう。斉藤由貴が番組の収録でスモーキー・マウンテンを歩き、泣きだしてしまったとかいう女性雑誌の記事を美容院で読んだことがある。
もと日活の助監督出身で、フィリピン人の妻を持つ某によって撮られた、「スカベンジャー」という映画もあった。スカベンジャーとは、「ごみ拾い」の意味である。主観的な善意の明らかさに関わらず、まさに反動的な効果しか持ち得ない映画ではあったと思う。
「反動」のいくつかのパターン
1 この悲惨の原因は、先進国住民の「あなた」にある。でも、安心したまえ。「彼ら」は「意外に」明るい!
2 この悲惨の原因は、先進国住民の「あなた」にある。でも、安心したまえ。被抑圧者、労働者階級は、「立ち上がり始めている」!
どちらのパターンだったとしても、私はそんなにけなすつもりは、実はないのだ。シニシズムの方がもっと反動なのだから。
大森一樹のこの作品は、少なくともここはクリアしている。ただ、
3 「愛」の「普遍的な」かたち
という、最悪の解決は、なお留保されている。
様々な欠点にも関わらず、この作品を擁護しようと思う。
原田の錯乱した性格付けは、「理解」の困難性を示してはいる。
白々しい状況設定、うそ臭い会話は、この作品が「マニラ・スモーキーマウンテン」といった、その圧倒的なリアリティーにも関わらず、「寓話」に過ぎないことを明らかにしている。
フィリピンを「描いた」数々の日本映画、この映画であれ、「スカベンジャー」であれ、前に手紙に書いた「教えられなかった戦争・フィリピン編」であれ、ルビー・モレノ主演のいくつかの作品にせよ、すべてが「失敗」であるのは、仕方がないことだと思う。我々もまた、斉藤由貴と共に「泣き出す」以外のどんな態度をとるべきだったろうか?
「東アジア反日武装戦線」と「第三世界民族解放社会主義革命路線」が「我々」の「失敗」であった。
京都府立医大映画部出身で、医師免許を有する大森一樹らしく、内臓が体外に出たまま出産される「奇形」の子供について、ニッキーに、「この子はまるで私の国のよう、必要な内臓は揃っているけど、それが体外に出てしまっている」と語らせる。フィリピン共和国は、日本の一映画監督にこんな形で因縁をつけられるいわれはない。にもかかわらず、「ヒポクラテスたち」において、70年代後期の「反差別共同闘争」に対して、最大限の「理解」を示したことのある、この映画監督を私はとりあえず支持したいと思う。
木曜日、大阪南港の埋立地にそびえたつATC(アジア・パシフィック・トレード・センター!)。ここで催される、もちろんAPEC協賛企画(!)、朝日新聞も一枚かんで、またしても佐藤忠男(!)のセレクションによる、「環太平洋映画祭」(!)。
なんのポリシーもうかがわれない番組の選択、あいも変わらぬ凡庸な解説は毎度のことだ。観客も、ちょうど京都の国際交流会館の映画会に現われる「国際交流」マニア(!)と似ていて、無礼で偉そう、映画が始まってからも、背も屈めずに人の前を堂々と歩いて入ってくるのも同じ。公然と割り込みをしたりするくせに、係員には偉そうに説教をする。もっとも、係員もひどい。どこからかき集めた「友好」マニアか知らないけど、もう少し仕事をしたらどうだ!
映画は「ムアンとリット」、19世紀のタイが舞台。妻や娘が夫や父親の所有物として、自由に売買、質入れができた時代、ある修行僧への「愛」をきっかけに、「文字」と「権利」に目覚めたムアンという女性の物語、史実に基づくものだと言う。
ムアンの「闘い」と言いつつ、すべての動機がリットという僧への「愛」に還元されている点、封建領主、男権社会、仏教ハイアラーキーとの「闘い」も、結局国王の「開明的な」英断によって終結すると言う「落ち」は、やはり納得できないとはいえ、主演女優のきびきびとした演技が心地よく、2時間を越える長時間にも関わらず、なかなかに楽しめる映画ではあった。
夜8時のATC、「都市計画の失敗」と言う言葉を思い浮かべざるを得ない。奇をてらった細長い建物は、祝日の人手もあってほとんど機能不全をおこしている。通路、階段、エスカレーター、トイレ、素人からみてもすべてが使いにくく設計されているように感じられる。
にもかかわらず、港の夜は美しい。
来るときは地下鉄とニュートラムを乗り継いで来たのだが、行帰り違う道を使うのが私のポリシー、難波まで直行のシャトルバスに乗ることにした。30分以上待つが来ない。埋立地と「本土」を結ぶほぼ唯一のルートが、阪神高速湾岸線なのだ。震災による神戸線の不通で、多少の渋滞はやむを得ないだろう。
ポート・アイランドの神戸大橋の巨大な亀裂を思い出す。最新鋭の設備を誇る神戸市民病院は文字どおりの「陸の孤島」に取り残され、5000人の死者を出した災害時に、まったく何の機能も果たさなかった。
カエタノ・ベローソにこんな歌がある。
Everybody knows that the cities were built to be destroyed.
都市の「破壊」と「再建」の過程をつぶさに見ることができた今となっては、この「殺風景」なウオター・フロントの「ゴースト・タウン」にも、それなりの愛着が感じられるのだ。
アメリカ村のタワー・レコードでフェイ・ウォンの「Coming Home 」を買って、京阪電車に乗って帰った。
フェイ・ウォンのCDはとてもよかった。故郷の北京に向かう列車の車窓に物憂げにたたずむ姿が、ジャケットに描かれている。
- 11月28日
京都は紅葉のまっただ中。先週の週末が一番の人出だったようだ。
日曜日、私は京都を抜け出し、映画を見に行く。
高槻セントラル、「松竹百年祭」。松竹が百年な訳ではない。今年は、リュミエール兄弟の映画誕生から百年と言うわけだ。
日曜日の住宅都市の駅前の賑わいは、何か懐かしく、ほほえましい。慣れるにしたがって、この町もだんだん好きになってきた。この映画館は前に「阿賀に生きる」を観たところだ。「近郊住宅都市」の中でよくがんばっている、なかなかいい映画館だとおもう。
例えば西宮のような町にも、かつてはいくつかの映画館があった。成人映画専門館ではあったが、近年は映画産業自体の退潮の中で、それなりの創意ある企画をうちだしていこうとする機運も見られたように思う。
「今津文化」という映画館が今津駅の北側にあった。子供の頃から、ガード下なんかに貼られているけばけばしいエロ映画のポスターで、その名前はおなじみだった。ずいぶん古い建物だったから、震災では大きな打撃を受けた。でも、何とか映写機は無事で、2月ごろから「にっかつ」本社の支援も受けて、被災者チャリティーとして石原裕次郎や吉永小百合の映画などを無料で上映していたのだ。その「今津文化」がこの8月、同じくチャリティーの子供向けホラー映画とお化け屋敷大会をもって、正式に閉館することになった。これで、西宮の最後の映画館がなくなった。またひとつ映画の灯が消えたという、あまりに悲しい新聞記事を読んだ日、私はその劇場の姿を記憶にとどめるために、今津を訪れたのだ。
溝口健二「浪華悲歌」。1936年の作品。大阪の薬問屋に勤める「OL(!)あやちゃん」、父親は会社の金を横領、東京の大学に進学した兄は授業料の催促の手紙をよこす。同じ会社に勤める恋人の「すすむさん」は、まったく頼りにならない。妾にならないかと言い寄る社長。まったく男はことごとく、クズだ。
結局社長の愛人となって、アパートを与えられ、父の借金も完済し、あまつさえ父の再就職の道も確保した。兄の学資も肩代りした。社長の本妻にばれて、水商売へ。今度は薬問屋の取引先の旦那が言い寄って来る。
でも、「あやちゃん」は「すすむさん」と結婚したい。「ほんとに好いてくれてはるんやったら、うちの昔のことかて、ほんとのことゆうたかて、わかってくれはるやんなぁ?」
「すすむさん」に本当のことを話し、結婚を申し込むために、アパートに彼を呼び出した晩。折悪しくかち合った旦那の前で、「あやちゃん」は大芝居を打つ。「たかが、200円や300円くらいの銭で、たいそうにせんとってもらえまっしゃろか。うちにはちょっとこわい用心棒がおりますねん。痛い目にあわん内にさっさと帰りなはれ!」
旦那のタレ込みで、警察に連行される二人。(どうゆう容疑なのかは、私にはちょっとわからないが、)隣の取調室から「すすむさん」の情けない声が聞こえる。「僕はだまされとったんです、あんなこわい女やとはおもてませんでした、こんな話表沙汰になったら店にもでれんようになります、なんとか、、、」
もらい下げに来る父親、冷たい家族、冷たい食卓、「おまえとはもう兄弟ともおもわん」と宣言する兄は、自分の学資を妹が支払ったことを知らない。
再び家を飛び出す「あやちゃん」、道頓堀の戎橋にたたずみ、タバコをくゆらす。「ほんまに、この不良少女ゆう病気は、どないしようもないわ!」
カメラに向かって決然と歩き出す「あやちゃん」、そして幕。
文句無し、断固支持!
