ハワイアン・チルダイ

ハワイ・ツアー報告

2000/05/08 宮川 晋

 4月13日から20日までのほぼ一週間、「ハワイ・オキナワ・ピースネットワーク」のお招きにより、「ヘリ基地いらない!二見以北10区の会」の真志喜トミさん、浦島悦子さんとともに、ハワイに行ってまいりました。
 まずは「事の起こり」について説明させていただきましょう。名護市の岸本市長がヘリ基地の受け入れを表明してしまうという事態の中で、なんとかできることをしたい、ほかに能がないからインターネットのページでも作ろうとおもいました。「なご平和電脳組」のはじまりです。サイトの提供をしてくださったわが雇い主の輿石さん、さまざまなアドバイスをいただいた「10区の会」の成田さんや、「名護サポーター・東京」の津村さんにこの場を借りてお礼を言いたいとおもいます。現在までのアクセス数は1,600件あまり、名護からの情報発信に少しはお役に立てているだろうと、うれしくおもっています。
 名護のヘリ基地の問題は、地球環境問題であれ、日米の世界戦略の問題であれ、いずれにしてもこんな小さな一地方都市が抱えきれる問題じゃないのに、私たちの頭上に不当に「選択」が押し付けられているのだとおもいました。だから、世界に助けを求めよう!しかも、サミットが迫ってきて世界のメディアがここに注目しはじめている今すぐ!躊躇している余裕ありませんでした。本当につたない、しどろもどろの英語なんだけど、ともかく英語のサイトを作って、IGCっていうアメリカの人権問題や環境問題のNGOの検索サイトにとりあえず登録したんです。それから2時間もたっていなかったとおもう。知らない人から「Dear Friends!」なんて英語のメールが届きはじめたんです。真夜中の職場のコンピュータの前でたった一人、思わず泣き崩れてしまいましたよ。
 その最初のメールを送ってくださった方が、ハワイのピート・シマザキさんだったんです。彼は私たちのアドレスをハワイやカリフォルニアなどのたくさんの知り合いの方に転送してくださるとともに、「私たちにできることがあれば言ってくれ」と暖かいメッセージをくださいました。
 ピートさんはお名前からもわかるように、お母さんが沖縄の出身で、何年か前に沖縄に滞在されておられたこともあるそうで、現在ハワイ大学を中心に「ハワイ・オキナワ・ピースネットワーク」という小さなグループで活動されています。何度かメールのやり取りをするうちに2月頃だったか、ハワイで沖縄基地問題の集まりをもつから、誰か来れる人を紹介してくれないかとの申し出がありました。沖縄に来て日が浅い私は、余り知り合いもいないので困っていたのですが、トミさんと浦島さんがお忙しい中を名乗りをあげてくれました。以前からピートさんと親交のあった大城奈里子さんのご助力も忘れることができません。

ホノルル空港でピートと初対面の直後。左から浦島泉君、浦島悦子さん、トミさん、ピート。

 ともかくこうして、さしたるトラブルもなくツアーを終えることができました。一週間ほとんど「観光!」する閑もなく、(目の前のワイキキ・ビーチにも一度も行ってないんですよ!)充実したスケジュールで、たくさんの方とお会いし意見を交換する機会を持つことができました。ピートさんをはじめとするたくさんの方々が、現地で私たちをサポートしてくださいました。沖縄や全国から、このツアーのためにたくさんのカンパやアドバイスを頂きました。この旅の成果をこれらのみなさまに還元するという重責を、通訳もろくにできないくせにのこのこついていった私が果たせるかどうかは、はなはだ心もとないですが、とりあえずの第一歩ということでご容赦頂きたいとおもいます。
 その第一歩がハワイであったことは、偶然とはいえとても示唆に富むことであったとおもいます。私たちの訪れたオアフ島もまたその面積の25%が米軍基地に占められています。「自国の基地なんだからしょうがないじゃないか」などという粗雑な議論が、絶対に成り立たないんだということを痛感しました。基地に土地を接収され強制移住させられた人々は、例外なく先住ハワイ人です。経済的に弱い立場にあり、差別を受けている人々こそが、またしても軍事基地の存在によって侵害を受けている構図を、あらためてみることができました。海の向こうの見知らぬ人々と、実りある「連帯」を取り結ぶためには、何よりも正確な知識と冷静な分析が必要だとおもいます。沖縄の苦境を世界に知ってもらうためにも、私たちもまた、世界のさまざまな地域の人々のそれぞれの苦境を理解しなければならないとおもいました。私たちの報告が、その一助となれば幸いです。

