STRUGGLE FOR FREEDOM / 矛盾の上に咲く花 (2)



高橋源一郎「日本文学盛衰史」をきっかけに、「明治ブーム」になってゐる。幼少の砌(ミギリ)、うちには白黒テレビさえなかったときに文学全集があった。文藝春秋の日本文学全集と、河出の世界文学全集、だったかな?マンガは買ってもらえなかった。貧乏だったのと、両親が自分達がインテリだと自負していたのが半々だろう。おかげで私は未だにマンガが読めない。マンガの「文法」を「獲得」してないんだからしょうがない。小学校の遠足のバスで、みんながアニメのテーマソングとか歌うの、取り残されて淋しい思いもしたが、どっちみち友達はおらんかったからね。でも今思い出したが、全員で「巨人の星」歌われたときは恐かったなぁ。程なく私が阪神ファン、じゃなくて、共産主義者になるのもこのトラウマが効いているのかも知れん。「勝って帰らにゃ、男じゃないっ!」なんて、きっとこれが「ファシズム」ってやつなんじゃ、とかってね!

で、幼少のミギリから文学的環境には恵まれていて、それほど好きでもなかったけど、結構読んだんだろうな。読書感想文なんていくらでも書けて、ほめられるのが当たり前だったけど、

実は正直、ずっとわからなかったんだ。これらの文豪たちが、何を書きたかったのか、書かねばならぬと感じていたのか、何を死ぬ程「悩み」、実際死んでしまったりアルコールや薬づけになったり発狂したり、そうゆうことが全然、わからんかった。例えば「美徳のよろめき」って書いた作家いたでしょ?中学生の頃、僕あれオナニーのネタに使ったことあったけど、そのオナニーのネタが切腹しちゃって当時、識者達が「衝撃を受けた」とか大騒ぎしているのも、わけわからんかった。というわけで、本はいくらでも読めたが、「文学」は苦手だったね。おかげで近代日本の「論点」といったものも遂にわからずじまいだった。わからなくても何の差し障りももちろんないが、私も自分がまた「インテリ」であることを自明と思っていたから、わからないことがあるのは、ちょっとムカついたし、気掛かりではあった。後年ながらく私は「共産主義者」だったからそのへんのところは「イデオロギー批評」みたいな、でばっさり切って捨てたふりして、お茶を濁してやり過ごすことは、まあ出来たんだけどね。


高橋源一郎の「日本文学盛衰史」(講談社文庫)、伝言ダイアルと援交にはまった石川啄木が幸徳秋水処刑の報に接し、秋水の獄中書簡を筆写するくだりを読んでいて、ふと目を上げると那覇都市モノレールのむかいの席に座った若い女、Tシャツの胸元に゛FIGHT, RESIST! STRUGGLE FOR FREEDOM゛って書いてあった。突然涙がはらはらと流れ、同時に私は一瞬にしてその女の人に恋をした。またなんか錯覚をしてるんだろう。病気なんだからしょうがない。

それはそれとして、やはり錯覚かも知らんが、明治の文学者達が「ストラグル」していたことがら、啄木が「『あゝ淋しい』と感じた事を『あな淋し』と言はねば満足されぬ心には徹底と統一が缺けてゐる」と言い、二葉亭四迷が「眞實の事は書ける筈がないよ」と感じ続けて来た「違和」って、「表現すべきことがらにふさわしい言語がない」、「私たちの手元にある言語には、何か決定的なものが欠けている」、これってひょっとしたら、私・私たち(?)がほかならぬ今、直面している違和感と、おんなじものなんじゃないの?ねぇ私って、ひょっとしてすんごいこと「発見」しちゃったの?

高橋源一郎がここぞというときに、たまごっちやブルセラショップ、宅配ビデオ屋まで登場させて「おちゃらけて」見せなければならなかったのも、これある種の「言文一致」だったんじゃないの?

長年にわたる「近代文学のナゾ」と、携帯ウェッブ・サイトに頼まれもしない文章を延々と書き続け「なければならない」とわけもなくせきたてられていた衝動に、二つながらに答えが出てブレーク・スルー、旧盆の休みのこの島で何もすることもなくロンリナイト、いささか興奮気味で禁酒も中断してメイクミークライ・・。

人口三十万の地方都市にしては「上等」と言うべきだろう、岩波文庫を置いている書店もいくつかあって、あゝ、岩波と朝日が運んで来た戦後民主主義と自由の恵沢、あゝ昭和は遠くなりにけり、いかん、ちょっとテンション高すぎ、で、手に入る限り二葉亭四迷「平凡」、樋口一葉「大つごもり・十三夜」、「にごりえ・たけくらべ」を買ってきた。「樋口一葉『いやだ!』と云う」(田中優子・集英社新書)もタイトルが気に入ったからついでに買ってきた。樋口一葉はもちろん「言文一致」系の論点からは外れる。

「日本文学盛衰史」で樋口一葉は、ミニドレスを纏って湘南海岸にスポーツカーで現れる。ナツと本名で呼ばれるその女性は、高橋源一郎の当時の若妻・室井佑月をホウフツとさせるように出来ていて、とても隠微。私、室井佑月っていう人、かなり好きでね、小説は全部読んだよ、それから「テレビのチカラ」って番組、未解決の事件をテレビ局が「捜査」しちゃったり情報提供求めたりするやつ、そのコメンテーターで、「犯人の逮捕が一日も早く行われる事を望みますねぇ」なんて舌を噛みそうな台詞を、番組特有の異様な正義感のテンションの下で言えてしまうところも、「ぷらちなロンドンブーツ」のバカ対決で「ほんこん」とか相手に善戦しているところも、とても好感が持てマス。

田中優子という人は、その絶望的に凡庸な名前にふさわしく、さほど切れ味のよい論客とは思えなかったが、自分の立場に引き寄せて論じようという古風な作法がワタシ的には「同時代」で、共感できた。確かに驚くほど「厭だ、厭だ」と言い続ける樋口一葉は「脳痛」を持病にもち、「にごりえ」で菊乃井のお力が走り出すシーンに鮮やかに描かれている「解離」症状といい、何らかの精神疾患の持ち主であったことが示唆され、今や精神病と聞いただけで何年来の友の様に思えてしまう「汎PD(人格障害)主義者」は、こうして俄(ニワカ)一葉ファンとなったのだ。



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