1936年という時代に、この様な作品をつくり得た日本映画、とりわけ京都の映画人を、あらためて誇りに思おう。
日も落ちて少し暗くなり始めた高槻商店街を抜けて、阪急高槻市駅から、今度は天六へ。中国映画祭。今日は久しぶりの映画の「ハシゴ」なのだ。
「レッド・チェリー(紅桜桃)」。
1941年の雪の夜、モスクワのイワノフ国際学院に、二人の中国人の少年少女がつれてこられる。受け入れの準備がない、と断わろうとする学校側。「中国はいま革命のまっただ中なんだぞ、送り返せというのか?」連れてきたロシア人将校。
不安げに見守る二人、もちろん言葉はわからない。やがて院長が、中国人の留学生を通訳にして、やって来る。「挨拶が遅れてすまなかった、二三質問をしたい、」通訳の少女の口から中国語が聞こえ、やっと二人の顔に安堵が広がる。 無事に編入することができた。最初に友達になったのがカール。中国人の母とドイツ人の父を持つ。「うぉー・しー・ちょんごー・じぇん」と下手な中国語で話しかけてきた。
二人の名前は、チュチュとルオ。
ロシア語の試験、教師たちの前で壇上に立ち、自分の生い立ちなどを語らなければならない。「私の名前はルオ、父は労働者、母は農民、、、私の祖国は中国、故郷は延安です!」と、朗々と弁ずるルオにつづいてチュチュの番。ほとんど同じことをしゃべろうとした彼女を、ヴェラ先生が制する。「本当のことを言わなければ、」
「私の名前はチュチュ、中国の四川の出身です、でも生まれたのはフランスのパリ、母は医者でしたが、本当は私を生みたくなかったのです。父と一緒に革命に参加したかったのです。ですから私は、はじめからよけいものでした。」
チュチュの声が涙につまり始め、流暢だったロシア語も、中国語に変わってしまう。
「父は革命で処刑されました。町の広場で、体をまっぷたつに切られて、それでもまだ生きていて、まだ革命をするつもりかと問われて、私にはもうできないが、子供があとを継ぐだろうと、私の方を見たのです。母は私の手を握り、私は涙を流しませんでした、、、」
やがて、夏休み、ベロルシアでのサマー・キャンプ。ちょっとしたトラブルがあって、ルオは参加しない。これが二人の永遠の別れになってしまうのだ。
ナチが破竹の進撃を開始している。キャンプ場は爆撃を受け、ドイツ軍に接収される。
ドイツ兵が我が物顔に闊歩する場所で、それでも授業などが続けられる。酔っぱらいのドイツ兵が教室に入ってきた。ヴェラ先生は決然と詩の朗読を続ける。先生の頭にピストルを突きつける兵士、恐怖に引きつる子供たち。
やさしかったヴェラ先生は、こうして殺された。「さあ、おまえたちは自由だ、バスケット・ボールをしよう!」酔っぱらいの兵士が叫ぶ。
子供たちが、川辺でおそらくドイツ軍の軍馬を洗っている。兵士の一人が、カールに目をつけ呼びつける。「おまえは、ドイツ人だろう、ジーク・ハイルといってみろ!」カールは応じる。兵士は故郷の話を始める。適当に話を合わせながら、カールは兵士の機関銃に手をかける。
「チュチュ、みんな!逃げろ!」銃を構えたカールが叫ぶ。
むろん、逃亡は失敗した。森の中に追いつめられたカール。捨身の攻撃にでようとするが、肝心の機関銃に弾がない。「くそ!、ドイツ野郎!、ファシスト野郎!」機関銃の一斉射撃にいぬかれながら、叫んだ最後の言葉。
町の広場に引き立てられた子供たち、チュチュも混じっている。見せしめの処刑が行なわれようとしているのだ。「誰か身代りになる奴はいないのか、誰でもいいから指をさせ、そいつが身代りだ」少女の頭に銃を当てながら叫ぶドイツの将校。結局「身代り」を「指名」できず、血の海に倒れる少女。
そこに「将軍」が、車でのりつける。この男の恣意的な指令で、チュチュを含む子供たちは「助命」される。
「将軍」の部隊が占領している修道院で、彼らは「召使」として使用されるのだ。すでに同様の運命にあったロシア人も何人かはたらいている。その中の一人のとりわけ美しい女性。「ここでは、私の言うことをきいた方がいいわよ。」
「将軍」の「芸術」は「刺青」だったのだ。
将校たちのらんちき騒ぎ、「哲学的な」会話と、支離滅裂な乱行。最後の「出し物」、全身に刺青を彫られてしまったそのロシア人の女性が、テーブルの上で全裸で踊らされるのだ。
チュチュが次のターゲットになってしまった。麻酔をかけられた間に、背中に第三帝国の紋章を彫り込まれてしまったことに気づいたチュチュは壁に背中をこすりつけて泣き叫ぶ。
一方、モスクワ。ドイツ軍の侵攻に備えてイワノフ学院も閉鎖する。残って戦う、といってきかない子供たち。ルオも前線に向かう赤軍兵士の群れに混じろうとするが、つまみ出されてしまう。まだ、幼すぎるのだ。
都市では食料の枯渇が始まっている。物乞いやかっぱらい、売血でなんとか生き延びるルオ。ふとしたきっかけから、父親のように面倒をみてくれる「区長」と出会う。
郵便配達の仕事にありついたルオ、手紙のほどんどが、前線からの死亡通知だ。 あるアパートの一室、死亡通知を届けにきたルオを出迎えたのは、ナディア。小さな女の子だ。「お母さんは、寝ているの、お母さんを起こさないで、」お母さんは、ベッドでおそらくは夫からの便りを待ちつつ、餓死していた。
ルオはナディアに持っていたパンを差し出す。「おとうさんからのおみやげだよ。」死亡通知の束を、道ばたに投げ捨てるルオ。と、ナディアがどこまでもついて来る。こうしてルオはナディアの「ぱーぱ」になった。
ルオたちは、仕事の合間、(仕事と言うのは、前線からの「今日はドイツ兵を一部隊せん滅しました、元気です」といったでたらめな手紙をでっち上げて、死亡通知の代わりに届けてあるくことだ)捕虜収容所に出かけては、パチンコで「果敢な」攻撃を仕掛けていた。ある日、些細な行き違いから、ルオは自爆することになる。
敗色濃厚となったナチは、撤退を始める。「将軍」は自殺。チュチュは袋に詰められ、厳冬の野原に投げ捨てられる。
