「難死する情景」
「アメリカ同時多発テロへの武力報復に反対するホームページリンク集」のなかで、「ソウル・フラワー・ユニオン、中川敬のメッセージ」というのを見つけました。
「我々は、自分の愛する人々が苦しみ難死する情景を想像するに充分な体験を、もうすでにしてきたではないか。」
この言葉の意味が、多分私にもわかるような気がしています。私もまた、6年半ほど前の神戸のことを考えていました。
私はあの町に生まれて、テレビに映し出されるそこかしこの「倒壊現場」がどこであるかを知っている。その土地の人たちが、どんな言葉をしゃべり、どんな顔をして、何を食べているかを知っている。きっとそんなことが根拠なのでしょう。
イランでも、中国雲南省でも、サハリンでも、トルコでも、エル・サルバドルでも大地震が起きたのに、そのニュースを見て、がれきの上に立ち尽くす人々の写真を見て、何か鈍い心の痛みは感じても、新聞を閉じてしまいさえすれば、テレビのスィッチを切ってしまいさえすれば、それはどこかへ追いやってしまうことができる、あの時感じたような、ぽっかり開いた傷口をただ見つめつづけていなければ痛みをこらえることができない、そんな動転を感じることがなかったのは。
世界貿易センタービルの倒壊の映像が、(実のところテレビを持っていない私は、それをほとんど一度も見たことはないのですが)、アメリカ合衆国の国民と、いいたければそれと「文明」を共有する人たちに、かくも激しい動揺をもたらしたというのならば、実のところ私たちは、現実の世界がどのように構成されているかについて、何にも知らなかった、何にも関心を持っていなかったということなのでしょう。
北アイルランド、バスク、クルディスタン、旧ユーゴスラビア、イラク、パレスチナ、西サハラ、アルジェリア、スーダン、エリトリア、ソマリア、ナイジェリア、リベリア、シェラ・レオネ、コンゴ(旧ザイール)、ルワンダ、ブルンジ、モザンビーク、アンゴラ、コロンビア、ペルー、ガテマラ、エル・サルバドル、ニカラグア
、ハイチ、パプア・ニューギニア、イリアン・ジャヤ、アチェ、東チモール、ミンダナオ、カンボジア、ミャンマー、スリランカ、カシミール、チェチェン、そして言うまでもなくアフガニスタン。
過去10年でもいい、戦争によって膨大な人命が失われてきた世界の国や地域の名前を、私たちは正確に挙げることができるでしょうか?
これらの戦争で失われてきた人命の数に比べれば、9月11日の被害者の数は実際取るに足りません!
そして、さらに言いたければ、これらの紛争のほとんどすべての場合において、その一方当事者にアメリカ合衆国政府・軍隊・CIAの姿が見え隠れしているというのも、間違いではないでしょう。
しかし、だからアメリカは、その抑圧的な外交政策の当然の報いを受けただけなのだ、という言論が、即時報復を求める言論よりも、なにほどか冷静ですぐれているとでも言えるだろうか?
私たちはほんの昨日まで、世界各地で今現在も進行中の、毎日毎日何万にも及ぶかもしれない殺害について、何も知らなかった、あるいは、何も感じていなかった。「どうでもいい」と思っていた数百万人の「アフリカ人」(ここで「アフリカ人」は単なる無関心を指し示す記号に過ぎない)を引き合いに出して、数千人のアメリカ人の死亡も、やはり「どうでもいいのだ」と主張するための補強証拠にしているとすれば、それは傾聴に値する議論だけれども、少なくともそれは「正義」とはあまり関係がないと思います。
むしろ私たちは、ケニヤとタンザニアの大使館爆破には「何も感じなかった」こと、にもかかわらず貿易センタービルへの攻撃にはいたく動転したことを、正直に告白すべきでしょう。この二つの事件を隔てる距離にこそ、人種主義、オリエンタリズム、植民地主義、なんと呼ぼうが、憎悪と不寛容の根拠が横たわっているのだと思います。
アメリカ本土が攻撃されることによって、「はじめて」アメリカ人が動揺して、一方で反撃の衝動に駆られ、他方で、自らの国の外交政策等々についてその冷静な省察を行おうと思うようになったというのなら、このテロ戦術は、間違いなく「成功」だったのです。「糾弾」しようが「唾棄」しようが、この事実を避けて通ることはできません。
ミサイルが照準を定めたところ、爆弾の落下するところ、その先に住んでいる人々がまた自分たちと同じ「人間」なのだという理解をもつことは、実のところそれほど簡単なものではありません。
私たちは、その人たちについて、何を食べているか、どんな服を着ているか、どんな言葉をしゃべっているか、何にも知らないのだから、想像力が及ばなくたって無理はないのです。