4月14日
オレロ・コミュニティー・メディア・センターにてテレビ番組収録


 オアフ島の南西、ワイアナエ山脈の南側が「リーワード」(リーっていうのは「風下」のことだ)、そのワイアナエにあるスタジオ。ここがどういう風に運営されているかは詳しくはわからなかった。スポーツ施設などもあって、青少年活動などが行われている様子。識字運動のポスターがあったので、あるいはハワイ先住民の子どもたちのサポート活動をしているのかもしれない。今日の収録に立ち会ってくださった方々も「マラマ・マクア」というグループの方たち。この収録の後、私たちもマクアの陸軍基地、そしてマクア・ビーチを訪れたが、この広大な基地・演習場もカナカ・マオリ(ハワイ先住民)の土地を接収して作られたもの。私の不正確な説明より、別添の「マクア・母なる大地と父なる空の出会うところ」をぜひお読みください。
 スタジオの設備はとてもシンプルなのだが、必要にして十分、こういう場所が簡単に利用できて、地域のケーブルテレビとはいえ番組が制作できるのはすばらしいこと。今回は「ハワイ・オキナワ・ピースネットワーク」プロデュースの第一弾だということだ。収録の間、私はスタジオの外にいたので番組の内容はトミさんと浦島さんに聞いてくださいね。この日、通訳をしてくださったのはハワイ大学で勉強されている大林純子さんという方。この通訳を引き受けるまでは沖縄のこともよく知らなかったとおっしゃっていたが、このあと15日の集まりにも来てくださって、私たちにレイをプレゼントしてくださった。私はこういうつながりをとても貴重なものだとおもう。

マクア軍保留地見学、マクア・ビーチにてリアンドラさん(マラマ・マクア)と会う


 火山島であるハワイでは、二つの分水嶺と海岸に囲まれた渓谷が「アフ・ポー」と呼ばれる一つの生活単位をなしている。オアフ島の西端に近いここマクア渓谷は、パールハーバー爆撃直後の基地建設以来50年以上にわたって、陸軍がカナカ・マオリの人々の土地を奪ったまま占領している。70年代以降、基地の中にとらわれたままになっている「聖地」を回復し、宗教的・文化的なアイデンティティーを取り戻そうとする運動が続けられてきた。2年余り前に海兵隊の上陸訓練を阻止したこの海岸で、リアンドラさんのお話を伺った。
 マクア軍保留地の入口には「危険、実弾射撃および不発弾地域。侵入および不発弾の回収は禁じられている。」との立て札があった。
 写真左は米陸軍マクア保留地ゲート、右はマクア・ビーチにて左からピート、トミさん、リアンドラさん、浦島さん、純子さん。

ホア・アイナ・オ・マカハ


 マクアからホノルルに少し戻ったところ、マカハという町があってそのマカハ小学校のとなりに「ホア・アイナ・オ・マカハ」がある。地域の子供たちが共同作業に参加できるような農園のような施設のようだが、詳しいことはよく分からなかった。入り口の立て札には「ホア・アイナ・オ・マカハの任務:子供たちの目と手と心を通して、自然と調和した平和な地域社会の建設、非核地域宣言1987年11月」とあった。
 ここでハワイ語のキーワードを一つ。「アイナ」は訳語を当てると「土地」なのだが、土地と密接な関わりを持って暮らしている人々をも含む概念だという。