終戦。赤軍の難民収容所、食べ物に群がる子供たちの群れの中にチュチュはいた。むさぼるように食べる彼女の顔にも、解放の喜びが見える。でも、裸になって風呂にはいるときがきた。頑強に抵抗するチュチュ。看護婦たちに無理やり脱がさせた背中から、、、
勝利の喜びに踊る兵士たち。その傍らでチュチュは、燃え盛る薪を背中に押しつける。
反ファシスト戦争の英雄として、最先端の医療技術を駆使して治療を受けることが約された。こうしてチュチュはモスクワに戻ってきた。
イワノフ国際学院の院長先生とともに、チュチュを出迎えたのは、ナディアだった。
「私の父はルオ、中国人です。イワノフ国際学院の生徒です。わたしの父の先生はヴェラ先生。父の祖国は中国、故郷は延安です」ナディアを抱きしめるチュチュ。
そして幕、チュチュはモスクワで数度にわたる手術を受けたが、いずれも成功することはなかった。チュチュは1949年に北京に戻り、1990年に没した。生涯未婚であったという。
2時間以上にわたる、この「全世界人民反ファシスト戦争50周年記念作品」こうして幕を閉じる。
もちろん涙脆い私は、終始一貫、鼻をぐすぐす言わせていたが、ナディアの「故郷は延安」のところでは、もう、「号泣」状態だった。
映画館の外に出たあとも、体が痺れたような感じだった。すぐに電車に乗って帰る気になれなかったので、天六から梅田まで歩いた。
すごい映画だった。「黄色い大地」を見たときと同じくらい、ぶっ飛ばされたような感じだ。
- 12月23日
クリスマス・イヴ前の2連休(土曜日は、アキヒトの誕生日!)神戸は空前の人出であった。こんな混雑は、震災後は当然、震災前にも見たことがない。阪神元町から歩いたのだが、南京町は動けないほど、どのレストランの前も行列ができている。最近再開したばかりの別館牡丹園前の行列に至っては宝くじか何かの売り場のよう。三宮センター街は、祇園祭りの四条通り状態。「十日戎みたいやね」と誰かの声が聞こえる。
おそるべし、神戸の吸引力はすさまじい。神戸市や商工会議所のきもいりで、JRや旅行代理店を通じての「そろそろあなたに会いたい神戸です」といった観光キャンペーンが効を奏しているのだろうか。大丸南の「旧居留地」では「神戸ルミナリア」なるライトアップが、おそらく巨額の費用をかけて行なわれている。北野町ではクリスマス・キャンペーンをやっている。
1995年のクリスマス、神戸の賑わいはもちろんうれしい。だがもちろん、何かが違う。
それにしてもこんな状態で、食事などできるのだろうか?
ともかく約束通り、阪急西出口前にオープンしたドトール・コーヒーにて**を待つ。
休日の今日も仕事があって、いま王子公園からついたばかりの**に、元町から三宮にかけてのすさまじい人混みについて報告。南側の観光スポットを避けて、阪急の北側を元町方面に歩いてみることにした。もっとも、こちら側は、確かに人出も少なかろうが、被害の激しいところだから営業している店も少なかろうが。生田筋も、ほとんど店のないトアロードも、通りには人があふれている。「あ、ここもこんなに並んでる!」みんな、それぞれに食事の場所を捜している疲れきった家族連れや若い男女など。さすがにサラリーマンは少ない。
**の言うとおり、これほどの人間を収容できるほどには、この街はまだ回復していないのだ。
こぎれいな洋食屋や有名な中華料理店は言うに及ばず、「酔虎伝」であれ「がんこ寿司」であれ「王将」でれ、およそ食事のできそうな店にはことごとく列ができている。列がないと思って飛び込むと、予約が入っているのだろう、「満席です」と断わられる。上海料理の「愛園」、このあたりは無事だったようだ、そういえばちょうど上海ではおなかこわしてあまり食べれなかったから、上海料理もいいかな、と期待したがここも予約で満席。
結局西元町から神戸駅の近くまで歩いてしまった。でも、2人とも機嫌が悪くなるほどには空腹ではなかったので、なかなか楽しい散歩となった。店の前にできている行列の長さでその店の評判がうかがわれるのもおもしろい。
ちょうど遠方からの観光客などの帰宅時間なのだろう、元町駅の切符売り場の混雑は尋常ではなかった。立ち往生しながら、私たちの後ろで誰かが言う。「震災のときみたいやなあ」、振り返るとそのおばさんと目があって思わず微笑む。「ほんま、JR住吉みたい」と**。あれから11か月、あの当時のような奇妙な一体感は当然にももはやこの街から失われて久しいけれど、まだこんな「符蝶」で共通の記憶を確かめあうことができる。
元町商店街の入口、先ほどに比べれば心持ち人の数も減ってきた。遠くメリケン・パークの方から打ち上げ花火が見える。それはそれは大層美しい。でもやはり何か間違っている。「ルミナリア」にかける予算があるのなら、仮設住宅の電気代の補助でもすべきなのだ。職が見つからず料金が払えないため、電気・ガスが止められている世帯が続出しているというのに。歩きながらそんな話をした。
結局、ほとんど神戸駅近くまで歩いたにも関わらず、ならばずに入れる店はただの一軒も見つけられなかった。三宮方面にもう一度戻り、「がんこ」でも炉ばたでもいいからおとなしくならんで入ろうという方針になった。前回9月に会ったときに見つけた「ニュー・トーキョー」数人の行列を覚悟すればはいれそう。ここなら味は確認済み。ビヤホールにはにつかわしくない家族連れがめだつ。臨時に動員されたのだろう、管理職風の「ウエイター」さん、疲れきってうつろな眼差しで、ジュースやお子様ランチ風の料理を運んでいる。今夜はこの街全体が特別の日なのだ。