かつてスロベニアの首都に滞在しながら、スロベニアとスロバキアの区別がつかなくて随行者の失笑を買ったことのあるジョージ・W・ブッシュという人も、自分が攻撃を命じているアフガニスタンという国がどんなところなのか、多分私たちと同じくらい、何も知りません。
自分が殺そうとしている者達が一体何者なのかについて、一番まともな想像力をもっているのは、あるいは兵士たちかもしれない。9月11日の事件以降の沖縄の基地周辺の歓楽街で米軍兵士達にインタビューをしていたある新聞記者の人から聞きました。
ベイルートに駐留したことのある兵士の一人は、あまりにもたくさんの死体を見過ぎた、もう戦地には行きたくない、ピンポイント攻撃なんかできるものか、必ず民間人が死ぬ、と語っていたといいます。
人を殺害へと駆り立てる憎悪を解除することができるのは、この期に及んでもなお、知性の作用しかないと思っています。
他者を理解するための努力、理解することができるかもしれないという希望、しかしその前提として、私たちは何も理解していないこと、理解する材料を何も持っていないことの確認から始めるべきなのだと思います。
ここに掲げる数々の文章は、ときに相互に矛盾し敵対するものを含んでいます。「アフガニスタン」やこの戦争に関する「理解」が深まる、という性質のものではないでしょう。確信に満ちた言葉がお望みなら、むしろ何も知ろうとしない方がいい。私たちにはむしろ、しどろもどろの、言いよどむ言葉たちが必要なのです。
それにしてもインターネットというのはすごいですね。先の湾岸戦争のときとは全然違います。それが具体的に戦争を回避するのに役に立つかどうかと、性急に問うのは止めましょう。世界中でこれほどにもたくさんの、個人や小グループを根拠にしたウェッブサイトたちが、この戦争について情報を伝え、見解を述べ、行動を呼びかけ、めまぐるしい速度でメールたちが飛び交っています。Equality(平等)とElectronics(電子技術)、ともにEで始まる言葉を対比して、民主主義への希望を語っているリンゼー・コールマンの控えめな楽観に私も共感します。
世界は間違いなく、狭くなって、そうでないとしても少なくとも、もっと「あけすけ」になっていきます。憎悪が無知の作用ならば、希望があるというべきでしょう。
11月13日
クリントン政権のアフガニスタンに対する巡航ミサイル攻撃(ワシントン・ポスト紙)
「疑うことの必要性・反動と後退」、「悲劇とその余波」、「無知の衝突」エドワード・サイード(Zネット)・・・翻訳中
「彼らのテロリズム、我らのテロリズム」エクバル・アーメッド(フリー・スピーチ)
「リアリティーの砂漠へようこそ」スラボイ・シジェク(フリー・スピーチ)
「ディエゴ・ガルシアという島、そして、B52とあなたとわたし」リンゼー・コールマン(デミル・ハワイ)
アフガニスタン革命的女性協会(RAWA)の声明
「反戦」という恥ずかしい言論
10月7日にアメリカ軍の爆撃が始まってから、一週間になります。ここは那覇なので、中部に集中している米軍基地の様子は分かりませんが、那覇空港に隣接する那覇市小禄(おろく)と知念村百名(ひゃくな)の自衛隊基地からのものでしょう、ヘリコプターや戦闘機、輸送機などがめまぐるしく飛び交っています。那覇に住みはじめてから一年になりますが、こんな爆音は初めてです。
何か、とり返しのつかない一歩が、踏み出されてしまったような気がします。一度こうして戦争という巨大な機械がモーメンタムを得てしまった以上、それを止めることはほぼ不可能に思えます。たくさんの人が死ぬでしょう。すでにいくつも報道されているように「誤爆」によって民間人が死ぬでしょう。民間人の犠牲者が増えることによって国際世論が喚起され、モラル上の「高地」を維持できなくなる前にアメリカ政府としては、何らかの「成果」を挙げておきたいのだろう。そのバランスが達成できたら今回の戦争は「お開き」になるでしょう。しかし、アメリカとその世界秩序を破壊するためには、命を捨てることをもいとわない「テロリスト」たちがふたたび、何十人、何百人と現れるでしょう。
私たちはただじっと、このちょっと「嫌な感じ」が終わるのを待っていたらいいのです。さしあたり私たちの頭上には巡航ミサイルも、アンスラックスも降ってきていないのだから。
際限のない暴力の連鎖を断ちきれないのは、「軍事的解決しかあり得ない」と確信しているアメリカ合衆国の政策担当者に原因がある。合衆国の明白な「ダブルスタンダード・二重の基準」こそが世界中に憎悪を生み出しつづけている。
しかし同時に、こうした事件が起こるたびに雨後のタケノコのように現れてくる「理解ある」議論もまた、テロリズムに存在の根拠を与えているのではないですか?