「プロテクト・カホラウェ・オハナ(カホラウェ・オハナを守れ!・PKO)」キムさんとの会見


 ホノルル市街の北方、マノア渓谷のハワイ大学の近くに「アメリカの友奉仕委員会・ハワイ・プログラム」の事務所がある。クエーカー教系の団体で今回のわれわれのサポーターの一員でもある。その事務所で「PKO」のキムさんとお会いした。
 カホラウェ島はマウイ島の南西に浮かぶ小さな島だが、ここでもアメリカ人が牧場経営を始める過程で先住民が追い出され、それが戦後は軍によって接収され島ごと米軍のみならず日本をも含む多数の国の軍隊の射爆場となっていたが、70年代に返還された。しかし不発弾や危険物質などの除去は一切行われておらず、人の住めない不毛の地のまま放置されている。先住民の土地への権利を回復し、島の環境回復を求める運動に携わっているのが「プロテクト・カホラウェ・オハナ(カホラウェ・オハナを守れ!・PKO)」だ。この島は1993年にハワイ州に対してではなく、先住ハワイ人の土地として返還されたということで、ハワイ人の自決権を認めた画期的な出来事であったようだ。このへんの説明は、貧しい英語力のせいで必ずしも正確ではないかもしれない、また詳しく調べて見ます。
 もう一つハワイ語のキーワード。「オハナ」は家族および親しい友人などをも含むコミュニティーの意。ただしこれもまた、「アイナ」と同様土地とのつながりが含意されている。
 写真左からトミさん、キムさん、アンドリュー君(通訳をしてくれたハワイ大学法学部の学生、ハーフ・ジャパニーズで日本のアメリカンスクール出身だという)、ピート、浦島さん。

4月15日
カハナ渓谷探訪、「カロ」畑にて草取り作業など


 オアフ島の北端から東端にかけて、コオラウ山脈という急峻な山脈が走っていて、この山脈の海側を「リーワード」に対する「風上」という意味で「ウインドワード」と呼ぶ。その「ウインドワード」の中央あたりに「カナハ渓谷」がある。前にも述べたが二つの分水嶺にはさまれた谷と川、その川の流れ込む海を含めて「アフ・ポー」と呼ばれる伝統的な生産・生活単位が形成されてきた。山地の農業と海における漁業との間に交換が行われ、大洋上の島の限られた資源を有効利用する生活様式を持ち込んだのはポリネシアなどの島々から渡ってきた人々だったのだろう。ヨーロッパ人の入植・牧場経営やその後の軍事基地建設などで、このような共同社会が解体され、水資源などの環境の破壊がもたらされた。
 詳しい事情を聞くことはできなかったが、ここでも政府による集団移住などの政策が問題になっているようだ。
 この渓谷のやまあいに先住ハワイ人の伝統的な農作物であり、文化的・宗教的にも重要な含意を持つ「カロ」(タロイモ)の農場が形成されていて、共同作業を通じてハワイ人の文化的同一性を再獲得するといった運動の根拠地となっているようだ。今日はここでたくさんのボランティアなどが作業に参加して、一緒に昼食を取るというイベントがあるらしい。私たちを案内してくださったのは「ニュークリア・フリー・パシフィック(非核太平洋)」というグループのグウェンさん、テリーさん。グウェンさんは韓国系、テリーさんはハワイ人だという。
 ハワイ諸島の最西端にニイハウ島という小さな島があるのだが、そこは丸ごと島一つがあるヨーロッパ系アメリカ人の個人所有地だったそうで、そこの子供たちは英語ではなくハワイ語の教育を受けている。一方オアフ島などの子供たちは英語教育によって、民族的な言語から遠ざけられることでハワイ人としての同一性の獲得に困難をきたしている。今日のイベントにはニイハウ島の子供たちも参加しており、彼らとの交流が重要な目的の一つのようだ。私の理解したところでは多分そんな話だったと思う。
 カロ畑の草むしりなどにハワイ大学の学生さんたちなどのボランティアの人たちと共に少し参加した後、昼食。右の写真のように土の中に焼けた石を入れて、豚肉・鶏肉そしてもちろんカロをいれてバナナや月桃(サンニン)の葉とむしろで覆って蒸し焼きにする伝統的なハワイ料理だ。他にデザートや果物も用意されていてそれはそれは素晴らしい食事であった