帰り道、夜9時を過ぎてようやっとふだん並の人の流れになってきた三宮、アーケドがないのにもすっかり慣れてしまったセンター街(でっかいクリスマスツリーがぶら下がっている!)を歩きながら、神戸について話した。**が近くのYWCAで買って送ってくれた本について。京都にすむ漫画家の女性が、「テレビの前に座っていることに耐えられなくなって」2月の終わりから、ボランティアに出かける話、「愛ちゃんの神戸ボランティア日記」。神戸で育って京都にすんでいるという境遇の類似性から、私は共感できるところが多かった。自分が「被災しなかった」ことへのある種の罪悪感、神戸への誇り、神戸への悲しみ、神戸への弁護。
自分たちがのほほんとしているときに、こんなすぐそばで、こんなことをしていた人たちがいたという事実に少し罪悪感めいたものを感じるといったことを**は話した。
私は、自分の「ボランティア」の記憶をほんの少しだけ話した。
地震の後も何度も会っていたにも関わらず、いま初めて「神戸」の話をしたような気がした。
前回と同様西宮北口のトイレにダッシュする**を見送って、私は特急に乗る。とてもいいクリスマスだったと思う。
- 1996年1月17日
1月16日昼、西宮の実家から自転車に乗って神戸に向かいました。去年の3月、両親を入浴させるため箕面まで走った同じ道を走ってみました。山陽新幹線の高架橋ぞいの瓦木地区の家屋の倒壊は著しかったけれど、いま走ってみても一面の更地がめだちます。神戸市に次ぐ1000人余りの死者を出した西宮の被害はやはり相当なもの、悲しみを新たにしました。甲子園口から今津、西宮浜の埋立地にむかいます。昨日の集会でここの仮設住宅の自治会の人が報告していた、「仮設道路閉鎖計画」が気になったからでした。阪神高速湾岸線の通るこの埋立地は工場立地を前提として設計されていて自動車以外の交通手段ではとうていアクセスできないようになっています。ここに建設された膨大な仮設村の住民たちは買物にでかけるにも急勾配の橋を渡らなければなりません。この島と「本土」とをつなぐ仮設道路は暴走族の出現を恐れる周辺住民の反対で、現在も夕方5時以降は閉鎖、さらに「仮設解消」政策のもと全面閉鎖の話も出ているようです。神戸市長田区に次ぐ在日コリアンの集住地域であり、全国5指に数えられるという芦原部落を擁し、「共生」と「寛容」の可能性を有するこの街のかかる「不寛容」と「差別」の実態に無念の思いは募ります。
東灘区深江のファミリーマート、パンと牛乳の夕食。おりしも夕方5時、仕事を終えた土木建設関係労働者が夕食やビールを買い求めています。現在の神戸阪神地域の経済は、これらの人々の購買能力によって支えられているといっても過言ではないといえます。
さらに西へ。 JR三宮駅の上、かつてのプランタン西館(現在ではOPA)の上に位置する「三宮ターミナルホテル」に宿泊することができました。別に深い意味はありません。神戸以外の場所で、震災一周年を迎えること、とりわけテレビを見たりすることに耐えられない気がして、今夜だけは神戸で過ごしたいと考えただけです。阪急三宮駅ビルとさくら銀行ビル、遥か山手には神戸市のマークの望めるこの部屋でダイエーで買い求めたビールをただひたすら飲み、サンテレビの特別番組をながめて過ごしました。
5時46分に目覚しをかけましたが、起きられませんでした。8時頃におきだし、鷹取教会、駒栄南公園、大正筋、御蔵菅原などをまわりました。今日は各地で慰霊祭などが行なわれる予定です。どこもマスコミ関係が「絵になる」場所を求めてひしめき合っています。結局のところ彼らは「災害」「悲惨」「苦悩」「涙」「助け合い」「友愛」といった「言葉」つまり「観念」のまわりを飛び回っているだけのように思えます。私たちは、それよりほんの少しだけ深い部分にふれることができたかも知れない。それが私たちの誇り、神戸の誇りです。
菅原市場の前でマスコミと近所のおばさんたちにもみくちゃになっている五木ひろしを見ました。彼はこれから大正筋パラールの駐車場で歌うことになっています。
夕方から仕事があるので午前中に神戸を出発しました。JR西宮駅前のコープでちょうど12時を迎えました。店内に放送がながれ、従業員と買物客のすべてが参加して1分間の黙祷が行なわれました。
死者とともに生きることによってのみ人は歴史を生きることができるのだと思います。6800人余りの死者、仮設住宅での孤独死40人あまり、震災後の自殺者30人あまり、これらの数字を心にとどめ、なお生き続ける人々の傍らに立ち、私もまた生き続ける決意を表明して、1996年1月17日の神戸からのあいさつとします。
不忘神戸。Sending Wishes of Hope, from Kobe!
- 3月2日
2日続きで休めるのは本当に久しぶり、中国語講座もない週末だからゆっくり寝坊をした後神戸に出かけた。三宮から高架下などを見ながら西へ向かう。ハーバー・ランドあたりで買い物でもしようかと思っていたのだが、おりしも見事な快晴、やさしげな冬の日差しが街ゆく人々を照らし出す、どうしても長田を見てみたくなった。
神戸高速で長田まで。ほとんどちょうど一年前の今日、3月4日に何回目かの「労働相談所」の手伝いで今から思えば当然のことだけどろくに役に立つ仕事ができず、とてもやるせない思いで自転車を走らせ、たまたま南駒栄公園の掲示板でピース・ボートの「ボランティア募集」の張り紙にであった。御蔵通り5丁目のプレハブの事務所の入り口の引き戸を開けるのは、1977年4月に三里塚に決起するのより1983年の夏に会社を辞めることを決意するのよりよっぽど勇気がいった。そうしてYさんと出会うことになるのが3月5日の日曜日だ。大橋中学のグラウンドでは子供たちが野球やサッカーに興じている。1年前のこの場所は人々の住居だった。
川西通りのYさんの家のあった所はもうきれいに整地されている。少しだけ期待していたのだが、Yさんからは年賀状は来なかった。黒いダウンジャケットの内ポケットに小さなメモ帳を入れていて私ともう一人いっしょに働いた千葉県柏市の学生さんの住所を書き留めておいてくれたはずだ。現に去年の3月一度はがきをもらっている。もうこの街にいないのだろうか?