合衆国本土で数千人の死者が出て「初めて」、パレスチナやアラブ、イスラム世界に対する合衆国の政策の「問題」が明らかになったというのなら、決して少なからぬ犠牲を伴ったこの「テロ」攻撃は、成功だったということになりませんか?だったら、諸手を挙げて賛成しましょう。
そうではない、かくもたくさんの人が死ぬことに対して何か「嫌な感じ」が残っているのなら、その「嫌な感じ」を大事にしましょう。「正義」の言葉に身を委ねないで!
パレスチナの「インティファーダ」を「支持する」というような言論が、例えば安全な日本のどこかの飲み屋のテーブル越しにかわされているかもしれないような事態を私は「不道徳」だと思います。
戦車に火炎ビンを投げ、マシンガンに石で対抗するような「無謀」な運動をどうして支持することができますか?イスラエル人とパレスチナ人の犠牲者の数は、どう低く見積もっても1対10ぐらいでしょう。明白な不平等をこれ以上「例証」する必要がありますか?
死者の数を相変わらず私たちは「取り引き」材料にしています。他人の死に、他人の不幸に事寄せて、「正義」を語ることは止めましょう。それは戦争を遂行する議論と同型なのだと思います。
2001年10月14日
更なる殺害を、止める手立ては何かありませんか?
ニューヨークとワシントン、ピッツバーグ郊外での悲劇的な出来事から1週間あまり、すでに戦争の予兆は、この島の随所に現れています。星条旗の半旗が掲げられた各米軍基地のゲートはたいがい1ヶ所を残して閉鎖され、開いているゲートには重たい車止めのバリケードが置かれ、マシンガンや金属探知器を携行した兵士たちによって厳しい検問が行われています。特に浦添のキャンプ・キンザー、牧港補給基地の入り口は物々しく、検問を待つ大型トレーラーが長蛇の列を成して国道58号線にも渋滞ができています。
やがてここにいる人たちが、中東か西アジアのどこかの国に向かい、そのうちの何人かはプラスチック・バッグに詰められて帰国することになるのだろうか。
かの地でもたくさんの人が死ぬことになるのでしょう。無辜の市民であれ、「無辜」ではない「テロリスト」であれ。でもそれはうまく想像できません。その人たちの顔も、その土地の風景も。
今まさに、今後数週間だろうか、きわめて近い未来に生じることが確実となっている更なる殺害を、止める手立てはないものでしょうか。
「報復もやむなし」とする議論も、もちろん聞いて気持ちのよいものではないですが、他方で「アメリカがテロの標的になるのはそれなりの理由があったのでは?」と、今更のように疑問を呈してみせる「理解」ある見解に、より大きないかがわしさを感じます。
アラブ世界、もしくはイスラム世界が、帝国主義あるいは米国の一極支配によって抑圧されていて、「彼らにはテロしか方法がなかったのだ」というのは、30年前ならいざ知らず、現時点では多分事実誤認だと思います。多分ほかに方法があったはずです。ほかの方法が有効に機能していなかったことを反省すべきなのであって、「追いつめられた人々のぎりぎりのやむを得ない選択」を、事が起こるたびに事後的に、賞揚してみせるのは、他方で、すべての困難すべての失策の原因を、たった一つの不可視の敵、「アメリカ」に収斂させることに利権を持つ勢力と、同じくらいに怠惰なのだと思います。
航空機をビルに突入させる時、「アラー・アクバル」と彼らが叫んだかどうかはわかりませんが、そんなふうに命を捨てることができるかどうか、私には想像できません。でも、「理解できない」ということを表明することが必要なのだと感じています。
今回の事件は、「人類と文明に対する戦争行為だ」といいますが、だとすれば、戦線の向こう側にいるのは人ならざるものなのだろうか。
「人間性に対する罪」でテロリズムを糾弾し、返す刀で「報復に名を借りた米国の戦争政策に反対」などと叫んでいられるのは、多分平和なことなのでしょう。「人間」と、「そうでないもの」との境界の線引きに、深刻な疑義が生じているこの時に。
更なる殺害を、止める手立ては何かありませんか?
私たちも、何か、できることを、しましょう。連絡下さい。
戦争をとめよう!・・・沖縄から(なご平和電脳組 i-mode / j-sky web 版)
アメリカ合衆国大統領と副大統領へ、手紙を書こう!!
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