カハナ渓谷の帰途、クアロア公園にて


 カナハから海沿いに南東に進むとクアロア岬がある。「チャイナマンズ・ハット」と英語では呼ばれている確かにそんな形をした奇岩が海から突き出しているが、テリーさんによればハワイ語では島の創造神話に出てくるトカゲの背中の意味なのだそうだ。写真左はクアロア公園にある「アフー」と呼ばれる聖地のモニュメント(先の「アフ・ポー」はこの「アフー」を中心に形成されるのだろう)。ポリネシアのさまざまな島々の人々がカヌーにのってやってくるというイベントが毎年行われていて、その25周年を記念して、それぞれの島の石を一つずつ持ち寄って造られたのだそうだ。
 クアロア・ビーチからカネオヘ湾を望む光景は、ちょうど名護の東海岸瀬嵩から大浦湾をはさんで辺野古崎を望むのととても似ている。スケールがこちらのほうがだいぶ大きいけれども。できすぎた符合というわけでもないが、ここにもちょうど向かい側のカネオヘ半島の中央部には海兵隊のカネオヘ飛行場がある。那覇空港で見送りをしていただいた牧志好一さんから米軍のオスプレー機の配備計画にここの名前が出てくるからぜひみておいでといわれていたのを、いまテリーさんに説明して頂いて思い出した。ここには20機のオスプレーが配備予定ということだ。
 写真右はクアロア・ビーチでくつろぐ一行。右手に見えるのが「チャイナマンズ・ハット」でカネオヘ飛行場はさらにその右側になる。ビーチがまるでジャマイカみたいに見えるのは今日の通訳のマサ君のラスタ・ヘアーのせいだろう。彼は純然たる日本人なのだけど、もうこの島に15年も住み着いている。通訳の途中実にしばしば「えー、なんと言いますか」と言葉を探して30秒ほども黙り込んでしまう。彼によると、博士論文を書いているとき日本語の文法構造が抜き難く天皇制と結びついていることを「発見」して以来、日本語の主語と目的語をうまく使えなくなったのだそうだ。おもしろい人だ。
 写真は右からマサ、ピート、トミさん、テリーさん。

ジコウエン本願寺、プレゼンテーション


 夕方から、いよいよ今回のツアーの最初の大きなイベントが始まる。ジコウエン本願寺というのは日本の浄土真宗本願寺系列のお寺なのだろうが、ここではハワイ在住沖縄人(ウチナンチュー)のコミュニティーセンター的な役割を果たしているようだ。写真左はここのホールの入り口に掲げてあったものなのだが、「ジコウエン・テンプル、オキナワ・メモリアル・ホール」とあって、おそらく寄付者の氏名なのだろう、沖縄らしいファミリーネームがたくさん並んでいた。
 ピートの呼びかけに答えてここのブルース・ナカムラさんという方が今日の集まりを企画してくださった。集まっていただいた方も、お顔を拝見するだけでは断定できないけれども、沖縄系の方が多かったように思う。トミさんも浦島さんも、初めての「海外講演」でちょっと緊張していたかもしれない。逐次通訳で話すというのは慣れないとなかなか大変なのだろう。通訳をしていただいたのはムラカミ先生。ありがとうございました。私は写真を撮ったり、イズミ君の機嫌をとったりで、肝心のプレゼンテーションの内容はあまり聞いていなかったので、トミさん、浦島さんの報告に待たれたい。

4月16日
アロハ・スタジアム・フリーマーケット観光、ジュリア・エストレーラさんとのうち合わせ


 日曜日の午前中、ちょっとだけスケジュールがあいたので、フリーマーケットに遊びに行った。アロハ・スタジアム(「アロハ」っていう言葉はとても含蓄の深い、応用場面の広いいい言葉なんだそうだが、それにしてもアロハという名前のついた商品がやたら多い。アロハ・コーヒー、アロハ・ガソリン・・・)というとても大きなスタジアムの周囲に、たくさんのテントが並んでTシャツ、アクセサリー、おもちゃ、果物、CDなどなどさまざまな商店が軒を並べる。私も思わず興奮してしまったが、あまりの数の多さに疲れてきてしまってTシャツ一枚買ったにとどまった。ほぼ確実に予想されたことだが、イズミははしゃいでしまってはぐれてしまったけど、あとでスケボーを買ってもらって、御機嫌だったと思う。
 写真左は、バナナの皮で編んだ帽子を試着するトミさん。
 写真右は同じ日の午後。郊外の集合住宅のコミュニティー・センターのような場所で。ハワイ社会の階層構造のなかで低位に位置付けられてしまうハワイ人の多くがここのような低所得住宅に住んでいるという。
 ジュリア・エストレーラさんはヒガ・ケイコさんという沖縄名を持つ女性だが、日本語は今勉強中という。昨日の集まりに来てくださって、急遽来る火曜日に州議会議員との会見をセットしてくださったのだ。その打ち合わせのため。ここは、この住宅でコミュニティー・ワーカーをしている彼女の職場なのだ。
 手作りの料理まで用意して頂いて、議員のみなさんに渡す資料の読み合わせなどを行った。通訳をしていただいたのはスズキ・サトコさん、ハワイ大学の日本人留学生。私たちが到着した晩、ピート宅でのパーティではじめてお会いして以来、いろいろ付き合ってくださっている。最終日は空港まで見送りに来てくださって、お土産まで頂いた。イズミは外でずっとスケボーで遊んでいる。
 写真右は、左からジュリアさん、浦島さん、ピート、イズミ、サトコ、トミさん。