1年と2ヶ月を経た今でも、「神戸」という名前を聞いただけで思わず涙ぐんでしまうことがある。
2月24日の土曜日には、「南京町春節祭」に行った。寝坊をしてのろのろしていたから、元町に着いたのはもう暗くなりかかる頃だったが、ちょうど獅子舞が南京町の各店舗を回り始めたところだった。黄色いユニフォームの若者たちがかわるがわる獅子のなかにはいる。スタッフたちが着ている「Chinese Lion Dance;Kobe」の黄色と黒のおそろいのジャケットには見覚えがある。昨年の3月21日長田区若松公園での韓統連主催の「民衆マダン」にゲストとして参加していたときは、しかし生野からやってきたチャンゴのグループや「鬼太鼓座」の舞台に比べて元気がなさげにみえた。
あの時「復活の舞い」を舞ったリーダー格の青年の家は全壊だったそうだ。今日も彼は真冬というのに黒いタンクトップ一枚で大活躍。彼が獅子の中に入ると回りの声援もひときわ。「今、誰が入ってはんの?」「先輩やん!」飛び交う黄色い声はまるでライブハウスのよう。ほかの地域に比べれば、少なくとも見た目には被害が少なかった南京町、昨年は自粛してキャンセルされた春節祭の今年のもりあがりはひときわだった。獅子が一軒一軒店に「乱入」し新年を祝福してまわる。軒先に「御祝儀」の入った赤い袋がぶら下げられる。飛び上がった獅子がそれをうまく「食べる」ことができると、拍手喝采が起こる。
東栄商行にも群愛飯店にも好好にも神戸コロッケにも老祥記にも、「福」が゙やってくる。老祥記の一階では従業員総出で獅子を迎える。3階から子供たちが「御祝儀」を糸につけてぶら下げる。好好ではぴかぴかのチャイナドレスに身を包んだお姉さんたちが出迎える。
やがて元町商店街の方から、中華同文学校や兵庫商業高校の生徒達からなる「龍」の隊列が南京町に戻って来る。「獅子」と「龍」の激突を演出するスタッフたちはトランシーバーと携帯電話越しに興奮した会話を交わす。シンバルの刻む鋭いビート、「ソウルフラワーユニオン」ではないが、まさにここには「ほんまの祭り/まつりごと」がある。今まさに機動隊の阻止線に突入せんとするデモ隊と同じ興奮がここにはある。
復興節
家は焼けても江戸っ子の、意気は消えない見ておくれ
アラマオヤマ、たちまち並んだバラックに
夜は寝ながら、お月さま眺めてエーゾエーゾ
江戸復興エーゾエーゾ
かかあが亭主に言うようは、お前さんしっかりしておくれ
アラマオヤマ、今川焼きさえ復興焼きと
改名してるじゃないか、お前さんもしっかりして
エーゾエーゾ
亭主復興エーゾエーゾ
東京の永田にゃ金がある、神戸の長田にゃ唄がある
アラマオヤマ、ホンマのまつりごと見せたれや
コリアンもヤマトンチュも、アリラン峠を越えて行く
ナガタちんどんエーゾエーゾ
家は焼けても神戸っ子の、意気は消えない見ててよね
アラマオヤマ、ホンマの人間ここにあり
笑って怒って、涙はいらないデッカンショ
阪神復興エーゾエーゾ、淡路復興エーゾエーゾ
日本解放(解散?)エーゾエーゾ
神戸は「復興」するだろうか?血なまぐさい死者の記憶を心に刻みつつ、ひっそりと去っていった人々の記憶を心に刻みつつ、今この国でもっとも酷いかつもっとも「フレンドリー」なこの町は、当たり前のアジアの町として甦るだろうか?
これを書いているのは、3月12日、ずいぶん筆無精になってしまったものだ。仕事の方は前に電話で話したように、普通のサラリーマンみたいに「無能」な「上司」を陰で罵ってみたり、実は結構楽しいかもしれない。猛烈に忙しい一週間ののち、今日も神戸にやってきた。新神戸オーパのセントラルステーションの窓際の席で町を見下ろしながらサラダを食べた。六甲山と大阪湾に挟まれた狭い平地(くまなく走ってみれば結構広いのだが)に、まもなくびっしりと明かりが灯る。
人の生き死にに比べればたとえば「仕事上の諸問題」なんて「些細なこと」に思えて来る、というのは当たり前のことであってそんな陳腐なことを言いたい訳じゃない。ただ私は、溶接やクレーンやコンプレッサーの騒音に満ちたこの街の「音」を聞き、アスベスト濃度が環境基準を大幅にオーバーしているといわれるこの街の「空気」を吸い、更地だらけのこの街を見て歩く。そうすると力が湧いて来る。自分が「よい」人間になれそうな気がして来る。
- 4月15日
命どぅ宝(ヌチドゥタカラ、命こそ宝)、4・15大阪扇町公園午後6時
沖縄財産と権利を守る軍用地主会(反戦地主会)、沖縄軍用地強制使用違憲確認訴訟支援県民共闘会議(違憲共闘)、沖縄一坪反戦地主会の3者共催による「沖縄から訴える、大阪集会」。午後6時の開催時点では、工事中で面積がずいぶん小さくなってしまったこの公園でさえ「埋め尽くす」とは言い難い「三々五々」といった集り。中核のSさんの話では自治労、日教組などの大動員がみこまれて「2万規模になる」とのことだったが中核特有の「誇張僻」を割り引いたとしても現時点では私のみたところ数千にも満たない。しかし公園入り口の「花道」の両側を各派のビラまき部隊が固める光景はあまりに懐かしい。こんな集会は私の記憶する限り20年ほど前の「狭山」「三里塚」あるいは「公労協スト権奪還スト」以来ではないか。集会の始まる前のわくわくするような雰囲気の中、「党派ウオッチャー」のすけべ根性丸出しにして危険を承知で(だって「革マル」もいるんだよ!)集会場をくまなく歩き回った。日共や革マルが狭山や三里塚から叩き出される前の時代を私は知らないから、今日のこの光景はきわめて新鮮。「日本共産党」の腕章をつけたおっさんが、「京大熊野寮自治会」の隊列のただなかを「ちょっとすいません」とかいって通り過ぎるなんて!演壇の向かって右側を日共・全労連、大阪労連が占める。神戸市職労、京都総評、京都府高教組などののぼりがみえる。その手前には大阪と兵庫の沖縄県人会、キリスト教関係の部落解放組織の荊冠旗、関西大学社会学部自治会、京大行動委員会、大谷大学平和委員会などのブント系諸派・ノンセクト、さらに手前には全国労働組合交流センター、反戦共同行動、全学連、被爆者青年同盟、三菱重工広島の全造船、部落解放同盟全国連合会などの中核系諸組織、中央に陣取っているのは高槻のユアサ電池の労働組合、京都の関西生コン「連帯」労働組合、「釜が崎解放」の赤旗を掲げた日雇全協、大阪府高教組、愛知県学校職員労働組合、全港湾などの全労協系諸組合、自治労大阪市職、全水道大阪水道労組などのおそらくは「連合」内左派系労組、左手にはもと部落解放同盟副委員長小森龍邦氏などを中心に兵庫の護憲社会党などを糾合して最近形成された「新社会党」・社会主義青年同盟協会派、京都コンピュータ学院労働組合、兵庫県職労の旗などもみえる。その後ろにはほかと完全に孤立した形で奈良女子大、大阪経済大の自治会旗、神戸大や京大の「Z」旗を押し立てた「革マル」の隊列、全学連・反戦青年委員会名の大断幕や臆面もない「革マル派」と書かれた赤旗が全関西動員をにおわせるにもかかわらず20名程度のしょぼい隊列だが、物々しい覆面サングラスの「防衛隊」がこの集会にちょっとしたアクセントをつけている。これに対峙する中核の「防衛隊」との間に全労協と自治労が割り込んで緩衝地帯を作っているという形だ。
