ポンちゃん・帰宅
まだまだ、長期入院になると思ってたから、「病院のポンちゃん(1)」・・・なんてしてたのに、もう退院になってしまったよ。
背骨が一回折れたせいで神経が切断され、下半身不随になっている、と思われた。でも、交通事故などの時にはよくあることらしいが、背骨は再びつながっているから、神経が「切れて」いるのも一過性のものである可能性もある。それがわかるのには通常2週間くらいかかる、ということだった。で、2週間たった。
ポンちゃんの下半身は、少しだけ、動く。オシッコさせるために持ち上げると、以前はだらんとしていた後ろ左足が、ぷらんぷらんと動く。シッポも、ちょっとだけ、動く。
下半身の神経が「全部」だめだ、ってわけでもないし、動物の身体というのは本当によくできていると思うが、内臓の不随意筋をつかさどる神経は、別のつながり方をしているのだろう。こうしてたくさんご飯を食べ、消化し、排泄できる。ただ、肛門の括約筋が動く、ということと、排便ができるということは、違うんだね。
そんなことすら、こんな経験をして見なければ気が付かない。3年ほど前「ぎっくり腰」になった。会社を3日くらい休んだかな?小さな子供の世話や、老人の介護と共通するところもあると思うけど、犬猫の世話は、腰に負担がかかる。高さ30センチほどの動物が相手なんだから当然だ。
7.5キロ詰めのエサの袋、8リットル入りのトイレ用の砂、うちでは「トイレに流せる、食品廃棄物再利用型」を使っているから、鉱物性のものよりは軽いけどね、そんなものを持ち上げたり、しゃがんでえさを出したり、うんこを拾ったり、うんこをトイレに流す、お風呂にたまった水をくみ上げたり、・・・それはもう、大変な仕事さ。
もちろん、誰に頼まれてやっているわけでもない。「好きで」やっていることだから、自慢もしないし、あわれんでくれ、とも言わない。ただ、他人には他人なりの事情があり、「身から出たさび」であろうが、「愚か」だからであろうが、当事者でないものから「くだらない」と言い捨てられる「覚えはない!」程度の、現実がかならずあり、むしろ、その「他人の事情」に対する想像力の「欠如」こそが、真の「愚かさ」を構成するというべきだ!と、これは改めて自戒をこめて、確認しておこう。
で、その「ぎっくり腰」のときは、本当に「死」の恐怖を味わったわけだ。ぎっくり腰で死ぬとはもちろん思わない。でも、ベッドから自力で起き上がれない。トイレに行くのに30分、帰ってくるのに30分かかる。冷蔵庫のところまで這って行くことはできる。なべに水を汲むことができない。「餓死」という言葉がちらついた。
・・・・・
ポンちゃんは、大腸に便がたまりすぎて、尿道を圧迫し、膀胱に大量のオシッコがたまって「腎不全」寸前の危険な状態だった。でもそれは肛門が動かないからではなくて、うんこを出すとき下半身が動かないから、うまくでてくれないから、たまりにたまってしまったってことなんだろう。
尿道カテーテルで、たまっていた尿は排泄できた。繰り返し浣腸をしてもらって、大便もほとんど排出できた。下半身の神経も、少し回復しているみたいだから、多少の手助けをすれば、自力で排便・排尿できそうだ。・・・というわけで、「退院」とあいなったわけだ。
ポンちゃんがお世話になっている動物病院とは、もうかれこれ7年くらいのお付き合いになるだろうか?こうして、「壊れかかった」野良猫にも、「いやな顔ひとつせず」最善の治療をしてくださるお医者さんだから、どうしても、その評判を聞きつけて、「壊れた野良猫」たちが運び込まれてくることも多いようだ。
「この子、今道路で車にひかれたんです!あとでかならず引き取りに来ますから、とりあえず、助けてあげてください!」、みたいにして駆け込んでくる人もいたんだろうな。その人の、そのときの、「善意」は疑うよしもないけれど、結局、やっぱりアパートだから飼えない、とか、足の動かない猫なんて、そう、私くらいの「年季の入った」閑人でもない限り世話することもできないだろうから、そんなわけで、病院に「置き去り」にされた犬猫たちもいるみたい。
くしくも、うちの「ジェリーさん」と同じ名前の「ジェリーちゃん」って猫が、この病院には住み着いているの。子猫のときに交通事故で下半身不随、どんな事情だったか知らないが、以来病院でお世話されてる。「病棟」のケージのどこかに住んでいるのだが、入院患者が多くて混み合ってくると、「追い出され」て、お医者さんや看護師さんのくつろぐ部屋に移されたりしているらしい。そんなところも、ポンちゃんと同じだ。赤い首輪をした丸々太ったシロクロで、私も何度か、「あいさつ」したことがある。
ポンちゃんを「拾う」ことになったとき、チラッと頭を掠めたのは、この「ジェリーちゃん」のことだったのね、下半身不随のままで、ケージの中で、丸々と、5〜6年も生きている!排便・排尿の世話の仕方は、病院の人に教えてもらえば、私でもできるかもしれない!と思ったからなんだ。
何度でも言うよ!私は「倒錯」しているのかも知れない。私が死にかけた猫の世話を「したい」と思っているのは、どうやら「命の大切さ」でも「愛」でもなく、相手が猫であるだけに、とてもマイナーなものかもしれないが、「生きさせる技術」に対する、あくなき「知的欲望」なのだ!