ハワイ大学イースト・ウェスト・センター、フェスティバル


 今日は本当に忙しい一日だ。一行のメンバーのうち私だけはピートの自宅、といっても学生さんが何人かで一軒の家を借りているのだが、その一部屋に泊めてもらっていて、浦島さん親子とトミさんはハワイ大学の一部である「イースト・ウエスト・センター」(東西文化交流センター、とでも訳そうか)のアブラハム・リンカーン・ホールという宿泊施設に、しかも今回のツアーのサポーターのある団体の好意で無料で!泊めてもらっている。今日はその「イースト・ウエスト・センター」のお祭りで、ピートも「カバ・ボーイズ」というポリネシア音楽のバンドのベーシストとして参加するのだ。曲の合間に「沖縄からの平和使節」として、みなさんに紹介していただいた。左の写真の左端がピート。
 右の写真は、ステージの近くで行われていた「カバ」の儀式。たしかフィージーにも同じようなものがあったと思うが、多少興奮性のある薬草の汁で作った飲み物で、友好の儀式としてまわし飲むという。初日のピート宅のパーティでも参加させていただいた。

日本語ラジオ放送「KZOO(ケイズー)」、生放送出演


 さぁ、忙しい。夕方6時からアラモアナという観光客にはとても有名なショッピング街のど真ん中にある小さなラジオ局で、生放送出演。KZOOというこの放送局の番組は、車の中でもよく聞いたが、全部日本語でしかも聴取者は沖縄の人が多いみたい。リスナーの質問コーナーみたいので、「しゃぶしゃぶの作り方を教えてほしい」とか「オートミールの麦とごはんに混ぜて炊く麦は同じものか?」などというのがあって、思わず笑ってしまった。
 DJをしているのはウラ(宇良)・ケイコさん。受け付けの方一人以外はほぼ一人でこの放送局を切り盛りしているようだ。全て生放送、ピートも事前に電話で簡単な打ち合わせをしていただけで、私たちの渡航の目的もきっちり伝わっていたかどうか不安だともらしていたが、本番の始まる5分前に自己紹介したきりなのに、快く受け入れてくださって、番組もとても充実した内容になったそうだ。

 私はスタジオに入らなかったのだが、イズミを適当に駐車場でスケボーで遊ばせといて、フィシャーマンズ・ワーフを散歩したり、夕陽に映えるヤシの木の写真を撮ったり、つかの間の観光客気分を味わった。この後、アラモアナのダイエー・ショッピング・センター(もちろん、日本の、神戸のダイエーだよ)でお買い物。サッポロ一番から沖縄そばから泡盛からキリンビールまでなんでもある。
 写真、上左はガラス越しのスタジオ風景、上右は放送後、左から浦島さん、ウラ・ケイコさん、イズミ、ピート、トミさん。下左は、アラモアナのスタジオ前で収録後、あまりに「ハワイ的な」風景。下右は、ピート宅にて沖縄から持ってきた泡盛「残波」を二人で飲んだ。帰りの車のなかでピートは、「さぁ、今夜はもう『平和』も『沖縄』も考えずに飲むぞ!」と、たしか英語で言った。こういうところが、私は、好きだ。