さて、どこにすわるべきか?こんな組織動員ばかりの集会に「個人参加」がぽっと割り込むのは難しい。先ほどすれ違ったSさんは、革マルのほうをあごでさしながら「あっちはあんなんおるしうちはこっちやからこのへんにおり」などと場所を提供していてくれたが、中核のまっただなかもやはり居心地は悪い。一応中核の「防衛ライン」の外側、自治労や全労協の渾然とするあたりに紛れ込んで何食わぬ顔ですわる。
集会は、尼崎在住の沖縄出身者川門正彦(カワジョウ・マサヒコ)の島唄で始まる。1月21日長田神社の「つづら折りの宴」にも参加していた人だ。夕闇迫るオフィス街に蛇味線の音が響き渡る。いくつかのミニ・コンサートが終わり主催者違憲共闘などのあいさつが始まった頃には、仕事帰りの労組員が続々到着したからなのだろう扇町公園は文字どおり立錘の余地もなくなってきた。違憲共闘議長の有銘政夫(アリメ・マサオ)さん、一言一言をゆっくりくぎってしゃべるこの人の演説は何度聞いても力強く心に響く。それにしてもここ一月ばかりのこの人の活躍はすごい。3月25日の福岡高裁那覇支部の判決(内閣総理大臣が大田昌秀沖縄県知事に代理署名の「職務執行」を命じるという前代未聞の裁判、「無論」国側の勝訴)を報じる新聞の一面にもこの人の姿が写っていたがその翌日には京都円山野音、3月31日には東京日比谷野音の集会に参加し、文字どおり全国を駆け回って本日の大阪集会、そして明日おりしも日米安保条約「再定義」のためにエアフォース・ワンで羽田か横田に上陸するクリントンを迎え撃つ東京代々木公園の集会を準備してきたのだ。50年代朝鮮戦争時の基地拡張期に「銃剣とブルドーザーをもって」土地を追われバラック住まいを余儀なくされた経験を持つ人だと新聞で読んだ記憶がある。続いて演壇に立つのはオヤドマリ那覇市長、いかにも「市長」らしいフォーマルな語り口だが沖縄市、読谷村とともに自治体所有地の強制使用を断固として拒否し大田知事の代理署名拒否の引き金となったこの市長がなみいる赤旗を前に演説する様を見ていると、昨年9月の米軍兵士による小学生強姦事件をきっかけとして怒涛の進撃を開始した今回の沖縄反基地闘争の「ただならなさ」を改めて感じる。続いて反戦地主会の面々が紹介される。3月31日にトップを切って強制使用期限切れをむかえた知花昌一氏はとりわけ大きな拍手で迎えられた。
朝鮮戦争からベトナム戦争、湾岸戦争にいたるまでアジアと世界の人民を蹂躪したアメリカ合衆国軍隊はことごとく沖縄から出撃している。日本の戦争責任を明らかにし謝罪と賠償を行うとともに、日米安保を廃棄し沖縄から基地を撤去すること、岩国や千歳への「再配置」などでお茶を濁そうとする日米政府を許さず基地機能そのものの解体を目指すことのみがアジアとの友好のなかでウチナーとヤマトの生きる道であることが繰り返し繰り返し確認された。
アピールの最後は、お名前を失念したが沖縄の女性から、公式の刑事司法過程に上っただけでも4千件余りといわれる米軍犯罪のなかで性暴力に引き裂かれた無数の沖縄の女たちの無念の魂を呼び起こす朗々たる演説で締めくくられた。
集会参加者総数7千、反戦地主会へのカンパ総額140万円と発表され、有銘氏の掛け声で「団結がんばろう」三唱ののち、アメリカ合衆国大阪総領事館前を経て大阪市役所前までのデモに出発。先頭に立つのは「がじゅまるの会」の「エイサー(沖縄舞踊)隊」、このグループも1月21日の長田神社で拝見したことがある。数百キロと50年の時空を超えて、沖縄と神戸ががれきと焼け跡の記憶で通底する、そんな気がした。
7千の隊列が公園の出口から街路に出るのには相当な時間がかかる。しかも今日の集会には相互に友好的とは言えない党派が含まれているので、デモ隊列の順番はかなりデリケートな問題となる。いましも全港湾の部隊の前を中核の大部隊がゆく。口さがない全港湾の組合員からは、「あんなもんの後ろについていかんとこうや」「そや、ちょっと距離あけようや」「いっそ革マルにはいってもらえ(笑)」と声が上がる。そうこうするうちに今度は新社会党が割り込んだ。「最初からわりこんどったらきらわれるで!」先月旗揚げしたばかりのこの政党に野次が飛ぶ。そんな友好的とは言えないしかし楽しい光景を眺めているうち、紛れ込むチャンスを失ってしまった。後ろに残っているのはブント系諸派の学生部隊と、最後に遠く離れて革マルだけではないか!やばい。またしてもレポに来ていたSさんに「捕捉」され労組交流センターと解放同盟全国連の間のあいまいな部分におとなしく「連れ戻され」、「朝鮮侵略戦争阻止!」などというスローガンを唱和することになった。
先頭も末尾もはるか遠くに見えないようなこんな大きなデモに参加するのは何年ぶりだろうか?もはや9時近いキタの繁華街には人通りも少ない。機動隊が厳重警備する総領事館前、歩道上に立ち止まるのは許可条件違反とわめく指揮車を尻目にシュプレヒコールを挙げるも建物の明かりはすでに消えている。
流れ解散地点の市役所裏、中核の総括集会はスキップして物見高い野次馬として次々に到着する隊列を見にゆく。公安のレポ、中核のレポに混じって同じような野次馬もちらほら、お目当てはやはり革マル、ちょっとトラブルを期待しているところがないでもない。あちこちに京大の中核の古株の顔もみえるから余りうろうろしたくはないが、この人たちの表情を見ても中核革マル関係も「内戦」時代に比べればずいぶん「牧歌的」になったものだと思う。ちょうど20年前の5月同じく扇町から市役所までの狭山のデモ、生まれてはじめてデモというものに参加した浪人生の私に対して中核のレポが身分証明書の提示を求めた(!)という屈辱的な経験を思い出す。
遠く離れて最後にやってきた革マルの部隊を機動隊が止める。市役所裏にはまだ数百の中核が残存しているから警備上の要請なのだろう。若干の緊張が走る。主催者違憲共闘が介入して機動隊の阻止線を解かせる。
そんな些末なトラブルはさておき、デモの最後には感動的な演出が行われた。大江橋を渡ったあたりから太鼓の音が聞こえ始める。先に到着した違憲共闘や反戦地主会の面々、沖縄の労働組合のメンバーなどが「命どぅ宝」の鉢巻きを締め、両脇に人垣を作り到着する隊列の一つ一つを手拍子とやさしい笑顔で迎えてくれるのだ。有銘さんも参加者ひとりひとりに手を振り微笑みかけている。
彼らは今夜は大阪のホテルに泊まり、明朝早く東京入り夕方からの代々木公園での集会の準備をするというハードスケジュールのはずだ。
アジビラまがいの手紙に長々とつきあわせて申し訳ない。しかし、沖縄サイドのみの主催で「本土」においてこれだけの動員を獲得した、明日の東京は今日に倍する結集となろう、この集会は間違いなく歴史を塗り変えるものとなる。
100年間にわたる「近代化」、50年にわたる「戦後復興」「高度成長」そして「戦後政治の総決算」の過程の中で検閲され隠蔽され抹消されてきたすべての「傷」たちが、いま一斉に立ち上がり賠償を、おとしまえを要求しはじめる。喜納昌吉ではないが、まことに「90年代何かが起こる」!!