で、そんな風にして次々に病気や怪我の猫たちを「置き去り」にされても病院としては困るだろうし、ポンちゃんの場合、まだまだ「ご自宅でも簡単に飼えますよ!」ってな状態でもないにもかかわらず、早期退院となったのは、「世話をするつもりなら、ちゃんと自分でしなさい!」という「教育的措置」であると同時に、私なら、何とかやっていけるだろう、という信頼の証でもあると思えたから、ありがたく、受け入れることにした。
よりによってジェリーさんが瀕死の床に着いているときだ。ポンちゃんだけでも、「病院まかせ」にできれば、「楽」かもしれない。でも、喜んで引き受けてしまうのが、私の「侠気」であり、また、「狂気」でもあるってことで・・・。
人間と猫との「共生」が始まったのは、古代エジプト文明にさかのぼる。北アフリカの野生種であった「リビアヤマネコ」を、穀物をネズミの害から守るために飼育し始めたのが起源だという。
数千年にわたるその歴史に比べれば、取るに足りないくらいの過去300年ほどの間に、産業革命を経験し「資本主義」を獲得した人類は、20メートルくらいしか視界のない猫にとっては、絶望的に致命的な凶器でしかない「自動車」というものを発明して、その「共生」の歴史に決定的に敵対的な1ページを付け加えてしまった、ってわけだ。
私たちは「すべての猫を救う」ことはできないし、「救う」ことが「善」なわけでもない。でも、「言葉」を獲得してしまった私たちは、「かけがえなきもの」という観念を通じて「普通名詞」と「固有名詞」を混同し、「一人の命は地球より重い」、とか、「戦争は人殺しだから反対です」、などという錯乱しきった言葉を発明もしたが、同時に、「個体の適応度を高める」という生物に課せられた必然をはるかに超えて、自分が生き延びることとは何の関わりもない、数々の「過剰」に手を染めることができた。
こうして、例えば私は、大手を振って、でもないが、生きていることができるし、例えば、ポンちゃんも、生きていくことができる。
ともあれ、ジェリーさんの「ターミナル・ケア」と、ポンちゃんの「障害者介護」の同時進行が始まった。
やはり7年ほど前、「うつ病」の真っ只中に、猫を次々に拾い始めた頃、「作業療法」もかねて作った木製の「猫アパート」、各室トイレ付き3階建て、立派なもんだ。真ん中の階は、ココちゃん。「ストルバイト尿管結石」にかかり易い体質だから、ほかの猫とは違う療法食を与える。だから食事のときだけ使う。
一番上の階をジェリーさんにしてある。もともと、いじめられっこのチェリーさんの隔離部屋だったんだが、こう病人が増えてくるとそうも言ってられず、チェリーさんには我慢してもらってる。
一番下の階がポンちゃんの部屋だ。なんといっても足が動かないのだから、高いところから落ちるという事故だけは避けなければならない。一番下の部屋は、私もかがみこまなければならないからそれこそ腰を痛める危険があるし、埃もたまりやすいんだけど、やむを得まい。
これが、↑ポンちゃんの食事(盛付け例)。サイエンスダイエットの缶詰は、子猫用が3種類、「ターキー、サーモン、チキンレバー」、137円もするが、期間限定サービスということで。病院では、業者が配布する新製品の高級ペットフードのサンプルなどをたっぷりもらって飽食していたのだろう、こちらも負けないようにしなければね!白いのは、ヨーグルト、前にも言ったが猫には牛乳に含まれる「乳糖」を分解する酵素がないから、牛乳を与えてはいけない。でも、ヨーグルトはいいのね。好みがあって、うちの20数匹の中でも数匹だけは絶対に手をつけないけど、ほかはみんな喜んで食べる。腸にはいいはずだし、これでうんこが出やすくなってくれれば、ってわけで。
大体、一日2回、こうやって左手で身体を持ち上げ、肛門の周りのうんこを拭く。シッポや、回りの毛もうんこで汚れている。とくにおちんちん(ポンちゃんはメスだけど・・・)にうんこが付いたりすると、動物の腸内には山ほど細菌がいるし、膀胱炎の原因になるから注意する。最初は、カット綿に消毒用の「中性水」を浸して拭いていたが、手間がかかるし、ぬれすぎて体が冷えるのも心配だから、市販の「ペット用ウェットティッシュ」にした。
で、そうしながら、下半身のあちこちを拭いていると、突然ぴゅ−とオシッコが出てきたりする。大便がたまって、大腸が肥大し、膀胱が身体の左側に偏っているらしい。だからその辺を刺激すると出るわけだ。最初はあわてたけど、あらかじめ新聞紙をしき、必要なものをそばに並べて、・・・とだんだん、要領がわかってきた。
身体を縦にすると、流れたオシッコで尻尾がぬれてしまう。普通の猫みたいになめて毛づくろいができるわけじゃないし、身体も小さいから冷えてしまう。左手で背中側からつかみ、指で尻尾を押さえる、という方法を開発した。シッポを「捲り上げて」いる方が肛門の周りの筋肉が広がって、うんこをしぼり出したり、拭いたりしやすい、ということもわかった。
やっていけるんじゃない?そう、もちろん最初からそう思ってたけどね。初めてエイズ猫の「トモちゃん」の世話したときは、もっと悲壮感、漂ってた。誰でも「はじめは」、やむをえないけどね。
でも、「悲壮感」て何の役にも立たないんだ。私たちを「押しつぶしてしまう」のは、現実のつらさ、そのものではない。「このつらい現実が、永遠に続くかもしれない!」という「観念」なんだ。そして、その「観念」は、唐突な言い方だが、「社会」がつくる、いいたければ「イデオロギー」っ!!、なんだ。
私とポンちゃんの関係には「永遠」は、ない。昨日は2回、今日3回新聞紙を替え、今日はいいうんちが出た・・・。今日はうまくオシッコ出せなかったけど、明日は出るといいね!それだけのことだ。何でこんな簡単なことが、わからなかったんだろう?・・・ねっ!
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