4月17日
ハワイ大学法学部2番教室にて、大学院生を中心とするセッション


 ピートもハワイ大学法学部の大学院生なのだが、彼の友人たちなどが私たちをまじえた集まりを企画してくれた。「ブラウン・バッグ・セッション」と言うんだそうで、茶色の袋にお弁当を持ち寄って食べながら歓談するというのが元来の意味らしい。ピートの友達で今回のツアー全般でもいろいろ裏方さんとなって、協力してくれたマイリー・シマブクロさんが今日もスナック菓子や飲み物をたくさん用意してくれていた。彼女は名前のとおり沖縄系で、片言の日本語を話す。おばあさんが浦添に住んでいるという。
 この集まりに法学部のヤマモト先生とアントリーニ先生が参加してくださって、私たちが提起した「合衆国市民が、環境保護や絶滅危機種の保護に関する合衆国国内法を根拠に、合衆国の国外における基地建設に対して差止め訴訟を提起できないか」という問題に強い関心を示してくださったことが、大きな収穫。
 またしても私のあやふやな英語とピートのあやふやな日本語のやり取りだからあやしいが、アメリカの大学の法学部には、「プロ・ボーノ」(公益弁護活動)という実習みたいのがあるらしくって、アントリーニ先生はこの夏の学生の研究課題として、この問題を扱いたいと申し出てくださった。帰国後もメールで問い合わせを頂いているのだが、そんな重責をこんなあやふやな英語で果たせるものかとても不安で、ぜひともみなさんのお力を借りたいと思っていますのでよろしく!
 写真右はセッションの後、手前右端がアントリーニ先生、その左となりが今日も通訳を引き受けてくれたアンドリュー君。アントリーニ先生の右側後ろのほうにいるのがマイリーさんだ。

ハワイ研究センターにおけるプレゼンテーション


 夕方から始まるこのプレゼンテーションが、今ツアー最大のイベント。ハワイ研究センターは、ハワイ大学の一部局をなす研究所なのだと思う、多分。とても斬新なデザインの建物で、設備も充実している。
 集まりに先だって、わずかな時間だったが「カ・ラフイ・ハワイ」のケアリオルオル・ゴラさんとお話することができた。「カ・ラフイ・ハワイ」はハワイ人の少数民族としての自決権を求める運動団体で、住宅政策や教育、福祉、文化政策に対するさまざまな、政府への請願などの資料を頂いた。順次翻訳して公開していきます。とても大きな身体に真っ赤なアロハシャツと短パン、ささやくような優しい語り口が印象的だった。途中で彼の携帯電話が鳴って、お父さんの容態が芳しくないとの事、あわただしくお別れすることになった。
 写真左はモリ・カマヘレさんという方で、当研究センターのアドバイザーでありハワイ人の伝統芸能であるフラと歌で重要な賞をとった人でもあるそうだ。今日はこの集まりの開会にあたってハワイの伝統にのっとった、歓迎の挨拶をしていただいた。
 写真右はプレゼンテーションにお集まりいただいたみなさん。後ろのほうにはジュリアさんやマイリーさんも見える。前列の中央右寄りにいらっしゃるのが、コイカリ先生、「小碇」っていうむずかしい漢字のお名前で、いまハワイ大学で女性学を担当されている。明日のゼミでぜひお話をしてほしいと御招待頂いた。

 トミさんも浦島さんも回を重ねるごとに慣れてきたようだ。会場の雰囲気も和やかで、とてもいいプレゼンテーションだったと思う。私はといえば、覚えきれないほどいろいろな方とメールアドレスの交換をしたりして、これからが大変だなぁと少し不安なのだが・・・。
 写真左は、「アメリカの友奉仕委員会」のカイル・カジヒロさんが、会場で集めたいただいたカンパをトミさんに渡しているところ。カイルさんにも大変お世話になった。空港にも見送りに来ていただいて、私の変な英語にもかかわらずたくさんお話をしてくれた。写真右は、プレゼンテーション終了後の記念撮影、真中がジェイク・シマブクロさんというミュージシャンで、集まりのエンディングをウクレレ演奏で飾ってくれた。一番後ろにいるのが私です。ここでも通訳を担当してくれたアンドリュー君が、撮影してくれた。