- 5月26日
イスラエル軍の砲撃によって首を吹き飛ばされたレバノン難民キャンプのパレスチナ人の子どもの死体の写真をフライデー誌上で見た。先月末イスラエル軍はヒズボラ(親イラン系武装抵抗組織)のカチューシャ・ロケット攻撃への「反撃」と称して数百の民間人を殺傷した。「誤爆」であるとのイスラエルの弁明を常任理事国の中でもただアメリカ合衆国のみが全面的に支持している。「ヘアヌード」写真の裏側にこのような写真を印刷してしまうこの雑誌の「趣味」を問う前に、現に世界がこのように構成されていることを知るべきだ。世界の半分は今も「死体だらけ」だ。世界の半分が飢えているときに文学は何をなしうるかという決定的に誤ったジャン・ポール・サルトルの問いをただ「笑い飛ばし」て見せたただけの筒井康隆の罪ももはや今日では明らかだろう。
今年の1月ごろだったろうか、生徒の依頼を受けてどこかの短大の現代国語の入試問題を解いたのだけれどそれが例の「桜の木の下には死体が埋まっている」についての評論だった。(ついでながらこれは私はてっきり坂口安吾だと思っていたが梶井基次郎なのか?恥ずかしくて誰にも聞けないのでお尋ねする)昨年の5月以来「文芸」関係も含めて一切本を読むことを止めてしまった私にとっては、誰の文章か知らないけれど、桜の木の持つ「悪魔的」な「多花性」うんぬんといったカギカッコと二重カギカッコだらけのそれこそ「悪魔的」な文芸批評の文体はあまりに懐かしく十分に楽しませてもらったが、現実に死体が埋まっているかもしれない場所においてもなおこのような「表現」が成立しうるのだろうか?もはや文学などには何の利害関係も持つつもりはない私の差し出がましい問いではあるが。
今年の春も見事に咲き誇ったJR新長田駅前の桜の木の下にもとより死体が埋まっているわけはない。ただこの町はおそらく最初の一週間あまり移送することもままならない数千の死体とともに生きたのだ。あるいはちょうど50年前、4月1日に上陸を開始したアメリカ合衆国軍に追われ艦砲射撃と艦載機の機銃掃射に見舞われながらも「本土」と「国体」の護持のための捨て石として持久戦戦略をとった「皇軍」のまったくの無防備の中で最南端の喜屋武(きゃん)半島への行進を強要された数十万の沖縄県民が見たであろう一面の死体の野。この50年間、そのうちの38年間を私は共有しているが、大量の死体を見ずにすんだこの国の50年間はただの「例外」ではなかったのか?
一昨日、堺市西文化会館で沖縄戦終結50周年を期して自主制作された映画「GAMA」を見た。ガマとは沖縄島の海岸沿いに広がる鍾乳石の洞窟群、自然の防空壕となっていた。米軍上陸以降、読谷村チビチリガマの集団自決などの悲惨な事件にもかかわらず、1945年6月23日の「皇軍」沖縄司令部の降伏後8万人あまりの沖縄県民がガマから這い出して生還したという。
無論「上手な」映画ではあるまい。それでもなお「ショット」や「カット」についてごたくをならべるのが映画を「見る」ことであるというのなら、もうこれから一本も映画などみなくてもいい。主演の朝霧舞さんというひとは宝塚歌劇団の女優さんだそうだ。ナチュラルな関西弁が沖縄「方言」とフィットしているのかもしれない。上映運動をサポートしているのはおそらく***系の労組や市民団体。来週は私の仕事場から5分とかからない高槻現代劇場でも上映されるのだが仕事の時間とかち合っているので今日わざわざ堺までやってきたのだ。
来年の5月、復帰25周年とともに大量の反戦地主の軍用地強制使用期限が失効する5月15日私は沖縄を訪れようと思う。「海洋博粉砕」を恐る恐る唱えてみた高校生の頃から、あるいは嘉手納基地ゲート前で焼身自殺を遂げた指名手配中の釜が崎の活動家船本修治のことを知って以来、観光目的の沖縄上陸は決してすまいと決意してきた。それは今も変わらない。どの党派の後ろにくっ付いていくかという些末な問題も含めそれが観光目的に当たらないかは問題ではあるが、神戸の焼け跡とがれきの野を隅々まで歩き回ったように、戦後50年の沖縄を私は見て歩きたいと思う。
- 5月29日
お酒さえも飲み飽きて、眠たくもなく何もしたくない夜中、リーブル銀閣寺店にて読書。「前進」と革マル「解放」を除く全機関紙を読む。こんなところでこんなやばいものを堂々と広げて読むなんて「革命的警戒心」を欠くことおびただしいが回りは目を血走らせてエロ雑誌を読みに来た学生風ばかりだから大丈夫だろう。各派とも沖縄闘争、そして30周年を迎える三里塚闘争に紙面を割いている。三里塚では去る5月1日既に昨年から「脱落派」に転じたO氏が公団に用地売却して一般紙をも騒がせている。
社青同解放派の「解放」には、自民党の金丸とゴルフづきあいまで始めたJR総連松崎(もと革マル副議長)のあまりの転向ぶりに近年さすがの革マルも組織的混迷を深めている様が微に入り細にわたって描かれており、しかも申し訳ないが「前進」よりはずっと分析が緻密に思え、おおよそ2時間ばかりもかけて座り込んで読みふけってしまった。党派ウォッチャーのゴシップずきのスケベ根性からだけではない。
戦後のこの国の労働運動において常に先駆的中心的な役割をになってきた国鉄労働組合に壊滅的打撃を与え200人あまりの自殺者さえうみだした「国鉄分割民営化」は動労松崎の「歴史的な裏切り」なしには考えられなかったろう。
もはや完全に歴史的な用語となってしまったこの国の「新左翼」運動のこの十数年間の流れの中で最も致命的な打撃、最も苦渋に満ちた後退は実はソ連や東欧の共産党の崩壊などではなく、一つはこの「革マル派」という奇怪な党派の醜悪極まりない陰謀政治、今一つは三里塚反対同盟の分裂であったと思う。私たちがかつて所属していた運動が漠然と含まれていた潮流が結果的に三里塚の「脱落派」支援であったことから多くの党派・運動がそれ以後政治的発言権を失った。大部分が「脱落派」支援によって担われた「78・3・26開港阻止決戦」、誰がどう見たって戦後階級闘争史に輝かしい足跡を刻んだ管制塔占拠の快挙は、例えば中核派の公式の三里塚史からは抹消されてしまっている。
「脱落派」の一翼である一党派(共産同戦旗・日向派)は機関紙から「万国の労働者、団結せよ」を削除し「マルクス・ラジカル派」なる用語をもてあそんでこれまた三里塚闘争などなかったかのごとくにインテリ・サロン・マルクス主義者へと向かっているようだ。この党派の再建のために死の直前まで奮闘し続けた広松渉の姿は感動的であったけれど。
私たちの短い「歴史」もまた抹消され引き裂かれているのだ。「清算」することも「総括」することも出来ぬまま。