4月18日
ハワイ州庁舎、会見室において、州議会議員との昼食会、記者会見


 議員さんとの昼食会というからさすがに緊張する。デニス・A・アラカキ議員とロイ・M・タマキ議員ともに沖縄系の方が、およそ10人ばかりの同僚の議員さんたちを集めてくださった。議員さんのどなたかポケットマネーで振舞ってくださったお弁当を頂きながら、とてもフランクな雰囲気で進行したし、我がプレゼンターたちも、もはや世界を舞台の貫禄十分というぐらい!写真左。
 その後、トーマス・キジナーさんというマーシャル諸島出身のフリーランス・ライターと、ハワイ・ヘラルド紙のアレン・ヤダオさんのお二人からインタビューを受けた。かなり長時間の質問で、深い関心を持って頂けていることがうかがわれた。写真右がその様子。
 ジュリアさんとカイルさんも、来てくださった。このとき頂いた資料が「外国及び植民地宗主国の軍隊を駐留させる国における、個人、先住民、地域社会及び国家の権利章典 」、昨年秋のNGOサミットで採択されたものだという。翻訳しておきましたので、ぜひ読んでください。

ハワイ大学、コイカリ(小碇)先生の女性学ゼミに出席


 「アイドル並みの」過密スケジュール、会見が始まってしまって食べられなかったお弁当を、移動の車中で食べるトミさん。大きな舞台を終えた満足感がうかがえますね。写真左。
 この後ハワイ大学に戻ってコイカリ先生のゼミで、学生たちを交えてお話をしたのだけれど、うかつにも私は写真をとるのを忘れていた。右の写真は、全てのスケジュールをこなして学内のキャフェテリアで一服した後の様子。前に掲げているのはピートが2年前に沖縄にいたときに撮影した写真などをアレンジしたボードで、今回も大活躍だった。

4月19日
出発・別れ


 この島はきっと太平洋の十字路なのだと思う。いろんな島から人々がここに流れ着く。サモアからフィジーから、マーシャルからマリアナから、バヌアツからナウルから。フィリピンもインドネシアも沖縄も日本も、中国やアメリカ大陸さえも、それらの島々の一つに過ぎない。どこの国がパスポートを発給するか、どんな言葉を母語とするか・・・「多重」のアイデンティティーを持っている人々のなかに暮らすこと、「お前は何者なのか?」などと問われずにすむことはとても心地がよい。
 これはきっと旅人特有の錯覚なんだけどね。
 左の写真は、空港に向かう高速道路の車中。サービス精神旺盛なピートはカメラを向けるとこちらを向こうとする。たのむから前を向いてね。親指と小指を立てるのがはハワイ流の「ありがとう」のあいさつ。
 空港にはカイルさんとサトコさんが来てくれた。お土産もたくさん頂いた。カイルがくれた「FREE・HAWAI’I」のバッチは今でもかばんにつけてるよ。
 いよいよ搭乗の最終案内。ピートは私のことを「マイ・ブラザー!」なんて呼んでくれた。そうだね。もう10年も付き合っているような気がする。

 さて、こうして無事に帰ってまいりました。長かったような短かったような一週間、もう少しきっちり準備をしていればと悔やまれることも多々あれば、また、せっかくできあがったつながりを実りあるものにしていくにはこれからしなければならないことが山のようにあって、それを考えるとかなり不安にもなりますが、ともかく目をつぶってでも思い切って一歩を踏み出してみれば、そこは意外に居心地のいい空間だったりする。
 私たちはたくさんの人に支えられてるんだ、と確信することができました。つたない言葉でも、多くの言葉をついやさなくても正確に理解してくれる人々が、呼びかけさえすれば両手を広げて答えてくれる人々が、いたるところにいるんですね。それは、不幸なことだけれども、同じような苦境が世界に遍在しているからなのですね。私たちもまた、他者の言葉に耳を傾ける、他者の困難を理解しようとする「寛容」の言葉をつむぎだしましょう。それのみが「希望」を構成するはずです。

 このツアーを支えてくださった方々、ここにお名前を記すこともできなかったすべてのみなさんに重ねてお礼をいいます。ハワイの言葉で「ありがとう」は「マハロ」といいます。みなさんに「マハロ」を送ります。
戻る