次に手に取ったのが「フォーラム」、構造改革派系の雑誌と思われる。とても「サロン的」な匂いがして私はあまり好きにはなれないが、いくつかの興味深い記事もあった。シリアに留学している東京外大の学生(女性)によるパレスチナ民族評議会選挙の際にガザ地区を訪れたレポートは(その報告者の若さにもかかわらず!)とても冷静で緻密なものだった。
久しぶりに「インパクション」も拝見する。もはやあまりインパクトのある雑誌とは思えないけれど。富山一郎氏が沖縄についての記事を書いていた。ベトナム戦争期に沖縄に駐留していたもと米軍兵士が今コーネル大学かどこかで「沖縄史」を研究しようとしている。その彼との交流を通じて感じたこと、「強姦」と「占領」の「被害者」として沖縄を定立する問題の立てかたの「問題性」についての論考のようで、興味深そうだったが読み飛ばした。例えばそのもと米軍兵士は沖縄の出稼ぎフィリピン女性達がほぼ連日直面している強姦やその他の性暴力についてなぜ今まで声が挙がらなかったのかと、疑いもなく原則的な問いを提起する。確かに今回の小学生強姦事件は決して単純な手つきでは扱い得ないさまざまな問題を含んでいる。例えば、どうして女性差別に対して徹底してラディカルな立場をとってきた新左翼各派を含めデモのシュプレヒコールが「強姦」ではなく「暴行」糾弾なのか。あるいはこれはさらにセンシティヴだが強姦容疑者が「黒人」であることについてどう論及すべきなのか。「沖縄の怒り」なるもっともらしいタイトルのもとに3人の「黒人」兵士の顔写真を一面に誇らしげに掲載して見せたスポーツ新聞たち。さすがに今日のまともなメディアは本文では容疑者がアフリカ系であることには一切言及しない。先日堺での「GAMA」上映会の折、会場に展示されていた沖縄現代史のパネルには当時の新聞記事のそのままの引用であるからしょうがないとはいえやはりポリティカリー・インコレクトと言わざるをえない表現が見られた。70年の「コザ暴動」、コザ市(現沖縄市)における復帰前の沖縄での米軍に対する初めての組織的実力闘争といわれる、のきっかけが「黒人3人組強盗犯」であったとの表現など。
にもかかわらず、地球の裏側に在住する富山氏にそんなことまで要求するのは酷だけれど、断固として現場検証に立ち会うことを決意した12歳の少女の決意に応えるため完全に勝利する以外に一歩も後退することの許されぬ闘いとして構築された今回の沖縄反基地闘争のただならぬ「インパクト」が「届いていない」との感想は禁じ得なかった。そしてそれは、同質的な読者しか予定しないこのメディアの同人誌的閉塞性とも関わり合いがあるようにも思える。まことに偉そうな言い方ではあるが。
さまざまな不十分性を内包しつつも、運動が運動として開始された以上それは独自のモーメンタムによって展開する。「無名の」個人はそれに合流するか敵対するかの二者択一を迫られる、「第三の道」はない。1995年1月17日を体験した私の「総括」である。
クリントン来日の4月16日、全米8都市でフェミニスト・グループを中心とした沖縄連帯行動が行われた。私の購読する新聞にもサンフランシスコでのわずか30名参加のデモについての報道があった。「サイバー・スペース」や「情報ハイウエー」の助けを借りずとも世界は瞬時に連動し連帯することが出来る。
もう夜中の3時ぐらいなのだがなかなか家に帰る気がしない。「トロツキー研究」。管制塔占拠部隊の一翼として勇名を馳せたにもかかわらずその後の公務員大レッド・パージと反対同盟分裂によってほぼその党派としての命脈を絶ったとも思われる第四インター日本支部だが、このいわば「同人誌」はそんなリアル・ポリティックスとは無関係に相変わらず「原典」学習を続けるサロンのようだ。別に文句はないけど。普段なら絶対手を出さないこんな雑誌の中で、興味深い記事を見つけた。楼国華なる中国の老トロツキストの死に際して同じく老トロツキストたる王凡西がよせた文章。30年代の中国共産党左翼反対派の創設メンバー、「我們的話」なるグループを主催、上海で活動を続け魯迅とも親交があった(魯迅の「トロツキストへの手紙」は彼にあてたもの、改ざん説もある)が49年香港に亡命、以後香港のアナキスト系の急進派学生の組織に当たる。彼は終生変わらぬ第四インターの支持者であった、と。
ときならぬ深夜の読書、とりとめもない感想を書き送る。
- 6月3日
高槻セントラルで伊丹万作特集。「巨人伝」と「赤西蠣太」をみた。前者は「レ・ミゼラブル」の翻案、後者は志賀直哉の原作によるものだ。30年代の日本映画の力強さに改めて感嘆した。後者は確か東大の蓮実ゼミの授業でも一度見たことがあったはずなのだがその時は疲労と緊張のあまり全然理解できなかった。明日以降「無法松の一生」が上映される。中核派系の左翼雑誌でこの作品の「反戦思想」を分析している論文を読んで以来、是非見ておきたいと思っていた。
「無法松の一生」は1943年大映京都(日活太秦撮影所などが「国策」によって統合されたもの)の制作。伊丹万作は脚本を仕上げた後病床に臥し友人稲垣浩が後を受けて監督。撮影宮川一夫、主演は坂東妻三郎、園井恵子。園井恵子はこの映画の撮影後移動劇団「桜隊」で全国巡業中広島にて被爆死。
脚本段階から厳重な検閲を受けていたこの作品の、10分間の欠落部分(戦中の日本政府による検閲)、8分間の欠落(戦後アメリカ占領軍による検閲)の再現の試みを通して戦中の日本映画とりわけ京都の映画の系譜を「時代劇」、「人情話」という形式による「レジスタンス」として捉えかえそうという上映運動が白井佳夫という映画評論家によっておこなわれている。その報告が中核派系の「破防法研究」という雑誌に連載されていた。もと「キネ旬」編集長のこの批評家の論の進め方には若干納得できない点もあるが、確かに敗戦直後、死の直前に伊丹万作が渾身の力を込めて書いたのであろう「戦争責任者の問題」の一節を読んでみればこの映画が絶対に「ただの人情話」ではありえないことがはっきりとわかる。
私としてはそんな過剰な予備知識があったものだから実際にはじめてみてみる今日は緊張した。「なんらの報酬も求めない無垢の愛」と言葉にしてしまえばいかにもいかがわしいがそんな「人間主義」がファシズムのただなかで「抵抗」となり得たかどうかは私には判断できない。しかしともあれ私は感動した。子供時代の松五郎が4里の山道を歩いて父親に会いに行くシーンではやはり涙が流れた。宮川一夫のカメラは美しいし、「坂妻」も園井恵子もすばらしい。それにしてもこの時代の映画の「子役」達はなんてうまいんだろうと舌を巻く。
画面そのものから「抵抗」の痕跡を読み取ることは敢えて差し控えておこうと思う。ただ、1943年という日付にもかかわらず、また園井恵子扮する「未亡人」のなき夫が軍人であるとの設定にもかかわらず、この映画の画面の中にただの一片の戦争の影も、「忠君愛国」の響きも感知できなかった。その徹底した欠落自体が猛烈に攻撃的なことではないかと考えた。